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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話

2016-08-13 06:50:22 | カワサキ単車の昔話

 

★このブログの中に『カワサキ単車の昔話』と言うカテゴリーがあり186話もアップしている。

昨日それをを見ていたら、高松の宮様や本田宗一郎さんとご一緒に昼食会に同席している貴重な写真が出てきた。

 

ヤマハの菅生であった全日本モトクロス開催時に開催された各メーカ―や業界のトップなど10数名での昼食会である。

高松の宮様のご臨席を頂いて、その昼食会にはカワサキからは青野格本部長と若輩ながら私が出席させて頂いたのである。

  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/a99141f4c124e5cb5d8896a4ed08dbdb

2010年のブログで、『カワサキ単車の昔話』を書いているのだが、写真をブログに取り込めるようになったばかりのころで、残念ながら写真がピンボケなのである。

 

 

    

 

写真と言えば、このごろはパソコンで、写真を見やすく修正なども出来るのである。
この写真の現物はヨコ 17cm, タテ 12cm で非常に鮮明である。ぼんやりしているのは私の技術がダメなだけである。

などとコメントしていて、

 

丁度、いま孫が『来ている』ので、この機会にちゃんとしたものに修正しておこうと やって貰ったのである

間違いなく、写真はちゃんと修整できて、ちゃんとアップすることが出来たのである。

 

 

    

 

 左から、本田宗一郎さん、高松の宮様、業界の桜井専務理事,カワサキの青野格本部長である。

 

    

 

    乾杯。 宮様はお立ちにならないのは、今気が付いた。一番奥、青野さんの隣が私である。

 

    

 

    こちらは、一番手前である。

 

    

    これは逆に一番奥。

 

 

昼食会の席次もお品書きも一緒に送って頂いたのだが・・・


尊敬する本田宗一郎さんとは、直接お話ししたことは一度もないが、同じ会議やパ―テイなど何度かご一緒させていただいたのである。
非常に気さくな、常に場を明るくされるように、あちこちに気を使っておられたのが印象的だった。
一言でもいい。話をさせて頂いておればよかったなと思っているのだが、当時はご挨拶に上がるのことも、とても出来なかったのである。

 

 食事会そのものは、このように非常に明るい雰囲気で、気疲れするようなことは何もなかったのだが・・

 

★高松の宮さまは、ホンダさん、特に本田宗一郎さんと親しいと言っていいご関係で、二輪の全日本モトクロスや鈴鹿サーキットなどにも、何度もお見えになっていたのである。

これよりはずっと以前だが、BPICMの総会が東京であった時も、宮さまは出席されたし、本田宗一郎さんがホストをされたのである。

私が全国カワサキ会の副会長をしていた時で、業界側のメンバーとして夫婦同伴でご招待を受けたことがある。

この時は、会場までの廊下に各メーカーのえらいさん型がみんなホストサイドで、海外からの業界のお客様を並んでお迎えになったのだが、私たち夫婦も一応は業界からの招待客と言う立場だったので、そんなお出迎えの前を通って会場に入ったのである。

このころは、私も未だ40代前半だったと思う。

高松の宮さまもご臨席だというので、非常に緊張して、立食パーテイーだったのだが、そんなに食えないかもと出席する前にラーメンなど食ってから出かけたのだが、全然『いい雰囲気』であとで、『ラーメンなど食っていくのではなかった』と思ったものである。

この時の本田宗一郎さんの『歓迎スピーチ』が見事だったなとそれが一番印象に残っているのである。

 

上の菅生での全日本モトクロスは、それから10数年あとの話なのである。

 

       

 

 

       

 

 

       

 

 

 

       

 

 

 


カワサキの創世記のレースの記録

2016-07-03 09:04:54 | カワサキ単車の昔話

★つい先日、『私の人生とレースの世界』 というこんなブログをアップした。

http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/77f92da7e7c4af880bd49dd68fa0ad9b

 

 特にFacebook では好評だったので、その当時のレースのこと、こんな記録で残っていたのでご紹介しておきたい。

2011年3月4日、平井稔男さんが主宰した『カワサキの想い出、そして未来』の時に纏めていたもので、外には発表するのは、これが初めてである。

自分のために纏めていたようなものだから、そんな目でお読み頂きたい。

 

  

 

 そのスタート、公式にカワサキが発表したレースの最初の写真だと思う。

 素人写真ではない。当時の広告代理店 大広が撮って広告宣伝にも使った写真なのである。

 

  

 この時代の単車部門は機能としては企画も営業も品証も有していたが、人数はサービスも10人ほどの小規模部隊だったのだが、昭和39年に単車事業部として独立してからが本格的な動きになるのである。

 

   

 

 当時の川崎航空機の本社から開発費として1億2000万円の広告宣伝費を3年間貰ったので、金は使いきれないほど潤沢だった。 ライダー契約金などもすべてこの中から支出していた。そんな関係でライダー契約は広告宣伝課、ライダーたちはみんな広告宣伝課の嘱託だったのである。

昭和40年までは直接は川合さんが担当、40年からは私が担当した。

 

    

 

 当時のレース委員会は、今思えば錚々たるメンバーである。私がその事務局をやっていたが、後、川崎重工業の社長に田崎雅元さん、副社長に山田熙明、高橋鐵郎さんがなっている。

 

 

  

 

  この年あたりから、ロードレースがスタートしている。 F21Mが出たのもこの年である。

  事故や問題続きで大変な年だった。

 

  

 この時期が私の第一期のレース担当の時代、カワサキが二輪の世界で一番になれたのは、『レースの優勝』だけだった、そんな時代である。

 


徳野のおやじさんの一言

2016-06-11 06:46:42 | カワサキ単車の昔話

★久しぶりに川重明石工場を訪ねて、その帰り道、玉津の部品発送部門にちょっと顔を出したのである。

カワサキの部品発送システムは、昭和48年(1973)ごろ当時大阪の責任者だった私が発想して、業界に先駆けてスタートしたものだし、玉津の事務所も私の時代に新しく創ったものなので、非常に懐かしいのである。

いまは、この部門の長が望月君、部品と用品の担当を原クンがやっていて、2時間ほど雑談して戻ってきた。

望月くんは、私の息子と同い年の当時は若手も若手だったのだが、ジェットスキーの創世期にJJSBAに出向してくれたりして、援けてくれたメンバーの一人である。そんなこともあって彼の結婚式には出席したりした。

そんな昔話を『カワサキ単車の昔話』というカテゴリーでアップしてみたい。

 

★昭和48年ごろ大阪に『浜寺モータース』というお店があった。

あの有名な徳野3兄弟の実家である。まだその頃はレースはやってたが、アマ時代で親父さん自慢の3兄弟だったのである。

その浜寺モータースに行ったとき、親父さんが1台の修理車を私に見せて言われた一言、確かにその通りなのである。

 

『この車の修理をしてるのだが、部品が10種類ほど要る。注文をしたら4,5点は大阪営業所にあった。あとの幾つかは1週間か2週間で入ってきたが、残りの数点はまだ入ってこない。全部揃わないと修理は完成しないのに、最初の部品の請求書だけはもう届いているが、どうもそれを払う気にならない。』

 

この一言で、私はすぐ動き始めたのである。いまから40年前の話である。

 

 

 

●カワサキのその時代画期的な部品発想送ステムは、この徳野のおやじさんの一言からスタートしているのである。

●当時は各営業所に部品庫があった。部品補給を円滑にするためには各営業所が部品在庫をたくさん持とうとする。するとどういうことになるかといえば、メーカーがトータルで準備した部品の幾つかは、日本のどこかの営業所にはあっても、現実には手に入らないことになってしまうのである

●『営業所の部品倉庫をなくして、明石に集めてそこから送ればなんとかなる』という発想から、まず大阪の部品倉庫をなくして、明石での部品集中倉庫のシステムをスタートさせたのである。

●賛成して頂いて動いてくれたのが苧野豊明さんであったし、大阪で部品担当をしていた西川君と入社早々の鍛冶クンだったのである。

●ちょうどその頃、佐川急便などの宅急便のシステムが動き出したころで、今のように翌日必ずではなかったが、2,3日で全国どこにでも届く状態になったのである。

●全国の営業所の在庫をなくして、明石に集めたら欠品部品も無くなって、その頃からカワサキの部品供給は非常によくなったのである。

●今はどこでもこんなシステムだが、40年前の当時はこんなことをしてるのはカワサキだけだったのである

 

当初のこのようなシステムは、明石工場内からの発送だったのだが、その後何年か経っていまの玉津に部品倉庫を併用したKMJの本社を建てたのである。

FX400 が世に出てカワサキが意気盛んな頃だったと思う。

そこ頃の国内の責任者が私で、機能としては本社機能』『部品発送機能それに関西一の写真撮影スタジオの3つを備えたもので、非常に私としても想い出深い場所である。

 

★帰り際に、今の倉庫の状況を見せて貰った。

ここの部品発送システムは、川重の生産管理のメンバーたちが当初指導してくれて創り上げたものだけに、非常に効率的になっているはずである。

その動画はこちらだが、

 

世の中変わったな、と思ったのはこのように保管されている部品は、タイや ブラジルから送られたものだそうである。今は明石工場のものもあるのだが、タイやブラジルがメーカー機能を果たしているのである。

    

 

 そんな懐かしい、昔話がいっぱいのいい時が過ごせたと思っている、

 川重の明石工場もなかなかよかったのだが、それ以上に懐かしかった玉津の事務所だったのである。

 

 

★ちょっと別の観点から、

いま、玉津の部品センターに送り込まれてくる部品は、明石の工場のものもあるのだが、タイやブラジルからも送られてくる。世の中はそれくらい変わっているのである。

 

中大型スポーツ二輪専門店や、このような部品発送システムなどなど、今の二輪販売システムは当時のカワサキが先駆けてスタートしたのだが、『もう40年も前のシステム』なのである。

世の中は進歩して、全く変わった環境になっているのに、『いまだに40年前のシステム』をそのまま継承している『二輪業界の販売方法』は、『昔の米屋の販売方法』を今の時代に使っている『時代遅れも甚だしい』と私はずっと思っているのである。

1973年10月私が大阪でスタートさせた『カワサキ特約店システム』を2016年のいまも継承して頂いているのは、誠に「光栄」ではあるが、まさに『時代遅れ』だと思っている。

玉津で、望月君や原君とは、こんな雑談でもあったのである。

こんな『私の一言』で どこかが動いてくれたらいいのにと思っているのだが、この話の続きは、『シリーズ』でも書きたいほど、『私のアタマの中』にはいっぱいの想いがあるのである。

