goo blog サービス終了のお知らせ 

雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車物語50年  その18 コーヒーブレイク 

2013-07-25 05:53:44 | カワサキ単車の昔話

 カワサキ単車物語50年  その18 コーヒーブレイク  カワサキコンバット のこと

 

1963年と言えば、カワサキがB8で青野ケ原のモトクロスで1位~6位を独占して、一般にはそれがカワサキのレースのスタートだと言われている。

神戸のカワサキワールドにもその時の写真が飾られていて、そのように説明されている。

 

私自身は当時すでに単車事業部の営業にはいたので、直接レースには関わっていなかったが、いろんな情報だけは持っていた。

カワサキとしてのモトクロスレースは、もう一つ以前の機種、B7でも行われていたのは間違いないのである。

昨年7月、ヤマハの本橋さんから『カワサキのB7に乗ったことがあります。井手さんと言う方がおられました』と言う話を聞いて、本橋さんがB7に乗ったとは意外だったのある。井手哲也さんは確かに当時レースに関係されていて、三吉一行などとの関係も深かった。

その時代は、まだ川崎航空機ではレースなどやっていなくて、カワサキ自動車販売関係でレースらしきことに取り組んでいたのである。

 

●カワサキ自販でレースに関係していたのは、当時の企画、宣伝課長の小野田滋郎さんであったことは間違いない。

●ライだ―としては、三吉一行も関係があったのだと思うが、小野田滋郎さんが直接接触したのが三橋実で、彼を50万円でヤマハからひっこ抜いたと言う話は、私は小野田さんから直接聞いている。

三橋実は1962年の日本初の鈴鹿のロードレースの250ccのチャンピオンである。ちなみに350ccは片山義美が優勝していて、この二人のライダーが後カワサキのレースに色濃く関係するのである。

●翌年5月に青野ケ原のレースに工場の人たちが出場しようと思ったのは、前年度の鈴鹿ロードレースをバスを仕立てて見学に行ってレースに感動したのがそのきっかけなのである。

●カワサキのレースが具体的には、営業部門の中でスタートしていくのだが、その最初の時期、東は三橋実が主宰するカワサキコンバット、そして西は片山義美が主宰する神戸木の実クラブのライダーたちで、カワサキのレースチームが構成されたのである。

●当時私のグループの中にいた川合寿一さんが、そのレースチームらしきものの面倒を見ていたが、ライダ―との契約がどんな形で、どのような額で行われたのか、よく解っていない。契約第1号は神戸木の実の歳森康師であったことは間違いない。

●そして東では、小野田滋郎さんが三橋との関係で『カワサキコンバット』をスタートさせていたのだと思う。

 

 

小野田滋郎さんは、あのフィリッピンの小野田寛郎中尉の実の弟さんなのである。

雁の巣や厚木や八戸など米軍の基地の近くから、日本のレースはスタートしているようにも思うのだが、三橋がいたのが厚木で、私が気が付いた時は、既に『カワサキコンバット』と言うカワサキのレースチームは出来ていたのである。

『コンバット』と言うテレビか映画の番組があって、そのヘルメットには縦にⅠの字が入っていて、それと同じの字の入ったヘルメットだったのである。

三橋実、梅津次郎、岡部能夫、加藤清丸などでスタートしていたのがカワサキコンバットだったのである。

 

1963年秋ごろのことである。

 

神戸木の実からは、は歳森康師に次いで山本隆が契約した。

川崎航空機の単車事業部に広告宣伝課が創られて、動き出したのがちょうどこの時期、1964年からのことで、ファクトリーチームと呼べるのは、この年開催されたMFJの第1回全日本モトクロス相馬ヶ原への出場からだと言うべきだろうと思っている。

その広告宣伝課が私の担当であったし、同僚の川合寿一さんがその中のレースを直接担当していたのである。

 

★当時のカワサキのレースチーム運営は、『カワサキコンバット』が主体で、現地でのチーム監督的な役割は、三橋実君が果たしていたのである。

そして、そのチーム運営のために月間20万円の運営費で全国から有望ライダーを集め、厚木にアパートも準備して練習費なども一切含めて三橋実君に任せていたのである。

副将格で安良岡健もメンバーに入り三橋、安良岡、梅津、岡部が最初の契約選手で星野一義三橋弟、栗山、野島、金子など最盛期には何人ライダーがいたのか解らぬほどの大所帯だったのである。

 

 

 

1965年富士の裾野の朝霧高原でのMCFAJ 全日本モトクロスの時の写真である。

 

山本隆、歳森康師(右から3,4番目神戸木の実クラブ)以外は全員がカワサキコンバットのメンバーで、

右から梅津次郎、岡部能夫、三橋実、安良岡健、星野一義、そして野島、栗山、三橋弟だと思う。

 

 

これは昨年11月、『二輪文化を伝える会』の第1回トークショーの時に集まったメンバーで、

星野一義、岡部能夫、山本隆、金子豊なのである。

 

金子豊は今は星野インパルの経営を担当しているのだが、当時は秋田から厚木までやってきて、カワサキコンバットの一員として活躍していたのである。

 

 

 

★つい先日、7月21日には東京品川で、

『二輪文化を伝える会』が 主宰して

全日本MX Legend Riders 記念パーティ―が行われたのだが、その時集まった中にもカワサキコンバットの懐かしいメンバーがいた。

これは開会前の顔合わせの時の写真だが、

 

 

これはカワサキコンバットのメンバー

星野、野島、金子、栗山なのである。

もう40年以上も会っていなかったのだが、昔のままに喋れるレース仲間は懐かしいものである。

 

カワサキコンバットは、1966年までは存続したのだが、三橋実との契約が切れて、世のレースもMCFAJからMFJにその主力が移るようになって、だんだんとその存在が薄れて行くのである。

梅津、岡部がレース界から引退した時でカワサキコンバットが無くなり、

星野一義も神戸木の実クラブへ移籍して、カワサキとの契約を続けた時代へと移っていくのである。

 

 

 

 

この二人とも、7月21日に久しぶりに会った。

増田耕二と従野孝司君である。

カワサキコンバットではなく、神戸木の実のメンバーであった。

従野はモトクロスでカワサキとファクトリー契約まで結んだのだが、増田耕二がカワサキからレースをスタートさせたことを知っている人は少ないかも知れない。

 

カワサキのレースの主力は、『カワサキコンバット』から『神戸木の実』にその中心が移っていくのである。

モトクロスのだけではなくてロードレースの世界で、金谷秀夫、和田将宏、清原明彦なども、神戸木の実からカワサキとのライダー契約を結んでいたのである。

 

カワサキコンバットと神戸木の実レーシング、そのクラブを主宰した三橋実と片山義美、その二人が日本で最初に開催された鈴鹿ロードレースのxチャンピオンであることも、ご縁なのである。

 

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。 

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

 

 


カワサキ単車物語50年 その17 大庭浩本部長時代

2013-07-14 05:41:18 | カワサキ単車の昔話

★人それぞれ、何か運とか、ツキを持って生きているように思う。

自分自身のことを言って恐縮だが、私自身も非常にいい運命を背負っていると自分自身でそう思っている。

実際に生きてきた時代の変化や境遇など悪いように見たら、無茶苦茶運が悪いのかも知れぬが、そんな波乱万丈の人生を経験できたことを運が良かったと思っているのである。

会社の事業などを見てもそれを取り巻く環境、一緒に仕事が出来たメンバーなどなど、何ごとも一人では出来ないので、巡り合わせがよくないと事業の結果もそんなによくはならないのである。

 

1983年7月から1986年の4月までが、所謂『再建屋』と社内で言われていた大庭浩本部長が単車事業を担当された時代である。

その3年間の番頭役みたいなことをやっていたのだが、一言で言って大庭さんは最高にツイテいたと思われる。そんな運をお持ちであった

 

● まず、大庭さんを支えた周囲のメンバーがよかったと思う。 高橋鉄郎さんが企画の綜合担当として、本当によく大庭さんを支えられたと思うし、技術安藤、製造酒井の両理事も大庭さんの意を戴してよく頑張られたと思うし、私も含めて田崎、北村、百合草、武本、大前と当時の若手がよく頑張った結果だと思う。

●さらに、本社の財務部門や、技術研究部門など、従来単車には無関係であった部門が、精力的に単車事業に応援体制を敷いてくれた。これは従来の単車事業経営にはなかったことである。

●経営環境は、アメリカのPL問題や、白バイのリコール問題など、いずれも100億円単位の非常に危険なリスクだったのだが、

PL問題は本社法務班から専門メンバーがKMCに出向し、自ら保険会社を設立したりして対応、白バイリコール問題は、品証の田村一郎、清原明彦コンビがアメリカに長く滞在して、見ごとに対応しきったのである。

●商品はちょうどNinjaの発売時期で、アメリカ側が提案した『Ninja』のネーミングは、日本側では、黒装束の暗いイメージが強く不評で、大庭本部長もその意見に乗って、なかなかYesとは仰らなかったのだが、

KMCの田崎社長が『アメリカではNinjaはそんな暗いイメージではありません。ジェームスボンドの007のようなカッコいいイメージです』と説得して、大庭さんを口説き落としたのである。 私はその席に同席していたので、その経緯はよく承知している。Ninja が命名されて、もう30年になろうとしているのだが、今やKawasakiのスポーツモデルの代名詞のようなネーミングになっている。

●当時の第1目標は、海外販社の経営安定化だったので、その目標は幾多の困難はあったのだが、ほぼ2年でその目的は達成し、全海外販社の期間損益黒字化が達成できたのである。もう一つの大きな目標KMCの累積損失38百万ドルの消去は、もう少し長くは掛ったが、田崎―百合草KMC社長時代に達成できたのである。

●この期間の最中に大幅な円高が進行して、海外販社の経営は安定したが、日本の事業本部には400億円近い累損がたまってしまったたのである。私は当時の企画を担当していて、事業経営の数値を任されていたのだが、本社財務の副社長から言われていた指示は、あくまでも海外販社の経営健全化で、日本側の事業部の管理損益的な数値は造船をはじめとする各事業部の黒字で相殺すると言う約束でスタートしていたのである。

思わぬ円高で、大きな管理損失が出たのだが、この400億円近い累損を、本社財務は造船などの黒字と相殺して0スタートにしてくれたのである

これがその後の単車事業の安定的な経営に一番大きく効いた本社財務の処置だったと思うが、この事実をご存じの方は、多分事業部でも数人で殆どの方がご存じない事実なのである。

 

★こんな3年間の単車事業部の成果をお土産に、常務で単車に来られた大庭さんは、副社長で本社に戻られて、単車事業部は初めて単車出身の高橋鉄郎事業本部長の時代に入っていくのである。

この間、川重の中で一番変わったのは、本社中枢の方たちの単車に対する『信頼』だと思う。

それを勝ち得たのは、単車育ちの人たちの努力もあるだろうが、この時期本社からKMCへの出向やら、単車事業部への転籍など本社のメンバーが単車事業の中に身を投じて、単車事業そのものを体感されたことが大きいと思う。

当時の財務担当のトップ松本新さんは、毎月の川重役員会の席上で単車の経営状況を自ら説明される時期が続いたのである。そのための報告に私は毎月本社に松本さんを訪ねたし、当時の最大の課題KMCの経営報告もKMC田崎社長に代わって私が報告するそんな状況だったのである。

そのKMCには本社から高田、小里、奥寺、松岡さんなどが出向して援けてくれたし、事業本部側には小川、中村さんなどのメンバーが単車の仲間として活躍してくれたのである。

 

そんなことで川崎重工業の体質の中に、自然に民需量産事業の単車事業の体質みたいなものが徐々に注入されたことは、単車にとっても、川重にとってもよかったのではと思う。

そんな本社側の当時の財務担当部長が私と同期の川崎航空機出身の横山昌行さんであったことなどが、単車と本社を近づけたと思うし、本社との関係改善では私自身も大いに貢献できたと思っている。

 

 

★これが当時の大庭本部長2年目と3年目の動きなのである。

いろんな出来事があったのだが、その中での幾つかをご紹介しよう。

まず1984年

●この年の9月ごろまでは、為替の円安246円もあって絶好調、販社も事業部も大幅な黒字が見込まれて、10月ごろにはアメリカKMCの新社屋建設の話が持ち上がっている。当時は何か所にも社屋が別れていて、当時の本社社屋を売ることによりIrvineに広大な土地の取得が可能で、そこに社屋を建てることで全社統合を目指したのである。川重監査役からはまだ累損のある子会社がと反対の指摘もあったが、本社サイドの賛成もあってそれは実現し現在のKMCとなっているのである。

今は立派な町になっているが、当時は見渡す限りただ広大な土地が広がっていたのである。

● この年の11月に国内のジェットスキーのレース組織を固めるためにアメリカのIJSBAから日本にJJSBAというレース組織を導入する認可を取りに苧野豊秋さんと一緒にKMCに出張している。ちょうどデーラーミーテングもあってそれにも出席した。ここから日本のJJSBAはスタートし、初代苧野豊秋会長で日本に組織的なジェットスキーレースが始まったのである。

 

1985年

● この3月期が最高だったかも知れない。単車に関係する全事業が黒字になり、大庭さんは常務から専務に、高橋さんは取締役に、私は企画部長から企画室長にそれぞれ昇格したのである。

