「御覧なさい、下の方はもう日がかげって来た。朝は十時にならなくては日が当らないし、午後は三時になるともう山の向こうに日が落ちてしまう。一日にたった五時間しか日が当らない。僕は自分ひとりでこの村に“日蔭の村”という名をつけているんです。この名前には別の象徴的な意味もあるんです。つまり東京という大都市が発展して行く、すると大木の日蔭にある草が枯れて行くように小河内は発展する東京の犠牲になって枯れて行くのです。山の日蔭にある間はまだよかった。都会の日蔭になってしまうともう駄目なんです」
(石川達三著『日蔭の村』より)
戦後も、経済の高度成長により京浜工業地帯を中心とする都市は発展、膨張し、神奈川県では「相模川河水統制事業」は続いた。
1965(昭和40)年3月、県と横浜、川崎、横須賀の三市により津久井町荒川と城山町水源地区との間に、県下で4番目の「城山ダム」が完成した。
1953(昭和28)年に調査が始められてから、地元住民との長い補償交渉の後、1962(昭和37)年に工事が始められた。
城山ダムの完成によりできた人造湖が、「津久井湖」である。
相模湖とほぼ同じ規模をもつ。
このダム建設のかげには、奥多摩湖や相模湖と同じように、住み慣れた我が家を湖底に沈め、先祖伝来の土地を離れた人々がいた。
津久井町荒川(116世帯)、不津倉(27世帯)、三井(45世帯)、三ヶ木(8世帯)、川坂(7世帯)、相模湖町沼本(41世帯)、城山町中沢(36世帯)や小倉(5世帯)の人々で水没家屋は全部で285世帯、約1400人の人々である。
代替地は、津久井町中野、相模原市相原、二本松、磯部、城山町、八王子などで、中でも二本松地区には132世帯が移動した。
上空から、山間に静かに水を湛えた湖を目にすると、このように湖底に沈んでいった村々の歴史が頭をよぎって行く。