 

 

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西山秀一さんのこと

2016-02-26 08:30:11 | カワサキ単車の昔話

★ 二輪文化を伝える会 のツイッターに今朝アップされていた。

西山秀一さん、カワサキにとってというか、私にとって懐かしく、本当にお世話になった方である。

 

 

      

 

カワサキがレースをスタートされたころ、昭和36年(1961)年当時は、川崎航空機の中でレース界のことなど解る人は殆どいなかった。

兵庫メグロの西海社長が、子飼いの松尾勇さんを川崎航空機の製造部に放り込んで、当時のカワサキのレーサーはすべて松尾勇さんの手で仕上げられたと言っていい。

当時の川崎航空機にはエンジンの専門家はいっぱいだったのだが、バイクの専門家はいなかったというのが現実だったのである。

当時のレース界は、未だMCFAJ のクラマンレースの全盛期で、MFJはスタートしたばかりだったのである。

二輪雑誌もオートバイ誌とモーターサイクリストの2誌しかなくて、レースはエンジンは技術部マシンは製造部の松尾さんの『レース職場』、ライダー契約やレース運営全般は広告宣伝課という『レース運営委員会』で統括されていた。

 

レース運営』についても解らないことだらけで、そんなカワサキの『レース運営』に熱心に指導頂いたのが西山秀一さんで、明石にもしょっちゅう来られていたのである。

レース』という特殊な世界なので、カワサキと言っても私とレース職場やライダーたちと接触されてただけで、ほかの方はあまりご存じないことだと思う。当時から『トライアル』などのことなどもよく話されていたし、ちょうどB8Mが造られた頃で、まだ高校生だった西山俊樹さんもそのB8M に乗ってたりしたのである。

当時の全日本モトクロスは、殆どがMCFAJ のクラブマンレースで、富士や伊豆丸の山高原など壮大な原野で行われていて、カワサキが初優勝したのも、4種目中3種目に優勝して確固たる基盤を固めたのも、MCFAJのレースだったのである。

そんなことでライダーたちはメーカー契約以前に、カワサキコンバット神戸木の実クラブなどのクラブ員の資格で各レースに出場しており、スズキの城北ライダースマウンテンライダース、ヤマハのスポーツライダースなどのメンバーが日本のモトクロストップライダーであった。

当時2サイクルを持たなかったホンダは、モトクロスには出場していなかった頃である。

そんな時代、レース場に常におられたのが西山秀一さんで特に新入りのカワサキはいろいろとお世話になったのである。

 

  

 

1970年代になってレースから離れてからは、殆どお会いすることもなく過ぎてしまったが、一度是非お会いしたかった方なのである。

2月25日がご命日だとか、こころからご冥福をお祈りしたい。


川崎重工業120周年

2016-01-23 07:46:51 | カワサキ単車の昔話

 ★ 「かわさき」が送られてきた。

今年は、創立120周年だそうである。

120年の長い歴史の中で、昭和32年(1957)から平成11年(1999)まで約40年間 お世話になったのである。

二輪事業のスタートの時期から、企業として経験のない分野を当時担当した人たちはみな、苦労しながら乗り切って今がある。二輪事業の損失で本体の川崎重工を無配に追い込んだ危機的状況の時代もあったのである。

 

   

 

 私が入社したのは川崎航空機で、戦前エンジン工場であった明石工場は1952年の再開以来エンジン関連の歯車や、アメリカ空軍のジェットエンジン工場はあったのだが、二輪車に関してはエンジンを明発に提供はしていたが2輪の一貫生産はまだやっていなかったのである。

当時の川崎航空機には、エンジンの専門家はいたが、二輪車の解る専門家はいなかったし、メーカー体質で、マーケットの販売のことなど経験者は一人もいなかった時代なのである。

 

    

 

 この図は、時系列に事業展開を追っかけているのだが、メグロと業務提携し二輪車の一貫生産を目指して『単車準備室』が出来たのが1960年12月、実際に工場が動いてB7の生産を開始したのは1961年のことだと思う。

この二輪事業の開始時期の記入がないのは残念である。

私が当時のできたばかりの単車営業部に配属されたのは1961年12月のことだった。62年、63年は単車事業はよちよち歩きで、この事業を進めるべきかどうかの調査を日本能率協会に依頼し『単車やるべし』との結論を得て、単車事業部となり岩城常務が本部長で総力を挙げて動き出したのは1964年1月のことである。

この年の10月10日が東京オリンピックの開会式で、当日は伊豆丸の山高原でのMCFAJ 全日本モトクロスに4種目中3種目に優勝して、カワサキのレース界での明確な位置づけができたのである。

国内だけでなくアメリカ市場への進出を企図して調査に入ったのがこのあたりからで、表記されているように1968年には販売会社KMCの設立がなされている。今年はその50周年にあたるようである。

66年にA1,  69年にH1, 72年にZ1  と中大型スポーツ車を市場に投入しカワサキのイメージを確固たるものとした。

73年には、Jet Sky をKMCがアメリカ市場で販売を開始している。

当時日本でもJSが売られたりはしているがこれは商社がアメリカから輸入したものでカワサキ本体が扱ったものではないのだが、そのJSが人身事故を起こし国会で取り上げられ、正式な商品としての名称がなく『エンジン付き海洋浮遊物』と称されたりしたのである。ジェットスキーはカワサキの商品名なのである。

 

 

         

 

そんな時代を経て、74年には、ガスタービンが登場しているが、この事業を担当していたのはZ1を開発した大槻幸雄さんで、単車とジェットという2部門の部門を兼務したりしていた。

アメリカでは『リンカーン工場』がこの年スタートしているが、アメリカに工場を造ったのは多分間違いなくカワサキが初めてである。ホンダの工場進出もこの数年あとだし、4輪などもっとあとの工場進出なのである。

ひょっとしたら、日本の本格的な工場進出の第1号は、リンカーン工場かも知れない。この時期アメリカ市場を担当しKMCを設立、リンカーン工場進出の旗を振ったのは2014年11月日本自動車殿堂入りをされた浜脇洋二さんである。日本自動車殿堂には二輪からは本田宗一郎さんや鈴木修さんなどが入られている。

浜脇さんはカワサキを途中退社し、その後、BMW JAPAN の社長として、日本でのBMW販売網を創り上げたりしたのである。

大槻さんも浜脇さんも当時の職位は新任部長のころだったことを思うと、その動きは誠にダイナミックだったのである。

 

その後、1984年NInja 900 が世に出た時代は、大庭浩本部長(後川崎重工社長)が再建屋として単車事業部に赴任されていた時期で、私はその番頭役をやっていた、カワサキ二輪事業の危機と言われた時期である。その規模は川重本体を無配に追い込むようなものだったのである。

それを無事乗り切って、いまの二輪事業があると言ってもいいい

それ以降は多少の波はあったのだろうが、二輪事業も川崎重工も順調に推移していると言っていいのだろう。

1995年には阪神・淡路大震災があったりしたが、川崎重工業の現役メンバーには一人の死者もでることなかったのは、奇跡に近いような気がする。

その翌年、1996年が100周年大庭社長時代だったが、英国のサッチャー首相記念講演をされたりしたのである。これは1991年の英仏海峡海底鉄道トンネルに川崎重工が大いに貢献したこともあったのだろう。

 

★その100周年からさらに20年、私も現役引退して20年近くになる。

こうした川崎重工業の想い出話を書けるだけでも幸せだし、この40年間で身に付いたマーケッテングマインドやソフトノウハウ創り続けた仕組みの経験は、今も尚いろんな分野で活用できることに心から感謝したいのである

 


ベタータイムスの森田伊活さんと AJの吉田純一さん

2016-01-18 07:26:11 | カワサキ単車の昔話

★現役時代カワサキの二輪事業に長く関係していたのだが、現役を引退してもう20年近くなるのにいまだに我が家には二輪車新聞とベタータイムスが送られて来る。

お蔭様で、何となく現在の二輪業界の情報が解るし、二輪普及協議会のネットニュースなどからも業界の情報が送られてくる。

ベタータイムス』は、森田伊活さんが、1980年(昭和55年)ごろ発刊されたもので、当時は車で言えば、FX400時代のことで、たまたま私は国内市場を担当していて、ずっとお世話になっていた当時の全国カワサキ会会長故小野寺和夫さんに森田さんを紹介されて、森田さんとのお付き合いが始まっているのである。

    

 

毎月1回の発刊で428号だから、もう36年も続いているのである。

当時は未だ、モペットが主体で二輪の販売網も自転車屋さんが数では主力の時代で、全国的に結構なレベルで揃っていたのは、中大型を販売する特約店制度を敷いていたカワサキだけというような時期だったのである。

小野寺さんのご紹介ということもあって、当時のカワサキの特約店1000店にこの業界雑誌『ベタータイムス』の定期購読をお願いしたのである。

そんなことで、ベタータイムスの森田さんともカワサキのお店は繋がりが深かったのだと思う。

吉田純一さんがカワサキから独立して大阪で販売店を出し、さらに今のオートバイ協同組合を大阪や兵庫などで立ち上げたのは、ちょうど相前後する時期だったのだと思う。協同組合も全国一斉に立ち上げたのではなく、共感する地域から一つ一つ地道に立ち上げて今に繋がっているのである。

それは、『ベタータイムス』との2人3脚のような形で、広がっていったと言っていいのだろう。

 

★ところで今月号のベタータイムスにも、全国オートバイ販売店協会の活動が中心となっていて、その会長の吉田純一さんが多く誌面を飾っている。

その吉田純一さんについては、彼がカワサキ出身者で親しいこともあって何度もこのブログで取り上げたりしているが、

http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5a6cdfdb3e7fd07e1070c8f24b4fa1d3

2年前にもご一緒して、こんな写真とこんな書き出しで紹介している。

     

 

先週の土日は、KAWASAKI Z1FAN CLUB のイベントで吉田純一くんと一緒だった。気安く『くんづけ』で、呼んでいるが、私の周りの人たちの中で、『一番エラクなった』のは純ちゃんだ思っている。・・・・・・・・

彼は、この全国オートバイ協同組合連合会の組織自体を大阪で、一から立ち上げて、何十年も掛って、今は全国の冠を付けてもおかしくないまでに創り上げたのである。

 

