ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

新たな扉

2010-07-29 19:50:30 | Weblog
すべては来年以降の梅干しのために。

日曜日に提出したリライトのトライアル、
なんとか合格することができたようだ。
これから本登録をして、もしかしたらお仕事をもらえるかもしれない。

リライトをしたのは、中国製のゲームのシナリオだった。
ゲーム自体は、日本の有名ゲームのパクリなのだと思う。
使われている用語、世界観、キャラクター、
どれも見たことがあるような気がするものだった。

届いたのは、中国語から機械的に日本語へ訳された、
ブツ切れの、単なるエクセルに貼られた文字列だったけれど、
なんとなく、どこで使われる文字なのかが想像でき、
それを画面上で読む人の気持ちになってリライトできたのは、
かれこれ1年くらい、私にせっせとゲームソフトを貸してくれた
ゲームシナリオライターの友人のおかげだ。

持つべきものは、友だちだ。

言葉は変化するものだし、それが載る媒体も変化する。
しかし、意思疎通においてもっとも基本である言葉じたいは、
けっして失われることはない。
日本語が生き残るか、ということではなくて、
もっと広い意味で、言葉は失われない。

たとえニュータイプが出てきて、直感で意思疎通ができるようになったとしても、
言葉が思想や概念の基礎である以上、なんらかの「言葉」は残る。
そう思っている。

昨日、京極夏彦さんの『西巷説百物語』を読み終わった。
カバーの裏側に、フルカラーの浮世絵が印刷されているなど、
相変わらず小ネタが効いていると思ったけれど、
なんといっても一番印象的なのは、「只管」という漢字だ。

いまどき、「ひたすら」を「只管」という漢字で表記したがる人は少ない。
私は「只管」という文字を見ると、中国語で「zhi3 guan3」と読んでしまう。
頭の中で、「ジーグアン」と、そこだけ読んでしまうのだ。
意味は、日本語と同じ。

私にとって「只管」という文字は、日本語ではなく中国語でのほうがなじみ深い。
だから「ひたすら」とルビがふってあっても、私は「ジーグアン」と読む。
そして、その瞬間、私にとっての異界が少し開く。
著者が狙ったとおりではない異界だろうけれど、私にとっては大切な異界。

この言葉の感覚を大切にしたいと思う。

そして、少しでも自宅で仕事ができるようになって、
いつか正々堂々と梅干しに寄り添いながら、梅干しを作りたいと思う。