雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

LEAN, MEAN AND LIME GREEN!   創成期のレースの話  1

2019-09-21 07:16:57 | M/Cレース
★カワサキの創生期には私もレースには色濃く関わってはいたのだが、
それは一言で言ってまさに『創成期のレース活動』だったのである。

世界的なレベルでの活動展開となったのは、
モトクロッサーで言えば『KX』というネーミングが出来た時期、
それまでの赤タンクのカワサキがライムグリーンに変わってからではなかろうか?

この時からレースは本格的に技術部の管轄となり、そのリーダーを務めたのが『百合草三佐雄』さんなのである。
 
百合草さん』は昭和35年(1960)年、カワサキが本格的に単車事業に取り組んだ年の入社なのである。

私自身も、その年から新しくできた『単車営業部』に異動したので、カワサキの単車事業のスタート時点から、その営業部門の担当はしたのだが、これら営業部門はメグロ・メイハツの方たちが、その主力だったのである。

二輪開発に関しては技術部が車体関係も含めて、初めて『二輪車という完成商品』の開発挑戦をスタートさせたのである。
会社としても初めての経験だったので、大量に入社した『昭和35年組(1960)』は、入社当時から主力だったし、その後も単車事業の中枢として活躍するのである。


★私自身は創成期のレース活動のマネージメントを担当したので、当時の技術部門の先輩たち山田熙明・中村治道・髙橋鐵郎・大槻幸雄・安藤佶郎さんたちとも密接に繋がったし、田崎雅元さんとも一緒にレース活動をしたのだが、
大槻ー安藤ー糠谷と続いたレース監督の後を引き継いでくれたのが『百合草三佐雄』さんなのである。

レース関係では、ちょうど私とは入れ違いで、ご一緒した時期はないのだが、その後いろんなことで繋がって、私が一番密接に具体的に『技術屋さんと一緒に仕事をした』仲間は『百合草三佐雄』さんかも知れないのである。
 
それは『レースの世界』ではなくて、カワサキの単車事業存亡の時期にその焦点であったアメリカ市場のKMCの社長として、明石の企画部門を担当していた私と一緒に『事業再建』に取り組んでくれて、技術屋さんながら見事に成功に導いてくれたのである。
 
そんなこともあって個人的にも親しくして頂いているのだが、
その百合草三佐雄さんから
KMCで永年レース関係を担当していた Randy Hallが今回Kawasakiのレースの歴史を本に纏めたのでお送りする
というメールを突然頂いたのである。


★送られてきたその本はこんな表紙で

LEAN,MEAN AND LIMEGREEN!』 というのが本の題名である。

  
  

 こんな裏表紙の344ページもある分厚い力作なのである。

 


 
勿論、すべてが英語なのだが、素晴らしい写真がいっぱいだし、内容はレースに関することだし、結構読むと『理解できる』のである。

この裏表紙に書かれているようにRandyは1971年からKMCに参加されて、1968~78年あたりの2ストローク全盛時代が中心に書かれているのだが、


   

こんな懐かしい『赤タンクのカワサキ』時代の話も出てきて、
藤井敏雄金谷秀夫などの私にとって懐かしい名前も出てくるのである。
 

   


 見開きのページには、こんな直筆のサインもあって

 To Huruya from Randy と書かれている。


 

   
ひょっとしたら、私もRandyさんにお会いしたことがあるのかも知れないが、覚えてはいないのである。


★昨日送られてきたばかりの本なのだが、一応は300ページ以上もある英文の文章を斜めに目を通してみたのである。

 一言で言って、これは労作である。

その中味については、じっくり読ましていただいてから、何回かに分けてご紹介したいと思うのだが、
今回は Randy Hall さんの直接の上司でもあった『百合草三佐雄』さんについて、ご紹介をしておきたい。

前述したが、百合草さんとは1980年代後半に彼がKMC社長になってから、密接に繋がって、同じ目標に向かって仕事をさせて頂いた仲間『百合ちゃん』なのである。
昭和35年川崎航空機工業入社だから私より3年後輩なのである。

Googleで『百合草三佐雄』と検索したら、このように結構並ぶ有名人である。


 

松本博之さんと一緒のこんな雑誌の対談記事が現われた。

松本博之さんは、カワサキの2サイクルエンジンは、すべて手掛けたと言ってもいい人なのである。 B8・B1・J1などのの時代を経て、A1サムライ・マッハⅢなどこの本でも紹介されているレースのきっかけとなった車も松本さんの開発だった。

 その後4サイクルの時代に入ったが、1977年東南アジアのCKDマシンとして開発された120GTOも松本さんの作である。


 
この車は私の唯一の開発に関係した車なのだが、CKD専用車であるために一般には余りよく知られていないが、歴史に残る大ヒット商品であった。
78年2月3日の日記にこのように書いている。

夕方から技術部の会議に呼ばれる。大槻部長以下課長以上全員が揃っていた。
方針が明確でない限り、技術部としては開発はやらないと大槻さんにまくしたてられたが、大槻さんとはレース時代からのお付き合いで気心もよく解っていたので、営業代表としてねばって言い分を通してもらった。」
と書いてある。

何とか開発をやってみようと「助け舟」を出してくれたのが、松本博之さんだった






私も初めて見る記事だが、百合ちゃんの誕生日が私と同じ3月2日とあってびっくりした。

 入社当時のことをこのように語っている。
 

 
川崎航空機に飛行機のエンジンがやりたくて入ってきたのに『バイクのエンジンなどやらされて・・・』というエンジニアは、意外に多かったのである。

私の頭の中にある『百合ちゃんの若い頃』は、あのA1の開発テストのために、単身アメリカに渡って、そのテストに携わっていたことである。
 
 その頃のことをこのように語っている。

 
  

 未だカワサキがシカゴに田崎雅元さんが事務所を創ってた頃のことである。
 
 そんなアメリカ市場には若い頃からご縁のあった百合草さんだが、その後1976年にはKMCに中に創られたR&Dの責任者としてKMCに出向し、ここでレースにも関係したし、Randyとも直接の関係になったのだと思う。
 
81年に一度帰国するのだが、1986年にアメリカ市場のKMCが大変なことになった時期に、その再建に田崎さんの後を引き継いでの社長となるのだが、その頃私は事業本部の企画室長をしていて、KMCの社長に『百合草三佐雄』を推したのは私なのである。

 当時のKMCの問題点は、『資金営業外損益』など財務上の問題が主体であったのだが、そんな個別の問題は解らなくても、構造改革の先頭に立って旗が振れる『強力なリーダーシップ』のある人材がMUSTで、それが技術屋さんであってもいいと思ったのである。

   


話はちょっと変わるが、アメリカに出向する日本人は、みんなニックネームをつけられるのだが、
 百合草さんのニックネームは『Misao Lyndon Yurikusa』 なのである。
 この『Lyndon』はどうやら アメリカの36代大統領『Lyndon Bainesから来ているようである。
 Randyさんがこのように語っているのである。
 

 英語がちゃんと読める方ならいいのだが、私でも何となくアメリカ大統領にちなんだニックネームは、それなりの評価かなと思うのである。

そんな百合草さんが、わざわざ私に送って頂いた本なので、
じっくり読んでまたその感想など、述べてみたい。


★実はこの本、Randyの自費出版のようだが、
LEAN, MEAN AND LIME GREEN! をGoogleで検索するとこんなページが現われる。



 アメリカでは、相当話題になっていることは確かである。
 
 
 ご関心のある方は、調べてみてください。

 まずは「第1報』です。

 
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