この時点の為替が253円なのである。そんな為替の円安状況も受けて、計画の数値はいずれも大幅な黒字を計画していたのだが、前述したように一転の円高で年末には200円、年が明けると200円を切ってしまうのである。この急激な20%から25%の円高の事業部経営に与える影響は強烈極まるものであった。

当時の事業部の規模でも1円の動きが8億円ぐらいだったから、単純計算で300億から400億円の利益が吹っ飛んでしまうのである。

この急激な円高対策は簡単には手の打ちようはなく、そんな環境下でもKMCの経営を最優先に考えて対応をした結果最後には何とかなったのだと思っている。

 

●この年の12月に『クライスラー』と言う記述があるが、

これは単車のエンジンを使った、クライスラーとの4輪プロジェクトのことである。

KMCの百合草さんの担当で、大庭本部長も大乗り気のプロジェクトであったが、実現せずに終わってしまった。

 

カワサキZの源流と軌跡』(三樹書房)の中で百合草三佐雄さんが詳しく記述されているので、ご関心のある方はぜひお読み頂きたい。

 

 

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。 

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

 


カワサキのヘリコプター今昔物語

2013-07-05 05:51:48 | カワサキ単車の昔話

 

★昨日のニュースで岐阜県が川崎重工業から最新鋭のヘリを購入、のニュースが流れました。

 

 

 

 

「川崎式BK117ヘリコプター」は、当社と欧州のヘリコプターメーカーECD社〔旧MBB社(メッサーシュミッ ト・ベルコウ・ブロウム社)〕が共同開発したヘリコプターで、物資・人員輸送、消防・防災、警察、ドクターヘリ、報道など多用途に活用される中型 双発機です。

 BK117ヘリコプターは、国産ヘリコプターとして1983年の初号機納入以来改良を重ね、優れた技術力と高い信頼性により、当社納入分 (2013年6月28日時点)で158機、ECD社納入分を合わせると 全世界で1,000機以上の納入を誇るベストセラー機です

 

などと説明されています。

 

★ 『一体1機幾らぐらいするのだろう?』

私が、最初に思ったのはその値段なのです。

事務屋のそれも技術オンチの私が、話すヘリの話だから、どこまで合っているか解らないのですが、その値段だけは、50年近くも前の話だが、間違ってはいないのです。

 

昭和38年(1963年)当時は、まだ川崎航空機の時代で、ヘリコプターは明石工場のジェット部門でベルのヘリコプターの製造をやっていたし、そのパイロットも整備士たちも居たのです。

単車を川崎航空機の主力部門に育てるべく、沢山の人たちがジェット部門から単車に異動してきたそんな時期で、高橋鉄郎さんも、田崎雅元さんも、田村一郎さんなどもみんなジェット部門からの異動者だったのですが、私の直接の上司の苧野豊秋さんもそんなお一人だったのです。

当時、私は広告宣伝課で、単車事業を育てるために、特別に本社開発費で1億2000万円もの広告宣伝費があった時代だったものですから、、広告宣伝用にヘリを持とうと、苧野さんが古巣のジェットから、下取りをした中古のヘリコプターを都合してきて頂いたのです。ヘリの財産としての償却期間は4年なので、既に4年は経っている償却済みで1割の残存価格だったから、その簿価は100万円の台だったので十分に購入可能だったのです。

そんな100万円台のヘリを使って、全国あちこちを飛び回り、その地区でカワサキのバイクを買ってくれたお客さんや、販売店の見込客などを乗せて、販促活動に使ったりしていました。

 

カレンダーに使う、鳥取砂丘の撮影に、鳥取まで飛ばしたこともあります。

撮影隊は当時は京都周りの夜行で一晩かけての鳥取行きだったのですが、明石からヘリだと1時間足らずで行ってしまいます。行きは夜行に乗って一晩かけての鳥取行きでしたが帰りはヘリに乗せて貰ったら中国山脈を越えて1時間で明石まで戻ってきました。

ヘリ自体は広告宣伝課の財産で使う時だけ、ヘリのパイロットと整備士にお願いし、航空燃料を運び、ヘリを飛ばしたり着陸させる申請さえすれば至って簡単でした。

 

モトクロレースなどにも、大きな大会にはヘリを帯同していました。

この写真は、東京オリンピックの開会式の当日伊豆丸の山で開催されたMCFAJ 全日本モトクロスの開会式の様子です。

 この大会は4種目中3種目をカワサキが優勝してモトクロスの世界にカワサキの地位を確固としたそんな大会でした。

そのチャンピオン最優秀選手に輝いた山本隆くんからの写真提供です。

 

ヘリは写っていませんが、確かこのお嬢さんもヘリに乗ってこの会場にきましたし花束もヘリから落とされたものではなかったかと思います。

ヘリを運航するために、その航空燃料を明石からトラックに積んで運んできたのだと思いますが、今なら許されないのかも知れません。

ライタ―のオイルにヘリの燃料がいいと、ライダーたちの間で人気だったりしました。

そんな関係でで、この1年後ぐらいあとに創ったマシンF21Mのフレームに使ったクロモリ(クロームモリブデン)のパイプは、ヘリのパイプを貰ってきたものなのです。

そんなヘリコプターだったのですが、『飛行時間が規定時間を超える』とオーバーホールをしなければなりません。期待の財産価格は100万円ちょっとだったのですが、オーバーホール代が1000万円に近いので、とてもそんな金を出しことは出来ないからと2年ほどで手放してしまいました。

 

 

こんなに大きくはない確か3人か4人乗りのヘリでしたが、

FISCOの日本GPの時も来ていて、空からGPレースを見たりもしたものです。

 

その後ヘリコプター部門は、岐阜工場に移ってしまって、ヘリの整備士としていろいろお世話になった人たちも単車部門に異動してきたりしました。

カワ販やKMJの方がよくご存じの私と同じ名前の古谷君は、元ヘリの整備士で、鳥取から私はヘリに乗せて貰いましたが、代わりに古谷君はヘリの整備士の服装のままで汽車に乗って明石に戻ってくれたのです。

ちなみに、ヘリのパイロットや整備士は、地方に行くと女の子にカッコいいとおおモテでした。

 

広告宣伝課にヘリがあって、それを自由に飛ばしていた時代、懐かしい思い出です

当時、レースとヘリの担当だった大西健治君も、今は故人となってしまわれています。ずっと昔の物語です。

 

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。 

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 


カワサキ単車物語50年  その16 コーヒーブレイク

2013-06-30 05:36:29 | カワサキ単車の昔話

 

 

★カワサキの単車事業の激動期は、1982年ごろから始まり、約3年でほぼ収まり、その後数年間で最も問題児であったアメリカのKMCが、38百万ドルもあった累損を見ごとに消去してその後の安定成長期に繋がっていくのだが、

その時期のKMCの社長を務めたのが百合草三佐雄さん、百合ちゃんである

会社に40年も務めると、いろんな人と繋がるのだが、

振り返って考えてみても、『仕事で付き合いのあった人』は何百人も居ても、『一緒に仕事をした』と言える人はそんなに多くは居ないことに気付くのである。

 

川崎航空機に入社し、その後合併して川崎重工業となりいろんな仕事をやってきたのだが、『一緒に仕事をした人』を書きあげてみたのだが、なかなか50人に届かないのである。

まず一緒に仕事をする機会に巡り合わない のである。

私自身は、会社の仕事上は、全て『八方美人』で、『好き嫌い』は一切なく、むしろ性格的には合わない人たちと一緒に仕事をした機会の方が多いのかも知れない。

私は専門分野、技術とか、法律とか、経理知識など専門分野はどうしても苦手で、幾ら勉強してみても専門家の域に達するのは、不可能だから、そんな人と一緒に上手に仕事をする方がいいと思っている。

 

★現役を卒業して、遊んでいる身だが、『異種、異質、異地域をみんな繋いで、楽しくいい時を過ごそう』となどと言っているのも、そんな発想からである。

あまり同種ばかりが群れると、いい結果は出ないと思っているのだが、

ホントに気の合うと思える人と、組んで仕事が出来ると、それは『最高に気分がいい』のである。

でも、そんな人とは、現実には滅多に出会えないし、仮に出会えても一緒に『仕事をする機会』などには巡り合えないのが普通なのである。

カワサキの激動期の最中1982年から1987年ぐらいの間でも、いろんな人と組んでの仕事だったが、

この人と組めてよかったと心からそう思い、気分よく仕事をさせて頂いた方は誰なのかな?

 

山田煕明さん、当時の副社長

私をこのややこしい時期に企画に持ってきた張本人なのだが、山田さんとは、山田さんがまだなりたての部長のころから、レース関連で一緒に仕事をさせて頂いて、気心が解っている中学校の先輩でもある。 当時は副社長で単車事業の最高責任者であったが、山田さんのためにちゃんとやらねばと思っていた。

特に副社長を意識したことは一度もなかった。そんなことを感じさせないのが、山田さんの良さだと思う

何度も直筆の手紙を自宅にも頂いたし、言いたいことは殆ど100%言えた上司だった。

 

武本一郎さん、当時の企画部長、

この期間ずっと私を援けてくれた。私の初めての企画時代も直ぐ下にいて手伝ってくれた。

山田さんもそうだが彼も東京大学の秀才である。でもそんなところが全然見えない。この時期私に企画をやれと言われて真っ先に決めた人事が武本一郎さんたった。

彼がいていろんなことをやってくれたから、何とかなったと思っている。

単なるサービス部門であった電算部門を、今後はこのような部門こそ企画に必要と企画部門に持ってきたのも彼である。

大庭浩本部長からのムツカシイ宿題を次々に片づけてくれたのも彼である。

間違いなく『一緒に仕事をした』し、気分的にもぴったり合っていた人である。

当時は発動機事業部からリンカーン工場にエンジンを提供し、そこでジェットスキーに仕上げてKMCだけで販売していたジェットスキーを、ちゃんとした単車事業本部の製品にしなければ、単車の事業にしなければと提言してくれたのも武本一郎さんである。

そんな山田さんも、武本さんももうこの世にはおられない。寂しいことである。

 

★当時は明石の単車事業部の中には誰ひとりジェットスキーのことが解る人も、勿論乗れる人もいなかったのである。 部門がないのでやりようがなく、企画室企画部企画課の中にオーストラリアから戻ってきた鶴谷将俊くんを一人あてがって、発動機事業部で趣味でジェットスキーのレースに出ていたりした福井昇君を引っこ抜いて、ホントに数人で、企画の中でその事業展開を始めたのである。

当時はまだ400、500ccのエンジンの時代で、これを440、550ccにボアアップしようと言うことになり、それを手伝ってくれたのが、

百合草三佐雄、百合ちゃんなのである

 

百合草三佐雄さん、武本一郎さんも百合草さんも、いずれも昭和35年入社の同期生で、二人とも非常に息があっていた。

私は正直百合草さんはよく知っていたが、それこそ『一緒に仕事をした』のはこの時が初めてである。

エンジン改良のための開発予算がなくて、確か武本一郎さんが『忍術を使って』製造部の費用か何かをごまかして数千万円の開発予算を捻出したりしたのである。

その440、550ccがなぜかアメリカでめちゃめちゃ売れて、KMCも事業部も大助かりだったのである。

その時の百合ちゃんと、別に直接細かい仕事をしたわけではなかったのだが、いたく『トーン』があって、

田崎さんの後のKMC社長は『百合ちゃん』と勝手に決めてしまったようなところがあったのである。

1985年の4月に、百合草三佐雄さんは、企画に異動してその年の夏、KMCに出向したのだと思う。

 

 

 

左から高橋鉄郎さん(元川重副社長)田崎雅元さん(元川重社長) 平井稔男さん(元チームグリーン監督) 百合草三佐雄さん(元川重常務)稲村暁一さん(Z1エンジン開発責任者)

後の写真もみんな、『カワサキの想い出、そして未来』の時のものである。みんなカワサキの単車事業を背負ってきた連中で、みんな40年前のままでのお付き合いだから、平井さんが錚々たる人たちを左右に侍らしているのである。

 

 

和田将宏と一緒に喋っているが、大槻幸雄さんも、百合ちゃんも、レース監督経験者で、ちょうど和田の時代が百合草さんだったはずである。

 

★そんな百合草三佐雄さんだが、彼のKMC社長時代は、私はホントに彼と『一緒に仕事をした』  販売会社の社長経験など全くなかった百合草さんだが、歴代のKMC社長の中で、最も財務状態を大幅に改善し、当時まだ残っていた累損を綺麗に消去したのは彼の社長時代なのである。

別に財務が解っていたわけではないだろうが、当時の財務を担当していた若い連中を上手に使って、見事な経営状態にしたのである。

私も当時、しょっちゅうKMCには行っていたが、特に難しいことなど言わなくても、何となく信頼関係が確立していて、ゴルフなど楽しんでいたら、上手く回って行ったのである。

そういう意味では、私にとって、百合草三佐雄さんは、一緒に仕事もしたし、お互い確りとした信頼関係の上に繫がっていたのではないかと思っている。

彼がKMCから日本に戻って、さらに航空機のジェット部門に異動したのちも、何回かお誘いがあって箱根でゴルフなどしたりしたものである。

 

それから何年も経って、Z1会のゴルフなどでは一緒になるのだが、

この7月7日、KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE に『カワサキZの源流と軌跡の執筆者の一人として参加してくれることになっている。

私の片想いかも知れぬが、『百合ちゃん』はホントに数少ない、『一緒に仕事もし』かつ『気分よく付き合えた』 そんな特別の仲間のような気がする。

 

私の勝手な定義だが、

仲間とは数多くの想い出を共有する人たち』のことを言う。

単に、知っているだけでは『共有する想い出』など生まれないのである。

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 


カワサキ単車物語50年 その15  この激動期にカワサキが得たものは?