本当に彼は国会のエライ先生方ともお付き合いがいっぱいだし、ホンダの社長さんとも気軽に飯を食ったりするのに、昔の仲間とは昔の関係そのままのお付き合いなのである

そんな彼の業界活動の仲間が森田伊活さんであり、『ベタータイムス』なのである。

今月号の『ベタータイムス』にもいっぱい登場する。

      

 

 国会の先生がたとの会合だし

 

        

 

こちらは中央官庁の方々と一緒である。中央官庁に行かれた経験のある方は少ないだろうが、中央のお役人とは、上場企業の役員さんでもなかなかこんなことにはならないのである。

 

          

            

 

 今月号には、懐かし方や、Facebook で毎日お会いしている方たちも載っていた

吉田純一さんをFacebook にお誘いしたのは私である。

 https://www.facebook.com/junithi.yoshida?fref=ts

そんなことなので私が紹介した人は、すべてOKしてくれるので、沢山の方たちにご紹介しているのだが、改めて結構『エライ方』なんだとのご認識を持ってほしいのである。

彼は気軽に付き合ってくれて『いいね』もいっぱいくれるのだが、ホントになかなかの大物なのである。偉くなっても『偉ぶらない』ところが『ホントにエライな』と思っているのである。

 

   

 

 ベタータイムスの森田伊活さんも、吉田純ちゃんも、何年か前のKAWASAKI  Z1 FAN CLUB がグリーンピア三木で開催した、KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE にはわざわざ来てくれたりした。その時のYou Tube である。

  https://www.youtube.com/watch?v=ZKdEuytpOns

旧い仲間はいいものである。

  

 


加藤文博くんとその昔話など

2015-01-06 06:01:12 | カワサキ単車の昔話

★昨日のことだが、 Facebook で加藤文博くんとひょんなことから繋がりました。

正月に息子のサッカーの記事にコメントをくれた松本さん、川重にお勤めで、三木におられて、トライアルもやるとのことで、そのFBの共通のトモダチを見ていたら、山本隆くんもいるし、加藤文博くんの名前も見つけたのです。

https://www.facebook.com/fumihiro.kato.33

 

 

加藤文博  今は世界的な有名人です。

Googleで、 加藤文博 と検索すると

     

 

こんな紹介が現れるし、こんな写真もいっぱいなのだですが、

      

 残念ながら、カワサキに関する記述が、殆どないのです

そんなことで久しぶりに『カワサキ単車の昔話』というカテゴリーで、加藤文博くんのことを書いてみる気になりました。

  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/c/8bb6842e242593b842929fb3d5b47071

 旧い日記をひっくり返して調べてみたのです。

 

 

★ 私が初めて加藤文博くんに会ったのは、

● 昭和45年(1970)8月1日、裏磐梯の京王ロッジ横で開催された福島オート主催のモトクロスの時でした。この時も、山本隆くんとのペアでした。

東京のアラオカモータースの安良岡健さんに頼まれたのか、私が頼んだのか、その時が初対面で、なぜかよく覚えています。

私は仙台事務所で、東北と北海道を担当していた最後の年で、11月から大阪に異動したのです。

● 明けて昭和46年(1971)2月14日、大阪で野崎輪業主催のモトクロス講習会が淀川の河川敷であって、その時も山本隆くんと二人で来てくれています。 日記には、お二人高槻の自宅に来て、モトクロス談義に花が咲いた と書かれています。

このころは、山本隆くんはモトクロスライダーとしては最後の時期で、多分翌年ぐらいには引退しているのですが、カワサキがトライアル車を開発するときに、また加藤文博くんとのペアが復活しているのです。

加藤文博くんが、トライアルの世界で、文字通り世界の第1人者になったのは、ヤマハに移ってからで、金谷秀夫、星野一義、加藤文博、北川圭一, みんな『世界の・・』と呼ばれるまでに成長したのですが、カワサキにいたころは、そんなに有名人でもなかったのです。

私などは、そのころからのお付き合いなので、みんな昔のままの『くん付け』で通ってしまうのです。

 

 

二輪車新聞にも詳しく紹介された、カワサキのファクトリーOB会、これはなかなかのメンバーです。

こんなブログで紹介していますが、http://rfuruya2.exblog.jp/13553004/

 加藤文博くんも勿論いるし、金谷も、星野も、その師匠の片山義美さんまで集まっています。

カワサキのマネージングメンバーも、川重元社長の田崎雅元、副社長の高橋鉄郎、Zの開発責任者大槻幸雄、Team Green初代監平井稔男など、その肩書はスゴイのですが、こちらもみんな昔のレース担当時代の若いころに戻っての出席なのです。

 

   

 

 後列、一番左側が、加藤文博くんです。

 

★ このOB会も 2010年1月23日、のことでもう4年も前のことなのですが、ここからは、昨年の話なのです。

昔からのペア、山本隆くんのブログからその抜粋です

 

若い時からレーシング専門でした!ツーリングは数える位しか走っていません?
・・・・・・
それで本題です、今回 NPO The Good Times 関連のイベントで「竹田城址ツーリング」が企画され、朝来市長と会談する話が出まして、新任理事長が不参加では話にならないと言う事で、片道約100Kmのロードツーリングとなりました!

しかし朝来市に行くには、青垣町の「ロールアウトパラグライダー」校長の加藤文博の前を素通りするわけにはなりません!そこで豊岡の青木さんに、パラ初体験を進めたら是非ともと言う事で12時にロールアウトスクール事務所で落ち合う事になりました。・・・・・・・
そうこうしてるとローソン1100Rレプリカ、ビトーR&D、SPも到着!

イメージ 4

 
ランディングしてきた元気なKATOちゃんとも逢えたので、私は朝来市長との会談が有るのでゆっくりはできず、出発です。

 
イメージ 5



 
★ これは昨年の KAWASAKI Z1 FAN CLUB 主催の、 竹田城址1泊ツーリングの前日のことで、
 
ここに登場する 青木さんとは、  最近はずっとお付き合いのある
 
  https://www.facebook.com/takashi.aoki.5074?fref=ts   この青木隆 さんなのです。
 
この時に青木さんとも美藤さんとも、朝来の多次市長さんとも、初めてお会いしたのです。
 
世の中、ホントに繋がるものだと思っています。
 
 
加藤文博 くんには、Facebook のトモダチ何人も、ご紹介しましたので、また新たな出会いがあるかも知れません。
 
 
 

    

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Kawasaki X-11

2014-08-04 06:37:03 | カワサキ単車の昔話

★カワサキのスポーツ4輪、X11のことについては、

 『ヴィンテージな走り、荒井市次、山本隆』

 『カワサキ単車の昔話―55』

そして

 『カワサキの4輪スポーツ車X-11』 

 

と今までにも何回も取り上げてはいるのだが、そのカッコいい写真がなくて文章だけだったのである。

 

 

★一昨日多田くんが、突然、Facebookにこんな写真を載せた。

こんなメント入りである。

Kiyokazu Tada
90年初めにカワサキワークス.フォーミュラーマシンX -11。エンジンはZZ -R 1100のフルチューンエンジン搭載、開発ドライバーは元トヨタ.ワークスドライバーの見崎清志。岡山国際サーキットを36秒台で走ります。僕も試乗させて貰いましたが、シートポジションもそのまま、ペダル位地もそのまま、なかなか走り辛い感じでした(*_*;。なれた頃には最終コーナーで大スピン!あわやピットウォールにクラッシュ寸前でした(*´∀`)。でも楽しい走行が出来ました(⌒‐⌒)。

岡山国際サーキットとあるが、当時はTIサーキットで通っていた。

 

 

 

懐かしい想い出いっぱいのマシンである。

どんな経緯でこのマシンの開発が始まったのか?

どんなことがあったのか?

そんなことは今までのブログにいっぱい書いてあるので、今回はその写真が出てきたので、X-11のまとめにしたいと思って書いている。

 

このX-11の開発の時期の技術本部長は同期の藤川哲三さんである。

私は国内の販売担当責任者で、サーキットSPA直入も管轄下だったし、当時スタートしたTIサーキットは、ホンダにおられた千々岩さんが初代社長で、頼まれて会員権を2枚も持っていたりした。

当時の国内市場はZEPHYR時代で、めちゃ調子もよかったし、藤川さんに頼まれて、サーキット走行などいろんな面倒を見ていたのである。

特に当時は未だ技術部のぺいぺいだったが、このエンジンを担当していた山田浩平くんがオモシロくて、そんなことも応援する気になったのである。

そんなことでこのプロジェクトはKAZEやレースやサーキットなどを担当していたソフト会社 ケイ・スポーツ・システムX-11についても担当していたのである。

上の写真にも、渡部達也くん(当時はKSSで、今はNPO The Good Times 副理事長、KAWASAKI Z1 FAN CLUB 代表)の顔も見えたりする。

 

 

 

KSSでは、その発売を目指して、カタログまで創ったのだが・・・

この写真は、多分そのカタログからである。

 

ネットはスゴイなと思うのは、、ネットで画像検索すると、こんな写真が次々に現れたのである

何回か検索すると、現れたり現れなかったりするので、この雑感日記でアップしておけば、これは間違いなく記録されるので

そんな想いもあってブログをアップしているのである

 

昨日、ネットの画像検索に現れた写真である。

 

    

 

    

 

二輪の1100ccのエンジンだから勿論馬力もあったのだろうが、高回転なので音が気持ちよかった。

初めはSPA直入などで走っていたのだがTI サーキットに持ち込む頃には結構仕上がっていて、二輪のライダーたちも乗りたがって多分この日は、多田や宗和も乗ったのだと思う。

星野インパルの金子豊くんに、『星野一義に乗せられないか?』と言ったのだが、

星野はブリジストンとの契約があって、ダンロップのタイヤだからちょっと無理と言うことだった、そんな話もあった、X-11だった

Facebook にシェアしてアップしたら100人を超す方から『いいね』を頂いたし、

開発当事者の山田浩平くん(昨年までのカワサキの技術開発本部長)からコメントを頂いたりした

 

 

 

それにしても、なぜ発売を止めてしまったのか?

