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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

私たちが入社した頃 と カワサキ

2018-06-04 06:38:38 | カワサキ単車の昔話

★私は当時の川崎航空機に昭和32年に入社した。1957年のことだから、今から60年も前である。

 どんな時代だったと言ってもなかなかお解りにならないのかも知れないが、川崎航空機工業は戦前からの会社だが、明石工場はエンジン・岐阜工場は機体工場だったのである。そんな軍事工場なるがゆえに戦時中は爆撃にもあったし、終戦後は昭和27年まで、会社は再開されなかったのである。

そんな中断もあっての再開だったので、従業員はみんな若かったし、なかなか新しい柔軟な発想をする企業だったと思う。

 上の方が少なかったこともあって、入社早々の若い新人の頃から、結構任された仕事が出来たのである。私が取り組んだのは、IBMによる財産の償却計算システムを、岐阜も本社も巻き込んで創り上げたりしたのだが、そんな機械化のお蔭で、償却計算する人手が要らなくなって、新しく出来た単車営業に異動になったのである。IBMが日本に入ってくる10年も前のことである。

 

 田崎さんは、勿論川重の社長もされた『エライ人』だが、私とは若い頃はカワサキのレースチームの仲間だし、1980年代のカワサキの二輪事業の危機の時期は、ちょうどアメリカのKMCの社長をしていて、私が明石で企画室長などしていた『経営再建コンビ』だったので、今でも特別な関係が続いているのである。

田崎さんもある意味 昭和の昔気質』で、いろんな意味で『1年先輩の私』を立ててくれるのは有難い。

 

★昨日は、こんなメールと共に何枚かの写真を送ってくれたのである。

 

懐かしい話

古谷さん  昭和33年4月に、川崎航空機に入社、 神戸製作所 ジェットエンジンオーバーホール工場に配置されました。 資格は見習い、初任給は12、000円/月 でした。当時は、小型飛行機もよく飛来し、ベルヘリコプターの製造もやっていました。 品質管理、特に非破壊検査が主務で、いろいろな製品に係りました。

労働組合の常任幹事もやりました。あなたが最初に私に会い、何にでも口をはさむ奴だ、と認識した場面です。「組合は民需優先の旗を揚げるべきだ」と主張したのを覚えています。   懐かしい写真を見つけましたので添付します。昭和33年組は、60人という多数の入社で、技術屋は面接のみで無試験という売り手市場、かなり高姿勢でした。

3研ビル正面で 新入社員の記念写真、砂野さん、塚本さんも若いですね!

 

 

 当時の初任給は、私も月給が12000円だったから、このころ入社した人は、退職するころは給料は、初任給の100倍以上になったそんな時代なのである。

月給が10万円に届いたのは、入社15年目ごろだったがその5年後には30万円になったりした。

 

   

 

 今でも思い出すが、当時はこんな安い初任給だったが、皮靴は5000円もしたし、腕時計は1万円もして大変だった。60年経って一番安くなったのは、『靴と時計』かなと思たりしている。

 当時川崎航空機は、アメリカ空軍の東洋で唯一の『ジェットエンジンのオーバーホール工場』を持っていて、アメリカ空軍がいたし、ジェットエンジンの生産管理は、当時からIBM管理されていて、日本では最先端の『管理ノウハウ』があったのである。

 

  

 田崎さん、流石に若いな。

 

 明石工場の中には、滑走路もあったし、ヘリコプターのベルを生産していたりして、文字通り川崎航空機工業に相応しい、事業はやっていたのだが、損益的には非常に苦しくて、営業収入が不足する時は、戦前からあった膨大な機械の売り食いなどで、辻褄を合わせていたのである。

 

  

 

 二輪車のエンジンは単体で作っていて、『メイハツ工業』にエンジンを供給していたのだが、昭和35年(1960年)ごろから単車の一貫生産工場を造ろうということになって、事務屋は本社や神戸製作所から、技術屋はその殆どがジェットエンジン部門から異動してきたのである。

 私が営業部門に異動になったのは昭和36年の末なのだが、未だその当時は田崎さんはジェット部門で、私は営業部門の常任幹事、田崎さんはジェット部門の常任幹事で、会議に出てきたらどんな議題にも『雄弁に口を出すので』てっきり事務屋だと思っていたら技術屋だと聞いてびっくりしたのが、田崎さんとの最初の出会いなのである

 

 

 

 

これが昭和33年に入社した60名だが、この写真の中に、後川重の社長をされた、砂野仁・四本潔・田崎雅元さんの3人がおられるのも懐かしいし、後単車の事業本部長をおやりになった岩城良三さんや塚本碩春さんもおられる貴重な写真である。

 この中には、後Z1のエンジン開発に携わった稲村暁一さんもおられるはずである。

 

 

★そんな若かった田崎さんも、川重の社長になられてからは『カワサキワールド』を作ったり、今回話題を提供した『ヴィッセル神戸』のスポンサーになるなど、重工業だがなかなか『ソフト面』での対策もできていて、『カワサキのブランドイメージの向上』に尽くされているのは流石である。

 

    

  

  この写真などは『Kawasaki』が世界中を駆け巡ったし、

 

   

 

   三木谷さんとの談笑の写真なども送って頂いた。

     

        

   ヴィッセル神戸 とのスポンサー契約、2003年というから、もう15年も経っているのである。

 

       

 

   

 

   これはいつ頃かな? 未だ田崎さんも若い。

 

    

 

    歴代川重社長の中で、ジェットスキーに乗ったり、サーキットをバイクで走れるのは、田崎さんの秘かな自慢なのである。

    現役社長の頃に『川崎柔工業』を目指したのは、単車出身の田崎雅元さんの面目躍如なのである。

 

 

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ナイジェリア 出張

2018-06-03 05:38:06 | カワサキ単車の昔話

★先日、どこかのテレビで『ナイジェリア』を特集していた。

 

  

 

ナイジェリアはアフリカのこんなところに位置し、その人口と経済規模から「アフリカの巨人」と称されることが多い。

人口はおよそ1億8400万人でアフリカでは最大である。

 海外に行かれる方も昨今は多いのだが、ナイジェリアなどに行かれた方は少ないのでは?

 

★私は1976年から78年当時、カワサキの開発途上国関係を担当していて、当時のイランにもナイジェリアにも行ったことがある。

 イランは未だ王政時代で二輪各社も進出していたし、カワサキも工場を持っていて、そこに一人で出向していたのが佐伯達彦元川重副社長で、テヘランには日商と一緒に事務所があって岩崎茂樹くんが行っていたのである。

イランの数字が1,2、3、4ではなくて独特のペルシャ数字だったのも、回教文化にもビックリしたが、ナイジェリアもびっくりした。

  

これらの国に比べるとタイやインドネシアは日本人が行ってもそんなに驚かされるようなことのない国なのである。

 

★当時アフリカのナイジェリアに手を出しかけたのはカワサキだけだったかも知れない。

なぜそんなことになったのかは、よく覚えていないのだが、駐在員を一人置いて、イギリスのリバプールに本社のある英国企業との合弁で進めるべく、私はリバプールにも行ったし、そのあとナイジェリアのラゴスも訪れたのである。イランのようなCKDではなく二輪の輸出が出来たような気もする。

その辺の記憶の不確かさは、なぜだろう? 曲がりなりにも当時の私は開発途上国の担当責任者であったのだが・・・

多分カワサキの方でも、カワサキがナイジェリアに進出を図ったことなど、ご存知の方は少ないだろうし、ナイジェリアに足を踏み入れたのは確か私を含めて4人だけだと思うのである。

 

★私も、結構無頓着にいろんなことを経験するのだが、この出張が現役時代でも一番大変だったのを思い出すのである。

● 出張した当時は課長ではあったが、単独行動だった。

● リバプールの英国企業本社も一人で訪れたが、『リバプールなまりの英語』が解らずに、半分筆談になった。

● ロンドンに戻って、ラゴス行きの飛行機を探したが、そんなフライトがないのである。ロンドン市内にはヒースロー空港のほかにガトウイック空港があることなど全く知らなくて、タクシーを飛ばしてやっと間に合ったのである。ロンドンに5つも空港があることなどご存じだろうか? 多分殆どの方がご存じなのはヒースロー空港だけだと思う。

ラゴスの空港からは、名前を失念してしまったが駐在員の方との一緒の行動だったから何の問題もなかったが、ナイジェリアならではの経験をいっぱいしたのである。

 

   

今でもマラニア蚊がいて、ナイジェリアに行くには日本でマラニアの予防注射が必要である。

先日のテレビの方も言っていたが今は予防注射のほかに毎日薬も飲むそうである。

どんな国か?と思われるだろうが、首都ラゴスは結構な大都会で、私もテニスコートのついているような立派なホテルに泊めて頂いたので蚊などはいなかったが、何となく気持ちが悪かった。

 

   

 これは今のラゴスだが、当時も結構立派な大都会である。

 ホテルで駐在員の方とテニスを楽しんだが、ボールボーイ付きのテニスをしたのは最初で最後だった。

 食事も立派だったし、ラゴスでは何の問題もなかったのである。

 

  

 

ただ、当時から大渋滞で、車は日によって走れる車は偶数か奇数かのどちらかのナンバーなので、毎日乗るには2台の車が当時も必要だった。

地方にも出かけたが一歩ラゴスを出るとまさにナイジェリアで、様相は一変するのである。

 

   

 

    

 

 兎に角、人が多いし子供が多いのである

英語は通じるので『何歳か?』『結婚してるか?』『こどもは何人か?』と聞くので『二人』と答えると『なぜ二人だ???』と不思議そうに仰るのである。

今はどうか解らぬが、当時は『避妊の方法』など全く解っていないようで『こどもが二人』などは想像外のことのようだった。ホントに子どもいっぱいなのである。

  

 

 ★ 世界は広くていろんな人がいる。

 日本人は常に自分の方からの目線で、日本と違う風習などに出会うと直ぐに『おかしい』とか『変だ』と言ったりするのだが、日本人は世界で1億人だし、ナイジェリアだけでも日本人の倍ほどいるのだし、回教徒に至っては25億人もいるのだから、先方から見ると、日本人の発想の方がおかしいと思うのかも知れないのである。

 昔々の懐かしいナイジェリアをテレビ放送で思い出したのである。

 

 

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二輪車新聞社便り  カワサキ創成期を支えた人たち -2

2018-05-29 06:42:48 | カワサキ単車の昔話

 

★二輪車新聞社の衛藤誠さんが連載で書かれている『カワサキ創成期を支えた人たち』の連載第2回がアップされたのでご紹介してみよう。

 

 

 

 

このB8の全国MX1〜6位独占に一つの秘話があるという。

それはモトクロス大会が開かれる1年前の62年11月、鈴鹿サーキットがオープンし、その開幕レースが開かれた。これにカワサキの代理店であった兵庫メグロ販売の西海義治社長(元プロレーサー)が見学会の実施を呼びかけ、当時、単車事業現場で中心的なメンバーだったた高橋鐵郎氏をはじめ、中村治道氏、川崎芳夫氏、田崎雅元氏、古谷錬太郎氏など、20人近くがバスを仕立てて参加した。

この鈴鹿サーキットのレース見学会に触発され「うちでもレースに取り組もう」ということになった。しかし、考えてみると、当時のカワサキにはレースマシンの開発に詳しい人がいなかった。このため西海社長が、社長子飼いのメカニックの松尾勇氏を、兵庫メグロ販売からカワサキにトレードすることにし、発動機事業部製造部に転籍した。

とりあえずモトクロスから始めることにし、B8をべースにしたモトクロスレーサーの開発にあたった。1年間に渡る懸命なマシン造りで、約10台のモトクロス車が完成。青野ヶ原(兵庫県下)のMFJ第1回全国モトクロス大会に出場し、6台全車が1〜6位を独占する快挙となったものである。

後に、川崎重工業副社長となった高橋鐵郎氏は「あのとき、青野ヶ原のモトクロス大会に出場していなければ、現在のカワサキはなかった。さらに言うなら、ホンダさんが鈴鹿サーキットを建設していなければ、現在のカワサキはなかった。つまり、現在のカワサキは鈴鹿サーキットのおかげとも言える」とおっしゃっていた。ともあれ、カワサキの単車づくりは継続されることになって、64年1月、それまで発動機事業部の中にあった単車事業は、新しく「単車事業部」として独立し本格的な体制が確立された。

この事業部スタートの条件として、「広告宣伝課の設置」があり、向こう3年間に渡り「本社(川崎航空機)の開発費の中から、毎年年間1億2000万円の予算を与える」ことになった。

新設の「広告宣伝課」や「販売推進課」では、この年間1億2000万円の広告宣伝予算割に頭を痛めた。当時のカワサキには東京・大阪・名古屋など大都市での需要は低く、“カワサキは登坂力のある実用車”のイメージが強く、九州や東北、北陸などでの需要が高かった。そのため、テレビなどを使った宣伝では“費用対効果”を出せない。

結局、ジェットエンジン事業部から、下取りのヘリコプターを約1000万円で購入して、地方を中心に全国各地で“ヘリコプター体験搭乗会”を開き、カワサキのブランドイメージを高めた。あらかじめ各地で、ヘリコプター搭乗希望者を募り、その現場では製品展示会などのイベントも開いて、効果を高めた。この企画は全国各地で人気となり、大成功だったようである。

そうして65年には、単車事業本部に格上げとなり、本部長には本社の常務取締役の役職にある岩城良三氏が就任した。この岩城本部長により米国現地生産の“リンカーン工場”建設が進められた。さらに、カワサキはこの後69年に、グループ3社(川崎重工業・川崎航空機事業・川崎車両)合併もあり、また、単車事業も順調に発展。カワサキが本格生産を始めて10年が過ぎた1972年秋には、カワサキ“Z”が発売され新たな飛躍の時代へと進んだ。(つづく)