2013-06-24 05:36:46 | カワサキ単車の昔話

 

★1982年7月1日、この日に私のカワサキにおける運命みたいなものを感じる。

そして、そこから大変な時期の、大変な役を背負うことになった。

そして、それからの半年で、ほぼ再建の目途はたった。

いろんな人たちが、いろんな方面でその実力を発揮した。

その全体の『仕組みの構築』が私の仕事だったと思う

それは120%成功して、今カワサキがあると秘かに思っている。

 

これからの4,5年でカワサキの単車事業は変わった。

川崎重工の本社の信頼も得たし、それまで単車のメンバーは川重の役員には殆どその名はなかったのだが、その後、川重の中枢を動かしてきたのは、単車事業に関係したの人たちが、急激に増えて行ったのである。

敢えて言うなら、決められたことを着実にこなす受注産業などに比べて、自らの意思で事業を世界的に展開をする単車事業は、自然に人が育つ経営環境にあるとも言えるのだろう。

そんな始まりの半年間であった。

 

 

 

● 82年7月から、半年ちょっとで全体の仕組みはほぼ完成したのである。

世界に広がる販売会社の損益は間違いなく黒字化する確信が得られた。

その最も大きな課題であったアメリカのKMCに対しては川重本社財務から徹底的な支援体制がとられたのである。

若手中心のプロジェクトチームではあったが、その発想はドラスチックで、とても事業部育ちの事務屋では発想し難いスケールだった。

例えばKMCに山積みされていた在庫車の評価金額は全て中古車市場の中古車価格に再評価されたりしたのである。在庫車と言っても間違いなく新車なのだから、そんな車が中古車価格なら幾らでも売れるし、利益も十分発生する。

それで発生する赤字対策としては2月末に大幅な増減資を行ったのである。

これらの対策は、社長直轄の経営会議の席上で具体的に検討され決定されたのである。

まだ部長格ではあったが、本社財務の同期の横山部長などと一緒に、起案の当事者として会議を片隅で聞かせて頂いたのである。

 

全ての対策が、事業部次元ではなく、川崎重工次元の問題として対策内容の決定がなされたのである。

この時の本社財務の担当常務が、単車事業部企画室長をされていた堀川運平さんであったこと、担当役員の松本新さんが単車事業に非常に好意的であったことが、スムースに事が運んだ一番の要因だったと思っている。

 

 

 

 

 

● この1年間、こんなことを私はやっていた。

事業は大きく動いたのである。

7月には大庭浩本部長が着任されたのである。

 

大庭さんは当時川重社内では『再建屋』と呼ばれていて、経営立て直しを幾つもの事業部で手掛けてこられたのだが、それは全て受注事業部の事業部本体の期間損益の黒字化であって、単車事業のように海外子会社を擁し、その期間損益だけでなく、累損までも消去して優良会社に生まれ変わらせるような『経営再建』は大庭さんにとっても初めての経験だったのである。

大庭さんに、『KMCの累損38Mドルを消去しないと再建とは言えません』と言ったら『俺はそんなこと聞いとらん』などと仰っていたが、ちゃんと説明するとちゃんと聞いて頂ける上司であった。

怖かったが、現役生活の中で一番言うことを聞いて頂いたのは大庭さんだった。

私を始め企画を担当する連中にとってみれば、大庭さんが下の意見をちゃんと聞いて頂けることが如何に励みになったことか、旗を振るために高橋鉄郎さんにお願いしたのだが、さらに強力なリーダーを得て、単車事業はこの1年でほぼその目途が立ったのである。

ただ、大庭さんにちゃんと説明するのが、なかなか難しいのだが、それは私の特技みたいなもので、当時の企画スタッフが出す提案の説明役と言うか、大庭さんへの説得役は、殆ど私がやっていて、それが私の仕事みたいなものだったのである。

 

7月に来られて、9月のはじめの本社幹部との単車懇談会の席上、

大庭さんから『単車は、思ったより確りしている、川重のなかで、将来性のある事業である。』と発言頂いたりした。

 

 

★これからの数年で単車は確りと再建され、大庭さんは川重本社に副社長で戻られ、単車事業本部は初めて単車事業の中で育った高橋鉄郎事業本部長が、川重の取締役にも昇進されて、その経営にあたることになるのである。

いろんな評価はあるのだろうが、大庭さんが世界展開の単車事業を経験されたことは、川崎重工業にとっても非常に大きなことだったと思う。

自らの意思で事業展開をする単車事業は、受注事業にない厳しさをいっぱい持っている。

川崎重工の重厚長大の体質の中に幾らかでも民需産業の血が注がれたのは、大庭社長になってからだろう。

その後、副社長以上でだけでも大庭―高橋―田崎―佐伯ー三原と多くの単車メンバー達が川重を引っ張った。みんな海外事業や子会社とは言え社長経験者なのである。

田崎雅元社長時代は、川崎柔工業を目指したりしたし、何よりもバランスシートの中味が飛躍的によくなったのである

 

そして、今年7月に、副社長になられる

松岡、高田両副社長はともに単車経験者で、特に松岡京平副社長は、

この1983年時代、本社財務からKMCに出向し、38Mの累損が完全に消えたKMC百合草社長時代まで、KMCの企画スタッフとして頑張ってくれた仲間なのである。

 

 

★大庭さんが単車に再建屋として来られた時、

、『KMCの累損38Mドルを消去しないと再建とは言えません』と言ったら『俺はそんなこと聞いとらん』といわれたのだが、

多分、本社の大西副社長以下財務のトップの方たちも、まさかKMCの38Mの累損が、消去出来るとは思っておられなかったのだと思う。38Mドルとは為替の評価で異なるが日本円にして百億円近いお金なのである。

この累損が消去された時、大西副社長以下の当時の関係メンバーで神戸で盛大なお祝いの会をやったのである。

出来る出来んはよく解らなかったが、大庭さんに『38Mの累損を消去しないと再建とは言えません』とその目標を挙げたのは私だが、

それを本当に頑張って実現したのは田崎社長の後のKMC百合草社長時代で、その中心になったのはカワ販から出向していた富永、日野、そして本社財務から出向してた松岡京平くんなどの当時の若手諸君なのである。

 

★単車事業は安定期には経営を支え活気づけるのは、間違いなく『商品』なのである。

事業の仕組みさえ確りしていれば、いい商品を適正に供給し、上手に販売すれば安定した経営が見込める事業だと思う。

然し、量産事業は一つ間違えば、大きなリスクを背負っている

昨今のパナソニックや、シャープを見てもそれは明らかである。

あのような状態になってしまうと、その基本の仕組みが、時代や事業規模にあったものでないと、人の努力や、商品だけではどうにもならないのである

カワサキがあの時期、あの危機を乗り越えられたのは、みんなも頑張ったが、仕組みや資金の力がなかったら、努力だけではどう仕様もなかったと思っている。

 

そんな知恵が、何となく川崎重工の体質の中に残っていたのだが・・・・

ちょっと薄れたかな? と思っていたら今回は松岡、高田とまさに単車出身の経験豊かな副社長なのである。

 

大庭―高橋―田崎―佐伯ー三原 と続いた単車のいいところを、もう一度、松岡―高田ラインで復活して欲しいものである。

30年前の単車の激動期を思いだしながら、

あれからさらに30年の経験を積んだ人たちに、川崎重工のカワサキの将来を託したいなと思っている昨今である。

 

余談だが、松岡京平くん、早い時期からのNPO The Good Times の会員さんなのである。

 

 ★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 


カワサキ単車物語50年 その14  単車事業の危機ー2

2013-06-17 09:16:07 | カワサキ単車の昔話

★ここに至るまでの経緯は、『その13』以前にも書いた通りで、

カワサキの単車事業からの撤退が、ホントに真剣に川崎重工業の社長以下トップ並びに財務部門で検討されていたのである。

多分、問題はこんなところにあったのだと思う。

 

● 当時は造船部門が好調で、単車事業本部だけの赤字額なら、造船部門の利益の中で十分相殺も出来るし、経営会議などでの検討の枠内なのだが、その外にある海外販社の赤字は、販社経営の経験者など殆ど居なくて、『どのように解決すべきなのか?』その術が解らなかったのだと思う。その赤字の額が100億円を超えるレベルになると、連結決算で川崎重工業の損益に加算されるので、いろいろ対策を打ち、高橋鉄郎会長、田崎社長体制として、さらに財務部門が100億円の資金を投入したのに、1年目は何の効果も現さなかったのである。事実川崎重工は無配に陥ってしまったのである。

● 私はヨコから眺めていただけだが、これはトータルの特に財務、資金のシステムがバラバラのために起こっているので、全体の構造を解決する『トータルシステム』が中央で、創り上げることが出来たら『簡単に解決できる人災』だと思っていた。 これは独り川重だけではなく、日本の個別最適地を集めたら、全体最適地に繋がる。という錯覚のなせる術で、『みんなが頑張ればよくなる型』の発想は、単純な経営なら大丈夫通用するのだろうが、世界展開の二輪事業などではムツカシイと思っている。

●当時の単車事業の最高責任者であった山田熙明専務に突如本社に呼び出されて、意見を聞かれたので『直ぐよくなると思います』と言ったら、お前が『企画をやれ』と言われたのである。その時つけた条件の一つが、『KMC の会長をしている高橋鉄郎さんを企画室長で呼び戻して欲しい』だったのである。

●『トータルシステムの構築』はアタマの中にあっても、それを全軍に指揮するには、それなりの職位、格がナイと機能しないのである。人望熱い高橋鉄郎さん以外ではダメだと思ったのである。

そんな私の要望は聞き入れられて、1982年10月高橋企画室長、古谷企画部長の新企画室がスタートし、そこに集まったメンバーは、北村敏(昭和34年入社)、武本一郎、大前太、五十百寿夫(昭和35年入社)さらに若い前田、佐藤、繁治君など全くの若手たちだったのである。

青野事業本部長の時代で、企画室以外は安藤技術部長、酒井製造担当理事、田村製造部長、桑畑品証部長など、先輩部長が顔を揃えていて、これは高橋鉄郎さんでないと、新米部長では旗が振れないのである。

 

★具体的な仕組みは、直ぐ実行し3か月後には機能し6か月後には軌道に乗った。

全て企画室の数人で検討決定し、世界の販社にそのシステムを適用したのである。特に田崎社長のKMCとは明石側も万全の体制で臨んだのである。

 

その基本的なコンセプトは『中央コントロールシステムの構築』の一語につきると言ってもいい。全ての具体的な計画を明石で組めるように仕組んだし実際にそのように実行した。極端に言うと世界の販社の経営責任を全て明石が担う代わりに、各販社はその方針に基づいた実行責任だけを持たせたのである。

 

●まず、一番最初に創ったのが世界の販社を指揮し管理する『関連事業部機能』である。この組織は今でも存在するが、11月には正規組織としてスタートした。

●従来は、各社の事業計画は現地で創り、それを集計する単なる『ホッチキス機能』だったのだが、大まかな数値、と利益目標などは、関連事業部で策定し、それを現地が検討すると言う方向に、抜本的に改めた。事業全体の数値概要の数値を一番最初に知っているのは明石の本部になるように仕組んだのだえある。

●最も大きかったKMCとの関連は、まず本社財務の若手が現地調査や在庫の状況などを調べて、その対策としてのKMCへの増資、180日ユーザンスの新たな設定を12月末までに行った。

●さらに現地の銀行借入金の削減など、営業外損益事項や、膨大な在庫の含み損の手当てなど、その殆どの対策は全て6ヶ月の間に終了して、今後の新たな損失は発生しない体制が半年で完成したのである。

●KMCの膨大な赤字と言っても、その殆どが営業外で、要はバランスシートの問題なのである。当時はアメリカの金利が20%に近い時代で、300億円近い借入金の金利だけでも60億円にもなるし、膨大な不良在庫なども、その含み損手当てを一括で行ったことにより、逆に売れば利益の出る体制になり、どんどん寝ていた不良資産が現金や利益に変わっていったのである。

 

もう少し単純に言うと、

商売とか販売はどんな規模でも成り立つのである得てして頑張り過ぎて失敗してしまうのである

だから、商売で、販売で赤字になるなどは、全て人災だと思っている

 

 

★単車事業部の中ではホントに数少ない、このようなことが解る数人の経験者によって、このシステムは創られそれが運用されたのである。

そしてKMCの現地には本社の特別対策メンバーとしてこんなメンバーが派遣され徹底した現地調査が行われたのである。

 

(資金部外資課 松岡京平とあるのは今回川崎重工副社長になった松岡君まだ係長当時だったと思う。小川優君は今のNPO The Good Times の監事で手伝ってくれている小川君なのである。)

これら本社チームの調査と。その対策提言が本社中枢部を動かしドラスチックな対策となったのである。

●もう一つ特筆したいことは、高橋鉄郎さんの会長時代に『カワ販も手伝ってくれ』と頼まれて、富永、日野と言う当時のカワ販の最優秀コンビをKMCに送りこんでいたのである。 

川重の事務屋さんは優秀なのだが、販社の実務については経験がないので、全ての対策が、『説明からスタート』なのである。当時のKMCの経営の中枢にいた富永ー日野コンビなら、説明抜きでより高度な展開が可能で、私がちょっと言えば直ぐ理解できたのである。