その経緯は、全然聞いていないし、アレだけ熱心に応援していたのに、解らないのが不思議である。

 

1台だけ東京の藤木さんが持っていたのだが、FISCOでクラッシュしたと聞いていたのだが、

今、城田モータースにあるとか?  そんな話も、聞くのだが・・・

 

今からでも、もう一度やってもオモシロそうなプロジェクトなのだが、よほどの遊び心がナイと無理なのかも知れない。

まあ、今回は、Kawasaki X-11の記録を写真付きで、何となくネットに残しておこうと思って書いている。

 

★全然次元の違う話だが、

冒頭に紹介したブログ『ヴィンテージな走り、荒井市次、山本隆』 に書いたX-11のことで詳細なコメントなどを頂いて、

いまでも、いろんなレースに顔を出す貴島久裕さんと繋がったりした。

どうやらこのカタログを創った時に、その会社に勤めていたらしい。太一ちゃんのところにもいたんだとか・・・いろんなことで繋がるものである。

貴島さんと繋がったお陰で、今、山本隆くんはMIKI ANNEXPARK でヴィンテージMXを走ることになったりしたのである

そのころ頂いたコメントである。

 

ありがとうございました!! (カンサイオトキチクラブ 高下隆次)2007-04-25 16:48:43遊びに来て頂いて!尚かつ喜んで頂けて!!
本当に良かったです。ホッとしました。
本当はもっと当時のお話しゆっくりお聞きしたかったんですが
なんせ、忙しくて~それに自分も走りたいですから~笑
応対に大変失礼があったと思います。心からお詫び申し上げます。
ただ、乾いた2ストのエキゾーストノートが昔の情景を思い出させてくれませんでしたか?笑
イベント自体はアットホームなゆるい感じでいい大人の運動会になりつつあると思っています。これからもお時間有る時は是非に遊びに来て下さい。またお知らせします。大阪市内に来られる時は一声おかけ下さい。お茶でも一緒にお飲み出来ればと、、、

しかし、山本さん 速かったし格好良かったです~

 
こちらこそ (rfuruya1)
2007-04-25 17:19:26
高下隆次様

こちらこそ、本当に楽しませて頂きました。

荒井、山本の走りは「想定の範囲外」の素晴らしいものでした。
あんなのを見ると、気持ちだけでも、こちらも若返った気がします。

貴島さんにお会いできて、旧い、懐かしい X-11 の話など出ましたので、早速今日、アップしました。

みんなの気持ちが前に出た、いいイベントだと思います。
今後、益々のご活躍を祈念します。

有難うございました。奥様にもよろしく。

          古谷錬太郎
 
古谷さまありがとうございました。 (貴島久裕)
2007-04-30 02:51:37
ことのはじまりは・・・こうでした。
ON ANY SANDA開催の数日前、高下君との電話での会話のこと。。高下君「山本さんや荒井さんも来てもらえます。あ・・それから何やらカワサキに詳しいフルヤさんって人も。。」ワタシ「え?!フルヤって・・錬太郎さんか!?って、あの?・・・高下君、どんな人か知ってるん?!もとカワサキオートバイ販売の社長やで!!シャチョウ!!」ビビッてるのはワタシだけで、高下君「いやぁ、ただブログで知り合いになっただけでー・・」といたって平静(汗)
まあ、世代の違いでしょうか(笑)
かくして古谷様と約15年ぶりの再会とあいなりました。当日のこと、X-11のこと・・至るところにワタシのことを記述いただき、照れくさい限りです。
古谷様のイメージは当時、社長室でスーツ姿ビシッと決めておられた姿でしたので、ON ANY SANDA当日お会いしたラフな格好の古谷様は、ワタシの緊張を解きほぐしてくれました^^
これも勝手なイメージですが、メジャーリーグのウエアに帽子の当日の古谷様に、もとドジャース監督のラソーダ氏を彷彿とさせたのはワタシだけでしょうか。

さて、このブログにもやっとたどり着きました(笑)
なにせON ANY SANDAの前週は水曜日に明石の立脇氏のお店までワークスKXをお借りに奔走し、それを毎晩2時まで3日かけて洗浄、レストア。。2台が仕上がったのは当日、日曜日の午前3時でしたので、そのままお風呂だけ入って今度は積み込みし・・そうこうしてたら午前5時。スズメが鳴き出し、新聞配達のカブの音。。結局、一睡もせず三木に直行。。でした。

もともとワタシもライダーとして第一回の三田柴田牧場より参画していのるですが、徹夜となると既に走る気は失せて、「今日はイベント企画会社の気分でいこう」などと勝手に思い込んで三木に赴いた次第です。
(まったくアド時代の心境でした(笑))
おかげでワタシのような若輩でも古谷様や山本様、荒井様ともお話ができ、かけがえのない一日を過ごすことができました。ワタシにとって、「諸氏とお話しする=財産」だと考えております。非常に光栄です。
まあ、そんなハードスケジュールでなかなかこちらに訪問できず、やっとお伺いできました。
先行して、ワタシの記述があり少々テレておりますが・・(笑)
この機会にまた今後ともよろしくお願いいたします。
 
Unknown (rfuruya1)
2007-04-30 06:13:58
こんにちは。
その節はお世話になりました。
貴島さんとのお話からいろいろと広がり、久しぶりにX-11の開発者の山田君とも電話をしたり、メールが来たりしました。
八太夫さんのことも近いうちにアップしようとと思っています。

昔話も楽しいものです。
高下さんにもお会いになったら、よろしくお伝え下さい。
 
 
こんなイベントのお陰で、山本隆くんとも、ホントに何10年ぶりで再会し、そんなお陰で NPO The Good Times を一緒に創ったり、今はその理事長を引き継いで貰ったりしているのである。

そう言う意味で、 X-11や、 貴島久裕さんは、 今の私の生き方に大きな影響を与えてくれたことになっているのだが・・・・

ご縁と言うのは、不思議なものなのである。

 

でも、多田くんがこんな写真持ってるとは知らなかった

 

この写真、Facebook の表紙に使っている。 ホンダ、ヤマハ、スズキ、BS などkawasaki 以外の親しいトモダチもいっぱいである。

『カワサキの想い出そして未来』の時の写真だが、この写真の一番右に何気なく写っているのが、貴島久裕さんである。

彼、ホントにいろんなところに顔を出すのである。

このイベントも、平井稔男さんが主催して、NPO The Good Times が支えた。

カワサキの二輪の歴史をささえた人たちが、殆どみんな集まってくれた。

そんなきっかけが、X-11であったり、貴島久裕さんだったりするのだと秘かに思っているのである。


カワサキ85J1が富士山に登った

2014-07-26 06:50:48 | カワサキ単車の昔話

 

★ ホントに久しぶりに『カワサキ単車の昔話』のカテゴリーである。

NPO The Good Times の特別プロジェクトの中に、松島裕さんが『30年掛って仕上げる』と宣言して取り組んでいる、

『二輪文化を伝える会と言うのがあるのだが、そのFacebook ページにこんな記事が載ったのである。

 

 

 ★昭和40年8月、もう今から50年も前のことなのだが、 

この話が出たのは昨年の7月7日、KAWASAKI Z1 FAN CLUB のイベントに福田泰秀くん、福ちゃんがやってきて、『85J1で富士山に登ったと』という話を披露したのである

これは『福ちゃんに頼まれて』私が勝手に判断して仕組んだオモシロい話なのである。

今の川崎重工業の二輪事業部ではちょっとやれない、昔のカワサキの『いい時代の話』なのでる。

 

こんな話、正確に語れるのは、間違いなく私しかいないので、少し詳しくその経緯を話しておきたいと思う。

福ちゃんと親しく呼んでいるが、私と福ちゃんはホントに親しいのである。

未だカワサキの単車事業がスタートしたころ、単車の営業や管理部門やサービスが10人もいなかった昭和36年時代に、福田泰秀くんは3人いたサービスの一人で、私たちの仲間だったのである。

 

その4年後は、正規に単車再建が決まって、私は広告宣伝課を担当していた。

川崎航空機の本社から特別に開発費として年間1億2000万円の広告宣伝費が支給され、それは殆ど私の一存で自由に使えたそんな考えられないような時代だったのである。

大体私あたりの年収が40万円の時代だから、1億2000万円はなかなか使いきれないような額で、私のところには各部門がいろんな金を広告宣伝費で落とせないかといっぱい集まってきていた、そんな時代だったのである。

 

 

★そんなある日、福田くんがやってきて、

夏休みに品証の連中で、バイクで富士山に登りたいのだが、その費用を何とかならぬか』 と言うのである。

別に、会社からの社命でもなく、仲間の遊びごとなのだがバイクで富士山に登るのはオモシロイと思ったのである。

 

即座に、『若し、富士山の頂上まで登って、広告に使えるような写真を撮ってきたら、旅費など含めて、全額面倒を見てやる』ことにしたのである。

当時の広告担当は大広の本店が担当していて、一度ロケをやると大金が掛るし、そこで撮った写真を使うと、4*5の写真1枚に10万円も払っていた時代なので、4,5人の旅費宿泊費など、そんなのに比べたら、べらぼうに安いのである

やるからには成功させねばならないと、持っていく車は当時のモトクロス職場の松尾勇さんにチューニングして貰って、モトクロス用のタイヤなどを装着して臨んだのである。

 

成功して、写真もいっぱいあって、間違いなく広告宣伝で、

オートバイ誌に広告を打ったと思ったのだが、昨年の時点ではなかなか、見つけられなかったのである

サイクリスト誌にも出していたのは、記憶になかったのだが、コレは立派な証拠が出てきたものである。

福ちゃんに、幾ら払ったなどは忘れてしまったが、帰ってきて話を聞くと大変だったようである。最後の段階は、スリップしてとても登れないので、ロープで引っ張り上げたそうである。頂上まで登って、写真を撮らぬと費用が出ないとなると必死だったに違いない。

そんなことは、よく覚えているのだが、この写真にあるように、バイクが2台もあったとは知らなかった

 

  

 

当時は、このグループみんな品証にいたのだが、バイクも多分会社のものだと思う。

 

 

 これが山頂での写真である。

KAWASAKI のロゴも懐かしい、川航空機時代のことである。

 

 

 

 何人で行ったのだろう。  

 

  

 

これは、左から福田くん、私と同じ名前だが、古谷くん、あとは何となく見覚えはあるがよく解らない。

 

 

 

 

★日本の二輪の文化を伝えたいと、地道に活動している『二輪文化を伝える会』の活動は、松島裕さんの労作であることは間違いない。

スタート以来2年が経過したが、あまりみなさんご存じないと思うので、どんな活動をどのように進めて行こうとしているのか?