二輪車新聞 大阪支社顧問 衛藤誠


米国でカワサキ車を現地生産するため「リンカーン工場」の建設を進めた。右から2人目が、この建設を指揮した川崎航空機事業・常務取締役単車事業本部長の岩城良三氏。その左隣が同単車事業本部企画室課長の浜脇洋二氏(川崎重工業退職後にBMW・ジャパン社長に転じ、BMWの二・四輪販売網を全国に確立するなど大きく貢献した)。一番左はカワサキの米国現地法人・KMC市場開発担当の杉沼浩氏(川崎重工退職後にMFJに転じ長らく常務理事としてMFJの体制強化に貢献した)

 

★ 衛藤誠さんの記事は、このように詳しいのだが、若干事実と違っているところもある。

 鈴鹿のレースを観戦した人の中に私の名前もあるのだが、私は鈴鹿には行っていない。私は当時は新しく出来た単車営業課に在籍はしていて、既に衛藤誠さんとはお会いしていたのだが、青野ヶ原モトクロスにも行っていないし、レースが何たるやも全く解っていなかったのだが、私の係の川合寿一さんがチームのマネージャー的役割をやっていて、当時の小野助治次長の指示で残業時の『パン代』など幾らかの負担を営業の経費で負担するなどのお手伝いはしていたのである。

 広告宣伝課は私が担当して、衛藤さんとはより密接にお付き合いすることになったのだが、記事にあるヘリコプターを広告宣伝課で持っていたのも事実で、各地でのヘリの搭乗会はホントに人気があったのだが、当時のヘリの新品の値段が1000万円で、広告宣伝課で持っていたのは下取りのヘリだから、簿価200万円ぐらいで、その運営費を広告宣伝費で負担していたのである。

 衛藤さんの取材は、現役時代からずっと受け続けていたし、衛藤さんは歴代のカワサキ二輪事業を担当した人たちとは親しいのだが、特に国内市場を長く担当した、髙橋鐵郎さんや私は懇意にして頂いたのである。

 

 

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大槻さんと田崎さん

2018-05-28 06:28:07 | カワサキ単車の昔話

★今朝一番にかってのカワサキのレース仲間の大槻幸雄さんと田崎雅元さんからメールが入った。

 お二人はカワサキの初めて会社が正規に認めた鈴鹿のジュニアロードレースの監督・助監督コンビなのである。

   

そのアマチュア6時間耐久レースの写真(これも田崎さんが私に送ってくれた)

このレースが歳森康師とのコンビで金谷秀夫のレースデビュー戦でもあった。

お二人とは、そんな昔のレース仲間の関係もあって、いまも尚いろんな形で繋がっているのである。

 

 

田崎さんからは、昨今新聞を賑わした話題の二つからのメッセージを頂いた。

 

まずはヴィッセル神戸に入団した『イニエスタ』のことである。

 

・・・・ユニフォームの背面の Kawasaki がテレビ、新聞など主要メディアに大きくアピールされ計り知れない恩恵を受けたようです。・・・Kawasaki-Rakuten のコンビを強化するチャンスだと思います。過去に、GPレースのスポンサーをお願いした事がありますが、時期尚早という事で実現しませんでした。楽天が欧州進出を計っている今、Kawasaki ブランドとのタイアップは非常に有効でインパクトがあると思いますので、この機にもう一度MOTO GP のスポンサーをお願いしてはどうかな・・・・

 

  

 

この機会にもう一度 MOTO GPのスポンサーをお願いしたらと思っているようなのである。

これは実現したらなかなかオモシロいなと思っている。

         

  

 三木谷さん、明石高校出身のようで、面識はないが後輩にあたる。明石高校も大物を産んだものである。

 

 

 

★ もう一つは、最近マレーシアのマハテイールさんが92歳で首相に返り咲いたというニュースが流れたが、これに関してこんなメッセージが写真と共に送られてきた。

 ・・・・ご存知のとうり、マハティール首相と川重は親密な関係にあり、私もモーターサイクルのマレーシア国産プロジェクトで、何度もお会いしています。大庭さんが、よく「俺とマハティール、サッチャーは同じ年の生まれだ」と云っていました。

 

大庭浩・髙橋鐵郎・田崎雅元さんの3人が揃って写っている。この時は大庭川重社長時代だと思うが、私は大庭浩単車事業本部長・髙橋鐵郎副本部長時代の番頭役を務めていたので、大庭さんのあの独特の性格が思い出されて懐かしい。

大庭さんはサッチャーさんでも、マハティールさんでも、物怖じせず自然に近づいて行かれる独特の性格をお持ちなのである。

 

      

 

 田崎さん、元気になられたので、川重の現役諸君も三木谷さんにも、マハテイールさんにも気軽に話のできる田崎さんを大いに利用されたらいいと思う。

 その田崎さんは、ごく最近オートポリスのレース観戦にも行かれたとか、こんなメールも頂いているのである。

 5月12日(土)~13日(日)は、12年ぶりに大分に飛び、翡翠之庄で広瀬知事夫妻と懇親会、翌日はオートポリスのレース観戦というスケジュールでした。・・・朝から霧と雨で開催が危ぶまれたJSB1000Rd.3の決勝。11:00頃から奇跡的に雨が止み、霧が晴れて、レースが始まり、結果はカワサキの1,2フィニッシュで関係者は久々の快挙に大喜びでした。 カワサキがレイン用タイヤをつけず、後半の路面の乾きで一挙にスピードを上げ、10位ぐらいのところから、ごぼう抜きで1,2位を得するという戦略的な勝利でした。・・・93年にNYから帰国後、夫婦で観戦したスズカ8耐で初めて優勝した事を思い出しました。・・・・

 最後に書かれている93年の鈴鹿8耐は私も一緒だったし、岩城滉一と一緒に会食したのもこの時のことなのである。

 田崎さん、結構ちゃんとバイクに乗れるのは彼の自慢である。こんな写真を一緒に送ってくれたのである。

      

 

 

★現在は、こんなカワサキの二輪事業の展開だが、昭和37年当時は大変だったのである。

ごく最近私のブログに、大槻さんからこんなコメントを頂いたのである。

  Yukio Otsuki 極東空軍のジェットエンジンのオーバーホールでいち早く、ジェットエンジンの仕事を始めたが、仕事が減って将来がなく、単車事業に将来を期して、昭和35年に本格的に事業を開始したが、早くも昭和37年にB7のクレームなどで、撤退を真剣に検討していた時代を想起します。撤退とは何事だと憤慨したことを思い出します。

 

  

 

 ホントにあの頃は大変だったのである。

 川崎航空機はエンジンは専門で、エンジン技術者はプロがいっぱいだったし、アメリカ空軍のジェットエンジン・オーバーホールをやっていて、その生産管理方式は、最先端のアメリカの生産システムノウハウを持っていたのだが、車体設計だけは素人で最初の125ccB7はその車体欠陥で返品が相次ぎ大変だったのである。 

そんなこともあって、『この事業を続けるべきか否か』日本能率協会が調査に入っていたのが昭和37年なのである。

その当時の人たちは、みんな血気盛んだったように思うのだが、その最先端が技術部の人たちで『撤退とは何事だと憤慨したことを思い出します。』 とコメントで書かれているように、こんな係長総意の文章もあったようである。 

当時を現わす貴重な資料だと思うので大槻さんから、わざわざお送り頂いたので、ご紹介しますのでご一読下さい。

当時の技術部の若手の熱っぽさがよく出ているし、その後再開されたカワサキの二輪事業は、こんな人たちの熱意の下に展開され、『カワサキ独特のブランドイメージ』に繋がっていくのである。

 

 昭和37年5月20日 単車製造削減方針に対する意見書草案

今回、我々は当社の基本方針が単車製造を大幅に削減するという報せを受け、その意義が余りにも大きく、且つ我々が受けた精神的打撃が測り知れざるものであることをご認識頂きたく、甚だ僭越ではありますが、我々の所感の一端を述べ、経営者の方々のご批判を仰ぐ次第でございます。

顧みれば2年前当社の生い立ちから当然のことですが、民需部門拡大の第一歩として敢えて競争激烈なオートバイ界に乗り出すべく、単車製造の大方針が打ち出され、社の主力が結集されました。そしてその任に当たる我々は仕事の重大性を充分認識してより良きものの生産に全力を傾けて努力邁進した次第です。

不幸にして我々の設計した単車はあまりにも速い技術的進歩の故に、はっきり申しまして現在市場で多売されているものに比して劣ったものであったことは認めざるを得ず、その責任や誠に重大なものであり、”クレームが出て売れない”という言葉を耳にするにつけ、「今に見ておれ」と身を切る思いで歯を食いしばって来た次第です。

 技術的な問題については、我々は決して責任を回避し、弁明するものではありません。然しながら”ローマは1日にしては成らず”の譬えのごとく、成果は蓄積された技術の集積によるものであり、僅か1年や2年の設計期間にて、この激しい競争に打ち勝って他社より優れたものを作るのは不可能なこと、今や我々の研鑽は実を結び、早くも世間並みの線に達し、近い将来設計開発するものは、間違いなく他社を圧倒するものであり、その前途や見るべきものがあると思います。そして我々は単車製造が当社の重大な仕事であることを充分認識するが故に臥薪嘗胆必ずや他社を圧倒する製品を設計して見せます。又設計しなければならない決意と責任に燃えている状態です。

かくの如く漸くにして他社を圧倒する製品を設計し得る状態に達したその時に、単車削減の方針となり新規開発は全て中止の理解し難きことでございます。若しここで新規開発を止めんか、わが社は単車界の物笑いとなって消滅しなければならないでしょう。ひいては永久に民需部門に乗り出す機会を見出すことが出来ず企業界からも消滅する運命を辿らざるを得ないでしょう。

一方、販売網の弱体を見聞するに及び我々一人一人が単車を連ねて販売店を廻り”売り込み、売って見せる”の意気に燃え、石に噛り付いても単車製造を成功に導くべく決意に燃えている次第です。

単車製造は極めて厳しい競争場裏に飛び込むことであり、2,3年は現在の如き業績不振が起こることを覚悟して而も尚単車製造によって民需部門進出の第一歩とされたことを思えば、現在の状況に陥ることは当然のことであり、今ここに単車製造の方針を撤回されるということは誠に理解に苦しむところであります。

かくの如き事情を改めてご考慮下され、今回の処置に対して敢えてご再考のほどお願い申しあげます。

                                          係長一同

   

 

  この日本能率協会の調査が行われたのは、昭和37年(1962)のことだがこの年新発売された125B8が好評で、青野ヶ原のレースで 好運にも恵まれ1位~6位独占で、事業部内の意気が上がり、昭和38年1月に『単車再建宣言』が出され、日本能率協会の再建の条件の一つの『広告宣伝課』の設置が決められて、私はその担当をすることになるのである。

 それから3年間、本社開発費で年間1億2000万円の広告予算が与えられ、その中での『レース運営』でもあったのである。

 ホントに懐かしい時代で、みんな若かったが熱っぽかったのも間違いないのである。

 

 

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カワサキ単車物語

2018-05-10 08:09:30 | カワサキ単車の昔話

 ★昨日、東京の浅野公一郎さんからのお問い合わせに対して、当時のことを書いたブログがあったのでリンクしたのだが、読み返してみるとなかなかよく纏まっているので、再掲してみたい。

 2013年4月28日、今から5年前のブログです。

 いまから50年前の『カワサキの販売網』がどのようにして創られたのか?

 時代は変わったが、そのベースにある発想は『カワサキの伝統』として受け継いで欲しいなと思っている。

 

 

★ 昭和で言うと20年代はバイクの中心はエンジン付き自転車で、カワサキですら明発工業に単体エンジンを提供していた時代だったのである。

昭和30年代の主力は50ccのモペット、その販売は全国に4万店もあったと言われた自転車屋さんで販売されていたのである。

『販売』と言ったが、正確に言うと販売ではなくて、自転車屋さんがお客さんに取りついで、その取次手数料を払うと言う『委託販売制度』だったのである。

『委託販売』とは、自転車屋の店頭にバイクを置いてもらって、それが売れたらお客とは直接地方代理店(メインデーラー)が販売し、自転車屋さんにはその『取次手数料』を支払うと言うシステムなのである。自転車屋にとってみれば、店先にバイクを置かせてあげて、客が付いたらマージンが貰えると言うそんな仕組みで、何のリスクも負担もないのである。店の面積は限りがあるので各地方代理店はそんな場所取り合戦をやっていた時代なのである。

そんな自転車屋のことを通称『サブデ―ラ―』の『サブ』と呼び、地方デーラー(メインデーラー)は、メーカーとの間に挟まって大変な時代だったのである。

サブ殿さまのデーラー乞食』などと囁かれていた、そんな時代だったのである。

昭和40年代に入って、ようやくCBやA1などスポーツ車も世にでるようにはなったが、二輪の販売形態はそのまま、自転車屋が主力の委託販売制度が続いていた。

今のようにお金の回収が容易な時代ではなくて、田舎では盆払いだとか、秋のお米が採れたらその代金でとか、銀行には通用しない私制手形みたいなのまであって、その回数も長いし、『モノを売ってもなかなかお金に変わらぬ』そんな時代が長く続いていたのである。

 

★A1、W1につづいてマッハⅢなどの新機種の発売が続いて、ようやくスポーツ車が都会では人気の出始めた昭和44年(1969)ごろからカワサキだけが、それも東京だけで、スポーツ車を中心の販売網構想から、都内を約60店に絞ったカワサキ独特の販売網を敷いたのである。