彼らは田崎社長時代から次の百合草社長時代までKMCにいて、見ごと100億円に近い累損まで綺麗に消去してカワ販に戻ってきたのである。富永邦彦君が田崎さんの九大の後輩であったこともよかったのかも知れない。

 

★このあたりのことは、当事者以外殆どの方がご存じないことである。

私は企画部長ではあったが、その80%はKMCのことをやっていた。

基本的には、私と田崎雅元さんとは、この時期の単車事業の大問題を一緒にかついできた仲で、ホントにひょっとしたら私がKMCにと言う案もあったようで、兎に角援けねばならないと思っていたのである。

このKMC問題は、営業外対策さえちゃんとやれば大丈夫と確信していたので、技術屋さんの高橋さんと、田崎さんにバランスシートを教えた先生は私なのである。高橋さんから『お前の説明はよく解る』とお褒めを頂いたりした。

余談になるが、田崎さんは私の教え子であるのは事実だが、今では私より数段上の財務知識をお持ちである。川崎重工の歴代社長の中で川重のバランスシートの中味を飛躍的に改善したのは、田崎さんなのである。それはあんまり言われてはいないが、彼の社長時代の最初と最後のバランスシートを見ればそれは歴然なのである。

 

 

これは私の日記などから

当時のカワサキの中枢の動きを纏めたものである。

7月1日の朝、突然呼びだされたが、12月末大体の枠組みは出来て再建の目途は立った。

 

ものごと、半年あれば大体のことは出来る。 

半年経っても出来ないものは10年経ったら出来るなどの保証はない。

これは私の哲学みたいなものである

 

 

翌年から、いよいよ具体的な動きに入っていくのである。

★NPO The Good Times のホ—ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

 

 


カワサキ単車物語50年  その13 カワサキの単車事業の危機ー1

2013-06-11 06:16:35 | カワサキ単車の昔話

1979年から82年までの4年間、カワサキにとってこの4年間は大変な事業存亡に関わるような大問題を含んだ時期だったのだが、

商品的にはFX400の大ヒットやロードレースの世界ではKR250/350などの華々しい成果を挙げるなど活気のあるいい時代に見えたのだろうと思う。

多分、当時事業部におられた技術や製造関係の方たちでもこの事実をご存じない方が殆どだろう。

 

この事実を知っている人は、むしろ本社財務の人たちや、本社の中枢部の方たち、そして事業本部の中では塚本事業本部長、高橋鉄郎事業部長そして極端に言えば、その渦中に巻き込まれた私と田崎雅元さん(元川重社長)とそれに関与された数人ぐらいと言ってもいいのかも知れない。

まず、アメリカで起こったハ―レ―のダンピング訴訟問題が、国内市場の日本独特の多段階の流通機構からくる経費率問題を解決しないと、KMCでのダンピングが成立してしまって、KMCが成り立たないのである。

そのダンピング問題を担当していたのが田崎さんで、それに基づいて国内の販売会社の構造改革案を本社財務や単車の企画部門などで立案したのだが、なかなか成案にならずに本社との間でもめてしまって、突如塚本本部長から私に『やれ』と指示を頂いたのが1978年の9月半ばのことだったのである

 

★この年の6月あたりから、いろいろと検討がなされていて、カワサキだけがカワサキオートバイ販売会社の本社と言う一段階多い構造なので、その本社を無くそうと言う単純な発想からスタートしていたのだが、なかなかうまく行かないのである。

その案は6月には川重の常務会も通っていたのだが、私が担当して全てひっ繰り返して、小さな本社だが『カワ販を残す』案を策定し、本社の財務担当の堀川さんに説明したら『古谷君が1ヶ月も検討したというのならその案に乗りましょう』と言って頂いて、財務部門も財務担当の大西常務も、当時の財務担当の今井副社長の承認もいただいて、そのままの案で、常務会の承認が取れたのである。

これは常務会の承認と言うことになっているが、堀川運平さんがGOと言って頂いた時点で、事実上承認されたようなものだったのである。

この案で『カワ販』は残ることになり、現在のKMJに繋がっているのだが・・・・・

 

以下は当時の川重常務会の資料の一部である。

 

 

 

従来の川重の役員レベルの田中社長以下のカワ販本社経営陣を極端に小さくして役員を含めて10名程度にしたことと、部品会社を分離することにより二輪車の商品販売からの経費率を除去することで国内の経費比率を圧縮し、アメリカのダンピングに対応出来るように仕組んだのである。

社長、専務、常務、取締役など大先輩がいっぱいいたカワ販本社を無くしてしまって、当時はまだ課長の職位でしかなかった私一人が常務と言う常勤役員で、カワ販グループ約400名の指揮を取ることになったのである。それを実務的に手伝ってくれたのは前田祐作君である。この当時のカワ販経営は、財務対策や資金対策が中心だったのだが、『古谷―前田コンビ』でやったと言っていい。それにカワ販グループのメンバー達は昔からの仲間だったので、万全の協力体制だったのである。

当時のカワ販の田中社長、苧野専務、清水屋常務、加茂常務を始め大きな組織だったカワ販本社を実質的に解体してしまったドラスチックなものだったのである。この案をかっての上司の田中社長以下に説明し、ご納得いただいたのだが、そうしないと『KMC アメリカ市場が成り立たない』と言うことで、仕方がなかったのである。

 

グループの役員構成は下表の通りであった。

 

 

KMSの苧野社長を除いて、どの会社も川重常務の塚本本部長が社長を兼務されてはいるが、実際は非常勤だから★印の常勤役員が実質責任者なのである。

各社の責任者の方は石原専務(川重同期)を除いて全て私より年長者の方ばかりだったが、やるしか仕方がなかったのである。

 

当時のカワ販グループは、販売台数は約2万台、グループ全体で含み損を入れると10億に近い赤字で、銀行借入金は26億円ほどもある赤字グループだったのだが、この健全化計画をベースにこの新体制がスタートすることになるのである。

これらは本社の財務の管理下に入れられてしまって、毎月私は本社の財務担当大西常務に月次で報告することが義務付けられたのである

 

★ずっと若いころの仙台時代から、会社経営については、代理店関係を担当していたし、国内の直営部時代も全て経営を担当していたので、全くの素人ではないのだが、全国の販社を統括するのは、初めての経験だったのである。

大体、人間半分は運で、販社の経営などいい商品の時に担当したら、まず間違いなくウマく行くのである

カワサキの国内のヒット商品と言うと、Z2-400FX-ZEPHYRなどがその代表格だが、3度の国内担当したのだが、この3機種は全て私の担当時の商品なのである。

400FXが発売されたのが1979年の春であった。

このヒットぶりはすさまじかった。400ccと言うこともあってZ2とは売れる台数のレベルが違うのである。400ccの分野ではホンダさんを抜いてトップになったりした。

そして1979年度のグループのトータル利益は930百万円にもなって、たった1年で、グループの含み損も消去して綺麗な会社になったのである。銀行借入金も1年で半減し、取引銀行も沢山あったのを2行に絞ってしまったり、借入金ゼロの販社を作ったりしたのである。

 

このカワ販グループを実質3年9カ月ほど担当したのだが、この期間ずっと順調に推移したので、本社の大西常務などからの信頼も大いに得たのだが、半分以上は『ツキ』だと思う。

大西さんからは累損も含み損も消えた時点で『君は、1年前に計画を出した時にこうなると解っていたのか?』 などと質問されたが、そんなこと解っている訳はないので、『何とかなるだろう』と思っていただけのことなのである。

 

 

★こんな具合に、国内市場は商品に恵まれて順調に推移したのだが、

この期間中海外販社はオーストラリアを除いて非常に厳しい状況が続き、特に主力のアメリカのKMCの経営状況が、年々赤字幅が増大し、その累損が日本円換算で百億円近くにもなる状況が続いたのである。

その理由はいろいろあるのだろうが、

●一つにはHY戦争がアメリカまで飛び火してスズキもカワサキも安売り競争に巻き込まれてしまったこと、

●カワサキ独自のスノーモビル事業が足を引っ張ったことなどが表面の理由とされている。

海外子会社の赤字は川崎重工の損益に連結されるものだから、本社財務も放置することも出来ずに資金的にいろいろ手を打ったりするのだが、なかなかままならなかったのである。

この時期アメリカを明石で担当していたのが田崎さんで、私は国内に掛りきりだったのだが、いろいろ相談は受けたりしていたのである。

1980年ごろから経営がさらに悪化し81年の10月からは、高橋鉄郎さんが会長、田崎さんが社長の二人のコンビで経営を立て直すべくアメリカに渡られたのだが、82年になっても悪い流れは止まらず、このままでは単車事業からの撤退を考えねばならぬところまで追いつめられてしまったのである

この当時の単車事業の最高責任者はかっての単車事業部長、山田熙明専務だった。山田さんは中学校の先輩でもあり、創成期のレースを一緒にやったりデグナ―の契約書などは二人で作ったりして、その後も何かと目を掛けていただいた方である。

 

★私は、当時は国内のグループを担当していて、ヨコから眺めていただけなのだが、

このKMC問題は、いろいろな理由は言われてはいるが、ひとことで言うと『トータルの経営の仕組みが出来ていないこと』が最大の理由で、

具体的に対応出来る『トータルシステムさえ構築すれば』 間違いなく解決すると思ってっていたのである。

 

1982年の7月1日の早朝本社の山田専務から電話が掛り、本社に呼び出されて『意見を聞かれた』のである。

アメリカKMCの経営内容を改善することについて、いろいろ聞かれたのだが、『それは直ぐ解決出来る』と思いますと答えたら、『お前が企画をやれ』と仰るのである。

従来、自分の異動について、条件を付けたりしたことはないのだが、この時だけは条件をつけさせて頂いたのである

 

● 一つは、『技術のよく解るメンバーを一人付けて欲しい』  これは前回企画を担当した時に、技術オンチの私は技術屋さんの諸要求の中身が解らなくて『それがなければ出来ない』などと言われると困ってしまったのである。こんな部類の仕事をやってくれる人が欲しかったのである。これは山田専務は直ぐOK と言って頂いたのである。

● もう一つは、『KMCに行っておられる高橋鉄郎会長を企画室長で明石に戻して欲しい

これについては、山田専務が最初に言われたのは明らかに『NO』だった。『KMCを田崎だけで出来るか?』と仰るのである。『私と田崎さんは1年違いだけだから、田崎さんがKMCが出来なければ、私が企画など出来るわけがナイ』などと言ったら、『考える』という方向でその日は終わったのである。

 

★そんなことから、私は1982年の10月1日からまた単車事業本部の企画部に戻ることになったのである。

そして高橋鉄郎さんも企画室長でKMCから戻られて、KMCは田崎雅元さんが独りで担当することになったのである。

 

結論から言うと、1982年10月から約2年でKMCは勿論、海外全販社が黒字化して、さらにその数年後100億円近くあったKMCの累損は全て消去されて、健全販社として生まれ変わったのである。

どのような新しい総合的なシステムを構築したのか?

当時の単車事業本部の世界の販社を含めた『経営のトータルシステム』は82年10月から6ヶ月でほぼその枠組みは完成したのだが、それが具体的にどんなものだったのか?

その詳細については、次回に詳しく述べたいと思ううが、

 

基本的に単車事業は、全て自らの意思で、開発機種も、生産台数も、販売先も、販売台数も計画出来る、非常に自由極まる事業なのである。

注文者は基本的にいないので、自らが決めねば誰も決めてはくれないのである

4輪に比べてはるかに小型だが結構値段も張り1台あたりの粗利も10万円の単位だから、1000台で1億円になったりする。

頑張れば10億円などの利益は直ぐ出てしまうのだが、逆に頑張り過ぎて売れなかったりすると、在庫金利も値引き額もそのレベルで発生する

事業のベースの台数などを、現地に聞いたりするから間違ってしまうのだと、私は今でも思っている。

世界の事業展開を経営次元では中央でコントロール出来る仕組みでない限り、安定した経営はムツカシイと思っている。

1982年からの数年間、世界の販社の事業計画なども全て明石の中央で全体最適地を求めて策定し、現地販社はその計画に基づいた実行部隊であることに専念したのである。

個別最適値の集積が=全体最適値にはならないのである

 

こんな綜合的な計画は、数人おれば組めるのだが、それを全軍に指揮命令するのには、結構位も要るのである。

私には、計画は組めても全軍を指揮する力は、新米部長では難しかったのである

その旗を振って頂いたのが、高橋鉄郎さんなのである

そのために高橋鉄郎さんには明石に戻って頂くことが、MUST 条件だと思ったのである

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 


カワサキ単車物語50年 その12 ダンピング問題

2013-05-31 05:31:02 | カワサキ単車の昔話

 

★1976年は、小型車問題での市場開発プロジェクト問題に明け暮れて11月には『市場開発プロジェクト室』が発足しこの問題については具体的に動き出すのである。

そして1977年4月には、市場開発プロジェクト室がヨーロッパ営業部を吸収する形で、高橋鉄郎営業総括部長体制となった。

 

この時点での各販売会社の体制は

国内のカワサキオートバイ販売田中社長、苧野専務、清水屋、加茂常務などこれはずっと上の先輩ばかりで、その体制は400名を有していた。

アメリカKMCは、浜脇洋二社長で、浜脇―マセック体制がまだ続いていたが、その経営には多くの陰りが見え出した時期である。

その他のヨーロッパなどは、

UKが内田博社長(昭和34年入社メグロ出身)KMG 種子島経(35年入社) KMA 井川清次(38年入社)などの若手社長で、東南アジアのメンバーもみんな若手ばかりだったのである。

