ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

ダライ・ラマとの対話

2010-07-03 18:52:37 | Weblog
上田紀行著、講談社文庫

ダライ・ラマ法王のお話にふれるたびに、
このかたは、衆生を導くためにとどまっていらっしゃる観音菩薩なんだなあと思う。
別に神秘的なありがたい神のような存在という意味ではなくて、
人間はここまで成長することができる、という究極の可能性にふれている感じ。
だから、宗教に対して懐疑的な人こそ、法王の偉大さに圧倒されるだろうと思う。

法王は対談のなかで、「搾取」という言葉を使われている。
自分の生命をつなぐために、いろいろな食べ物を口にする。
それも搾取であれば、他人に尽くしてもらうことも搾取のひとつだ。

少し前に、ある演出家の秘書をやっていた人と話したとき、
こんなことを言っていた。
「夜中でも平気で仕事の電話をしてくる人だったんだけどね、
ある日、自分のために尽くすことがあなたにとっての幸せなんだから、
と平然と言われて、本当に頭にきた」と。

実は、同じような話をよく聞く。
会社の上司から部下に対する態度だけではなくて、
家庭では、母親に対して似たような感情をもっている子どもも多いのではないだろうか。
誰かのために喜んで労働力を提供する。愛情をそそぐ。
これは、人にとっての幸せだけれども、
それを当たり前のように要求されると、
誰だって「なんだろう、この違和感は」と思うだろう。

もし私が母に、「お母さんは、私のために尽くしたいんでしょ」と言ったら、
実際はたとえそうであったとしても、ひっぱたかれた。
そう口に出して言ってしまう人格に対し、母は怒った。

誰かが誰かのためにがんばること。
それを搾取にするか、協調にするかは、主に労働力を提供される側の人格による。
そして、提供する側よりも、提供される側の方が、より多くの努力を必要とする。
なぜなら、そこには「差別」という甘美な罠があり、
誰かよりも優れていると思い込むことは、人にとってとても大きな誘惑だから。

でも、ひとたびその誘惑に負けると、実はすべてを失ってしまうのだ。
それまで尊敬されていた仕事に対するクオリティやその人柄についても、すべての評価を失う。
しかも、自分が馬鹿にした人から、逆に馬鹿にされる、というオチまでついてくる。

誰かから尊敬を得たい、と思うときには、本当に自分の心をよく律しなければならない。
そして、心をよく律することができる人は、その段階で、
「尊敬を得たい」という自己欺瞞の範疇をこえている。
だから本当の尊敬を得る。

法王には、いつまでもずっと元気でいてほしい。

昨日は、この本を読んでから面接に行ったおかげだろうか。
すごく緊張したのだけれど、頭のなかには非常にクールな一面が残っていた。
ふだん仕事で自分自身を売り込むことはないから、最初は緊張していたのだけど、
話しているうちに、相手がほしい情報を的確に出せばいいんだ、と思えてきて、
それからは、すごく落ち着いた。
そう、自分を売り込むとはいえ、自分本位に自分を表現するのではなくて、
相手が必要としていることについて応えていけばいい。
面接だろうが、いつもの仕事のスタンスと何ら変わることはなかった。

おかげでいい結果が出た。来週から働き始める。