城東カワサキ、城南カワサキ、城西カワサキ、城北カワサキ北多摩モータースなどの懐かしい意気盛んな時期だったのである。

この新しいシステムを展開されたのは、当時東京を担当されていた茂木所長の発想で、茂木さんの強烈なリーダーシップで実現したのである。

東京でこのような新システムがスムースに展開出来たのは、大東京の市場の大きさがあったからで、その他の地域では、自転車屋さんからの販売網の脱皮はそんなに簡単ではなかったのである。

ホンダ、スズキ、ヤマハなどにとっては、国内の販売の主力は圧倒的に50ccモペットだから、委託販売の自転車屋主力の販売方式からの転換など考えられなかったのだろうと思う。

 

 

北多摩モータースも、城東城北などの名前も見える)

 

昭和44年に3社合併があり、川崎航空機から川崎重工業となって、今後の単車事業の展開を中大型スポーツ、海外市場特にアメリカ中心に展開するという方針に転換した時期でもあったのである。

それまでは、B8からB1などが中心の『実用車のカワサキ』であったし、その主力市場も、九州や東北といった地方が販売台数でもリードしていたのだが、1970年代に入って、従来一番弱かったと言われた大阪市場など注力することになり、私は仙台から大阪へ異動となったのである。1970年(昭和45年)大阪万博のあった年である。

それから約5年間、国内のカワサキは国内市場に於いて、全く新しい特約店制度展開の時代に入るのである。

 

★ 毎年日本一の実績を続けていた岩手カワサキなどの販売網は、自転車屋ベースだが、それなりにカワサキに対しても忠誠心もあったのだが、大阪に来てみると、販売網らしきものは殆どなくて、取引店の数は500店とか600店とか何店あるのか解らないほどあるのだが、年に部品を何点か購入してくれるようなところも入っていて、カワサキへの忠誠度などは殆どないそんなお店ばかりであった。

当時の中心店、船場モータースの岡田博さんなども、どちらかと言えばスズキが中心で、

『仙台ではどうだったか知らぬが、大阪でのカワサキは、「ホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサキ」ぐらいだね』 などと言われてしまうような状況であったし、販売台数もお隣の兵庫県は地元で、平井稔男さんなどが頑張っていて、大阪よりははるかに多い販売台数を誇っていたのである。

まず特約店制に入る前に、カワサキシンパの店を創るべく『カワサキ共栄会』を組織して対策に入ったのである。この共栄会のメンバーを大阪の全販売店600店の中から選んで組織化をし、その会長を船場モータースの岡田博さんに務めて頂いたのである。

その選定は店の大きさなどよりは、店主の人物中心に、カワサキから見れば、育て甲斐のある考え方の確りした店という選定基準で徹底した。

二輪の販売網は4輪と違ってネット販売、販売網というシステムで売る訳だから、その中心の店が弱体であったのではどうにもならないのである。

なぜあんな田舎の岩手が毎年ダントツの日本一の実績を続けるのか?

それは岩手の久保克夫社長のトータルシステムの発想と、その販売網なのである。最初の営業経験で久保さんに会えたのが、その後の私の人生の基本的な発想のベースになっていて、そういう意味で久保克夫さんは恩師だと思っている。

 

★大阪商人はエゲツイなどと、よく言われるが口は悪いが結構本音が通るところだと思う。最初はマージンの額の多寡みたいなことばかりを言うものだから、営業所の仕入れ値を教えたら、その後一切マージンの額の話はなくなった。

共栄会の25店で大阪の600店全体の60%を売るような実績になったら、その時点で25店の特約店制に移行する、と宣言したら一挙にお客から『仲間』に、そして『同志』に変わっていったのである。会長の岡田博さんは、わがことのように先頭に立ってこの制度の実現に尽力して頂いたし、当時はホントに小さな店だった、伊藤モータース、今の忍者の伊藤さんなど熱心を通りこして熱烈だったのである。

共栄会時代を約2年を経て、まず大阪、京都、愛知の3県から特約店制度はスタートしたのである。

 

その特約店制度とは、

● 特約店契約を締結した店以外とはカワサキは取引しない

● 特約店契約を締結する店は担保の提供、または保証金の積立をMUST とする。

● その最初の契約は甲乙平等の立場で、1店1店、店の希望なども入れたもので、一律に印刷された約款のようなものではなく、手書きのモノからスタートした。

● 大阪で言うと600店の店を25店に、京都では京都市以外は宇治カワサキの1店だけで京都府全体で10店ほどの徹底したスタートだった。

● 台数契約ではなく『金額契約』とし、取引価格も一応の基準はあったが、1店1店、店の希望を入れたものであった。

● 中大型車で金額も張ることから原則『委託』としたが、担保の提供のある店には買い取りも、手形による支払いも許容した。

● 特約店を育てると言うコンセプトであるから、特に財務面の徹底した経営指導を行い、これにより店の経営内容は飛躍的に改善が見られた。

● お客とはユーザーのことを言うのであって、特約店はお客ではなく、仲間、同志という認識であった。

この特約店制度がスタートたのが40年前で、カワサキの名車Zの販売された時期になるのである。特約店制度の展開にZの果たした役割も大きかったし、一挙に店の規模を大きくしていったところも現実に多いのである。

上記の中で特筆できるのが、担保の提供と保証金の積み立て制度である。担保提供した店や保証金が一定額に達した店は『手形発行』を可能とし、通常の利率の適用をOKとした。 当時の金利は『アドオン方式』と言うべらぼうに高い金利が二輪や4輪業界では一般的だったのである。担保はともかく、保証金はお金など持っているわけはないので、3年とか5年とかの長期分割の手形支払い方式であった。これはその後販社にとっては資金繰りに効果したし、特約店にとっては利益蓄積として機能したのである。

 

この最初の時期に特約店契約を結んだ店で、現在も頑張っている店としては、

●大阪では株式会社忍者、当時の伊藤モータースだったり、

名古屋のミスターバイク  当時の店名は春日井スズキ(斎藤さん)という小さなお店だったのである。

●岡崎では、今は世界一のバイク販売店かも知れないレッドバロンの前身ヤマハオートセンター(杉浦斎さん)が、当時は岡崎1店だけで、店をスタートさせたばかりだったのである。

 伊藤さん、斎藤さん、杉浦さん、それぞれなかなかのうるさ型で仕事ではいろいろとあったのだが、私は結構仲がよくていいお付き合いをさせて頂いている。40年経つと立派になるものである。

 

★そんな特約店制度は、世の中によくある全国一斉の実施ではなくて、大阪、京都、名古屋からスタートし、その後兵庫、さらには広島、千葉、福岡、などと大きな県から順次『特約店説明会』を開催し、その趣旨に共感する店だけで1県、1県順次展開していったのである。

 ●まず、各地の責任者が共感し『やる』と自ら手を挙げたところからの順次実施で、現地の責任者が『やる気』であったこと

●全国展開の実務担当として、当時、古石喜代司くんが非常に細やかに現地と繋いでくれたのである。

●『特約店説明会』で、最も説得力があったのは、大阪の船場モータースの岡田博さんが、現地まで行って頂いて、特約店制について話して頂いたことである。

●そして、カワサキ側の厳しい条件ではあったが、現地の販売店のうち納得、共感された方だけが、特約店として仲間に入って行かれたのである。

 

 この最初の時期特約店制度の実現に関わってくれたカワサキオートバイ販売の中心的なメンバーは、(失念した人もいるのだが・・・)

 大阪 古石喜代司、宮本進(滋賀カワサキ)、竹内優、北村 

 京都 藤田孝明、久後淳一郎、関初太郎(モトボックスセキ)、柏原久 吉川健一(山科カワサキ)

 名古屋 鍋島英雄、南昌吾、五島頼孝(ファイブテン)平田篤郎さん達である。

推進した人たちとともに特約店として活躍してくれた人も多い。

兵庫地区は当時平井稔男さんが担当をしていて、大阪などよりはずっと多くの販売実績があったのだが、典型的な自転車屋の旧い店ばかりで、殆ど候補店がなくて、カワサキの従業員からの独立開業ののれん分け制度で展開したのである。

財満君(灘カワサキ)が第1号店で、次々にカワサキ関係者の出店が続いたのである。西宮カワサキ、明石カワサキ、姫路カワサキ、加古川カワサキなど、みんなそうだし、大阪なども八尾カワサキなど全国的にカワサキ関係者からの独立が多いのも特約店制度特徴と言えるだろう。

と書いていたら、山本レーシングサービスの山本隆くんに『私が抜けてる』とオコラレタ。彼はちゃんと特約店説明会から出席したようで、その時の話をよく覚えていていろいろ話してくれたりした。

 

この特約店制度は、大阪でカワサキ共栄会からスタートして、約5年の歳月を経て全国展開がほぼ完成したのである。

全国約1000店の二輪専門店網が、ホンダ、ヤマハ、スズキさんに先んじて、カワサキ独特の制度として完成し、その後各メーカーも、同じような方向での販売形態を取り現在に至っている。

カワサキは、特約店ARK(Authorized & Reliable shop of Kawasaki)などの時代を経て、現在に至っている。

独りカワサキだけでなく、国内の二輪販売網の嚆矢としての役割を果たしたものと思っている。

 

昭和45年から、この特約店制度展開の5年間は、国内のカワサキにとってはZ2の発売があって、初めて『バックオーダー』を体験するなど、特筆すべき5年間だったのである。

私自身は、この特約店制度のほぼ完成を見て、ちょうど10年間のカワサキオートバイ販売の出向期間を終り、川崎重工の発動機事業部企画室への異動となり、また違ったカワサキの単車事業の展開を経験して行くことになるのである。

 

 

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カワサキファクトリーチーム結成25周年記念OB会

2018-02-24 06:57:35 | カワサキ単車の昔話

★ 手元に残っている写真で、一番私の想いがこもっているものと言えばコレだろう。

 

  

 

1988年10月15日 今からちょうど30年前 私も未だ55歳の頃である。

 この年の10月1日付で、私は国内の販売担当のカワサキオートバイ販売に専務取締役として出向することになったのである。

 当時のCP事業本部長でカワサキオートバイ販売の社長を兼務しておられた髙橋鐵郎さんから『国内市場で7万台の販売達成』と言う高い目標を与えられての出向だった。

それまでの単車事業は80年代初頭に膨大な赤字を抱えてその事業再建が第一命題であったことから、世界の各販社も堅実経営が一番の目標であり、ロードレース関係も一時中断していたそんな時期が続いたのだが、ようやく事業再建もなって、髙橋本部長が自ら社長を兼務されていた国内販社での販売台数倍増の目標を掲げられたのである。

健全経営なら兎も角、販売倍増を狙うなら、二輪車はスポーツ・遊びの道具だから、一番必要なのは『遊び心』と『末端ユーザーへの働きかけ』そしてその結果としての『カワサキの新しいイメージ創造』なしに台数倍増など望んでもとても達成はできないと思ったのである。

そんなことで、10月1日に赴任して真っ先にやったのがこの『ファクトリーOB会』で、かって創成期のレースを担当されたOBの方々にその決意を披露し、現役チームのメンバーたちにも『積極的なレース展開』を宣言したのである。と同時に新たに ユーザークラブ KAZEをスタートさせたので、KAZEも今年が『30周年記念』を迎えるはずなのである。

結果的には90年代初頭に『7万台の販売目標』も達成できたし、この席に出席している『多田・宗和』と塚本の3人で世界耐久ルマンでの3位入賞も果たしたし、ラッセル・ㇲライトコンビでの鈴鹿8耐での優勝も達成して『国内市場の輝ける90年代実現』となったのである。

この会合は当時から巨人や中日の定宿であった芦屋の竹園旅館で一泊どまりで盛大に開催したのである。

この写真を撮って頂いたのは、二輪事業スタートの時期からカワサキを担当し、今も尚現役の記者である『二輪車新聞社の衛藤誠』さんで、当然二輪車新聞の記事にもなったし、『新しいカワサキの基本方針』発表の場として、それに『相応しいメンバー』を集めたのである。

 

★今回は、この写真に載っている方々について、私が今までこのブログなどであまり記述していない方々を中心に、ご紹介をしてみたい。

まずは最前列『胡坐をかいて座っている方々』がカワサキのレース創生期の中心メンバーで、カワサキの二輪事業の中枢におられた先輩方である。

前列右から

● 大槻幸雄 カワサキの初代ローレース監督を務めた。Z1開発責任者で川重常務を務められた。今でもZ1会などでお付き合いがある。

● 中村治道 

カワサキのレースはこの方が生産部門で旗を振られて始まったのである。あの『青野ヶ原モトクロス』の総監督で、カワサキの当時のレース委員会の中心人物である。中村さんがいなかったら『青野ヶ原』もなかったし、あの勝利がなかったら、ひょっとしたらカワサキの二輪事業もなかったかも知れないのである。情熱の塊のような方だった。

● 苧野豊秋

私がカワサキの二輪事業に異動して以来、ずっと私の上司としてカワ販専務を務められ、山田さんとともにレース運営委員会をリードされた。ジェットスキー関連では、JJSBAを創設しその初代理事長として国内のジェットスキーレース分野で大いに貢献された。

髙橋鐵郎・中村治道・田崎雅元さんなどにとっても、ジェットエンジン部門時代の上司でもあった方である。

川重退職後も国内部品業務やJJSBA関連で大いに援けて頂いて、ソウルオリンピックでのジェットスキー・デモンストレーションにもご一緒して頂いたのである。

 

● 髙橋鐵郎 長く直接の上司として関係があった。川崎重工業副社長を務められた。

 