事業部中枢としては、(32年入社)田崎雅元、那波義治(33年入社)などが企画、営業部門にいて、

事業本部の今後の方向などについては、こんなメンバーの意見が結構ちゃんと反映されるそんな状況だったのである。

 

 

★ 昭和53年(1978)4月には、非常に大きな職制変更が行われ、実質的に単車事業部の新体制でのスタートが切られることになるのである

 

その大改組は、

● 事業本部長は塚本碩春本部長のままだったが

● 山本副本部長、酒井企画室長と川重他部門からの移籍があり、堀川運平企画室長が本社財務に戻られたのである。

● そして単車事業部と発動部事業部に分かれて, 高橋鉄郎単車事業部長、前田副事業部長体制となった。

● さらに従来の単車の中枢として活動されたKMCの浜脇洋二、Z開発の大槻幸雄、CMCの田中秋夫さん3人が単車事業部を去られたのである。

● この時点でのアメリカKMCは山田晴二社長、高橋宏副社長体制になった。

 

そういう意味で、単車事業の第1期は、ここで終わり、新体制がスタートした と言うべきなのかも知れない。

 

●そして単車の企画とも言うべき管理部

古谷、田崎、野田、坪井の4課長体制となって、私自身は1年で企画を離れたのだが、半年でまた本社などとのお付き合いのある管理分門を担当することになるのである。

私自身も入社20年となり、その他の若手課長もそれなりの単車事業の経験を積んで、それぞれが広い範囲で活動を展開するそんな時期になったのである。

ただ単車事業の経営環境はなかなか厳しくて、特にアメリカ市場中心で伸びてきたカワサキとしては、

そのアメリカ市場で起こったハ―レ―のダンピング訴訟問題が、国内市場の対策を巻き込んで大きな問題となるのである。

 

 

★この時期に、高橋さんから『事業部の長期計画策定』の指示が出たのだが、そのメモである。

この指示書の中にもあるように、この時点ではまだ、CMC計画(小型車プロジェクト)はまだ生きていたのだが、東南アジアのCKDプロジェクトが順調に進んだこともあって、高橋さんの頭には、明石で完成車として生産する小型車は、あくまでも戦略的な車種に位置付けたいと言うのが本音だった思う。

私自身はこのプロジェクトはリスクが大き過ぎると思ったので、東南アジアのCKDプロジェクトを推進したもので、

この時期に技術部に開発提案したKH110 (GTO)が軌道に乗れば、そちらの方を主力に進めたい と思っていたし、現実はそのような思惑通りに推移してゆくのである。

 

 

高橋事業部長の指示に対して、7月末にその素案を30ページぐらいのものに纏めているが、この素案の大綱は認められたのだが、

私自身が9月からはダンピング対策で 国内対策の方に巻き込まれてしまって、この長期計画は正規計画としては認められたものにはならなかったのである。

 

 

単車事業部の現状を次の7項目に纏めている

1.総括  2.売上高規模  3.シェア  4.諸費用  4.損益分岐点と限界利益率  5.直販会社を含めた事業規模 6.シーズン性と労務問題

 

その中の総括の部分だけご紹介すると

● 昭和50年までは、アメリカ中心に順調に事業は伸張した。

● 昭和51年以降は、北米偏重を脱するべく欧州市場、東南アジア市場などで台数的には50%になったが、利益的にはまだまだ不安定。

● 経営環境としては円高に加え、輸入規制と表現しているが、アメリカのダンピング訴訟など厳しい。

など大変だったのである。

 

 

 

 

ダンピングとは、なかなか難しいのだが、以下のような解説がある。

 

 

 ダンピングとは、ある商品の輸出向け販売価格が、その商品の国内販売価格を下回る状態のこと。

1997年以降、米国は日本などの鉄鋼輸出に対し、米国鉄鋼メーカの提訴に基づき13件のアンチ・ダンピング調査を開始した

 

 

要は、日本での国内価格に対して、アメリカで売っている価格が『安すぎるのではないか』という提訴なのだが、

その価格を単純に比較するだけではなくて、日本での流通経費の価格に占める比率が、アメリカの流通経費比率に対して高過ぎる場合は、それを認めない と言うようなことなのである。

日本の流通経路は、メーカー 地方代理店(販売会社)―販売店 -ユーザーなのだが、当時のカワサキだけが、別にカワサキオートバイ販売 があって他メーカーに比べて、その流通経費率が高くなるので、このままでは、ダンピングが成立する可能性があると言うのである。

そういう意味でアメリカで起こったダンピン訴訟なのだが、それがカワサキの場合は国内販社体制の問題になったのである。

 

このようなややこしいダンピング訴訟問題を担当していたのが、事務屋ではなくてアメリカを担当していた技術屋の田崎雅元さんだったのである。

勿論、中心市場のアメリカの問題なので、本社財務のメンバーも一緒になってその対策を起案したのだが、経験のない販売会社の構造対策なので、

トータルの経費率を下げると言う問題は、そんなに簡単には行かなかったのである。

さらに、カワサキオートバイ販売と言う会社のそれもトップの人たちの体制が中心課題になるので、そこに10年も出向していた『古谷はちょっと外れておけ』と気を遣って頂いていたのだが、なかなか具体的な対応策が見つからず、船が山に登ってしまうようなそんな状況になったのである。

 

★9月半ばになって、突如塚本事業本部長から、『この問題を手伝え』と言う直接の指示が出て、このカワ販問題に没頭してしまうことになるのである。

以下の資料が2週間で纏めた提言書である。

その項目にあるように、

6月の常務会で大筋が提案され承認されて進んだのだが、9月18日に纏めた常務会資料で財務本部との間で、了解が取れず頓挫してしまったのである。

 

私の纏めた提言の方向は、6月の常務会の承認の方向をひっくり返してしまった、全く新しい方向だったのだが、

なぜ、そうでなければならないか、

どこに問題があるのか、

その対策案も含めて

対策の方向を纏めたものである。

 

これを塚本本部長に答申したら、その方向でいいと仰るので、10月からはこの問題に専念して12月末までに仕上げ、

経営会議、常務会の承認も得て、翌年1月1日には国内の新体制がスタートするのである。

 

 

 

これを塚本本部長に答申したら、その方向でいいと仰るので、

10月からはこの問題に専念して12月末までに仕上げ、経営会議、常務会の承認も得て、翌年1月1日には国内の新体制がスタートするのである。

 

そんなことで、開発途上国の市場調査からスタートした新体制での営業や管理部門の仕事も9月でおわってしまって、、10月からは国内の構造改革問題に没頭することになるのである。

これは国内対策と言うより最も大きなアメリカ市場対策と密接に繋がっていて、本社財務部門の長大西副社長管轄だったので、新体制スタート後毎月大西副社長への直接報告が義務付けられた、そんなレベルのプロジェクトだったのである。

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 


カワサキ単車物語50年 その11 小型車市場開発プロジェクトー2

2013-05-27 05:24:28 | カワサキ単車の昔話

 

★この小型車市場開発プロジェクトは1976年の5月から6月に亘って、インドネシア、タイ、イランの3カ国を中心に約1ヶ月の現地調査を行って、その報告対策を纏めたことにより具体的に大きな展開となるのである。

 

その調査団のメンバーは次のような構成だった。

 団長  高橋鉄郎   技術本部長

     安藤佶朗    製造部部長

     川崎芳夫    技術部 商品企画  部長

     山辺 昂    営業部 東南アジア担当  課長

     古谷錬太郎  企画室 企画グループ  課長

     松田与市    カワサキオートバイ販売部長

     の6人で、東南アジア担当の多賀井係長が案内役を務めたのである。

 

高橋鉄郎さんは、後単車事業本部長、川崎重工副社長も務められ、私とはこの10年前のファクトリーレースチーム時代からの関係だが、このプロジェクト以来ずっと直接的に関係があって、今現在もNPO The Good Times の相談役もお願いしたりしているのである。

安藤佶朗 さんは、ファクトリーレース、F21Mを造られた当時の監督、アメリカリンカーン工場経営やカワサキ独自の生産方式を造られたりした。

川崎芳夫さんは、川崎重工業の祖、川崎正蔵さんのお孫さんに当たる方である。青野ケ原のモトクロスなどは川崎さんなどが実質の活動舞台であった。この時期は商品企画を担当されていた。

山辺昂さん、 私と同期入社、当時は東南アジアの営業担当であった。不思議なご縁で入社試験は隣の席だった。

松田与市さん、 当時はカワサキオートバイ販売の第1線担当、カワサキ九州出身のマーケッテング専門家で、国内営業では長い経験をお持ちだった。

このような当時のカワサキの各部門を代表するいいメンバーであったと思う。 

 

5月17日に日本を出発し、台湾ーインドネシアタイーイランーマレーシア と現地で―ラ―を始め末端市場までを実際に見て回った。

この調査団の報告と、その後の対策提案によって、具体的に「市場開発プロジェクト室」と言う新しい職制が11月にスタートすることになるのである。

 

 

★インドネシア、タイ、イランそれぞれ末端の市場まで足を伸ばした強行軍だったし、仏教国のタイはともかく、回教徒主体のインドネシア、イランなどの考え方の相違なども顕著で、初めて体験することも多く、世界は広いなと思ったものである。

タイ、インドネシアでも、いろんな見聞をしたのだが、特に回教国イランの習慣や考え方の違いには驚いた。

話をしていてもお祈りの時間になるとお構いなくお祈りに没頭だし、長期計画など、それは神様の分野だと仰るのである。文字はともかく数字が違うのにはビックリした。領収書を貰っても幾らなのか解らない。ハートの模様が確か5で、ゼロは・ なのである。

イランのイスファーハーンからテヘランに戻ろうとしたら飛行機が飛ばないという。『いつ飛ぶのですか』と聞いても返事はただ『解らない』と言うだけで、テヘランまで600キロの砂漠の中の道をタクシーに分乗してテヘランまで戻ってきたりした。

市場調査などみんな初めての経験であったが、私は特に各地のデ―ラ―の経営姿勢や販売網のコンセプト、具体的な商売の仕方、ユーザー体質などなど、各地独特のモノがあって得るところ非常に大きかった

一言で言うと 商売は、「いろんな形」があって、どれが正しいなどとは言えないものだ と言うことを実感した。

 

★この調査団ほど真面目な海外出張は、あまり例がないのではと思ったりする。普通ではないような真面目さと熱っぽさで、観光地見学などは一切なかったのである。

特に副団長格の安藤さんと川崎さんはまさに熱心で、夜飯を食った後で、その日の検討、反省会などをやろうなどと言うものだから、営業関係の私や松田さん、山辺さんなどは少々辟易したようなところもあったのである。現地の商社やデ―ラ―の人たちも、従来のカワサキの人たちの態度とは一変した真面目で熱っぽい調査団の行動に、半ばビックリしたような感さえあったのである。

一番この東南アジアを「気に入られた」のは、高橋鉄郎団長で、このプロジェクトの推進役の私としては、これは間違いなく成功したと、思ったものである。

 1ヶ月に亘る現地調査を終わって、

『将来性のある有望な市場なので、市場参入すべし』と言う方向で纏めて、吉田専務、塚本事業部長などへの報告を行ったのである。

その結果、 「市場開発プロジェクト室」の組織を造り、その室長には高橋技術本部長が兼務することまでは直ぐ決まって、その陣容や基本コンセプトまでは、お手伝いをしたのだが、最後まで決まらなかったのが、私自身の去就であった

自分自身のことではあるし、一切意見を言わずに上の判断に任していたのだが、高橋さんからは貰いが掛ったのだが、企画がなかなか「うん」と言わなかったのだと思う。それが最終的にはプロジェクト室への異動となり、復職後企画室勤務はちょうど1年でまた、現場復帰となったのである

 

現地展開の特別プロジェクト

● 「イランプロジェクト」 総括 山辺昂    現地駐在がテヘラン岩崎茂樹、現地工場佐伯武彦さん(後リンカーン社長、川重副社長)、明石での管理キャッチャー役が鶴谷将俊さん(後アメリカ、ヨーロッパの現地販社社長、川重常務)。今思うと大モノが担当したのだが、こんな経験をしたので大モノになったのかも知れない。

● 「インドネシアプロジェクト」 総括 石井三代治  現地駐在が 資材から参加した大竹国雄さんらの実力者で、国内販社から久後淳一郎君らが参加した。

● 「タイプロジェクト」 総括 私が兼務で担当   私は『市場開発プロジェクト室』の総合的な企画、管理を主務としながら、『タイプロジェクト』を担当して、タイに初めてのカワサキとの合弁会社が出来るまで、現地に出向した小池博信君や国内販社からタイに出向した耕守正昭君などを手伝ったのである。

● これら3つの主要プロジェクトのほかに、開発途上国市場の台湾、フィリッピン、マレーシア、パキスタンなどの一般市場は山辺さんと佐藤君が担当し、この地域の技術サービスなどを担当したのは、後単車の製造部門や建機部門を統括した藤浦堯士さんなどもいて、ホントに単車事業のいいメンバーが集められたものだと思うのである。

 

 