そのホームページから『その基本コンセプト』をご紹介してみたい。  具体的な事柄はこちらから、ご覧ください

 

「二輪文化を伝える会」は、ホームページやソーシャルネットワーキングサービス(SNS)などを通じ、それらと連動したイベント等を開催し、多くの方々に参加していただくことで、二輪の素晴らしさ、オートバイやレースの歴史などを、世代・地域・業種などの垣根を越え、分野を問わず伝え広めていく活動を行ってます。

NPO法人 The Good Times古谷錬太郎理事長)の団体プロジェクトとして、2012年6月より活動を開始しました。

日本の二輪文化バイク文化には誇るべき点はたくさんあるはず

日本には、世界の4大メーカーが存在し、全世界における日本メーカーのシェアは約40%。モーターサイクルスポーツの世界でも、長年にわたりチャンピオンマ シンとして君臨し、数多くの世界チャンピオンライダーも輩出してきました。
そう、世界の誰もが認めるオートバイ王国なのです。
ところが実際に国内を見てみると、どうもオートバイ王国というにはほど遠いのが現状です。
そこで、ただ単に欧米と比べるのではなく、まず日本の二輪文化の誇るべき点は何なのか?ということに焦点を当て、オートバイに情熱を燃やした方々や歴史的な出来事をもう一度整理して焦点を当ててみようと思いたちました。
するとどうでしょう。ちょっとバイクには詳しいつもりでしたが、あまりに知らないことばかりに驚かされます。

「三ない運動」により失われた時間を取り戻そう

その背景には様々な事情があるとは言え、かつて教育界が推し進めた「三ない運動(バイクを運転させない、買わせない、免許を取らせない)」により、もっとも乗り物に興味を示す年代の少年少女たちを、バイク(車も)から遠ざけてしまうことになりました。
悲しいかなその効果は十分すぎるほど十分で、オートバイをはじめとする乗り物に「夢とロマン」を感じた経験のない人たち・世代が増えてしまいました。
この約三十年の間に失われてしまったものを取り戻すためには、「夢とロマン」の詰まった二輪車の魅力について、やはり三十年くらいの年月をかけるつもりで、語り伝え続けることが必要なのではないでしょうか。

郷土史や民族史を学ぶのと同じように

懐かしい話題が多くなりますが、懐古主義というわけではありません。
多くの国や民族が、子供世代に郷土史や民族史を学ばせるのと同じように、日本に生まれ、オートバイに興味を持った人には、世界に誇る日本のオートバイについて、その歴史を知ってもらい、バイクを愛するものとしてのアイデンティティを確立し、それを誇りに感じながら充実したバイクライフを送っていただきたい。
今後三十年かかっても、そんな誇り高いバイクライフのための道しるべとなることが「二輪文化を伝える会」の本分でもあります

まずは私たちが知ることから、そしてそれを伝えていく

日本のオートバイが世界を席巻するようになったのは、オートバイに情熱を注ぎ、発展や普及に尽力された方々がたくさんいるからにほかなりません。
そんな方々にいろいろなエピソードや苦労話を語っていただくこと、そしてそれを今現在オートバイに興味を持っている私たちが知ること・感じること、さらにそれを次世代や異業種、異地域の人たちに伝えることができたら、日本の二輪文化はもっと発展成熟し、世界に誇れる文化に進化していくことでしょう。
より深く心に残せるように、諸先輩方にできるだけ直接お話を聞けるトークイベントなどの機会を作りたいと思っています。

現代の情報ツール・インターネットを活用して

今はインターネット時代。ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)などのサービスも普及し、日本のみならず世界中の人たちと簡単に繋がることができる時代です。
これらのサービスをうまく活用し、活動主旨に基づいて多くの方たちに日本の二輪文化に関する情報を届けることができれば、その進化発展に少なからず影響を及ぼすことができるかもしれません。
ただし、失った三十年を取り戻すには、やはり三世代三十年はかかるとは思いますが・・・。

まずはTwitterでフォロー、Facebookで「いいね!」から

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そんな緩い繋がりからスタートです。

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カード会員と協賛

カード会員になると、二輪文化を伝える会のイベントや協賛企業(今後予定)の特典を受けられるようになります。
(※カード会員はNPO法人The Good Timesの会員システムを利用しています。入会金1,000円のみで年会費等はありません。)
カード会員は個人だけでなく法人・団体も入会できます。

また継続的な運営のために、ホームページのバナー協賛やイベントの協賛企業様も順次募集します。
 

運営体制

統括 村島 邦彦(株式会社インターナショナルトレーディングムラシマ
広報 松島 裕(松島企画
企画 早川 浩人(スクリーンアウト)
伊藤 洋一(ベストコレクター
事務局 東京都杉並区浜田山1-23-7
(株)インターナショナルトレーディングムラシマ 内
Tel : 03-3304-8503
相談役 古谷錬太郎(元川崎重工技監、NPO法人The Good Times 理事長)

資料提供等

数々の貴重な写真や映像、資料等のご協力をいただいた皆様です。ありがとうございます!

 

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マーケットがカワサキを引っ張った時代

2014-05-09 06:01:02 | カワサキ単車の昔話

★カワサキの単車事業ももう50年以上になろうとしている。

カワサキの単車の長い歴史を振り返ってみると、カワサキを引っ張ってきたのは技術部門で

その開発陣が世に出したマシンの数々が、現在のカワサキの輝かしいブランドを築き上げたことは間違いない

ただ、そんな長い歴史の中で、マーケットが事業を引っ張った時期が2度あると私は思っている。

その1回目は

1966年アメリカのシカゴにAmerican Kawasaki が設立されたマシンで言えばA1の時代から、H1,Z1中心の時代で、KMCが設立されて、現地にR&DLincorn工場もつくられ、Kawasaki Let the good times roll! というコンセプトが発表された1973年ごろまでのアメリカが輝いていた時代である。

このアメリカ市場の成功がなければ、カワサキの単車事業は世に存在しなかっただろうと思う。

この時期のアメリカ市場での成功がヨーロッパへの進出を促しカワサキの二輪事業が世界への展開となっていくのである。

ただ、この時期を過ぎて1974年からの数年間で、アメリカ市場はスノ―ビークルの失敗ハ―レ―のダンピング訴訟、さらにはHY戦争の影響を受けて、惨憺たる状況に陥り、川重本体にも影響するような事業存続の危機に見舞われたりするのである

 

★そんな時代を乗り越えて、1990年代に入るころ高橋鐡郎本部長時代が、マ―ケットオリエンテッドの基本方針で、本部長自らの言葉でそれが語られ、実践もされた

第2回目のマーケットが事業を引っ張った時代だったと思う。

その当時のマーケットの主流はZEPHYRE人気にわき、レースでも唯一鈴鹿8耐をカワサキが制した国内市場で、、ホンダさんに『1強3弱』などと言わしめた何年間だったのである。

その高橋本部長時代に、ずっと発行され続けたMIND という冊子があって、この創刊号から15号までを、先日カワサキの熱烈なユーザーの美樹さんから頂いたので、そこに記載されている記事を中心に何回かに分けてご紹介してみたいと思っている。

 

           

 

 当時の二輪のマシンで言えばこんな時代で、同時にジェットスキーも世界展開で輝いた時代なのである。

 

MIND とは

M   Market               顧客重視

I    Innovation     構造改革

N   Network       情報管理

D   Development   人材育成

を徹底して追求したMarket Oriented の時代で、それを引っ張ったのは国内市場であった。

そんな時代が懐かしい。

 

            

 

   鈴鹿8耐にカワサキが念願の優勝を果たしたし、世界のレースでも国内でも、非常にカワサキが活躍をした。

 

        

 

  KAZEを中心にした一般社会を巻き込んだ活動も盛んで、

 

        

 

   こんな小さい子供たちも視野に入れた活動が、KMJの広報を中心に展開されていたまさにマーケットオリエンテッドの時代だったのである。

  そのベースになったものが、この時期国内市場で復活し、高橋本部長の決断で世界展開となった『Good Times Concept』なのである

   このGood Times Concept こそが、このマーケットがKawasakiをリードした時代の象徴だと思っている。

 

  当時のMIND にこんなに詳細に紹介されているので、そのまま転載してみる。

  是非、今の現役の方もよく読んでみて欲しい。

 

          

          

          

          

 

  ★このGood Times Concept が世の中から消えることのないことを願って 

 

          

   

    5年前から、こんな基本コンセプトで、NPO The Good Times と言うNPO 法人を創立し活動展開しているのである。

    そんな経緯から高橋鐡郎さんや当時の仲間、田崎雅元さんなどは、設立時からの会員さんで参加されているのだが、高橋さんは相談役で、

    田崎さんとは『孫文を語る会』で協働したりもしたが、今年からはその活動も第2期に入る。

 

    マーケットがKawasaki を引っ張ったように、『Good Times Concept』が世の中を引っ張れたらいいなと思っている。

    

 

   

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カワサキ単車物語50年 その22 F21Mデビューの年のこと

2013-09-17 06:37:46 | カワサキ単車の昔話

★Facebook で山本隆くんが

 

 

こんな懐かしい

 

 

青森県岩木山スキー場でのMCFAJ 全日本の写真をアップしたので、

FBでシェアしたら、それをまた、『二輪文化を伝える会』の松島裕さんが、

 

 

 

『二輪文化を伝える会のFBページ』に取り上げられたので、もう少し日時などちゃんと調べてあげようと当時の日記帳を開いてみた。

 

 

 

 

★昭和41年(1966)、私の広告宣伝課長最後の年である。  

日記からちょっと拾ってみると

1月5日  初出の日、藤井敏雄が契約のことで明石にやってきた。 この時点では本人の希望で、ライダー契約ではなくマシン貸与契約とした。

1月17日 FISCOを4輪車で試走、前年からMFJ 運営委員会ではFISCO での日本GP開催にホンダが第1カーブが危険と反対。この日運営委員がコースを4輪で試走した。『聞きしに勝る迫力』とその感想を書いている。

2月12日 鈴鹿でGP 125のテスト、ライダ―は藤井、三橋、金谷、ベストタイムは2分48秒

2月27日 山本隆くん結婚式。仲人を頼まれていた。頼む方も頼む方だが、それを引きうけるのもどうかと思う。山本22歳、私32歳だった。

3月13日 FISCOで、MCFAJの全日本クラブマンレース、W650に金谷が乗る。350cc以上のクラスで2位。

5月22日 富士でのMCFAJ全日本モトクロス完敗。 スズキがRHニューマシンを久保、小嶋に。モトクロス界注目。

6月23日 MFJ 運営委員会、ホンダFISCOでのGP不参加を表明する。

 

 