● 西海義治

真ん中に座っておられるのが兵庫メグロの西海社長である。カワサキのレース活動は西海さんの主導で進められたと言っていい。当時カワサキには二輪事業も解っている人は少なかったし、ましてやレースの世界など誰もよく解ってはいなかったのである。西海さんは元プロのオートレーサーでレースに詳しく、カワサキでレースをするために『子飼いの松尾勇』さんを当時のカワサキの生産部門に送り込んで、昭和37年11月鈴鹿サーキットで開催された日本で初めてのロードレースにバスを仕立ててその見学観戦を行ったのである。その観戦に行ったのが中村治道・髙橋鐵郎さんなど当時の製造部門の人たちで、そのレースを見て、カワサキのレース熱は一気に燃え上がり、翌年6月の『青野ヶ原モトクロス』に繋がり、その後のカワサキの二輪事業の方向が定まったのである。兵庫県のMFJ支部長なども務められた。

ちなみに、鈴鹿ロードレースでの250㏄優勝が三橋実(後カワサキコンバット主宰)350㏄が片山義美(神戸木の実クラブ)と言うカワサキのレースに密接に関係のあったお二人だったことも何かのご縁だと思っている。

  

● 山田熙明

かっての技術部長で、レースに関しても熱心で『レース運営委員会』の長を務められた。大槻幸雄さんなどの直接の上司である。神戸一中・一高・東大(航空機)の英才ではあったが、西海さんとも親交があったし、私は中学の後輩でもあったことから特別に目を掛けて頂いた。Z1開発にも最初のカワサキのGPレース出場も直接関係されて後、航空機事業本部長などを務められて、川崎重工業副社長となられたのだが、80年初頭の『カワサキ二輪事業の最大の危機』には本社での『単車事業対策委員会』の長を務められ、私を国内から、髙橋鐵郎さんをアメリカの会長から企画に呼び戻した人事をやられたのは山田さんなのである。私も未だ40代後半の頃で、その時KMCを私よりも若い田崎さんに任されたのだが、最初は『田崎で出来るか?』と言われたのは、有名な山田さんの言葉なのである。当時のムツカシイ状況を私や田崎さんなどの若手に思い切って任されたのは、『ファクトリーレース時代の信頼関係』みたいなのがあったのだと思う。

この写真当時は既に川重を引退されてはいたのだが、『国内市場倍増の目標に挑戦する決意』みたいなものを山田さんにはぜひ聞いて欲しかったのである。

    

 松尾勇

 前述の兵庫メグロからカワサキの製造部に来られた松尾勇さんである。カワサキの初期のレーサーは全てエンジン以外は『松尾勇さん作』と言っていい。当時は製造部の中にレース職場があってそこでレーサーを創り上げていた。その中心が松尾勇さんで、最初に鈴鹿を走った90㏄の『ロードレーサー』もF21Mもみんな松尾勇さんが仕上げたもので、技術部はエンジンのチューニングまでが担当だったのである。その極め付けはF21Mのパイプフレームのモトクロッサーで、ヘリコプター部門からクロモリのパイプを貰ってきて、ベニヤ板に釘を打ってフレームの形を創り、海岸で砂をとってきてパイプに詰めて曲げ、ダブルクレードルのフレームを創りあげたのである。

● 糠谷 

 昭和41年度で大槻幸雄・安藤佶郎・私の3人がレースから離れ、そのあとのレース監督を引き継がれたのは糠谷さんである。メグロから来られた方で、技術も勿論詳しかったのだろうと思うが、私がびっくりしたのは二輪車もサイドカーもホントに上手に乗りこなされるのである。やはり二輪が好きで会社に入られた方は違うなと思ったのである。創生期の二輪関係者は特に二輪が好きでそこにいたのではなくて、何らかのご縁で二輪事業に異動して来られた方が殆どだったのである。

 

 

★2列目からはライダーなどが並んでいるが、有名ライダーも多いし、そんな方たちの紹介は簡単にさせて頂くことにする。

● 大西健治

 私の下でレース現場を纏めてくれていた大西健治さんである。当時の広告宣伝課はヘリコプターなども持っていて、レース場にヘリコプターなど帯同させていたのだが、そんなフライト計画などもやっていた。ちなみにヘリと言っても当時新品で1000万円ぐらいでこれは下取りのヘリだから200万円ぐらいだったのである。それを飛ばす時だけ、当時は明石にいた『ヘリコプター部門』のお世話になっていたのである。

● 清原明彦 ご存じ『カワサキの清さん』である。 ちなみにOBでは、清さんと、星野一義が末席を務めたのである。

● 山本隆  モトクロス3年連続日本チャンピオン。 ロードレースで最初に鈴鹿を走り3位入賞を果たしたのは山本隆である。

● 和田将宏 カワサキで正規にロードライダーとして契約したのは和田なのかも知れない。当時既に名を成していた。

● 安良岡健  

ロードライダーとして知られているが、カワサキで初めて契約したのはモトクロスライダーとしての契約でGP125の開発時代は、専ら安良岡がモトクロスライダー契約で鈴鹿を走っていた。当時はカワサキコンバットというクラブチーム所属で、星野一義はその安良岡を慕ってカワサキコンバットに入ってきたのである。

 

● 私・古谷錬太郎

 

● 田崎雅元 

  

   

後川崎重工業社長・会長を務めた田崎さんである。若い頃からのレース仲間で、前述の製造部レース職場を管理していて、山本隆が初めて鈴鹿を走った90㏄のロードレーサーの元は田崎さんが製造部から都合してくれたものである。最近はまた昔に戻って、若い時代のままのお付き合いが続いている。

 

● 平井稔男

 

   

自ら『カワサキの真打ち』と言って憚らない平井稔男さんである。そう言われても仕方がない経歴の持ち主で、未だカワサキが二輪事業をやっていない頃から、カワサキ明発で二輪車を売っている。レース関連では『神戸スーパ₋スポーツ』などで多数のライダーたちを育てているし、鈴鹿のロードレースの現場での平井さんも有名である。

 今も私とは直接いろいろと繋がっている。

    

 ● 金谷秀夫

金谷が初めて乗ったメーカーのマシンはカワサキなのである。カワサキが公式に初めて出場したアマチュア耐久6時間レースに歳森康師のコンビライダーとして、契約もないまま出場したのが最初だが、流石ロードレースライダーでモトクロスライダーとはちょっと違う抜群のタイムだったのが印象に強く残っている。

金谷と言えば神戸木の実と師匠片山義美さんとの関係だが、私もかってのレース仲間として金谷が呼んでくれるのである。

有名ライダーばかりの中に独り異質な私がいるのである。(神戸木の実クラブ解散会)

       

 

 岡部能夫

 二列目一番左で正座しているのが岡部能夫、あまり名を知られてはいないが、早かったしいい奴だった。4年ほど前『二輪文化を伝える会』の『第1回、山本隆と私のトークショー』に岡部と星野と金子豊がわざわざやってきて。 岡部と金子これが最後になった。

   

 

 

★3列目からはOBの他に、88年当時の現役諸君も入ってくる。

 

● 岩崎茂樹

 私の後のレースマネージメントを引き継いでくれたのが岩崎茂樹くんである。私と違って二輪にもレースにも詳しいし自分でも二輪に乗るマニアである。彼と一緒に創ったのが『SPA直入』その名付け親でもある。SPAは長湯温泉のSPAでもあるのだが、『スパ・フランコルシャン』と言うベルギーの有名サーキットともかけての『SPA』なのである。

● 歳森康師

 神戸木の実のライダーで天才的とライダー仲間が言っていた。カワサキで一番最初に契約したのが歳森で、山本隆は片山義美さんと歳森がわざわざ加古川まで足を運んでの『神戸木の実』入りだったとか、2番目に契約したのが山本隆なのである。二輪から4輪に転向したのも早かったし、星野を4輪に誘ったのも歳森のようだが、目を悪くしてこの頃はすでに引退していた。

 

● 白瀬  技術部におられて昔からよく知っているが、この席におられるのは現役チームなのかも知れない。

● 武本晃 

武本さんがレース関係あったのは知らなかった。 これは間違いなく現役チームからの出席である。後アメリカリンカーン工場の社長なども、務められた。

● 北村敏

 北村さんは、私の後の広告宣伝課長でレース関係も管轄されていたのでレースOBとしての出席だと思うが、仕事の面では後田崎さんの後の部品業務や80年代には営業部門の担当もされた。

● 吉田義正  彼は多分現役チームとしての出席だと思うが、旧いカワサキファクトリー時代もメカニックとして所属していた。

● ???

 技術部のレース担当長だと思う。 よく存じ上げているのだが、名前が出てこないのである。確か三木におられて、ゴルフのZ1会にも関係されていた。全然思い出さないのが不思議なほどである。

● 宗和孝宏  現役ライダーとしての出席である。この当時よりも最近の方が色濃いお付き合いがある。

● 安井隆史 ごく最近までレース関係を担当していた。当然現役チームとしての出席である。

 

★ 最後尾の一番右が 星野一義である。 OB会の中では星野と清原が一番若手なのである。

● 星野一義

 この時期既に、彼は4輪ライダーとして、超有名人であったのだが、最後尾に並ぶようなところが、星野のよさだと思う。この時もエレベーターの中で中日の現役選手たちと一緒になったのだが、中日の選手曰く『星野さんだ!!』と言って 『うちの星野よりは上だな』などと言っていたのである。17歳でカワサキに入ってきてモトクロスでは山本隆を師と仰ぎ、20歳になったころにわざわざ私の家まで訪ねてきて『クルマ買ってもよろしいか?』と聞きにきたりする一面を持っているのである。

今会っても全く昔の儘の星野がいる、上の写真山本と私が上京した折は、運転手を務めてくれて高級焼き肉をご馳走してくれたのである。

 

● 梅津次郎 カワサキコンバットのトップライダーで全盛期は本当に速かった。

● 福本敏夫 現役ライダーとしての参加である

● 多田喜代一 現役ライダーとしての参加だが、現在でもいろいろと繋がっている。

● 野村純一  現役チームとしての参加だが、野村君とはこの後、チームグリーンの監督として長くお付き合いすることとなった。

● ????  残念ながら一番左の方はお名前が解らない。

 

 

 

   

 当日のライダー関係者だけでの写真である。

 

  こちらはカワサキ現役時代の山本・歳森・岡部・星野

 

  

 

 最後に、田崎さんから頂いた写真を。

 カワサキの二輪事業を引っ張った山田さん、高橋さん、田崎さん。

 みんな創生期のカワサキファクトリーチームのメンバーなのである

    

 

   

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田崎さんからの懐かしい写真

2017-08-10 07:13:33 | カワサキ単車の昔話

★昨日の夕方、田崎さんからこんな写真が送られてきた。

 

   

 

  83・9・28 日とある。

 こんなコメントが付されていたので、 早速調べてみた。

 

1983年9月28日の写真です。

これは何のパーティでしたかね? 1983年の手帳は、米国法務局に取り上げられて手元にありませんので、判ったらおしえて下さい。  

酒井さん、安藤さん、北村さん、古谷さん高橋さん、大庭さん、と私、 後二人が分りませんが、一時帰国の私の歓迎会ですかね?

 

 1983年というと大庭さんが単車事業本部長として7月に明石に来られた年である。

これは、大庭さんが 田崎KMC社長・佐伯リンカーン社長・坂口カナダ社長の北米3社長を明石に呼んでの状況報告を求めたので、その3社長の歓迎会を神戸の山手寮でやった時の写真なのである。

兎に角、田崎さんはいろいろと写真をお持ちである。

 

 この頃の職位の順位で言うと、

大庭本部長・高橋企画室長・酒井工場長・安藤技術本部長・古谷企画部長・田崎KMC社長・北村営業部長・佐伯リンカーン社長・坂口カナダ社長の順位で、

大庭さんが常務、高橋・酒井さんが理事安藤・古谷・田崎・北村が部長佐伯・坂口が課長 という時代なのである。

 

大庭さんも、この年の7月に単車に来られたばかりで、結構オモシロかったのは、大庭さんは川重の受注部門におられたので、納入先はお得意さんで、そういう意味ではKMCも、リンカーンも、CKMも明石工場から見ると『お得意さん』なので、田崎さんや、佐伯・坂口さんなども『お得意さん』と見ていた節があって、そういう意味での『お得意さん招待』の会席だったのだと思う。

この時は9月だから、少しはお分かりになった時期かと思うが、8月に最初にアメリカの現地を訪問された時は、非常に丁寧で、田崎さんはちょっとびっくりしたと言っていた。

佐伯さんなども何百人も従業員のいるリンカーン工場の社長さんなので、扱いがめちゃ丁寧だったようだが、帰国されて『佐伯社長はKHIでは課長ですよ』と言ったら『ア、課長か』と言われたのが、印象に残っている。

これは、その翌月のことだから、田崎さんが部長、佐伯・坂口さんは課長だという認識はおありだったと思うのだが・・・

 

それにしても、この9人の中から川崎重工業の社長が二人副社長が二人生まれているのだが、このころはまだ単車が再建できるかどうかも解らなかった『単車事業部再建』時代で、この日の翌日は上京して山田副社長・松本専務への『単車事業部報告』がなされているのである。

 私は企画部長として、アメリカと本社上層部を繋いでいた 『懐かしい時代』なのである。

 なかなか大変ではあったが、単車が一番活気のあった時期だと思う。

 当たり前だが、皆さんお若いが、私もちょうど50才の頃である。

 

 

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小池百合子さんと田崎さんと吉田さん

2017-06-23 10:06:36 | カワサキ単車の昔話

 ★世の中、社会的に地位の高い人を『エライ人』という。

私の周りにも社会的地位の高い人は沢山いて、川崎重工業の社長をした田崎雅元さんなどは、間違いなくその部類に入るのだろう。

 