この時期1976年からの4,5年

オイルショックハ―レ―のダンピング訴訟、さらにはHY戦争などと続いて、二輪業界にとっては激動の時代だった。

カワサキにとってもその中心のアメリカ市場でカワサキ独自のスノ―モービルが雪不足での在庫過剰問題やら、ダンピング訴訟などの対策で、その対策に追われた時期でもあったのである

この開発途上国の新市場対策もそんな一環ではあったのだが、過去10年は、実質的にはアメリカに本部があったようなもので、Zの開発など新機種の開発もアメリカ主導であったし、アメリカKMCの浜脇洋二社長の基本戦略通りに明石の事業本部がフォローすればいいというような状況であった

そういうカワサキ独特の事業環境が一変して、アメリカKMCの経営に陰りが見え始め、さらには経営も悪化し、事業部も1975年には大きな赤字を計上するそんな状況に変わっていたのである。

 

1976年から数年の事業本部内の職制変更の動きを見ても、それがどのようなものだったのか、想像頂けると思う。

その最初が「市場開発プロジェクト室」なのである。

 

1976年10月  市場開発プロジェクト室 発足   

高橋鉄郎室長が技術本部長の兼務として担当、事業部各部から人材を異動し、タイ、イラン、インドネシアプロジェクトをそれぞれ現地で立ちあげ活動に入った。

 

1977年7月  営業本部としてヨーロッパを含めて、高橋鉄郎本部長が担当  

実質は、『市場開発プロジェクト室』に従来のヨーロッパ営業部を吸収して、名前は営業本部とし、高橋鉄郎さん管轄となったのである。ヨーロッパにについては佐野部長が、CKDビジネスと営業本部のトータル管理は私が担当した。 

この時点ではまだ、アメリカ、国内については企画室で田崎雅元さんなどが担当していた。

 

1978年4月 発動機事業本部の中に単車事業部を組織し、高橋鉄郎事業部長 

この事業部の中に管理部が出来て、田崎雅元、野田浩志、坪井孝之課長と私の4課長体制となった。

私は開発途上国に加え、ヨーロッパも含め、トータルの管理面では担当し、アメリカ、国内の直販会社は田崎、野田さんの担当だった。そして、この時点でアメリカのハ―レ―ダンピング訴訟が起こり、これは田崎さんが担当したのである。

この時期は国内、アメリカ、ヨーロッパとも、多くの経営的な課題を含んでいて、その結果が事業部の損益を圧迫し大変な時代であった。

 

 

 

 

★この時期、順調に進んでいたのは、新しくスタートした開発途上国ぐらいで、新開発のKH110 GTOが売れだしていたのである。 

CKDなのでカワサキの明石工場の生産台数にはカウントされていないが、カワサキの車種の中で最も大量に販売したのは、FX400でもZEPHYR でもZでもなくKH110 GTO ではなかったかと思っている。

私自身は殆ど、車種開発などには関与したことはないのだが、ただ1機種だけ間違いなく私が技術部に開発をお願いしたクルマがこのGTOなのである。

当時のタイ市場では首都バンコックでは、カワサキの車は見ることが出来なかった。カワサキは全くの実用車でタイの田舎でしか売れていなかったのである。そのバンコックの市場開拓をする上で都会向きの車がいると、当時のタイプロジェクトの現地責任者のチャンチャイさんが『兎に角110キロ以上スピードが出る高馬力スポーツ車』 を開発して欲しいと言うのである。

 このコンセプトを当時の大槻幸雄技術部長主催のの技術部の課長会議に乗りこんで、『こんな車を造って欲しい』と頼んだのだが、肝心の大槻さんが『そんなのやれるか』と猛反対なのである。

大槻さんは『Mrホースパワー』とあだ名されてはいたが関心は大型スポーツ車で、こんな125ccなどは、関心がなかったのである。大槻さんとは昔のレース仲間なので、言いたいことは言える仲なので、粘っていたら、『カワサキの2サイクルなら松本』と言われている松本博之さんが、『私がやりましょう』と助け船を出してくれて、この開発が決定したのである。この話、つい2,3日前当の大槻幸雄さんにお会いした時言ったのだが、ちゃんと覚えてもおられなかった。

私が、最初に頼んだ時は『馬力さえ出て、スピードが110キロ以上でたら、少々音などやかましくてもいい』などと、チャンチャイさんが言った通りに伝えたのだが、この開発プロジェクトを引き継いでくれた石井三代治さんが、、その後丁寧に音などの問題も全て解決したイイものに仕上げてくれたのである。

 それにしても、めちゃくちゃ売れた車で、GTOが売りたいからと、バンコックの大手デーラーがカワサキに次々に訪れて、バンコックのまちの交差点は『カワサキのGTOであふれる』ほど売れたし、インドネシアでも大ヒットになったのである。

 

 

 

当時のタイの広告写真。 『カワサキGTO』 で画像検索したら、こんな写真が現れたのである。

いずれにしても当時先進国市場が軒並み問題があった時期に、カワサキでヒットした商品は東南アジアではこのGTO 、そして国内ではFX400が大ヒットするのだが、その台数ではGTOに確か遠く及ばなかったように記憶している。

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 


カワサキ単車物語50年  その10  小型車市場開発プロジェクトー1

2013-05-21 06:04:06 | カワサキ単車の昔話

★カワサキが単車事業に本格的に乗りだしてから、昨年はちょうど50年の節目の年であった。

50年の年月のなかで、カワサキは大型スポーツ車で確固たる『独特のイメージとブランド』を築き上げてきたのだが、

今現在、事業の中枢を占めているのは、先進国の大型車ではなくて、開発途上国のKD ビジネスなのである

1976年(昭和51年)はその開発途上国市場に対する活動が開始された年だったと言っていい。

 

 当時の事業本部では将来の方向としてCMCプロジェクト(コンパクトな二輪車を主として画期的な生産構造をベースに展開しようと言うプロジェクト)が当時の最高責任者吉田専務の下で進められていたそんな時期だった。

1975年10月に販売会社への10年間の出向を終えて事業部の企画室企画グループにに復職し、その年の年末までは『長期計画の策定』に没頭していた。

年末に承認されたその長期計画のベースには『小型車』が主流の年間50万台販売という大量生産販売計画がその骨子とし纏められていたのである。

 

私自身、その企画案をまとめた企画グループの責任者でもあったのだが、その方向にはリスクが多すぎると思っていた。

然し事業部の中で、既に一つの流れになっているCMCをアタマから否定してかかることは非常に難しかったのも事実なのであった。

そんな状況の中で、1976年の年明け早々に起案したのが、

同じ『小型車』ではあるが、東南アジア市場の小型車戦略の展開を企図し纏めたのが以下の資料で、まず副本部長までの承認を取り、事業部各責任者にも配布して、そのけり出しを個人的に画策したのである。

 

 

 

 

結論から言うとこの年の11月には、

市場開発プロジェクト室 が高橋鉄郎技術本部長が室長兼務されて、新しい職制が発足すると言う新しい展開が実現するのである。

 

★事業本部としても、中枢のプロジェクトとしての位置付けで進められたこのプロジェクトだが、

このように順調に推移したのは、従来の主力市場のアメリカに陰りが見え、新しく進出を推進中のヨーロッパも確たる実績もなく、単車事業の将来の巾を広げるためにも、新しいプロジェクトが欲しかったそんな環境だったのだと思う。

時系列に追っかけてみるとこのようなことで、非常に迅速な展開であることがお解り頂けると思う。

 

●1月 上記『東南アジア市場に関する当面の基本方針』の 副本部長までの承認

●3月 『小型車に関する考察』を塚本本部長に報告、 小型車問題に関する意見具申を行った。

●4月 東南アジア調査団派遣が決定、塚本本部長自らが高橋技術本部長をその団長に指名、調査団メンバーの決定。

●5月、6月 約1ヶ月  台湾、インドネシア、タイ 、イラン、マレーシア の現地調査を実施。

●7月  その調査報告 と 今後の対処方針策定

●8月 『市場開発プロジェクト室』を高橋技術本部長兼任が決定

●9月 その具体的内容や陣容などの検討

●11月 新職制『市場開発プロジェクト室発足』 高橋鉄郎技術本部長が室長兼務、私も企画室より異動して参加決定

 

 

★このプロジェクトが非常にスムースに進んだのは、塚本本部長が非常に前向きに対処されたことが一番で、堀川企画室長の後押しも大きかったと思っている。

普通このような調査団の団長などは、下が決めて本部長は承認が普通なのだが、この団長の人選は本部長自らが推薦決定されたのである。

塚本さんがなぜそんなに積極的になられたのか?

それは3月に纏めて本部長に報告した『小型車に関する考察』によることがが大きかったのではと思っている。

これは本文25ページ、数値資料25ページで本文は私、数値資料は武本一郎さんの二人で纏めた自分で言うのもおかしいが『労作』なのである。

私自身入社以来初めて、塚本さんに対する報告書であったと思う。そういう意味で塚本本部長も新鮮であったに違いない。

 

ちょっと横道にそれるが、私の川崎航空機の入社試験時塚本さんは人事課長で、面接の時の第1声が塚本さんで、『君は成績わるいねえ』から始まったのである。

大学時代野球ばかりで教室には殆ど出ていない。そんなことで成績は最低だったのである。『会社の仕事ぐらいなら、人に負けずにちゃんとやれると思います。』とずうずうしく応えたのを覚えている。

塚本さんはそれを覚えておられたかどうかはよく解らぬが、私は面接の時自分で言った言葉は、退職するまでよく覚えていて、『ちゃんとやれた』と思っているのである。そんな塚本さんへの初めての私自身の想いの籠った書類だったので、意識して『ちゃんと創った』のである。

 

その項目は以下のようなものなのだが、

その内容はそなに大したものではなく、もしホンダさんなど他メーカーなら全然必要のない内容も多いのだが、当時のトップも殆ど二輪のことをご存じないので、まず初歩的な説明から入っているのである。

これは本部長に説明したものだが、同時に企画グループの私の部下たちへの説明にもなっているのである。

事実塚本さんにも『非常によく纏っていて、よく解った』とお褒めを頂いたのだが、同時に企画グループの部下たちにも非常に好評だったのである。

後段では、方針について述べているのだが、前段は全くの初歩的教科書的な内容なのである。

そんなことを書かねば前に進まなかったところが、当時のカワサキの事業部の状況で、技術、生産分野はともかく、マーケッテング分野については、極端に言えば素人の集まりだったのが、カワサキの特色だったのかも知れない。一課長が提案すれば、半年後に新しい職制が出来あがったりしたところが、またカワサキらしいのである

 

 

 

この中で、特に[Ⅰ、Ⅱ項] は、全く基本的は説明なのだが、小型車の世界は、カワサキが従来走ってきた中、大型スポーツ車とは、全然異なる範疇のものであることを、徹底して述べている。

特にホンダのロードパルコンセプトや意匠登録など、そのあたりが、上の方にも下の人にも新鮮に映ったに違いないのである。

単に、10年間マーケットの第1線でマーケッテングの世界に浸かっていた経験だけで書いたものだが、その時期そんな経験をした人は、少なくともカワサキの明石工場にはいなかったのである。

 

 

 

 

 

 ★兎に角、この『小型車に関する考察』は本部長に報告承認、了解を受けて前に進むことになるのだが、

この答申書の中の最初をこんな書き出しでスタートしているのは、上記のような当時の環境では仕方がなかったのである。

 

 

 

そして、事業部での当時のCMCプロジェクトの視点からは、完全に末端市場が抜け落ちており、当時の直販会社の状況など、殆ど加味されず単に、生産構造上の技術的な問題や、台数ばかりが先行していて、個人的には『危険極まりない』と思ってはいたのだが、

事業本部の長期計画の方向の中で、それを担当している企画グループ長としては、そんなにあからさまに私見を述べることまでは、許されておらず、

このプロジェクトは、『からめ手からの戦略』であったことは間違いなかったのである。

 

そのようなことを下記のような『総論』から、間接的に述べているのである。

 

メモは私の資料なので、勝手に本音を書いている。

 

 

★こんな本部長への報告があって、本部長自らが乗り気で、調査団団長を選ばれたのだが、塚本さんが最初に指名されたのは、大槻幸雄さん、あのZ1の開発責任者だったのだが、そのオファーを大槻さんは断られているのである。

多分、『Mr ホースパワー』とあだ名されていた大槻さんは、1300ccの大型車には興味、関心があったのだが、小型車など全然関心外だったのだと思う。本部長に言われても断られるところが、また大槻さんらしいのである。

そんな経緯もあって、団長にはさらに一段格上の技術本部長高橋鉄郎さん に決まったのである。

  

 

 

このプロジェクトの具体的な中味は改めて書くことにしたい。

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


カワサキ単車物語50年  その9  昭和50年当時のメンバー達

2013-05-16 20:19:59 | カワサキ単車の昔話

★1975年、私が企画に復職したころのカワサキの単車事業部は、岩城良三常務時代が単車再建を宣言した昭和40年(1965)から10年の歳月が流れていたのだが、この10年間の間にホントに第1線の現場を経験した川崎重工籍のメンバーはごくごく僅かだったのである。

これは国内に於いては、メイハツ、メグロのメンバーが第1線の主力であったし、海外に於いても日常活動をを担当してくれたのは現地のアメリカ人であったので、メーカー籍の人はホントに少なかったのである。

 

