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川重のOB会相信会で、年一回発行される会報 『相信』 が今年も送られてきた。
いろんな記事があるのだが、
昨年はその中から、田崎さんが書かれた『カワサキワールド』物語をご紹介した。
今年は高橋鉄郎さんが、 『思いがけない米国大統領からの電報』 と題して一文を寄稿されている。
非常にカワサキらしいいい話である。
そのときのアメリカ工場の責任者は、一緒にレースをやった故安藤吉郎さんである。(吉には人べんがつくのだが、探せない)
私より2年ほど先輩だが、山本隆、金谷秀夫、星野一義などを擁した創成期のレース監督である。
無茶苦茶厳しかったが、反面無茶苦茶優しかった。
この話も、安藤さんのそんな優しさが、もたらした安藤さんらしい話のように思うのである。
『カワサキのMXを確固たらしめた』中心人物なのである。
そんなことで、以下高橋さんの文章の概略をご紹介する。
『思い起こせばもう27年前の話である。
カワサキのモーターサイクル事業にとって、何といっても一番重要なマーケットは米国市場である。
ところが1980年代に入ってこのマーケットが急激に冷え込み始めた。
失業率は平均13%と日本ではとても考えられないような数字であった。
シニア優先策を取る米国にあって、レイオフは若者から始まる。
顧客の多くを占める若者の失業の増加はモーターサイクル市場を直撃し、需要は急速に落ち込んでいった。
米国におけるカワサキも販売会社、工場とも在庫は山積し、その経営は正に気息奄々たる状況であった。
工場では第一段階として100名以上のレイオフ、更に週3日操業というやや荒っぽい処理をしたが、まだ充分といえなかった。
「日本人はこの会社が倒産しても日本の工場に帰れるが、われわれはそのまま失業だ」というような不安、不平不満が従業員の中に広がってきたので、われわれは「今後生産調整のためにこれ以上レイオフは一切しない」と宣言した。
だからといって、生産を増やすことは勿論できず、工場のあったリンカーン市と相談して、余剰人員を市に無償で提供し市側で使って貰うことにした。
市のほうも予算の関係で、ペンデイングになっていた作業を進めることが出来て大喜びで、
時の市長が全米の女性市長会の会長であったことから、
当時の大統領であったロナルド、レーガン氏の聞くところとなって、リンカーン工場の責任者であった安藤さんのもとに、お褒めの電報を送ってくれたのである。
レーガンがリンカーン工場の取った処置に大変心を打たれ、これこそがプライベート企業と、その地方のコミユニテイとの関係において理想的なもので、全米で見習って欲しいと望んでいる。』
Mr Ando
I want to commend you for takinng the initiative in developing a partnership between the Kawasaki Moror Corporation and the City of Lincoln
---で始まっている電報のコピーが載っている。
『当時、全従業員350人にも及ばなかった工場が、今は2500名を抱えた大工場に成長したことを聞き、正に隔世の感を禁じ得ない。』
と高橋さんの一文は結ばれいる。
当時、高橋さんが全米を見ておられた。
現場の責任者として工場が安藤さん、販売が田崎さんだった。
みんな創成期のレースチームの仲間たちである。
電報の日付は81-10-21とある。
カワサキが一番苦しかった時代である。
そんな危機的状況を乗り越えて今のカワサキがある。
ちなみに、日本の自動車工業会のメーカーの中で、アメリカにいち早く工場進出したのは、ホンダでもトヨタでもない。カワサキなのである。
1974年に設立、工場稼動したのは1975年のことである。
こんなことをリンカーンのあるネブラスカ州も忘れていないのだろう。
リンカーンを訪れるkawasakiの人たちに、HONORARY NEBRASUKA CITIZENの盾を贈ってくれている。
89.20.OCT ネブラスカガバナーのサイン入りの、私が頂いた盾は今も直ぐヨコにある。
川重のOB会相信会で、年一回発行される会報 『相信』 が今年も送られてきた。
いろんな記事があるのだが、
昨年はその中から、田崎さんが書かれた『カワサキワールド』物語をご紹介した。
今年は高橋鉄郎さんが、 『思いがけない米国大統領からの電報』 と題して一文を寄稿されている。
非常にカワサキらしいいい話である。
そのときのアメリカ工場の責任者は、一緒にレースをやった故安藤吉郎さんである。(吉には人べんがつくのだが、探せない)
私より2年ほど先輩だが、山本隆、金谷秀夫、星野一義などを擁した創成期のレース監督である。
無茶苦茶厳しかったが、反面無茶苦茶優しかった。
この話も、安藤さんのそんな優しさが、もたらした安藤さんらしい話のように思うのである。
『カワサキのMXを確固たらしめた』中心人物なのである。
そんなことで、以下高橋さんの文章の概略をご紹介する。
『思い起こせばもう27年前の話である。
カワサキのモーターサイクル事業にとって、何といっても一番重要なマーケットは米国市場である。
ところが1980年代に入ってこのマーケットが急激に冷え込み始めた。
失業率は平均13%と日本ではとても考えられないような数字であった。
シニア優先策を取る米国にあって、レイオフは若者から始まる。
顧客の多くを占める若者の失業の増加はモーターサイクル市場を直撃し、需要は急速に落ち込んでいった。
米国におけるカワサキも販売会社、工場とも在庫は山積し、その経営は正に気息奄々たる状況であった。
工場では第一段階として100名以上のレイオフ、更に週3日操業というやや荒っぽい処理をしたが、まだ充分といえなかった。
「日本人はこの会社が倒産しても日本の工場に帰れるが、われわれはそのまま失業だ」というような不安、不平不満が従業員の中に広がってきたので、われわれは「今後生産調整のためにこれ以上レイオフは一切しない」と宣言した。
だからといって、生産を増やすことは勿論できず、工場のあったリンカーン市と相談して、余剰人員を市に無償で提供し市側で使って貰うことにした。
市のほうも予算の関係で、ペンデイングになっていた作業を進めることが出来て大喜びで、
時の市長が全米の女性市長会の会長であったことから、
当時の大統領であったロナルド、レーガン氏の聞くところとなって、リンカーン工場の責任者であった安藤さんのもとに、お褒めの電報を送ってくれたのである。
レーガンがリンカーン工場の取った処置に大変心を打たれ、これこそがプライベート企業と、その地方のコミユニテイとの関係において理想的なもので、全米で見習って欲しいと望んでいる。』
Mr Ando
I want to commend you for takinng the initiative in developing a partnership between the Kawasaki Moror Corporation and the City of Lincoln
---で始まっている電報のコピーが載っている。
『当時、全従業員350人にも及ばなかった工場が、今は2500名を抱えた大工場に成長したことを聞き、正に隔世の感を禁じ得ない。』
と高橋さんの一文は結ばれいる。
当時、高橋さんが全米を見ておられた。
現場の責任者として工場が安藤さん、販売が田崎さんだった。
みんな創成期のレースチームの仲間たちである。
電報の日付は81-10-21とある。
カワサキが一番苦しかった時代である。
そんな危機的状況を乗り越えて今のカワサキがある。
ちなみに、日本の自動車工業会のメーカーの中で、アメリカにいち早く工場進出したのは、ホンダでもトヨタでもない。カワサキなのである。
1974年に設立、工場稼動したのは1975年のことである。
こんなことをリンカーンのあるネブラスカ州も忘れていないのだろう。
リンカーンを訪れるkawasakiの人たちに、HONORARY NEBRASUKA CITIZENの盾を贈ってくれている。
89.20.OCT ネブラスカガバナーのサイン入りの、私が頂いた盾は今も直ぐヨコにある。