   

 

  最近、その田崎さんから私のところに毎日のように情報が入る。

 私は過去の記録はふんだんに持っているのだが、実は写真は殆ど持っていない。

 その点、田崎さんは写真はいっぱい持っていて、いろいろと送ってくれるのである。

 この写真も、1986年だから大庭さんが単車の本部長時代、高橋さんは取締役、田崎さんはKMC社長だったが、川重の職位で言えば部長の頃である。その後大庭さんは社長に高橋さんはその副社長で支えたのである。

このお三人、みなさん、普通の人では真似られない『独特のもの』をお持ちだから、いいなと思っているのである。

一般に世間で『偉くなる』と、逆にいろいろと言われるのは仕方がないのだが、それ以上の『独特のもの』をお持ちならそれでいいのでは、と思っている。

 

★田崎さんが何を思ったのか、写真や情報をいろいろと送ってこられるのも一種独特で、完全にずっと昔の『私と田崎さんの関係』に戻ってしまっているのである。

それは兎も角、昨日から東京都議選が始まったが、自民党と対する一方の旗頭『小池百合子さんとのツーショット』の写真を送って来てくれたのである。

 

   

 

2004年、小池さんは環境大臣、田崎さんは社長の頃だろう。 東京兵庫県人会とある。

そういえば小池さん、関西学院大学中退して、アラビヤの大学に留学されたようである。

田崎さんは、こんなコメントをくれている。

小池百合子 東京都知事は、モーターサイクルのサポーターですが、若い時、カイロ留学中に川重の駐在員にお世話になった、と言っていました。』

 川重社長と大臣ならどちらが格上か知らぬが、『どんな人と会ってもも決して動じたりしない』のが田崎さんのいいところで、多分、この時も堂々と接したに違いないのである。そういう面では、日本人離れしていて、アメリカ人みたいなところがある。

ここで、『モーターサイクルのサポーターですが・・』と入っているのは、その当時どうだったかはもう一つ定かではないが、今は間違いなく小池さんは『モーターサイクル・サポーター』なのである。

 

  

 

 Facebook の吉田純一  https://www.facebook.com/junithi.yoshida?fref=ts のところに使われている写真である。

吉田純一さん、カワサキ出身である。 

それも川重ではなくて、カワサキオートバイ販売(現在のKMJ)の昭和42年度(1967)定期採用者である。 

私の周りで偉くなった人は沢山いるが、何と言ってもそのTOP は吉田純一さん、通称今でも『純ちゃん』で通っている吉田純一さんだと、私は思っている。

 

 今は こんな立派な全国組織になっている

     全国オートバイ協同組合連合会

 

     http://www.ajac.gr.jp/outline.php?id=4  だが、 

旧く大阪からスタートし、仲間を募り1県づつ組織を創って、今や全国組織に創り上げた。

 

長年勤めたその全国会長を昨年譲って、『一般社団法人 日本二輪車文化協会』を立ち上げたのである。

日本にまだ育っているとは言えない、『日本独特の二輪文化の創造』は壮大な夢だと思う。

 

   

 

 いろんな方たちが協働するようである。

 

彼の人柄だろうが、オートバイ議連に名を連ねる超党派先生がたと、『オトモダチ』のようなお付き合いだし、

『純ちゃん』が声を掛けると、あの忙しい東京都都知事の小池百合子さんが、やってこられるようである。

これはごく最近の東京都の会合の時のツーショットのようである。

 

   

 

  声を掛けたら『小池さんがやってくる』 

 これはなかなか、声を掛けるのも普通ではムツカシイし、声を掛けてたら『来てくれる』ところが吉田純一さんの実力である。

 

   

 

 純ちゃん 偉ぶらないのがいい。

人に頼むだけではなくて、頼まれたらホントに気さくに動くのである。

これはオートバイ神社の件で三木を訪ねてくれた吉田純一さん、昔の仲間達とうどん屋さんとの記念撮影、シャッターを押したのは私なのである。

日本二輪車文化協会の活動も何らかの形で、みんなが手伝えたらいいなと思っているのである。

オートバイ議連の先生がたや、小池百合子さんは手伝ってくれるのは間違いないので、

古巣のカワサキも田崎さんあたりも、手伝ってくれたらいいなと思っているし、私も何らかの形でお手伝いが出来たらいいなと思っている。

そんな忙しい吉田純一さんだが、毎日Facebook で繋がっているのが『ネットの世界の良さ』なのである。

 

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田崎さんが送ってくれた写真から

2017-06-17 07:18:12 | カワサキ単車の昔話

★私は、いろんな記録は持っているのだが、現役時代の写真は殆ど持っていない。

先日来、田崎雅元さんが、いろいろと写真をいっぱい送ってくれてるので、その中から旧いものを並べてみたい。

 

 

 

 まずこの写真、多分 MCFAJの富士の裾野の朝霧高原であった全日本モトクロスの写真ではないかと思う。

 山田熙明さん、当時は技術部長のころだが、髙橋鐵郎さんは解るが、田崎さんその間かな? メカニックの福田・藤森さん、など何となく解るがあとはよく解らない。井出哲哉さんと松本博さんかも知れない。

 

  

 

 これは鈴鹿アマチュア6時間耐久、カワサキが初めてレース監督大槻幸雄・副監督田崎雅元と監督を指名したレースで、ロードレースはこれが2度目、会社が認めたロードレースとしては初めてのレース、1962年6月13日。

その1ヶ月前の5月13日、鈴鹿ジュニアロードレースに、会社には内緒で初めてロードレースに出場し、山本隆がホンダに次いで3位入賞を果たしたので、一気にロードレース熱が盛り上がったのである。このレースにも、私と田崎さんは密接に関係しているのだが、現場には行っていない。3位入賞など『夢のまた夢』の話が現実となったのである。

カワサキが初めて鈴鹿を走った日     http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/8356d318b5dc414c15dd1b7488a09f63

 

この6時間耐久レースには、3台のマシンで、加藤・飯原のテストライダーチーム、岡部・梅津のカワサキコンバット、歳森・金谷の神戸木の実クラブの3チームで出場した。

山本隆は、1か月前のジュニア・ロードレースに出場したので、『アマチュア』の資格がなかったのである。そんなことで歳森康師が急遽連れてきたのが金谷秀夫で、金谷はこれがカワサキの初めてのレースである。

多分、一番手前が歳森康師、真ん中が岡部能夫、一番右は加藤か、飯原だと思う。途中歳森・金谷組も、加藤・飯原組もトップに立ったりしたのだが、両者とも転倒、岡部は1周目トップグループでスタートしたのに、『スプーン・カーブ』に水があってトップグループが何台か転倒などと言う派手なレースだった。

カワサキも、スズキも、ヤマハも当時のモトクロスライダーがいっぱい出場していた。

 

 

    

 

カワサキのアメリカ市場・開拓当時、そのリーダーの浜脇洋二さんが名付けた『7人の侍』がいたと言われている。

そのうちの6人が揃って写っている、貴重な写真である。

田崎さんがアメリカに渡ったのは、『鈴鹿6時間耐久レース』のあった年の8月、その年大槻さんもドイツ留学が決まって、8月10日にレースチームで二人の送別会をやっている。

浜脇さんの本によるとブラジル市場調査の帰り、アメリカによって、アメリカには二輪の市場があると思ったのは1964年3月のことで、ここからアメリカ市場開発が始まっているのである。

この時点ではすでに、川崎航空機では単車再建の方針が決定して、広告宣伝課なども創られ、私はそれを担当したりしているのだが、市場は国内だけだったのである。浜脇さんは社内でアメリカ市場への進出を提案し9月に本社企画から輸出課長となっている。

アメリカ市場の開拓は、ここから始まっているのである。浜脇さんがまずアメリカに連れて行ったのは企画に一緒にいた渡辺くんだと思う。彼は私の大学の後輩なので、『アメリカに行きます』と挨拶に来てくれた。

そして、その次にメンバーに加わったのは、トーハツにいてアメリカ市場にいた杉沼浩さんで、濱脇さんがどこからか見つけてきたのだと思う。これが1964年の末か65年の初めだと思う。

私も国内のことはきっちりと記憶があるのだが、アメリカの話は、何となくしか解っていなかったのに、ごく最近田崎さんがいろんな話や写真を送ってくれるので、時系列に改めて整理できることになったのである。

田崎さんがアメリカに行ったのは、明石工場としては第1号で、その任務はサービス・エンジニアだったという。それが1965年9月でその赴任地はシカゴだったのである。そして、サービスをやるには部品はMUSTということで、シカゴに部品会社を立ち上げることを提言し、それがAKMとしてできたのは1966年のことで、そのために部品の担当者の黒田くんをアメリカに呼び、会社の経理をやるために、私と同期の久保勝平くんが、アメリカに渡り、さらに明石から種子島経さんが加わって『7人の侍』となったのだろう。

この部品会社AKMが、後の販売会社KMCの母体になっているのである。

 

 

 これは1973年とあり、岩城さんも顧問となっておられるが、KMCの初代社長は当時の川崎航空機常務であった岩城良三さんだった。 そして右端は、7人の侍の一人で、上の写真には抜けている杉沼浩さんなのである。

 

 田崎さんからの写真、他にもいっぱいある。

 

  

 これはIKS20周年 ということであれば、多分89年以降だろう。IKSには直接関係のない、私がいるのはよく解らないが、ひょっとしたら記念講演のスピーカーとして呼ばれた時だったのかも知れない。

左から3番目が山田晴二さん、この時はIKS社長だが、濱脇さんの次のKMC社長でもある。私の右は同期の鈴木啓司さん当時はIKSにいたと思う。後列のメンバーも、皆さん懐かしい顔ぶれである。

 

 

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鐵郎さんと宏さん

2017-06-03 20:58:49 | カワサキ単車の昔話

★『宏さん、亡くなってしまいましたね。 いろいろ聞きたい事もたくさんあったのに、残念です。寂しくなりました。ところで、宏さんが、KMCに出向したのは、何時ですか。また山田晴二さんがKMCの社長になって、浜脇さんが帰国して、明石で幹部を集めて、変わった挨拶をしたのは何時だったですかね。 何かマナーが悪いと言われたので、後のハーフは皆さんと一緒に回る、というようなスピーチだったと思います。』

ダンピングの調査資料を、アメリカ大使館から受け取ったのは、1977年7月、これは国内の販売費用と深くかかわっていると、宏さんとカワ販の田中社長に説明し、カワ販を無くさなければならなくなるかも、と云ったのが、11月1日で 翌2日も続けて会議している。田中社長の言葉は、「泣く子と地頭には勝てないという事だな」であった。その後、カワ販定期入社組の猛反発もあり、貴方の出番となった。確かに当時のカワ販は、OBを沢山抱え、KHIからの輸出マージンがあったり、健全とはいえなかった。

 

 

どちらも、昨日田崎雅元さんから、頂いたメールの一部である。

最近、田崎さんとこんなやり取りが毎日続いている。 

 田崎さんとは、何度も密接に繋がって、いろんなことを一緒にやっているのだが、この二つのメールの頃は、1975年から79年ぐらいの間のことで、田崎さんも私も当時の発動機事業部の企画室にいたころから、発動機事業本部の中に単車事業部が出来て高橋鐵郎さんが事業部長になられたころの話なのである。

 

宏さん』と田崎さんが書いてるのは「高橋宏」さんのことで、当時の企画部長、私も田崎さんもその下にいたのである。部員制で課はなかったが、古谷・田崎のほかに田付・種子島・武本・森田・岩崎・佐藤・繁治などなど、その後のカワサキを支えた人たちがいっぱいいて、その大将が『宏さん』だったのである。

当時の技術本部長が高橋鐵郎さんで、『高橋さん』というと紛らわしいので『鐵郎さん宏さん』と呼んでいたのである。

このころの私のちょっと上の先輩たちは、私も旧制中学なのだが、旧制高校の方もいるし陸士や海兵からもう一度大学に入った方もいるし、年次とお年がよく解らなかったのだが、『鐵郎さん』は海兵からだし、『宏さん』も旧制高校だったし、濱脇さんも大槻さんも旧制高校から大学で、昨日『宏さんの訃報』を頂いて87歳だったことが解ったような次第なのである。

故郷の出雲に戻られて天寿を全うされた『宏さん』である。お世話になりました。こころからご冥福を祈ります。

 

★この昭和50年(1975)からの数年はカワサキの激動期で、その真ん中におられたのが『鐵郎さんと宏さん』でそれを支えていたのが『私と田崎さん』だったと言えるのだろう。

ちょっと時系列に並べてみると

● 昭和50年10月(1975)に私は企画室にカワ販の10年間の出向から帰任した。『宏さん』が企画部長、企画室長は本社から来られた堀川運平さんだった。塚本本部長・青野副本部長の時代である。吉田専務が『小型プロジェクト』の旗を振られていた。

● 私が起案した『開発途上国の小型車CKD対策』として『市場開発プロジェクト室』が出来てその長には『鐵郎さん』が座られた。『鐵郎さんと宏さん』が話し合われて私は『鐵郎さん』のほうに異動することになった。昭和51年11月(1976)のことである。

● この『市場開発プロジェクト室』には、技術屋さんとしては藤浦さんや、佐伯さんもいたのだが、どんどん順調に拡大してヨーロッパ営業もその中に入り『鐵郎さん』は営業本部長になられるのだが、さらに昭和53年4月(1978)には発動機事業本部の中に『単車事業部』が出来て『鐵郎さん』はその事業部長になられるのである。その管理部部長も兼務されたが管理部員は『古谷・田崎・野田・坪井』という課長メンバーでまた田崎さんと一緒になったのである。