★全日本での惨敗を受けて、モトクロス250ccのニューマシンを造ることに決定。

7月7日  青森のMCFAJの全日本モトクロスのために。エンジンは技術部、あとのマシン製作はモトクロス職場の松尾勇さんがべニア板に釘を打って、ヘリのクロモリのパイプを使って製作。 スズキは2台だが、契約ライダ―全員に7台を造ることにした。

7月11日 モトクロスニューマシン1号機完成。ライダーが社内で一人一人試走、評価最高

 

7月19日 トラック5台編成で、青森嶽温泉に向かって朝出発、安藤監督以下メカニックたち、私もその一人として出発、御殿場須走旅館で一泊。

7月22日 3時から練習。ニューマシンは他社から注目の的。スズキRHは小嶋松久1台だけ、7台を揃えたのは圧巻であった。

7月23日 3時から公開練習。ニューマシンは断然早い

7月24日 大会当日は土砂降りの雨、最悪のコンディション。250ccクラスはトップを走ってた岡部転倒で、小嶋が優勝。2,3,4ぃはカワサキ。オープンは山本優勝歳森、北山(S) 、星野、岡部と5位までに4人が占めるデビューであった。当日浅虫温泉まで移動、そこで宿泊。

7月27日 名神に乗ってホッとする。6時半明石に到着。全行程3100キロ

 

 

★この年は、レースではいろいろとあった。

モトクロスのF21M を除いては、私は大変な年だったのである。

 

8月27日~  1000キロ耐久レースのためにFISCO いたら、明石から電話、『マン島のプラクティス中に藤井敏雄が転倒死亡』のニュース。

帰明後 葬儀など検討も、契約がマシンの貸与契約だけなので、レースなど関係ない管理部門の人の中には『会社は関係ない』などと言う人もいて纏めるのは大変だった。

9月1日~ 藤井の遺体が羽田に到着、現地で送りだしてくれたのは、ドイツに留学中で、前レース監督の大槻幸雄さん。 通夜、葬儀、カワサキがお手伝いが出来たことで本当にホッとした。

 

9月5日 レース運営委員会で、初出場のGPなどのレース方針が決まる。

ライダーは安良岡、シモンズ、あとデグナ―、谷口尚己などとの契約候補が決まる。

カワサキ陣営は山田熙明さんが総責任者、監督中村課長助監督渡辺課長GP監督はドイツから帰国する大槻さんジュニアロードレース安藤さんが監督マネージャーは古谷と決まった。

9月10日 デグナ―と契約するのに、外人ライダーとの契約など誰も解るものがいない。ホンダの前川さんに電話して教えて欲しいと言ったら、『鈴鹿まで来て頂けたら』と仰って頂いて、鈴鹿まで出かける。

9月18日 ロードレースで初めての優勝、東日本ロード選手権。90ccは村上、歳森、金谷、三橋と4今で独占、250ccは金谷、三橋と1,2位を占めた。

9月26日 デグナ―来日、神戸まで迎えに行く。Good Morningと一言言っただけで、明石まで車で戻ってきた。当時は英語など通訳をつけて話すものだと思っていた。

9月29日 FISCOで練習中デグナ―転倒、御殿場の中央病院で診察、大丈夫ということで、明石に連れて帰ることにする。

10月1、3日  明石病院にデグナ―入院させる。アタマではなく肩の治療のため。3日になってデグナ―の容態急変、脳に出血。

10月4日  明石病院は脳外科がないので、急遽神戸医大に移して光野教授の診察を受ける。大丈夫との診断安心する。

10月16日 FISCOでの日本GP、90ccは三橋が3位、250ccは金谷がガリーニクソンと大接戦の結果2位、日本GP 125ccは安良岡が7位。

 

 

★この年が、レースも最後の年であったが、

藤井敏雄のマン島の事故死、続いてデグナ―の転倒入院などがあって、ライダー契約などの担当として、本当に大変な年だったのである。

そんな中で、何となくよかったのが、モトクロスのニューマシンF21M が世に出て、カワサキのモトクロスの地位を不動のものにしたことだろう

 

この年、レースでいろいろと関係のあったお二人、それは大槻幸雄さんと安藤佶朗さんである

 

大槻幸雄さん。

あのZ1の開発責任者の大槻さんなのだが、この時点では市販車には、殆ど関係しておられない。もっぱらレース担当だったのである。

この年の前半までは、ドイツへ留学中で、マン島もそのGP125ccのマシンの開発には、関わっておられたので、個人的に観に行っておられたのである。藤井敏雄君マシンの貸与契約だったから、ほんの数人のメカニックが付いていただけなのである。

あの事故があって、もし大槻さんが現地にいなかったら、どうなっていたのかも解らない。藤井君が元スズキだったのでスズキの方にはいろいろお世話になったようである。

直ぐ、そのあと帰国されて大槻さんは、GP の監督に復帰されたが、デグナ―の入院で、おかしくなった時は、デグナ―はドイツ語しか喋らなくて、お医者さんとの通訳をされたのが大槻さんなのである。

私は、そんなご縁で今でも繋がっていて、KAWASAKI Z1 FAN CLUB などではお世話になっているのである。

 

安藤佶朗さんは、既にお亡くなりになってしまった。

国内レースの監督を大槻さんのドイツ留学の後、引き継いで頂いたのが安藤さんである。F21M のエンジン開発は、安藤さんが238ccにボアアップして創られたモノなのである。

この年のF21Mは、連戦連勝で、私は広告宣伝も担当していたので、モ―タショーに展示すると言ったら、『そんな恰好悪いこと止めろ』と安藤さんは仰るのである。

何が恰好悪いのか?』とお聞きしたら、

『市販車の125ccのエンジンを、150ccまでボアアップして、さらにレーサーにして238ccにしても持ってると言うことは如何に過剰品質か』と言うことで、

それが『カッコ悪い』と仰るのである。

『そんなこと大丈夫ですよ』とモ―タショーには展示したのだが、

先日森脇さんから、Z1について、コストを考えない過剰品質のところがいいと褒めて頂いたのだが、

大槻さんも、安藤さんも、当時のレース監督の技術屋さんには、あまり『コスト意識』など無かったのかも知れない。

 

 

 ★★English Version です

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カワサキ単車物語50年  その21  SPA直入

2013-09-15 06:37:41 | カワサキ単車の昔話

 

★私の約40年ちょっとの現役生活の中で、全体的にはちょっとハリのなかった2年間ほどがある。

1987年に単車と発動機が合併して、私は企画室から営業本部の方に異動した。

営業全体の統括なのでそんなに面白くない職務ではないのだが、経営次元の仕事ばかりをずっと担当していたので、何となく範囲が小さくなったなと思ってしまうのである。

営業の具体的なことなどは担当の人たちで十分にこなせてしまうのである。私自身がやることは殆どない。これが普通の職制なのだろうが、そんなお神輿に乗ってってるような日本的な動きにはどうも性が合わなかったのである。

 

この2年間、私がやってたことは、『SPA 直入』 日本で初めてのユーザーのためのサーキット建設だったと言っていい。

カワサキの単車事業にとってもそれは画期的なことだったし、川崎重工業がサーキットを持つなど当然初めてのことだったのである。

 

SPA 直入物語

 そんな2年間に亘るSPA直入物語は、こんな5つのブログに纏めてはいるのだが、

私の現役生活の中で、これは私と故岩崎茂樹でなかったら、他の方では絶対に実現しなかったプロジェクトであったと言い切っていい。 

それだけに今でもなお SPA直入の懸ける想いはいっぱいなのである。

この一連のブログの最後 NO.5 ではこのように結んでいる。

 

 SPA直入物語ー5

起工式から丁度1年後の1990年4月15日、SPA直入はオープンイベントで幕を開けた。

金谷、和田、清原、宗和などカワサキに関係したライダーたちが参加してくれてイベントを盛り上げてくれたが、主役は何といっても自分の愛車に乗って集まってくれたユーザーたちだった。
その数4000人。広いと思っていたパドックが埋まってしまった。

岩屋万一直入町長は開会セレモニーで、
今日、有史以来一番大勢の人が直入町を訪れた。」と挨拶された。

愛車に乗って直入を訪れたユーザーたちが、その車でサーキットを体験走行したのである。
先導をつけたものではあったが、切れることなく続いた走行はまさに壮観であった。

これは日本で始めての試みであった

これを機会に各地のサーキットでも一般ユーザーの走行会などが開催されるようになったのだが、その皮切りの役目をSPA直入は果たしたのである。

建設当初からレースだけでなく、
一般の人たちも気軽に走れるサーキット」というコンセプトでイベント当日だけでなく、「インジョイライデング」などと称してその後も一般ライダーに開放する時間帯を設けたりしたのである。

地元直入町にもいろんな意味でお役に立てたと思う。
もともと、温泉で有名であったがSPA直入ができて若者も集まるようになり、温泉だけでなくモータースポーツのサーキットのある町というイメージも生まれた。

芹川ダムのジェットスキーもプラスになった。
特に、後年カワサキといろんなことで関わりのあった岩城滉一がジェットスキーで芹川ダムに、レーサーでSPA直入を好んで訪れるようになった。

今、人気の宿房「翡翠之荘がスタートしたばかりの頃で,その主、首藤文彦さんとも仲良くなって岩城滉一の定宿となったのである。

SPA直入と時を同じくして建設されたオートポリスもご縁があって、今カワサキのサーキットになってKMJがマネージメントを担当している。

その責任者の渡部達也君は、直入とも深く関係があった。
機会があれば是非訪ねてみたい懐かしい思い出いっぱいの、今は竹田市直入町である。

 

渡部達也くん、今NPO The Good Times の副理事長で、且つKAWASAKI Z1 FAN CLUB の代表を務めてくれている渡部達也君なのである。

 

 

 

 

★ 大自然の囲まれて、日本で一番美しいサーキットだと思っている。

一般のライダーたちが安全に走れるように、そのコース設計には細心の注意を払った。スタート以来多分未だ一人の死者も出していない珍しいサーキットなのである。

これを創るきっかけはいろいろあったのだが、

私が一番強く思ったのは、当時レーサーレプリカ全盛で、メーカーは競って高性能の市販車を世に出すのだが、それを買ったユーザーたちが走る場所がないのである

峠に集まったライダーたちは、『峠族』と呼ばれて、問題になったりした、当時のサーキットはレース仕様車以外の走行はどこも認めてはいなかった のである。

 

『一販のユーザーたちが自分の車で走れるサーキットを創ろう』 これが一番のコンセプトだったのである。

社内で、特にレースに関わっている人たちから反対があったりした。 タイヤの点検などレーサーまがいの厳しい基準を要求するのである。

今のまちを走ってる市販車はそんなに危険なモノなのか?

