ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

見栄はどこにある

2010-07-15 19:54:58 | Weblog
今日の帰り道、「見栄ってなんだろうなあ」と、考えた。
山手線を新宿駅で降りると、目の前に中国人の女性2人連れがいた。

なぜ中国人だとわかったかというと、
1 女同士で手をつないで、びったり寄り添って歩いていた。
2 部屋着のような、すごくラフで透け透けな服装だった。
3 にょっきり出ている足がまっすぐで、すごく美しかった。
この3要素がそろえば、ほぼ100%中国人だろう。

中国人は、すごく面子を重視する人たちなのに、
きっといまの時期、北京へ行くと、
胸までTシャツをたくしあげたおじさんが、
ぽっこりお腹を露出しながら、往来を闊歩している。
そこには、面子を感じないんだ、といつも思っていた。

いま読んでいる『なぜダライ・ラマは重要なのか』という本で、
著者のロバート・サーマンは、
もし中国の胡錦濤がチベットの自決と真の意味での自治を実現するべく努力し、
ダライ・ラマとも友人として接するならば、
毛沢東、鄧小平などよりももっと評価され、歴史に名を残し、
ノーベル平和賞ももらえるだろうに、というようなことを言っている。

チベットへの侵略路線の転換は、
世界的にも面子が立つし、これからの中国の発展のためにもなるのに、と。

当然のことながら、見栄や面子は、他者があってこそ成立する。
そこに他者の目があるからこそ、自分を飾りたくなる。
だから、他者の視線がないと思っているところには、見栄もはらない。面子もない。

大勢がぶつかりながら歩くような新宿駅でも、
そこに他者の視線を見つけなければ、どんな格好でも歩ける。
そして、見栄をはりたい相手が価値を見いださないところでは、
どんなに魅力的な報償でも、まったく意味がなくなる。

主観はせまい、そう思った。

だから、もしかしたら、今日新宿駅で見かけた2人連れの女性は、
本当は中国人でないかもしれない。
これも、私の主観が生み出した、カテゴライズだから。