タイプロジェクト-2
新GKMがスタートした後も、順調に推移したわけではなっかった。
その頃現地の小池君が本部の私宛にレポートを送り援助を要請してきている。
その内容は
1.競争力のある新車種の開発
2.現行車種のマイナーチェンジ
3.販売促進費の支援
4.クレーム対策と部品体制 などで、
それに対し
「合弁とは親会社に甘えるだけ甘えることではない。車種開発関係を除いては現地で解決されたい。以上」という返事だった。たった1枚の短いもので、三行半とも思えるショッキングなものだった。
とか、全然覚えていないが、書いた気持ちは今でも解る気がする。
当時タイの市場でカワサキは田舎にはそこそこだったが、最大市場のバンコックでは皆目駄目だった。
都会向きの機種がなかったのである。
バンコックを開拓するためにも、合弁会社の経営を安定させるためにも新規車種の開発はMUST条件だと信じていた。
長い単車での経験だが、ニューモデルの開発に特に自分で具体的に言及したのはこの時だけである。
大型スポーツ車のコンセプトなど、バイクに実際に乗っていないのでとても言えなかったが、
この機種については機種の細部よりも市場開拓との関連、新しいカワサキのイメージの創造などからの観点でのコンセプトを主張した。
小池君の記述の中に「弱者の戦略」という項目がある。
そのベースにあるランチェスター戦略理論とか戦略、戦術論、差別化などタイ市場の展開のために、日々議論を交わしたあの頃が懐かしい。
ホンダ、スズキ、ヤマハという競合各社との競争の中で、
カワサキが当時取り得た基本的な戦略は「弱者の戦略」であり、「差別化」が基本であった。
カワサキが余り得意ではない小型車の分野であるCKDに敢えて挑戦したのは、
1.市場の拡大が予想されたことが一番だが、
2.開発途上国でのいろいろな制限、機種数の制限、ワーキングパーミットの人数、生産部品点数などの制限など先発各社との差が無茶苦茶に開かない、後発の弱者にとってある意味、何とかなる条件があったことだと思っている。
然し、制限される投入機種は優位性のあるものでなければならない。
こんなコンセプトで開発されたGTOがタイでベールを脱いだのは、1979年9月である。
その頃、私は既に異動していて、国内の販社再建に奔走していた。
小池君のいう「豪華川崎GTO」の恩恵を直には受けなかったが、思い出多い車ではあった。
どのくらい豪華であったかは、小池君の物語に詳しく出ているので次回にでも抜粋してご紹介しよう。
新GKMがスタートした後も、順調に推移したわけではなっかった。
その頃現地の小池君が本部の私宛にレポートを送り援助を要請してきている。
その内容は
1.競争力のある新車種の開発
2.現行車種のマイナーチェンジ
3.販売促進費の支援
4.クレーム対策と部品体制 などで、
それに対し
「合弁とは親会社に甘えるだけ甘えることではない。車種開発関係を除いては現地で解決されたい。以上」という返事だった。たった1枚の短いもので、三行半とも思えるショッキングなものだった。
とか、全然覚えていないが、書いた気持ちは今でも解る気がする。
当時タイの市場でカワサキは田舎にはそこそこだったが、最大市場のバンコックでは皆目駄目だった。
都会向きの機種がなかったのである。
バンコックを開拓するためにも、合弁会社の経営を安定させるためにも新規車種の開発はMUST条件だと信じていた。
長い単車での経験だが、ニューモデルの開発に特に自分で具体的に言及したのはこの時だけである。
大型スポーツ車のコンセプトなど、バイクに実際に乗っていないのでとても言えなかったが、
この機種については機種の細部よりも市場開拓との関連、新しいカワサキのイメージの創造などからの観点でのコンセプトを主張した。
小池君の記述の中に「弱者の戦略」という項目がある。
そのベースにあるランチェスター戦略理論とか戦略、戦術論、差別化などタイ市場の展開のために、日々議論を交わしたあの頃が懐かしい。
ホンダ、スズキ、ヤマハという競合各社との競争の中で、
カワサキが当時取り得た基本的な戦略は「弱者の戦略」であり、「差別化」が基本であった。
カワサキが余り得意ではない小型車の分野であるCKDに敢えて挑戦したのは、
1.市場の拡大が予想されたことが一番だが、
2.開発途上国でのいろいろな制限、機種数の制限、ワーキングパーミットの人数、生産部品点数などの制限など先発各社との差が無茶苦茶に開かない、後発の弱者にとってある意味、何とかなる条件があったことだと思っている。
然し、制限される投入機種は優位性のあるものでなければならない。
こんなコンセプトで開発されたGTOがタイでベールを脱いだのは、1979年9月である。
その頃、私は既に異動していて、国内の販社再建に奔走していた。
小池君のいう「豪華川崎GTO」の恩恵を直には受けなかったが、思い出多い車ではあった。
どのくらい豪華であったかは、小池君の物語に詳しく出ているので次回にでも抜粋してご紹介しよう。