一方通行で、交差点もない、対向車もいない。 

そんな環境を自分の車で走ることが危険だと言うならば、『バイクなど売るべきではない』などと、反対意見を半ば職位で押さえつけて、建設に掛ったのである。

故岩崎茂樹とたった二人で背丈ほどの草が生い茂るサーキットの候補地を1日がかりで歩きまわったのが思いだされる。

 

 

★川崎重工の中でこんなプロジェクトは初めてではあったが、

当時の大庭浩社長には、単車本部長時代の番頭役を務めて抜群の信頼があったので、経営会議でも直ぐ認可されたのである。

川重の財産課も、建設工事会社もサーキットなど初めての経験で、その仕様や勾配、カーブのアールなど皆目解らないサーキット素人集団を仕切ったのは、

故岩崎茂樹の独学の賜物なのである。

SPA直入の名付け親も岩崎茂樹である。 

直入町は温泉町だから、SPAには温泉と言うことも当然含まれてはいるのだが、

ベルギーにある世界的なサーキット スパファランコルシャン の SPAと掛けて名づけられているのである。

 

そんなサーキットが出来て、もう25年が経とうとしている。

 

   

 

   

 

  

 

 

 

 

 

 

★そして、これは昨日Facebook にアップされた、10月27日の3時間耐久の案内サイトである。

懐かしくて、以下のようにシェアさせて頂いたのである。

古谷錬太郎さんがSPA直入さんの写真をシェアしました。 

私の想い出の地です。

当初のコンセプト通りの運営になっています。
みんなのサーキットです。

 

 

そんなことで、カワサキ単車物語50年 その21は SPA 直入のことを書いている。

ちょうど25年も前の話なのである。

故岩崎茂樹のことを書いたら、今ずっとお付き合いのある登山道夫さんに繋がった。

 

SPA直入の運営を担当する遊びの会社 ソフト会社 株)ケイ・スポーツ・システムを立ち上げた。

そして、ユーザークラブKAZEが出来た。

そして、現在のNPO The Good Times はその延長線上にある。

 そんな原点になったのが SPA 直入なのである

 

 

 

★★English Version です

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カワサキ単車物語50年  その20 高橋鐵郎さん 

2013-08-24 08:10:57 | カワサキ単車の昔話

★ずっと書き続けてきた『カワサキ単車物語50年』

前回の単車再建最終年までの30年間で、

カワサキの波乱万丈のオモシロイ時代、カワサキらしい時代は一区切りを告げたのかも知れない。

 

 

これは神戸のカワサキワールドに飾られている 青野ケ原のモトクロス優勝の写真と展示である。

左から二人目が若き日の 高橋鐵郎さんである。

 

このレースで1位から6位までを独占した成果で、カワサキの単車事業は再スタートを切ったと言ってもいい。

1963年(昭和38年)5月、今からちょうど50年前の出来事なのである。

この時期から1988年まで、

マシンで言うなら、B8、A1、F21M、W1 マッハⅢ、カワサキZ、 カワサキKR 、 Ninja などなど、

カワサキの時代を背負った、カワサキらしいマシン が世に出て、『カワサキイメージ』もこの時代にその基盤が創られたのである

 

 

★こんなカワサキの創成期の歴史の中で、 高橋鐵郎さんは事業の中枢をずっと歩き続けられている。

 

●青野ケ原のレースではその現場監督を務められた当時は製造部の係長時代だったと思う。

●そのあと事業部の技術部山田、営業苧野という当時の部長クラス以下で構成された『レース委員会』では、製造部門の中村課長とともにその中心メンバーだった。

●その後カワサキオートバイ販売に出向され、この第1線経験が高橋さんの『マーケッテングオリエンテッド』への180度転換をもたらしたのである。

●川崎重工の技術本部長に復帰され、Zの開発や、現在のSPA直入の開発試験コースの土地購入などを推進された。

●さらに、東南アジアを中心とする市場調査団長を務められ、そのまま『市場開発プロジェクト室長』を兼務、その後はさらに営業本部長、そして単車事業部長を務められている。

ハ―レ―のダンピング訴訟で事業部が揺れ、その対策としての国内販社対策案は最終営業部立案となたtが、その実務対策としてカワ販副社長も兼務されている。

●さらにアメリカのKMCの経営悪化で単車事業の危機となった時点で、田崎さんと一緒に、KMCの会長としてアメリカ現地で指揮を取られたのである。

●このKMC対策問題は、川重本体も揺るがす大きな問題にまで発展し、本社首脳を始め財務部隊が総力を挙げての対策となるのだが、その対策に明石の企画室再編があり、高橋さんはその企画室長でアメリカから戻られることになる。

●そして約1年後本社は大庭浩本部長を、単車事業再建に送り込まれ、高橋さんはその副本部長として大庭さんを援ける立場を3年間務められて、大庭さんの副社長としての本社復帰、 高橋鐵郎単車事業本部長の実現となるのである。

 

 ここまでが1988年までの大まかな単車事業の動きと 高橋鐵郎さんのその間の経歴なのだが、

列記した上述の事項に、私自身も後川重社長を務められた田崎さんも密接に関係しているのである。

 

●『レース委員会』の事務局は私が担当だったし、マシン開発の現場レース職場の責任者が田崎さんだった。

●カワ販出向時に真っ先に現地視察されたのは私が担当していた東北地域だった。当時は未だ実用車のカワサキ時代で、東北や九州が主力市場であった。高橋さんは直営部長としてスポーツ車の市場としての大都市圏を担当され、大阪の営業所の土地購入などに尽力されるのだが、その大阪営業所の責任者として私は仙台から大阪に異動した。

●高橋さんが川重に復帰されてから数年後私も川重企画部に復帰、この部門には田崎さんもいてアメリカとリンカーン工場を担当していた。そこで私が起案したのが小型車の市場開拓としての東南アジア対策で、この調査団団長に高橋さんがなられて、初めて 高橋鐵郎さんとの直接のコンビが実現することになった。

ハ―レ―のダンピング訴訟を担当したのが田崎さんである。そしてその具体的な国内販社構造対策は私が立案し、そんな関係でカワ販常務となり、 高橋鐵郎さんはその副社長として援けて頂いた。

●逆に高橋、田崎さんがKMCに出向された時に、第1線の経営の解るカワ販メンバー富永、日野君をKMCに送りこんでその経営再建を手伝った。

●川重本社が立案した、単車事業再建の目玉の企画室担当を私は命じられたのだが、引き受けるに当たって出した条件が 高橋鐵郎さんの企画室長復帰である。アメリカに行ったばかりでなかなか本社もYesと言って頂けなかったのだが、結果は高橋さんの復帰となり、アメリカは田崎雅元さんの社長となったのである。

●その1年後に大庭さんが単車に来られて、私はその番頭役みたいなことをやっていた。特に本社財務副社長の大西さんや財務担当の松本新さんなどへの単車窓口は、私だけが事務屋であったこともあって、大庭ー高橋ー田崎さんの担当分野の本社通訳みたいな役割を果たしていて、当時の主力銀行第1勧銀本店などにも状況説明などに伺ったりした。

 

そんないろいろなことがあって、単車事業は再建され、新しい時代に入って行くのである

 

 

 

★そんな1988年時代までが、単車事業の創業期と言えるのだろうと思っている。

それ以降のマシンは、これらの時代の車をより洗練した形のものだし、単車事業の経営もある意味落ち着いた安定的な時代に入ったような気がする。

そんな中で、その後の大ヒット商品と言えば、何と言っても ZEPHRE を挙げねばならない

 

 

そのZEPHRE と一緒に写真に収まっているのが、当時の単車事業本部長、カワサキオートバイ販売社長の 高橋鐵郎さん である。

大庭浩本部長時代の単車再建の時代を経て、川崎重工業の事業の中で単車事業は確固とした基盤を造ったのである。

大庭さんは副社長として川重中枢に戻られ、単車事業は高橋鐵郎本部長の時代へと移った。

そしてさらに大庭川崎重工業社長、高橋鐵郎副社長の時代へと移って行くのである。

 

 

★私自身も、この1988年までの『単車再建の時代』までは、ほぼ事業の問題点のど真ん中にいることが多くて

カワサキの単車事業をそんな中枢から眺めたり、ある意味影響力を持ったりしながらの30年であったと言っていいのだが、

1988年以降は、また現場に戻ったこともあって、

その後のカワサキの単車事業そのものについては、ヨコから眺めていたそんな時代だったのである。

 

単車再建時代に、大きな問題として事業存続の関心事となった事項の一つに『為替対策』があったのである。

為替対策の対応の方向としては、事業の構造的な体質を変える仕組みの再構築の方向が企画室長としての私個人の想いとしてはあったのだが、

その後の企画中枢の取られた方向は、

一つは、『コストのドル化』 など生産拠点の海外移転特に小型エンジンのアメリカへの移転と

もう一つは『為替に影響を受けない国内市場の充実強化』で、私はこの二つ目の課題を直接担当することになるのである

 

 

高橋鉄郎さんにそのことを命じられて、

● 国内市場での7万台の販売目標

● 国内市場が文字通り事業部の経営を支えるために事業本部の国内から得られる限界利益額100億円

 という 二つの非常に高い目標を高橋さんとお約束して、カワサキオートバイ販売専務として、以後約10年間を担当することになるのである。

 

★これ自体は、私自身の単車事業経験の集大成のようなオモシロイ目標であり、且つそれは実現することになるのだが

それはあくまでもカワサキの単車事業の一部であって、単車事業そのものではない のも確かなのである。

そんなことで、『カワサキ単車物語50年』も、私の『自分史』に近いもにになってしまう ことをお断りしておきたいと思うのである。

 

ただ、私が国内販社グループを担当した10年間は、そのトップのカワサキオートバイ販売の社長は、高橋鉄郎さんなのである

 

これからの約10年間は、文字通り高橋さんとのコンビで国内市場を担当出来た非常にオモシロイ画期的な10年間であったことも事実なのである。

 

 

その当時の二人で写っている写真である。

あらゆるひとにグッドタイムスをお届けします』 と言っている。

 

それまで長い間眠っていた

Kawasaki . Let the good times roll  !!   の基本コンセプトは、この時期国内で復活し、高橋さんによって世界展開となったのである。

 

 

 

そしてこれは NPO The Good Times のメンバー達で主催した

3年前の3月4日、 『カワサキの想い出、そして未来』 でご挨拶をされた高橋鉄郎さんである

 