明石工場内での技術や生産部門の人たちもそれなりにいろいろな経験を積んでは行くのだが、将来のこの事業を考えるとき、単なる輸出産業ではなくて現地に販売網を創設し事業展開を行うことになるので、現地を経験し、そんなカンみたいなものが体質的に理解できないと、今後の事業展開の発想などなかなか難しい面もあるのである。

私自身の経験で言っても、広告宣伝、ファクトリーレース、代理店営業、直販会社担当、特約店制度など販売網創設、などの業務は川重そのものにとっても、全く初めてのことばかりで、そこで得た経験は明石工場の中では得られない貴重なモノだったのである。

当時の事業本部は吉田俊夫専務がその経営全般を担当、塚本事業本部長、青野副本部長、堀川運平企画室長の4人でグループのトップ陣を形成していた。

吉田さんを除く3人が東大出身という超エリート組で、事業部にはこのほかにも東大出はぞろぞろいて営業の矢野昭典さん、KMCの浜脇洋二さん、同じ企画にいた種子島経さん、私の部下の武本一郎さんと東大だらけで、会議をすると学校別では東大が一番多いなどと言う普通では考えられないメンバーだったのだが、上司の人たちは、アタマはよくても、位は高くても、単車事業については殆ど経験をお持ちではなかったのである。

そんな事業本部の中で、いろんな発想をするとき、この10年間現場やいろんな経験を積んだ若い人たちの発言が、位は低くても結構重みがあったのである

 

吉田専務などは川崎重工業の専務さんで、他の事業などでは課長などは直接口もきけない存在なのだが、単車の事業部では吉田さんの仰ることでも、堂々と反論する不思議な空気があって、そんな経験をお持ちでない吉田さんはそれが結構オモシロく感じられたようなところもあった。

当時の吉田語録で

「他の事業部では俺が怒ったら卒倒したやつがおったのに、単車は素人の専務はだまっとれと言うよな雰囲気だ」とか。

「単車の連中は黒人みたいだ。飛んだり跳ねたりさせたら滅法強いが、ホントにアタマはいいのかな」

などと仰ったりしたのである。

 

★企画のメンバーは勿論いっぱいいたのだが、その中で現場経験者は4人だけだった。

年次の順で言うと、昭和32年入社の私

33年入社でレース、アメリカの創成期7人の侍の一人田崎雅元さん、田崎さんは日本に戻ってからも当時は日本でも珍しい部品の自動収納倉庫を造ったりしていた。

35年組の種子島さんも いたのだが、彼はヨーロッパに出かける直前で待機中で特に担当は持っていなかった。ちょうど本を書いてたのはそのころである。

それに高校卒だが単車に限らず博学極まる岩崎茂樹くん、彼は私の後の広告宣伝、レース、さらには九州事務所で代理店営業、さらには直営所関連などの業務をこなしていて、当時は田崎さんと組んで、アメリカとリンカーン市場を担当していたのである。

そういう意味では年次から言っても、私と田崎さんが単車については若手の中心で二人とも人一倍いろんなことを言うものだから、課長ではあったが発言にはみんな一目置いて頂いて頂いたように思う。

 

そのほかにも後川重や単車を支えた人たちはいっぱいいた。

大庭さん時代の企画部長として支え、アメリカ以外の市場へのジェットスキー導入や、電算室を明石事務所のサービス部門から企画室の中枢に持ってきた武本一郎さん

後ドイツの社長など務めた佐藤強さん、

あと本社の財務に戻ったが田崎社長時代単車の本部長も務めた森田進一さん、関連事業部やKMJ の専務やKLCの社長を務めた繁治登さんなど多士済々だったのである。

前述の岩崎茂樹さんは、私とはそのあとも密接に関係があっていろんなことを一緒にやっている。岩崎茂樹はこの物語にも今後何度も登場するだろう。

そしてこの企画グループを纏めていたのが、高橋宏部長であった。

この時点では、アメリカKMCは、まだ浜脇洋二社長であった時期である。

 

 

★そんななかで、田崎雅元さんとは年次は私が一つ上、年齢は二つ上で、私は昭和一桁だが彼は昭和二桁なのである。

田崎雅元さんとは、川崎重工業の社長を務めた田崎さんである

 

ちょっと彼のことに触れておくと、

なぜかご縁があって、10数年前には、私は単車だったが、彼は未だジェットにいて組合の常任幹事で同じ会議によく出ていた。私も喋る方だが、組合の事項のような解らぬことは発言できないのだが、田崎さんはどんな議題でも発言するし、なかなかいことを仰るのである。てっきり事務屋だと思っていたら、技術屋だと聞いてびっくりした。

その後単車にやってきて一緒にファクトリーレースを支えたレース仲間なのである。

創成期のファクトリ―チームは技術部と製造部と広告宣伝課の3部門の協働体制だった。

元々明石工場はエンジン工場だからエンジン開発は専門家がいっぱいなのだが、車体、特にレーサーの車体については、当時は兵庫メグロからカワサキに転じた松尾勇さん個人のノウハウで持っていたところがあって、松尾さんが製造部の所属だったのでレース職場は製造部管轄で、その担当が田崎さんだったのである。

カワサキが初めて鈴鹿の6時間耐久レースに出場したときの監督は、あのZの開発者の大槻幸雄さんだし、その助監督を務めたのが田崎さんなのである。

彼はその後、アメリカに渡り、創成期のシカゴ事務所を担当したホントにアメリカ市場の先達なのである。

何となくご縁があって、その後も、特に1976年から1986年までの10年間、カワサキの単車事業のど真ん中で、二人協力していろんなことをやることになるのである。

 

★前編で、企画室長の堀川運平さん のことをちょっと書いたが、堀川さんは本社財務の超エリートで、特に大きなウエイトを占めていたアメリカKMCの財務、資金に対してのお目付け役みたいな感じで事業本部に派遣されたのは間違いない。

非常にオモシロイ独特の発想をされる方なのである。

どうせ、今から単車のことを覚えても、解る筈はないから、具体的な案件については「誰か人を決めてその人の発言に乗る」と仰るのである。例えば特に生産のことなど解らぬから、『私は安藤佶朗さんに乗るんです』とよく仰っていた。

その堀川さんには私も田崎さんもそこそこの信用があったように思う。

堀川さんが本社財務に戻られてから、国内販社の問題で、川重全体でもめにもめていた時に、私の立案について、「古谷君が1ヶ月も考えた案ならそれで行きましょう」と言って頂いて、現在のKMJの前身のカワ販改組案が通ったり、さらにその数年後、ホントに単車の存続が危なかったその時に、『何百億円の資金を単車に注いで頂いた』のは、経営会議の判断とはなっているが、実際は当時の財務担当常務であった堀川運平さんの判断によるところが大きかったのである。

カワサキの単車を支えてきたのは、ベースには極めてユニークなヒット商品があるのは事実なのだだが、カワサキの単車がここまで続いたのは、川崎重工業の『資金力』 金の力が大きかったのである。

そういう意味で、カワサキの単車事業部の現在があるのは、堀川運平さんの判断に負うところも多いのだが、そのあたりの具体的なことはまたの機会にしたいと思っている。

 

 

 

★突然、ゴルフの優勝カップだが、これは『企営会』と言うゴルフコンペがあって、

堀川さんが単車におられた期間続いた企画と営業関係の人たちが参加したコンペだが14回ほど続いて取切り戦で私が優勝したので、私の手元にあるのである。

その第1回の優勝者が田崎雅元さんで、昭和50年12月20日なのである。

実はこの12月20日(土)に長計の検討会を須磨の翆山荘で幹部でやろうと堀川さんのところに吉田専務から電話が掛ったのだが、堀川さんは『その日はゴルフのコンペですから』と断られたようなのである。このあたりが堀川さんらしいのだが、吉田さんからはそれでは企画の若手でもということなので、『私がゴルフは止めて専務のお付き合いをする』ことになったのである。私よりさらに若い未だ係長の森田進一くんなど全くの若手と吉田専務と5人ほどでの会議をやったのである。

吉田専務は至極ご機嫌で、当日は絶好の天気で『雨でも降ればいいのに』などと言われていたが、終始和やかに若手相手にいろんな話をされたのである。

 

このゴルフコンペのことなど、こんなブログに纏めてある

昭和50年から55年まで続いているのだが、当時のこんなメンバーが優勝している。当時の事業のキーパーソンばかりなのである。

 第1回   50-12-20 田崎雅元  (企画部、課長) 
第2回   51-4-24  田中誠   (カワ販社長) 
第3回   51-10-20 橋本賢   (資材、部長) 
第4回   51-12-4  宮田敬三  (IKS社長) 
第5回   52-3-19  那波義治  (営業課長) 
第6回   52-6-18  土井榮三  (資材、課長) 

第7回   52ー9ー17  古谷錬太郎 (市場開発室、課長)
第8回   52-12-3  堀川運平  (企画室長) 
第9回   53-3-18  苧野豊秋  (カワ販専務) 
第10回  53-7-15  野田浩志  (管理、課長) 

第11回  54-3-17  若山禎一郎 (IKS部長) 
第12回  54-7-14  酒井勉    (企画室長) 
第13回  55-5-13  前田佑作  (新カワ販、部長) 
第14回  取り切り戦   古谷錬太郎 (新カワ販、常務) 

 

流石にゴルフの翌日は日曜日だったが青野副本部長以下 幹部の人たちが翆山荘に集まって、終日会議が行われたのである。

前編でご紹介した、堀川さんの自筆の事業計画は、その日付が昭和50年12月19日とあるように、翆山荘会議の前日の金曜日に経営会議が行われていて、その会議のの続きが行われたのである。

 

★1975年10月に企画室企画グループに復職した私だったが、その3カ月間で一応長期計画を形の上では纏めたのだが、

年が明けてからは、開発途上国向けの小型車に関しての具体的な活動展開に入っていくのである。

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 


カワサキ単車物語50年  その8  単車事業第2期の始まり

2013-05-13 05:40:30 | カワサキ単車の昔話

 

★1965年から 1975年まで、

それまでの国内市場、実用車のカワサキから、アメリカ市場、中大型スポーツ車のカワサキに脱皮し、大いに業容を伸ばした10年間だったのである。

 

この10年間は、カワサキの単車事業の第1期の『カワサキの躍進時代』と言ってもいいのだろう。

アメリカ市場では、ヤマハを抜いてシェア2位を確保したり、国内市場に於いても中大型スポーツ車のスポーツ車中心の販売に合わせて新しい二輪専門の販売網『特約店制度』の全国展開が実現した。1972に発売されたZ1はアメリカ市場のみならず、世界的に好調で、これをベースにヨーロッパ市場への進出もスタートしたのである。

業容の拡大に伴って、単車事業の経営内容も飛躍的に改善されて、この間3社合併して、川崎重工業となったのだが、その川重の中でも非常に大きな影響力を持つ事業部に成長していたのである。

 

★私自身のことで言うと、1965年にカワサキオートバイ販売に出向し、広告宣伝、ファクトリーレーシングチーム、東北、北海道の代理店営業、大阪、東京、名古屋地区の直営部担当、さらには全国的な特約店展開などなど、販売第1線での初めての業務を経験することが出来たのである。

そして、1975年(昭和50年)の10月、カワサキオートバイ販売への10年間の出向期間を終えて、川崎重工業 発動機事業本部 企画室、企画グループに異動したのである。

出向した10年前は、川崎航空機工業だったのだが、1969年に3社合併があり、復職時には川崎重工業となっていた。

 10年ぶりに戻った当時の事業本部は、、事業規模も大きくなり、合併当時と比べると川崎重工業の中でもそれなりの事業規模となり、川重そのものの経営にも大きな影響を与える経営環境になっていた。

過去10年間事業を引っ張ってきたアメリカ市場にもやや陰りが見え、今後の事業展開のコンセプトを如何に設定すべきか、そんな検討に迫られていたのである。

二輪事業は、川重の他の事業部のような受注産業ではなくて、自らの意思で商品開発を行い、世界のどの市場にどのように展開するのかは、全くの自由なのである。そういう意味では将来の姿をどう描くかは、白紙に絵を描くように自由なのである。

アメリカ市場中心の大型車中心の基本方針をどのように修正し、新しい長期計画を組むのか、そんな時期に私自身は企画室の企画グループ、すなわちその直接の長期計画を担当することになったのである。

当時の発動機事業本部(発本)の最高責任者吉田専務で、塚本事業本部長青野副本部長、そして堀川企画室長と言うトップ陣で、吉田専務、青野副本部長、堀川室長は旧川崎重工出身の方で、この布陣を見ても、如何に全社的に重要な地位にあったかが解るのである。

過去10年間は、一言で言えば 『アメリカ市場がカワサキを引っ張った』=『アメリカの責任者浜脇洋二さんがカワサキを引っ張った』 そんな時期だと言っていい。アメリカのKMCは、未だ浜脇洋二さんが社長だったが、厳しい経営環境にあって、従来のように単車事業部全体をリードするような状況ではなかったのである。

 

★1975年10月企画部企画グループに復職した時には、既に『CMC』 と称するコンパクトな小型車を想定し、超効率的な生産方式を採用し、コストを武器に大量生産を目論む試案が、吉田専務と生産部門の田中秋夫部長との間で進められていたのである。

安い車さえ創れば、幾らでも売れると言う発想で、自動生産装置を駆使して無人で24時間造り続けるという、まさに生産指向的な発想なのだが、トップの吉田専務が後ろ盾のプロジェクトなので、これから7年間ほど単車事業部の中に存在したのである。