●この昭和53年4月(1978)には、この当時の事業本部の一応の対策も終わって、堀川運平企画室長は本社に戻られ、10年アメリカのKMCを担当された浜脇洋二さんも川重本社に、大槻幸雄さんはガスタービンをおやりになるためにジェットにそれぞれ異動されて、KMCは発動機出身の山田晴二社長に『宏さん』はそれを支える副社長で出向されることになるのである。

● その間、突如勃発したのが『ハーレーダンピング』で、それを田崎さんが担当していたのだが、『ダンピングの調査資料を、アメリカ大使館から受け取ったのは、1977年7月』と田崎さんの昨日のメールに書いてあって、そのスタートの日付が正確に解ったのは昨日が初めてなのである。 これが昭和52年(1977)のことで『カワ販を無くさなければならなくなるかも』と言ってるように、これは大変なことだったのである。

● その後、この問題はいろいろあったのだが、10年間もカワ販に出向していて田中社長の下にいた古谷にこの対策をさせるのは気の毒とこれは多分『宏さんの配慮』で除外して頂いていたのだが、なかなか具体案が出来ずに、最後に私にお鉢が回ってきたのである。その指示を直接塚本本部長から言われたのは昭和53年10月(1978)のことで、対策案を創るだけかと思っていたら、昭和54年度(1979)からは、私自身が『カワ販常務』に指名されて国内担当となり『鐵郎さん』はその副社長として支えて頂いたのである。

 

★この『ハーレーダンピング』でカワサキは揺れたのだが、続いて『HY戦争』がアメリカ市場に飛び火して、当時の事業を支えていたKMCの経営がおかしなことになり、『鐵郎さん田崎さん』コンビでアメリカに渡ることになるのだが、これから先は、事業部というより川崎重工業本体の経営を揺さぶることになり、その対策を担当した中枢は、むしろ本社財務のメンバーたちになってゆくのである。

この時代のことは、ほんの数人の人しか解っていないし『語れない』のである。

その数少ない『鐵郎さん宏さん』が逝ってしまわれた今は、事業部出身で解っているのは『私と田崎さん』くらいになってしまったのである。

田崎さんのメールにある『カワ販定期入社組の猛反発もあり』というのは、田崎・野田・古谷でカワ販の第1期、2期の定期採用の富永・山田君に意見を聞いた時、田崎さんの九大の後輩二人、特に山田君が『自分の墓は掘れません』と俄然反発したことを言っているのだと思う。

そんなカワ販のいろんな事情、特にカワ販独特の メイハツ・メグロ・旧代理店従業員・カワ販定期採用・川重からの出向者という複雑な人たちが集まった『カワ販』の事情の理解者としては、その『カワ販』に10年出向していた私が適任だったのかも知れないのである。

 

★この10年間が、カワサキの二輪事業にとっても、田崎さんと私にとっても、激動の10年間で、この危機を乗り越えたから、『今のカワサキがある』と言って間違いないのだが、この間の事情をご存じの方が、どんどんおられなくなってしまうのである。

 

  

 

いつか『カワサキ』が社史でも作るようなことがあれば、それを語れる人がどんどん少なくなってゆくので、その事実を誰かが語っていかないといけないと、昨今は田崎さんも何となく、そんな想いをお持ちのようなのである

メールでこんなことも書いてきている。

 私は、1958年入社、ジェットエンジンオーバーホール工場の品質管理担当で、神武事業部長は九大の大先輩、苧野さん、桑畑さん、田村さん高橋さん、中村さんも一緒だった。神武さんが単車事業部に移籍してから、次々とジェットの人が単車に移り、私は1962年の夏に、一度は、発動機のディーゼルエンジン部門に移籍し、中村さんが話が違うと、人事の森さんにねじこみ、夏のボーナスを貰っただけで、単車工作部に移籍になった。この年に結婚したのだが、来賓が「前途有望な航空機エンジニア」と持ち上げた直後の、単車移籍となり、家内は「何か悪い事でもしたのか?」といった。すぐにバイク屋の女房にせねば、と会社のB8を借りて、後ろに乗せてツーリングを楽しんだ。

暫くすると、発動機の機械職場を編入することになり、組長どうしの融和調整にはいろいろと手こずった。メカニックを連れて レースのお手伝いをしたのは、この頃のことである。

そして1965年には、高橋さんから、身体は大丈夫か、とアメリカ行きを指示された。だから生産中のB8やJ1のエンジンは毎日の様に扱い細部まで良く知っていて、カットエンジンなどを造って、教育担当の種子島さんの生徒(養成工)の面倒も良く見たのである。

 田村さんは大分後から参加してきたが、後から出るほど重要な人材なのだ、といっていた。神武さんというトップが移籍したのだから、重要な人材から順に、引き抜かれたのでは?などと、からかった。彼は販売店に行ってサービスを勉強し、整備士の資格をとったり、下手だったライディングも怪我をしながら猛訓練したり、先輩には失礼な表現だが「口は悪いが頼りになる」ナイスガイであった。

後に、米空軍ジェットエンジンシステムの経験者、『田村技術サービス、田﨑部品補給』でサービス体制が整えられていった。

 

 カワサキの単車のスタートは、事務屋は当時の本社から、技術屋はジェットエンジン部門から有能な人材が集まってきた。とりわけ生産・品質管理や部品システムは、アメリカ空軍のジェットエンジンの品質管理システムや、IBMシステムが持ち込まれて、当時の日本の一般の管理システムとは10年程の開きがあったと言っていい。

川崎航空機の同じ会社で発動機から分離した単車だが、いろんなシステムで、単車は常に発動機をリードしていたのは、『ジェットのシステム』の影響が大きかったのは私も認めるものである。

田崎さんの話に出る田村一郎さんは、カワサキの名物男だが、田村さんが品証に来られた時、新しい取扱説明書などの製作費が膨大だったのだが、それを広告宣伝費から都合して差し上げたりしたのである。

 

そんな時代の 山田熙明さんも、苧野豊秋さんも、小野田滋郎さんも、中村治道さんも、安藤佶郎さんも、両高橋の鐵郎さんも、宏さんまで、昔のカワサキを語れる人がどんどん少なくなってしまうのは、本当に寂しいことなのである。


SPA直入の名付け親 岩崎茂樹くん

2017-05-29 06:23:05 | カワサキ単車の昔話

★ SPA直入は、大分県直入町にある。 

炭酸泉で名高い長湯温泉にあるカワサキのサーキットである。

 

   

 

    

 

 こんな大自然の中にある小さなサーキットだが、『SPA直入』のSPAは、誰しも温泉のSPAからだと思うのだが、このサーキットの名付け親、岩崎茂樹くんは、確かにその意味もあるのだが、ベルギーの世界的な名門サーキット、スパ・フランコルシャン とかけての『スパ』だというのである。

 岩崎茂樹は、バイク好きで、なんでも知識豊富で、何をやらしても器用にこなす、『カワサキの名物男』だったからご存じの方も多いだろう。カワサキが唯一、鈴鹿8時間耐久に優勝した時の『スポーツ・推進部長』でもある。

いい男だったのに、退職後早く逝ってしまった。

 

   

 田崎さんがそんな岩崎君と私も一緒に写っている写真を送ってくれたのだが、それが92年10月直入町とあるので、冒頭のネーミングの話も、思い出したのである。

彼はカワサキの中で、特に上の人、それもTOPレベルの人に気に入られていた。

別に『おべんちゃら』を言うわけではないのだが、ほんとに『役に立つ』のである。

川崎航空機入社当初は本社の監査室にいた。生野高校野球部出身、多趣味で、狩猟もやるし、その頃からハーレーに乗っていて、バイクにも詳しかったので単車事業を本格的に始めた昭和38年からカワ販の販売促進部に異動してきたのである。

それ以来、『彼のお世話になった上司』というのはちょっとおかしな表現かも知れぬが、間違いなくみんな『彼のお世話』になったのである。

まず最初は、本社人事課長からカワ販の販売促進部長に来られた矢野昭典さん、次いでカワ販に出向されてきた高橋鐵郎さん、矢野さんは九州で、営業部門は初めての高橋さんをあちこちに案内したのは岩崎で、高橋さんはマーケッテングに大いに関心を持たれるようになったのである。今もある大阪プラザの土地は、高橋・岩崎コンビで見つけて来たものである。

カワ販から川重に戻ってからは、企画で田崎雅元さんとのコンビで、リンカーン工場などアメリカを担当し、そのあと高橋鐵郎さんが『市場開発推進室』に来られた当時は、イランを担当して、テヘランに駐在してイラン語を喋ったりしていた。

そのあと、広報を担当して大庭本部長時代の『ニューモデル発表会』を世界を舞台に展開したので、このお蔭で世界の各地に取材に行かれた日本の雑誌社の記者さんやカメラマンもいっぱいおられるはずである。大庭さんも勿論岩崎くんはお気に入りだったようである。

その頃、田崎さんはKMC社長をしていて、彼はしょっちゅうアメリカにも行っていた。

 

★ 私も彼とはいろいろと接点があって、まずはレースのマネージメントを引き継いでくれたのが岩崎である。

そして、何よりも SPA直入は私と岩崎の二人で造ったと言ってもいい。 

起案したのは私だが、具体的な絵を描いたのはすべて岩崎茂樹なのである。サーキットコ―スなど大きな建築会社でもやった経験はなかったので、コース設定から勾配まで殆ど基本設計構想は岩崎茂樹なのである。

別にサーキットの玄人ではないのだが、やるというと無茶苦茶勉強して、短期間に自分の知識にしてしまうのである。

博学者』なのだが間違うこともあるにはある

 

その間違いの代表例を一つ、田崎雅元さんとのコンビでやってた企画の頃、田崎さんが『顧問の問』には口があったか?と聞いたそうである。

まだパソコンのない手書きの時代、それも塚本本部長に提出する書類に『顧問』という字が要ったらしい。

岩崎即座に応えて、曰く『顧問の問には口はありません。あれは会社を辞める時ですから、その会社を懐かしんで門を何度も振り返ってみるから門ですから、口はないのです。』と言ったらしい。

相手が悪かった。

塚本さんの趣味の一つは『辞書を引くこと』だったのである。

田崎君、顧問の問が違う。これは顧みて問う から来ているので問である』と言われたそうである。

ただ、岩崎茂樹は物知りで通っていて、なんでも『尤もらしく』いうので田崎さんもつい引っかかってしまったのである。

この話、田崎さんにさせるともっと面白く、延々と続くのだが・・

 

 

   

 

ドイツ人の熱烈なZ1愛好家のミッキー・ヘッセ がこの本の取材に日本を訪ねた時、親切に面倒を見たのが『岩崎茂樹』くんである。 この本の見開きには『恩顧知新』という文字が書かれてある。

旧いZのことなどよりも、今の新車のことばかりを言う人が多かった中で、岩崎だけが ミッキー・ヘッセ に親切にして『恩顧知新』を彼に説いたのだという。それを甚く感じ入ってその日本語を本に大きく書いているのである。

 

2007年に『岩崎茂樹』のことをブログにアップしたら、沢山のコメントを頂いたのだが、その中に、登山道夫さんからこんなコメントを頂いたのである。  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/cb3b1d385dd20b2ef0deacc4d4f7605d

 

登山さんも、熱烈なZ1ファンで、ミッキー・ヘッセともよくご存じなのである。

   

 

 そんなことで繋がって、いま登山さんはNPO The Good Times の事務局長をお願いしている。

 

  

 

 これは、2年程前のことだが、 Z1開発責任者の大槻さんとも、山本隆くんとも、ミッキー・ヘッセさんは繋がったのである。

 

  

 

 みんな、岩崎茂樹が繋いでくれた、『ご縁』なのである

 

 

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American Kawasaki Mortorcycle Corporation

2017-05-28 05:45:21 | カワサキ単車の昔話

★このところ、毎日、田崎雅元さんとメールのやり取りをやっていて、沢山の写真を送ってくれている。

田崎さん、川崎重工業の社長もしたエライサンだが、私にとっては若い頃から退職するまで一緒に仕事をした『いろんな想い出を共有する仲間』なのである。

カワサキが二輪事業を始めてもう50年を過ぎているのだが、二人ともそのスタートの時代から単車に異動して、田崎さんは生産、私は営業だったのだが、『レースチーム』をご縁に繋がったのである。

田崎さんは、何回もアメリカ勤務をしているのだが、最初のアメリカ行きが決まったのは、1965年6月のことで、その時は『レースチーム』から大槻幸雄さんがドイツに留学されるということでで、お二人の送別会を明石デパートの屋上のビアホール行っている。

会費は1000円だったと思うが、当時の1000円は結構高かったそんな時代だった。

 

★ 田崎さん、写真と一緒にこんなメールを送ってくれている。

 

1965年8月日本出発時の為替レートは、360円、一人当たりの持ち出し限度額は、500ドル、で闇ドルの価格は、400円だった。9月に最初の渡米地シカゴで、渡邊さん、と二人の出張所を設けた。

その後、種子島さんがやってきた全米をカバーするサービス体制を強化するには、まず部品センターが必要だという事になって、その後、黒田さんもやってきて翌年1966年3月に部品センターを設立した。』

 

 

 

シカゴに『部品センターを設立した』などと大きなことを言ってるが、この時田崎さんは係長にもなっていない『ペイペイ』の頃なのである。

当時、第1線に出た連中はみんな若かった。単車事業自体がスタートしたばかりで経験者がいなかったから、若手がいろいろとやったのである。

 