高橋鉄郎さん、 NPO The Good Times の創立以来、その相談役をお願いしているのである。

そういう意味で高橋鉄郎さんとのご縁はまだまだ続いていると言ってもいい。

 

私個人にとっては、この当時の基本コンセプトをカワサキだけではなくさらに拡げて、

ささやかでもいい『グッドタイムス』の演出が出来ればいいと思っているのである。

 そんなことなので、敢えて『カワサキ単車物語50年』 とネーミングしているのである。

 

 

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川崎単車物語50年 その19 1986年単車再建最終年

2013-08-12 06:33:43 | カワサキ単車の昔話

1986年、

この1年はカワサキの単車事業にとっていろいろと大きなことがあった年である

4年間続いた単車再建の最終年でもあった。

 

個人的な紙の記録も残してはあるのだが、少々生臭いことも多いので差し支えのない範囲でその内容を記述してみる。

 

 

1月 元旦に円は200円を割った。KHI全体の損益も悪化、全社的に人員対策など行われつつあった。ヤマハがPWS(パーソナルウオータークラフト水上バイク)に取り組むと小宮常務が挨拶に来られる。

2月 円は190円、短計は約10億円の悪化、単車構造対策の検討。

3月 国内カワ販の新社屋落成。 円は175円に。今期は△30億円と報告。

4月 J/Sの世界展開ビジネス網構築を推進、J/Sとの関連でヤマハと接近。KMC田崎ー百合草社長交代に関連してKMCの構造計画、販社剰余金対策、円建て計画など本社財務松本常務に報告、承認。

5月 KMC新オフイス完成。田崎ー百合草社長交代発表。円162円に。この対策として抜本的な為替対策としてのKHI /KMC の構造対策を提言、松本常務100%賛成。

6月 高橋鉄郎単車事業本部長、大庭本部長は副社長として本社に復帰することとなった。当時カワサキの2輪エンジンを使ったクライスラーとのC-Project が具体的に推進されていて、特に大庭さんが熱心であった。担当はKMC 百合草。(カワサキの源流と軌跡のP84に百合草さんが具体的に記述している)

7月 円155円に。短期的な損益悪化は避けられない状況になった。

8月 KHI 全体の損益も悪化。 大庭副社長を囲む経営懇談会が開催され全社から若手メンバーが集まる。その会合に出席。KMCで百合草社長以下の新メンバーによる中計の策定2桁の黒字計画、累損消去計画立案。

9月 単車、発動機の合併計画、製造部別会社計画などドラスチックな構造計画。

10月 製造会社別会社案はKHI全体の人員削減策ともマッチし、経営会議で承認された。 (然し、この案はその後実行されなかった)

11月 発動機とに合併は翌年4月1日と決定。

12月 翌年6月、川重大庭社長昇格と発表。 翌年度以降のKMC 計画は非常によく纏ったものに仕上がった。労働組合との中性協で、単車の中期構造計画を説明。労組側から非常によく解った。全社で一番と評価されたりした。

 

 

★1986年は急激な円高が進行し、KHIも含め非常にムツカシイ時期に直面していた。

海外販社経営の健全化』 を目標に4年間単車の企画室を担当しその実現に向けて対策を進めてきたが、その目標は100%達成され、一番問題であったKMCの経営は、その累損消去計画も具体的に組めて配当可能な販社への脱皮が具体的に進みつつあった。

ただ年初200円であった為替は150円を切る水準まで円高が進行し、その抜本的な構造対策の骨子までは年末にはきっちりと発表できるまでに組み上がっていたのである。私の企画室長としての提言で、本社からも承認される段階まで来ていたのだが、翌年新企画室メンバーに代わってからは、その案は立ち消えになってしまったのである。

● 単車事業としての本社機能の充実

● 製造部門の別会社化

● 為替対策としての円建てへの移行などの新経営構造

大きく言うとこの3つだが、全体の綜合的な構造対策で、仕組みの創造なのでなかなかムツカシイ課題であったことは解るが、実現していればカワサキの単車事業もまた違った形になったのかも知れないと今でも思っている。

 

★翌年4月からは、為替対策の一環として具体的に推進されたのは、

● コストのドル化 を目標にアメリカリンカーン工場への発動機エンジン生産移管

● 為替の影響を受けない国内市場の充実強化

というどちらかというと個別政策に重点が置かれ、私自身は営業部門に異動し、主としてアメリカ市場と国内対策を担当することになるのである。

 

大庭さんが単車に来られた期間、企画部門担当として事業部並びに海外販社の経営戦略を担当したのだが、非常に画期的なオモシロイ時代であったと思う。

高橋鉄郎さんが大庭さんを立てられたし、民需、量産事業の経験のない大庭さんは、下の人たちの立案をホントによく聞いて頂いたと思っている。一般に言われている大庭さんのイメージとは私は100%違ったものを持っている。

単車時代の大庭さんは、下の人たちがホンネでづけづけ発言したこともあるが、非常にフランクにものごとを考えられたし、民需、量産事業を本当に好きになられて本社に戻られたと思う。

それがその後の川崎重工の体質転換にも大いに機能したのだと思っている。

特に川崎重工の人事面では、高橋鉄郎さんは副社長で大庭さんを支えたし、その後田崎雅元、佐伯武彦さんなど当時の単車のメンバーが川崎重工の中枢を支えたのである。

1961年はそんな私にとっては、

単車事業の中枢で、その時期にはそれが川崎重工の最も重要な課題でもあった『単車事業の再建』というテーマを担当出来た最後の年であったとも思う。

 

★川重全体としても、それは目標通りの評価をされたのだと思う。

それは大庭社長、高橋副社長の人事一つを見ても明白なのである。

かって単車事業は川重本社にとって『不信』極まる事業だったのである。

他の事業部が全て『受注生産事業』であることから、『民需、量産事業』の経験者もいないし、単車の言っていることが理解できないそんな段階だったのである。

 

それがKMCの再建に本社部門から大勢の若手がアメリカの現地に出向して、現地販社の経験をしいろんなソフト、ノウハウを身に付けたこと、

再建屋と言われた大庭さんが単車本部長をされて、その本社が送りこんだ大庭さんの発言は、川崎重工としても解らぬままに認めざるを得なかったこと。

大庭さんは、ご自身の意見もさることながら、特に企画、財務などの戦略については、スタッフの進言通りの発言を通されたのである。

その間の私の役割はある意味本社中枢部門に対しての『単車語』の通訳的な責務を担っていたと思うし、殆ど100%意見を聞いて頂けたのがよかったと思っている。

 

私自身は、特に当時の大西副社長、山田副社長、松本常務には、直接いろいろとご指導も受けたし、心底応援もして頂いた。

私の一番大きな目標であったKMCの累損消去は、もう少し後だが百合草社長時代に実現し、

KMC問題に関わった大西さん以下全てのメンバーで、神戸でそのお祝いパ―テ―をしたのが『いい思い出』である

 

累損消去、そんなこと俺は聞いていない』と大庭さんは言われたのである。

大庭さんが単車に来られたそのスタート時点は、本社の財務担当者たちも、期間損益が黒字になることぐらいしか思っていなかたはずである。

日本円にして100億円近い累損を消去するなど、誰も考えもしなかったことだと思う。

然し、販社の経営再建など期間損益がちょっとクロになったから再建できたと思ったりするのは論外だと思っている。

当時、私だけかも知れないが、

販社の経営再建は、累損など勿論なく、十分な剰余金があって初めて合格だと信じ、それを目標にすべきだと思ったのである。

 

 

この年以降、私は最も大きな新目標に掲げられた、為替に影響を受けない国内市場の充実強化 を直接担当し、

具体的には『7万台の目標』を掲げて、国内市場を担当することになるのである

 

 

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カワサキ85J1 富士登山成功

2013-08-05 06:11:26 | カワサキ単車の昔話

 

★ ホントに久しぶりに 『カワサキ単車の昔話』である。

85J1で登っているので、多分昭和39年(1964)の夏のことだと思う。

 

 

二輪文化を伝える会 のFacebook ページに こんな記事が流れた。

 

 

こんなツイッターも流れている。

 

 

 

この話、先日の KAWASAKI THE LEGENDS & FUTUR  の時 福田泰秀くんが披露したのである。

 

 

 

 

★この話には、私は色濃く絡んでいる、

福田泰秀くんは、当時の川崎航空機の中でも、単車に関係したのは非常に早い時期からである。

昭和35年末に、私が単車営業に配属された時、は既にそのサービス担当でそこにいた。サービス員が3人のころからのお付き合いなので、私はその後も親しくお付き合いをさせて頂いた。

それから何年かの後、私が広告宣伝を担当していた時、突然 福ちゃんが現れて、品証の連中と富士山にJ1で登りたいのだが『面倒見てくれませんか?』と言うのである。

勿論、会社の計画ではなくて夏休みの個人グループの計画なのである。どんなメンバーで何人で登るのかも、聞かなかったが、

『富士山の頂上まで登って、オートバイ誌に載せれるような写真が撮れたら、面倒見てあげよう』と言うことでこの話は、進められたのである。

 

 

 

5人ではなく多分この4人なのだろう。

福田君、に私と同じ名前の古谷君がいる。そして今は八尾カワサキのオーナー加藤君、もう一人は誰かな?

見ごと、登頂に成功して、当時のオートバイ誌の紙面に大きく写真が載ったのである。

 

当時のバイクにとって『登坂力』は大きなアピール要素だったので、広告宣伝価値は大ありだったのである。

 

 

登るのは大変だったようである。スリップして、モトクロス職場で装着したタイヤは、戻ってきたときには丸坊主になっていた。

最後はロープで引っ張り上げたとか言っていた。

 

 

★ 富士山が世界遺産になって注目度も大きくなったこの時期だから、今では許可されないバイクの富士登山、

ちゃんとした記録に残しておきたくて、

『二輪文化を伝える会』 の松島裕さんにお願いしたのである

松島さんにお渡しした写真は、小さな5cmぐらいの写真だったのだが、どのように処理されたのだろう。

ネットの上では、立派な写真になっていた。

 

 

昭和38年には、ホンダカブで富士登頂に成功された方がおられて、

つい先日、その50周年記念のトークショーなど開催されたそうである。

 

 

 

 

 

二輪文化を伝える会は、そんな旧い二輪の出来事を、正確に残して行こうと努力されているのである。

多分、来年が『50周年』 だから、J1の富士登山のトークショーでもやったらどうかと思ったりしている。

 

 

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