1937(昭和12)年、石川達三は小説『日蔭の村』を発表し、水没する小河内村の村民たちの6年間に及ぶ辛苦の日々を描いた。
同年、帝国議会が召集され「臨時資金調達法」や「輸出入品等臨時措置法」など軍需産業優先に向けた経済統制立法が制定された。そして「国民精神総動員法」や朝鮮人に対して「皇国臣民の誓詞」も配布され、全てが聖戦の遂行に向け動き始めた。
このような状況の下、神奈川県では軍需工場が集中する横浜や川崎に向け、水や電力を安定的に供給するため「相模川河水統制事業」が始まり、旧津久井郡の相模川本流に「相模ダム」の建設が決定した。
建設に伴い196戸が水没することから水没住民より強固な反対運動が持ち上がった。
しかし日中戦争勃発後、戦時体制へ突き進む陸軍と海軍は、海軍艦艇建造の要である横須賀海軍工廠や軍需産業が密集する京浜工業地帯への電力・用水供給を急いでいた。このため反対住民に対し荒木貞夫などが旧津久井郡藤野町へ出兵して陸軍閲兵式を行い、反対する住民に対して示威行為を以って強力な圧力をかけた。
このようにダム建設は1940(昭和15)年、有無を言わせず本体工事を着工させた。
のべ360万人がダム工事のために働き、その3分の1が朝鮮の出身者であった。他に捕虜として強制連行され、働かされた中国人が287人いた。そして日本人を含め、83名の犠牲者を出し1947(昭和22)年に完成した。
水没住民は、住み慣れたふるさとを離れ、高座郡海老名村や東京都下日野村等に移住した。
ダム湖となった相模湖は、総貯水量6300万トン。戦後一貫して、京浜工業地帯の貴重な水源、電源として、また東京圏のスポーツ・レクリエーションの場としての役割を担ってきた。現在も神奈川県の16%の水を供給する「水がめ」であり、休日には多数の観光客が訪れている。
湖畔の相模湖公園内にある湖銘碑にはダム建設で犠牲となった人々の氏名が日本語、ハングル、中国語で記されている。