アメリカ市場開拓の旗を上げたのは当時本社企画にいた浜脇洋二さんである。

渡辺くんは日本で本社の浜脇さんの企画にいたので、一緒にアメリカに渡ったのである。彼は大学の後輩だったので、アメリカに行く前に挨拶に来たのを覚えている。それにアメリカ市場のトーハツにいた杉沼浩さんが加わっているのだが、田崎さんは日本人としては4番目、明石工場の単車事業部としては、初めての人材派遣だったのである。

世に言われる『7人の侍』が揃うのは明石から種子島・黒田くん、本社から久保勝平くんが加わってからのことなのである。

 

 

AKM(American Kawasaki Mortorcycle Corporation)である。これがKMCの創立という事になっている。

会社である以上、税務のこともあり経理屋さんが必要だと要請したら、ノートにつけて時々DKBで見て貰え!などと乱暴な返事がきたが、さすがに5万ドルの資本金と部品のコンサインメント(日本からの委託販売で売れたら支払う契約)もあり、田中 誠さんが、久保勝平掛長(カケ長と呼んでいた)を連れてきて、置いて帰った。』

 

久保勝平くんは、私と同期だから田崎さんより1期上、この年係長になったばかりの時である。 久保勝平君、大学では法科だったのに、川崎航空機ではなぜか本社経理に配属されて、経理学校に通って経理を勉強したのだが、その学校で開校以来『こんな真面目で熱心な生徒は初めて』と言われる逸話の持ち主なのである。

田中誠さんは当時は本社の財務担当取締役だった。 久保勝平君がそんな経緯でKMCに行ったとは、今まで私も知らなかったのである。

 

 

当時の『7人の侍』のうちの6人で、もう一人が杉沼浩さんである。

7人のうち杉沼さんは、元トーハツのアメリカ市場の経験者で、英語も話せたしアメリカの事情もよく解っていたのである。

 

   

 

  

 

車で言うと、WIだとか、A1 の時代である。

W1は、何故かアメリカ市場では、通用しなかった。

 

アメリカで、カワサキが認知されだした最初のマシンはA1なのだろう。 その開発当時、アメリカを走り回ったというのが百合草三佐雄さんで、シカゴの事務所が拠点の一つだったようである。

田崎さんは私へのメールでこのように書かれている。

A1のテストは、百合草三佐雄さんが担当していたのだが、シカゴから南部へ向けてプロのライダーに走行して貰い、私が車のチェックをしたものです。1966年1月の事で百合草さん、種子島さんも居たのですが、二人ともまだ車の運転ができなかったので、杉沼さんがライダーと契約し私が伴走車を運転しながらのテストだったと思います。

 

 当時のことを百合草さんは、『カワサキZの源流と軌跡』の中で、このように書いている。

『1965年、A1のテストをアメリカで実施した。各代理店を訪ねた時最大の要望は『故障しない』ことであった。広大なアメリカ大陸では『故障で止まること』は日本では想像もできない危険に遭遇する。砂漠の真ん中のハイウエイで故障したら大変である。夏では40度を超す猛暑、冬は零下になる。いずれの場合も生命に影響する。・・・・』

百合草さんは、昭和35年(1960)年入社で種子島さんと同期だから、未だ入社5年目の若手だった。

 

★カワサキのアメリカでのスタートは、田崎さんがシカゴで造った部品会社AKMが今のKMCの前身なのである。

浜脇洋二さんがリーダーで、杉沼・渡辺・田崎・種子島・久保・黒田の日本人『7人の侍』に、アメリカ人のアラン・マセックが加わって、カワサキのアメリカでの二輪事業はスタートするのだが、アラン・マセックが加わったのも66年で、田崎さんはその経緯をこのように書かれている。

 

1966年に種子島さんと一緒にネブラスカ、スコッツブラフのMASEK AUTO を訪問した。

浜脇さんから頼まれていたのだと思うが、オーナーの息子のALAN MASEKに カリフルニアで働かないかと打診した。たまたま フランスのソルボンヌ大卒のエリートの奥さんがこんなド田舎の生活はもう嫌だといって、喜んでカリフルニアに行きたい、と言っていたので、それを浜脇さんに伝えた。このヘッドハンティングの成功が後の浜脇社長ーALAN MASEK販売担当筆頭副社長コンビのKMC長期政権の誕生となった。ちなみに、ALAN も ハーバード大卒のエリートである。

 カリフルニアにもAKM支社が出来、安藤佶郎さんも出向してきた。次は東海岸だと米人マネージャーと後のEKMの建屋を探したりした。

 安藤佶郎さんは、大槻幸雄さんのあとのカワサキのレース監督で、1966年まで私と一緒にレースを担当されF21M のエンジンなどを創られたのだが、この年の末、レースチームから安藤さんはアメリカに、私は仙台に行くことになるのである。

1967年の1月のことで羽田からアメリカに発たれる安藤さんを当時は伊丹では沢山の人たちが見送ったのだと思うが、羽田空港では私一人で安藤さんのアメリカ行きを見送ったのである。

 

単車事業のアメリカ進出時は、後川重社長にもなられた四本潔さんが未だ川崎航空機時社長の時代だが、直接浜脇さんの後ろ盾になって応援して頂いたのである。

田崎さんのメールは、こんなことも書かれている。

 『浜脇さんも時々やってきて、四本社長、中南さん、も来社した。四本社長を空港で遅れて走らせたり、お前たち金がないのだろう、と我々のエアーチケット代を払って貰ったりしたら後で聞くと日本で経理に苦情を言われたらしい。とにかく外貨不足で、現地の日商で借りたりして、後でお前たちは外為法違反だ!と叱られた。

 商社安宅との縁切り話もあり、浜脇さんの指示でNYへ行くことになり、それならついでに東部販売店のサービスを、とシカゴからニューヨークまで一人で車を走らせた。  安宅の高木社長はカナダの石油に手をだし安宅を潰し、(ザ・商社)という映画にもなった有名な人だが、カッコイイ,ビジネスマンだった。

全米の関係商社、ディストリビュウターから、一度渡した販売権を返して貰うのが浜脇さんの戦略で、ユーザーに迷惑をかけないためにはメーカー直接のサービス網の拡充が重要な課題になっていた。

 1966年末に、岸田課長から帰国命令が出たが、1967年早々に、また大仕事が命じられた。商社、ディストリビューターの変更でカナダに売った大量の製品を梱包状態のまま転売することになり、かなりの期間も経過しているので品質の保証に立ち会え!というのである。最後の仕事として、それを片づけ、西部支社の安藤さんに、サービス業務を引き継いで、3月に帰国した。

 

★田崎さんも67年3月には帰国して、今度は日本で部品を担当することになるのだが、その時やっと係長昇格でいろいろアメリカでやってた時代は『大きな仕事』だったがぺいぺいの時代なのである。こんな貴重な経験が、いろんな形でその後に生かされていくのだと思う。

この時代、初期のカワサキのレースを担当していた人たちが、初期のカワサキの事業も引っ張ったのである。

山田熙明・苧野豊秋・中村冶道・髙橋鐵郎・大槻幸雄・安藤佶郎・古谷錬太郎・田崎雅元・百合草三佐雄 年次順で並べるとこうなるが、この中から川崎重工業社長と副社長が二人出ているのである。

 

 

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大西畔さん と 山田熙明さん 

2017-05-22 05:42:23 | カワサキ単車の昔話

★このところ、ずっと『カワサキの二輪事業と私』と題した 自分史を田崎雅元さんが手伝ってくれている。

昨日は写真をいっぱい送ってくれたのである。 

そんな中に写っている 大西畔さん、山田熙明さんは、お二人とも当時の川重の副社長で、私や田崎さんはなりたての新米部長で、職位だけでで言うと、直接話をすることすら普通ではないのだが、この時代は『KMCの大赤字対策』が即『川崎重工業の最大の経営対策課題』であったことから、私も田崎さんも副社長直接にいろいろと対策案などのお話が出来たりしたのである。

 

アメリカのKMCで、新社屋の土地を見たり、そのあと大西さんをリンカ―ンまでご案内したことはよく覚えているのだが、それがいつのことだったか、どんな経緯だったのかは全然覚えていないので、人間の記憶などは頼りないものである。

当時の日記をひっくり返して調べてみると、84年の10月8日に、田崎さんが日本に来てKMCの事務所の件など検討していて、翌日川重本社に大西副社長を訪ねてこの件のご説明などして、社長・副社長の承認をとっていて、翌週17日に大西副社長がアメリカ出張されるのに合して、田崎さんと私がアメリカまで同じ飛行機でお伴して、そのあと私はリンカーまでご一緒しているのである。

 

    

 

これはアメリカ市場視察でKMCの新社屋用地をご覧になった時の写真である。

 

大西畔さん はずっと本社財務育ちで、私は1979年に『カワ販再建』のためにカワ販常務になるまでは、お目に掛ったこともなかったのである。

ハーレーダンピング訴訟』対策を担当していた田崎さんが、その対策として『国内の販社の構造対策の必要性』を提言したのだが、その具体的な対応策の立案がなかなか、ムツカシクて最後に私にお鉢が回ってきて、その対応案は『私が創った』のだが、まさか自分がやるとは、全然思ってもいなかったのである。それまでのカワ販を統率しておられたのは、元川崎航空機の取締役をされていた田中誠社長だったのである。

そんなグループの長を、まさか課長の私がやるなどは、『考えられなかった』のは当たり前のことなのだが、その指名を髙橋鐵郎さんに直接されたのが、大西副社長で、川重副社長のご指名だったので、私のカワ販常務が実現したのだと思う。

ただカワ販再建問題も大問題だったので、その後は毎月大西副社長にカワ販の状況報告をしていたので、79年1月以降は毎月お会いしていて、非常にラッキーだったには、FX400が出てバカ売れしたので、カワ販の損益は黒字どころか、かっての累損も消去できて、そんなことで『信頼』が得られていったことは間違いないのである。

販売会社にも非常に興味を持たれて、何度もカワ販の会合に出席いただいたりしていたのである。

サンタナでも、翌日のロスの銀行挨拶周りでも、夜もご一緒したのだが、田崎さんは『社長』と呼ばれ、大西さんは『副社長』と呼ばれるものだから、『やはり副社長よりは社長のほうがいいな』などと、仰っていたのである。

 

   

 

これもその時の写真だろうと思うが、ヨコにおられるのは田崎夫人なのである。

この出張は、大西副社長とご一緒だったので、South Coast Plaza や、ロスでは『ホテル日航』など一流ホテルに泊めて頂い    たのである。

 

 ★こちらは山田熙明さんで、至極くつろいでおられるが、KMCの運動会の会場だそうである。

 

    

 

山田さんとは レース創世期には、単車の技術部長だったので、ライダー契約やレース現場でもご一緒したりしたので、当時の田崎さんや私には、何か『仲間意識』のようなものをお持ちなのだろう。

この写真の当時は、川崎重工業副社長で、『単車事業再建対策委員長』という厳しい要職にあったのだが、田崎さんとこの運動会での山田さんのこの表情からは、ホッとされているところがみえて、ほんとに山田さんらしさが出てるなと思っている。

 

山田さんには、特に私は神戸一中の後輩だということで、特別に目をかけて頂いたように思う。旧い神戸一中の先輩たちの意識の中には何か『男女共学になってからの神戸高校』は『神戸一中ではない』という不思議な感覚をお持ちのようなのである。

確かに、かっての神戸一中は『昼飯は校庭で立ったまま食う』というようなところがあって、男女共学になってからは、『立食』の風習は残っていたが、流石に運動場で食う立食風習は無くなっているのである。

昔の男女共学ではない神戸一中だけが、ご自身たちの母校だと思っておられる節があって、『お前は旧制の神戸一中か』と言って、面倒を見て頂いたのである。ちなみに私は旧制中学の最後の学年なのである。

確かに、中村冶道さんという明石高校の先輩もいたのだが、かって女学校だった明南高校が甲子園に出た年に『女学校が出てるのに明高は何をしとるのか』と明石高校野球部OBの私に文句を言われたりしたのだが、同じような感覚かも知れない。

中村治道さんは、あのカワサキの青野ヶ原のモトクロスの旗を振られた 熱血漢である。

 

   

 

 田崎さん、こんな写真も送ってくれている。

これは、その翌月、KMCのデーラーミーテングの機会に、当時国内にジェットスキーのレース組織、JJSBAを立ち上げるべく渡米された苧野豊秋さんをアメリカのジェットスキー協会と田崎さんが繋いでくれた時の写真である。

苧野さんは、田崎さんはジェット時代、私は単車に来てから国内関係ではずっとお世話になった上司なのである。

奥寺課長や石川薫さんなどの懐かしい顔も見える。

私も50代前半だから、結構スマートなのである。 懐かしい時代である。

 

カワサキの二輪事業と私』は、このほかの写真もいっぱいなので、別途アップしたいと思っている。

  

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田崎さんからの メール と写真

2017-05-05 07:00:28 | カワサキ単車の昔話

 

★ 田崎雅元さん、元川崎重工業の社長さんで、エライ人なんだが、私にとっては、若い時からいろいろと一緒にいろんなことをやった仲間だし、今でも昔の儘に気安く話せる『オトモダチ』なのである。

そんな田崎さん、いま私が毎週綴っている『カワサキ二輪事業と私』に興味を持っていただいて、いろんなデーターなど送ってくれるのである。

このシリーズも段々と佳境に入って、愈々次回からはそれこそ田崎さんと協働した『KMC対策時代』に入っていくのだが、私はいろんな記録は持っているのだが、当時の写真がないので、『田崎さん、持ってませんか?』とメールしたら、こんな貴重な写真を、自ら書かれたメッセージと共に送って頂いたのである。

次回の『カワサキ二輪事業と私』にもご紹介しようと思うのだが、折角懐かしいこんな写真も送って頂いたので、ちょっと私なりの感想を・・・

 

     

 

左から、安藤佶郎さん、青野格事業本部長、高橋鐵郎さん、田崎さん、そして高田信昭さん、当たり前だが、みんな若いな。

髙橋さん、安藤さん、田崎さんとは、カワサキのファクトリーチームスタート時のレース仲間でもある。

高田信昭さんは、当時の本社企画課長という一番のいい出世コースを投げ出して、KMCに身を投じたちょっと珍しい人である。KMC帰国後は、カワ販の東京など東日本販売の専務なども手伝ってくれて、私が現役最後に務めた北海道川重建機の社長は高田さんが引き継いでくれたのである。

 

    

 

安藤さんがこの時、KMCの役員やられてたのは記憶になかった。私は1983年の10月からは、企画に戻ってKMCを援ける立場になるのだが、その時はもう明石の技術本部長をやられていて、いろいろと手伝って頂いたのである。

 安藤さんの雰囲気がよく出てる写真だなと思う。

 

 KMCに異動された田崎さんの挨拶状も貼付されていた。

 

      

 

 

7月初めには田崎さんのアメリカ行きは正式に決まって、当時川重の公認会計士をされていた大谷先生田崎さんを紹介すべく、大谷、坂口、古谷の大学同窓生と田崎さんとのゴルフをやったのを思いだす。

大谷先生には、その後大変だった事業部やKMCのことでホントにいろいろお世話になったのだが、気さくな先生で、田崎さんも私もずっとよく面倒を見て頂いたのである。

 

 

★田崎さんが、こんな一文をメールで送ってくれた。

     

古谷さん

貴方のお蔭で昔の話を思い出すチャンスを頂き有難うございます。

私は、1981年(昭和56年)4月1日付で部長職に昇格となった。 名刺は、発動機事業本部単車営業本部管理部 部長となっている。今思えば、当時危機的な状況に直面していた米国KMCに派遣されるという道筋が何となく出来ていたようだ。

のあたりは、古谷さんのほうが裏情報を持っているかもしれない。

KHI本社では、明石に数人いた取締役から誰かをKMCに出向させるべきだという声が上がっており、落としどころとして高橋鉄郎理事がKMC出向することになったと聞いている。6月頃だったか、ある日高橋さんから「8月からKMCに出向することになった、君も一緒に行ってもらう、僕は会長、君は社長をやってくれ!」

「ただし僕は短期1年くらいで帰国することになるだろう」と言われた。 大きな不安も感慨もなく、骨は高橋さんが拾ってくれる、と自然体で受け止めたように思う。8月に青野取締役本部長、高橋理事と共に渡米、直ちにKMCの臨時取締役会を開催、高橋さんは会長、私は社長に就任した。

その後KMCの再建のため、構造改革、特に財務内容の抜本的な改革のためKHI本社を巻き込んで増減資を含め日本サイドに販売に係るコスト、費用を大幅に移転する事になり、親会社KHIを無配に追い込んだKMCの社長、という不名誉を背負い、親戚からお前はKHIを首になるのではと心配された。

とにかく、日本車全体の過剰在庫、為替レート、250円/ドル 金利20%という市場環境、銀行からはサブスタンダードと評価され、借入には親会社KHIの保証が必要という状況の中でのキックオフであった。

緊急対策としては、増減資、リンカーン工場のKHIへの譲渡、明石からの製品、部品の輸出条件の変更(L/Cアットサイトから180日サイトへ)P/Lコストの明石負担、KMCサイドは、スノーモービル事業からの撤退、人員削減、部品倉庫の集約、対ディーラーの販売条件(フロアリングと称する掛け売り)の変更、等悩んでいる暇は全く無かった。

今思えば、当初の2年間は、もともと技術職として、品質管理、補給システムのプロとして活動してきた私にとって、未経験な分野を学びながら常識を信じて走り続ける毎日だったが、「俺が一番に困るのは何かおかしい、俺よりも困る経営幹部が必ずいる筈だ」と腹をくくっていたのでさほど悩んだという記憶はない。

KHI本社の若い人達にもいろいろ助けて貰ったが、その殆どが後に日の当たるサラリーマン人生を歩んでいる事を嬉しく思っている。

一連のKMC対策について、古谷さんには、私の明石サイドのキャッチャー役を務めて貰い、帰国後の高橋さんと共に本社との間で、随分とご苦労を頂いた。

 後に、この経験から「子会社を赤字にしてはならない!が私の経営理念の一つになった。

*************************
田﨑雅元

 

 

★この年、当初からKMC問題は、大変だったのである。

のあたりは、古谷さんのほうが裏情報を持っているかもしれない。 と田崎さんは書かれているが、当時カワ販を担当していて、毎月本社大西常務のところに月次報告に行っていたし、このプロジェクトの直接責任者であった山田熙明(当時専務)さんはかってレースを一緒にやたこともあり、神戸一中の後輩ということで特に面倒を見て頂いたので、いろんなこと特に人事問題はいろいろと聞こえてきたのである。『私の名前』も、頻繁に特に本社筋からでて、特に財務筋からはいろいろとあったのである。

田崎さんは、ご自身が書かれているように『販社経営』については当時は未経験な分野だったし、特に当時のKMCの状況が、営業損益までの分野よりは『営業外』のバランスシートに関する分野の対策が中心だったので、そんな関係で『本社財務』が関与したのだし、高橋さんと田崎さんに資金繰りやバランスシートの重要性を説いたのは、私なのである。

そんなKMCの営業外対策の実務運営のために、当時の国内カワ販から『富永・日野』というカワ販最優秀のコンビをKMCに逆出向させたりしたのだが、この辺りのことは、当時カワ販の副社長もして頂いた高橋さんが非常に理解が早かったのである。

田崎さんに、『KMC対策は営業外だから』と言ったが、最初は 『???』こんな感じだったが、技術屋さんがバランスシートに興味を持ったりすると、どんどん詳しくなって田崎さんのこの辺りの資金対策を含めた知識は本格的で、相当なレベルなのである。

『子会社を赤字にしてはならない!』と言われているが、その通りなのである。

 

● 髙橋さん田崎さんが、アメリカに行かれたのが、    昭和56年8月(1981)

● 私が企画に戻り高橋さんも企画室長で戻られたのが、  昭和57年10月(1982)

● 大庭浩本部長が再建屋として単車事業部来られたのが、 昭和58年7月(1983

● 単車事業再建なって大庭副社長で本社に戻られたのが、 昭和61年6月(1986)

そして髙橋本部長となって、翌昭和62年度には、田崎さんもアメリカから戻り、私は企画から営業に、KMC社長には百合草三佐雄さんが引き継ぐことになるのである。

 そして一時38百万ドル(当時の日本円換算約100億円)もあったKMCの累損は、田崎ー百合草社長時代の対策で、1989年に完全に消去されて、文字通りの『KMC 再建』が果たされることになるのである。

 

★『カワサキ二輪事業と私』は次回から、高橋・田崎さんがアメリカに渡られた、1981年度になるのだが、その予告編みたいなものである。

田崎雅元さんという強力な助っ人が現れたので、これから続く、現役最後の1999年まで、いろいろと援けて貰えることになりそうで、この後もずっと、高橋・田崎さんと私との密接な関係は最後まで続くのである。

若し『カワサキ二輪事業と私』が田崎雅元さんとの二人三脚で書けたらいいなと思っている。

 

 

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船場モータース 岡田博さんのこと

2017-01-17 06:47:27 | カワサキ単車の昔話

★今週送られてきた二輪車新聞に、衛藤誠さんのこんな記事が載っていた。

船場 今年で創業70周年』 とある。

    http://www.semba.co.jp/index.html

 

      

 

記者の名前は載っていないが、衛藤誠さんにしか書けない内容になっているからそう断定するのである。

大阪の二輪販売店の老舗、今は『船場』となっているが、かって『船場モータース』と称したこの写真の店のオーナー岡田博さんとは、数多いカワサキの販売店の店主の中でも、カワサキが一番お世話になった方だと言ってもいい。

岡田さん一流の『見識』を持ち、何故か中国語の先生などをしていた岡田博さんと私は親しくお付き合いがあったのだが、それは今の『船場』の経営を引き継いでいるご兄弟がまだ学生さんだった、1970年、大阪万博が行われたその頃からである。

今年は『船場70周年』とあるからその時すでに20年以上も経っていた老舗なのである。私は結構親しくさせて頂いたが、端的に云うとなかなか『とっつきにくい』ところがあって、岡田博さんにこちらから近づいて行った方は数少ないのだが、この記事を書かれてる衛藤誠さんなどは、何故か岡田さんと波長が合って、衛藤さんの書かれた『船場の記事』も沢山あるのである。

 

★船場モータースの岡田博さんと、カワサキが密接に繋がったのは、昭和45年(1970)年末大阪万博の年、私が大阪営業所所長になってからのことである。

それまでは、船場モータースとのお取引もあったのだが、どちらかというと『スズキ主体』に売られていて、カワサキのことを『ホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサキ』と私に言われていたのである。

カワサキは当時はW1の時代で、それまでの125cc主体の『実用車のカワサキ』から、A1,H1,など『中大型のスポーツのカワサキ』に脱皮しようとしていたころなのである。従来地方の東北や九州がカワサキの主力市場だったのだが、ようやく東京・名古屋・大阪など大都会の販売に力を入れようとしていた時期だったのである。

岡田博さんは、なかなかムツカシクて並のセールスでは、もう一つ上手く行かなかったのだが、当時大阪にいた宮本進くん(後滋賀カワサキ)は旧い代理店の出身者だったので、当時のカワ販の人たちにない独特なものを持っていたし、私自身も大阪に来るまでの4年間、東北の代理店営業担当だったので、そんなちょっと変わった二人で『船場モータース』を担当したら、岡田博さんは一転『猛烈なカワサキ推進者』に変貌したのである。当時は、岡田さんとは言わずに。みんな『船場さん』と呼んでいたし、私も『岡田さん』と言ったことはなかったかも知れない。

そこで創ったのが、記事にもある『大阪共栄会』を立ち上げその会長に就任して推進して頂いたのである。この『大阪共栄会』はその辺にある一般の会とは違って、大阪のうるさいけど猛烈に熱心なカワサキファンの販売店の集まりみたいな会だった。『堺の徳野三兄弟のおやじさんの浜寺モータース』、現在もカワサキをやってる『堺の当時は伊藤モータースの伊藤さん』、今でも慕う人の多い『野崎モータースの野崎さん』かっては近畿メイハツにいた『吉永オートサービスの吉永さん』当時の販売店でけた違いに『大きな業容だった西形さん』、『AJで活躍されてる須川さん』などなど、そんな人たちをまとめてくれたのが岡田博さんなのである。

大阪で25店ほどのお店だったが、めちゃくちゃ熱心で、共栄会の会合はいつも夕方から営業所の2階でやっていたのだが、夜中にまでなることも珍しくなかったのである。

その『大阪共栄会』からスタートしたのが『カワサキ特約店制度』なのだが、私が大阪営業所長からカワ販本社に戻って『特約店制度の全国展開』を担当した時に、その『特約店制度説明会』に講師の一人として全国を飛び回ってくれたのが岡田博さんで、実際にやってる特約店の店主の話だったので、非常に説得力があったのである。

衛藤さんの記事はそのことを書いているのである。

 

カワサキ特約店制度は、大阪を皮切りに昭和48年(1973)Z1の発売を機に展開されていくのだが、Z1の発売があったおかげで各特約店の経営は飛躍的に拡大していくのだが、船場―モータースも含め、大阪の特約店も、当時一緒にスタートした京都も名古屋も、順調に推移しカワサキ独特の販売網となっていくのである。

このカワサキ特約店制度の成功に、岡田博さんは、大いに貢献して頂いたし、この制度のスタートに当たっての記事を二輪車新聞の一面に大々的に取り上げて頂いたのが、衛藤誠さんなのである。

衛藤さんとは今でもお付き合いがあるので、もう50年以上になるのだが、彼はまだ現役で頑張っていて、『カワサキについて一番詳しい人』は衛藤誠さんかも知れないのである。私にとってもこの大阪共栄会・特約店制度時代は懐かしく、この当時お付き合いのあった方たちはいまでもお付き合いが続いている。

岡田博さんの息子さんご兄弟の弟さんとは何度もお会いして面識もあるし、もう亡くなってしまわれた方も多いのだが、古石喜代司・竹内優・宮本進・伊藤彰・藤田孝明・吉川健一・柏原久・平井稔男・関初太郎さんなどなど、今でもFacebookで繋がっていたりして、懐かしい想い出いっぱいなのである。

 

★ 昨年暮れ、かってハーレージャパンの社長をされていた奥井俊史さんにお会いする機会があった。

お会いしたのは今回が初めてなのだが、私と奥井さんを繋いで下さったのは岡田博さんで、奥井さんがトヨタからハーレージャパンに来られた頃、あまりにも4輪と違う二輪の世界にビックリされてた頃、『カワサキの古谷さんに・・』と繋いでいただいたのである。先日お会いした時もその頃の話に花が咲いた。

 

  

 

 岡田博さんを師と仰ぐ株・忍者の伊藤彰さんもいて、奥井さんとの話が弾んだのである。

 

 

 

 船場70周年、船場さんがもう一度『繋いでくれた』のかも知れない。

 奥井さんとは、『もう一度どこかで、話の続きをしましょう』ということでお別れしているのだが、

 果たして、そんな機会があるのかどうか楽しみにしているのである。

 

 『船場70周年』 益々のご発展を祈念したいと思っている。

 

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