当然、それに反対する人たちもいて、吉田専務が旗を振ってもなかなか首を縦に振らないので、上の言ったことには、100%従う受注部門育ちの吉田さんは、

『事業部は言うことを聞かないので、国内のカワ販と組んでやる』などと本気で仰ったりしていたのである。

一番の反対者が、企画室長の堀川運平さんだったのもオモシロイ。

こんな『小型車主流の事業部を目指す』と言うCMCプロジェクトが何年間も事業部の中に存在したことなど、少なくとも外部の方は初耳だと思う。

 

そんなややこしい時期に企画に戻ってきて、長期計画を創ることが私の企画へ戻っての初めての仕事だったのである。

 

 

★ トップの吉田専務は、『画期的な生産方式で低コストの小型車を造れば必ず大量販売は実現する』と言う発想が基本的で、それに製造部門が乗って主たる事業部の流れは、そんな方向だったのである。

具体的には生産方式の内製化で画期的なコストダウンを図ると言う『100億円プロジェクト』だとか、1980年には70万台の生産販売規模にするなどの、勇ましい方向が主流で進められて来ていたのである。

このままの計画ではダメだと思ったが、10月に異動してきた直後だったし、既に正規に認められている専務直轄のプロジェクトをひっくり返すわけにも行かず、何となくそんな方向で纏めた長期事業計画を年内に纏めて、経営会議で一応認められたのである。

 

 

★川重の企画に戻った1975年10月から、事業の推移を示す資料を1996年ぐらいまでの20年間分を、個人的に、今でも私は持っている。

このころは上場企業でもまだ、ファイリングシステムも、勿論パソコンなどない時代だから、稟議書や決算書などの正規の書類以外は、会社にも残っていないだろうと思う。

 写真の資料は、75年10月から78年までの3年間だが、月別にも詳細な資料が残っていて、カワサキの方たちも、多分ご存じない資料が殆どなのである。

このような詳しい資料が手元に残っているので、全てを開示する訳には行かないが、

今後、『カワサキ単車物語50年』は、出来るだけ忠実にカワサキの単車事業の推移を振り返ってみることにしたいと思っている。

(このブログを川崎重工業の現役の諸君も、ご覧になっていると思うが、もしご所望なら15冊ほどあるこんなファイルをお貸してもいいと思っている。激動の20年間、後半は国内市場だが、カワサキの単車事業部の本流のデータ―であることは間違いないのである。)

 

 ちょっと脱線したが、

企画グループが創った長期計画が認められた直後に、堀川運平企画室長自らが、自筆で書かれた事業計画を経営会議に提出されたのである。

こんな事業計画があったことなど、殆どの方はご存じないし、ましてやその原本など、多分どこにも存在しないだろうと思う。

 

 

 

この内容を開示する訳には行かないが、

吉田専務の拡大生産基調とは真っ向から反対する方向で纏められている

ご自身が管轄する企画部門の部下が纏めた長期計画は一応認めたうえでの個人的な意見と断っての提出で、如何にも堀川さんらしいのである。

その内容は

● 常に過大な販売目標を立て、それに見合った技術、生産、販売、人員増加固定投資の先行が問題で、計画と実績の乖離が甚だしい。

● アメリカKMCに対しても、極めて批判的な内容になっている。

少々極端ではあるが、方向としては当たっている と当時そう思ったし、直接の上司の本音が解って、その後の企画方針を立てるのに大いに役立ったのである。

 

 

★この事件があったのが異動後3カ月の年末だったのだが、アメリカ中心の市場戦略から、ヨーロッパ市場へもUK 、ドイツを中心に進出が始まっていた。

正規で決まっている長計には、小型車分野への進出も言われていたので、その市場戦略として、開発途上国市場への調査と展開を企図したのである。

これは、誰もやらなかったので自ら手を挙げて計画を纏めたのである

 

それは吉田専務の仰る小型車戦略ではあるのだが、開発途上国市場と言うことで、

進められようとしている生産指向的な明石での大量工場生産とは基本的に異なるコンセプトなのである。

 

なぜ、開発途上国市場なのか?

● 開発途上国市場は確かに小型車ではあるが、125ccが中心で、国内市場のような50ccモペットではない。

● 基本的に完成車輸入は認めておらず、現地でのKD生産方式なので、明石での完成車生産とはならない。

● 当時は未だCKDで現地での生産部品もごく僅かで、生産機種の数も数種、現地へのワ―キングパーミットも人数制限があり、ホンダ、ヤマハ、スズキなど小型車が得意のメーカー相手なのだが、競争制限があるので、何とか戦えるのではないか?

● 多分将来は発展する市場だろうし、CMC展開から幾らかでも目先を変えられる時間稼ぎになるとも思ったのである。

こんなことは、今初めて公にしているのだが、堀川さんが反対ということが解ったので、少なくとも企画室長は応援をしてくれるという仮説に立っての旗揚げだったのである。

 

 

★この時期は、ホントにややこし時期ではあった。

この10年間この事業を引っ張ってきたKMCの浜脇洋二さんは、あくまでもアメリカ中心の先進国への中大型車中心の主張で、小型車には勿論反対、開発途上国市場への進出も経営資源の分散になると、反対の方向であった。

当時の企画室のメンバーは、堀川室長の下に高橋宏部長がいて、4人の課長のグループ制が敷かれていた。企画班が私で事業計画、長計など部内の纏めを、田崎雅元さんがアメリカKMC、特にリンカーン工場関係を担当。田付さんが発動機関係を、そして種子島経さんがアメリカから戻っていて、次にヨーロッパにと待機中だったのである。

技術総括部長が高橋鉄郎さん、営業本部長は矢野昭典さんでヨーロッパと開発途上国を担当されていた。

当時の直販会社としては国内のカワ販とアメリカのKMCは別格扱いで、企画室が直に繋がっていたそんな時期であった。

アメリカは事業部の非常に大きな部分だったので事業本部長以下、トップレベルでの対応であったと言っていい。

KMCに関しては、オイルショック以来、市場としては陰りも見えたが、カワサキはZ1の発売でそんなに大きな影響もなかったのだが、リンカーン工場でのスノ―モービル事業などが『雪不足』などもあって、商品はよかったのだが、季節商品の在庫が出来て、こちらが大きく足を引っ張ったのである。この担当窓口が田崎さんで、いろいろあって大変だったのを覚えている。

 

 

このような状況から始まる1976年からの10年間は、カワサキにとってまさに『激動の10年間』だったのである。

そんな荒波の中の、ど真ん中に坐っていたような10年間でもあったのである。

 

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


カワサキ単車物語50年  その7  コーヒーブレーク 

2013-05-08 05:43:21 | カワサキ単車の昔話

 

ちょっと『コーヒーブレイク』で、 20年も前の広告の話から

 

 

『コーヒーブレイク』というのは、僚友平井稔男さん が綴っているブログ『Team Green 』の中で使われている言葉なのでお借りすることにする。

平井稔男さんは私と同い年だが、カワサキの単車に関わった年数は私より10年ほど早い昭和27年(1952)からだと思う。今彼より旧い人はいないだろう。

カワサキの単車のこと、ネットの世界で発信し続けているのは、平井さんと私だけかも知れない。

『Team Green』 はカワサキのレース話だが、延々と続いているので、ぜひご一読を。

 

 

 

★Facebookの中に、『二輪文化を語る会というグループがあります。

400人近い二輪の愛好家たちが集まって、毎日活発な投稿が続いています。

 

昨日そこに、こんな懐かしい広告の写真を石田哲載さんが投稿されましたので、シェアさせて頂いたら、いっぱいの『いいね』を頂いています。

当時の担当者、小林茂(Shigeru Kobayashi)くんも見つけてくれて』『いいね』をくれています。

 

 

 

 この画面は、広告の写真なのですが、それを当時のテレフォンカードにしたものです。

ZEPHYRの時代、カワサキの国内も、カワサキの広告も一番輝いていた時代だったかも知れません。

ちょうど国内市場で、『7万台への挑戦  「新しいカワサキ」のイメージ戦略』  など元気な時代でした。

 

 

平成3年4月のことですが、当時のCP事業本部の人たちに対する発表会がありその内容はこんな冊子に纏っています。

日本語と英文の二つがあって、カワサキグループの中に配られました。

 

 

 

 

その内容はこんな目次で、結構ちゃんとしているようですが、実は何の打ち合わせもないぶっつけ本番で、4人が好きなように喋ったものが収録されているのです。

この発表会は、当時のCP 事業本部長で、カワサキオートバイ販売の社長も兼務されていた高橋鉄郎さんが、『喋れ』と仰るものだから、

じゃ4人で分担して喋りましょうと気軽にお引き受けしたものです。

その冒頭の高橋鉄郎さんのご挨拶がこちらです。

 

 

高橋さんのお話も『ぶっつけ本番』なのですが、ちゃんと纏って、いいお話しをされています。

 

当時は、みんな『ぶっつけ本番』で、その日にならないとどんなことを喋るのか解らなかったのですが、何となくお互い『信頼関係』があって、勝手に喋らせても大丈夫だと思っていたのだと思います。

スピーカーはそれぞれ勝手に好きなことを喋っているのですが、こんな冊子に纏めても大丈夫なような内容になっています。

何の修正もなく『喋ったそのまま』で掲載されています。

確か、高橋さんが川重の社長以下役員全員にもお配りになったと思います。

 

 

 当時の販売促進担当の岩崎茂樹君が英訳分まで造って海外販社にも配られました。

英文版も手元にあったのですが、昨秋、アメリカに行ったときに、KMCの寺西社長に差し上げてきました。

 

 

 

★このミーテングの中の広告の話の中に、

この『タマよりも速く』の解説など、小林茂くんが喋っていますので

 

ちょっとご紹介しようと思ったのです。

 

 

 

私が喋っている内容は、今NPO The Good Times でいろいろやってるのと、基本的に同じコンセプトです。

当時の国内のグループは、株ケイ・スポーツ・システムというソフト会社を中心に動いていたのです。

遊んでいても、自然に売れるトータルシステムの構築、その目指すところは『新しいカワサキのイメージ創造』

その結果、シェア33%、ホンダを抜いて自動二輪でトップの時代でしたが、各社の方たちとも結構仲がよくて、『1強3弱』などと冷やかされたりして、和やかだったのは、トップがカワサキだったからだと思います。

 

『新しいカワサキのイメージ創造』のために広告については非常に大きなウエイトを置いていた時代です。

 その広告担当の小林茂くんの話の一部です。

 

そして、『タマよりも速く』の解説があります。

 

 

なかなか、今読んでみてもオモシロイ話が続いています。

KAZE のユーザー対策や、レースなど『遊び半分ではいい遊びは出来ない』 と『ソフト会社』を造ってやっていたのです。

 

 

★そんな時代から、もう20年以上も経っているのですが、

当時の仲間たちが集まって、KAWASAKI Z1 FAN CLUB 主催で、7月にはこんな計画を組んでいます。

 

 

ぜひ7月7日、グリーンピア三木にお越しください

期待を裏切らない、いいイベントになると確信しています。

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


カワサキ単車物語50年  その6  特約店制度

2013-04-28 05:34:24 | カワサキ単車の昔話

 

★ 昭和で言うと20年代はバイクの中心はエンジン付き自転車で、カワサキですら明発工業に単体エンジンを提供していた時代だったのである。

昭和30年代の主力は50ccのモペット、その販売は全国に4万店もあったと言われた自転車屋さんで販売されていたのである。

『販売』と言ったが、正確に言うと販売ではなくて、自転車屋さんがお客さんに取りついで、その取次手数料を払うと言う『委託販売制度』だったのである。

『委託販売』とは、自転車屋の店頭にバイクを置いてもらって、それが売れたらお客とは直接地方代理店(メインデーラー)が販売し、自転車屋さんにはその『取次手数料』を支払うと言うシステムなのである。自転車屋にとってみれば、店先にバイクを置かせてあげて、客が付いたらマージンが貰えると言うそんな仕組みで、何のリスクも負担もないのである。店の面積は限りがあるので各地方代理店はそんな場所取り合戦をやっていた時代なのである。

そんな自転車屋のことを通称『サブデ―ラ―』の『サブ』と呼び、地方デーラー(メインデーラー)は、メーカーとの間に挟まって大変な時代だったのである。

サブ殿さまのデーラー乞食』などと囁かれていた、そんな時代だったのである。

昭和40年代に入って、ようやくCBやA1などスポーツ車も世にでるようにはなったが、二輪の販売形態はそのまま、自転車屋が主力の委託販売制度が続いていた。

今のようにお金の回収が容易な時代ではなくて、田舎では盆払いだとか、秋のお米が採れたらその代金でとか、銀行には通用しない私制手形みたいなのまであって、その回数も長いし、『モノを売ってもなかなかお金に変わらぬ』そんな時代が長く続いていたのである。

 

★A1、W1につづいてマッハⅢなどの新機種の発売が続いて、ようやくスポーツ車が都会では人気の出始めた昭和44年(1969)ごろからカワサキだけが、それも東京だけで、スポーツ車を中心の販売網構想から、都内を約60店に絞ったカワサキ独特の販売網を敷いたのである。

城東カワサキ、城南カワサキ、城西カワサキ、城北カワサキ北多摩モータースなどの懐かしい意気盛んな時期だったのである。

この新しいシステムを展開されたのは、当時東京を担当されていた茂木所長の発想で、茂木さんの強烈なリーダーシップで実現したのである。

東京でこのような新システムがスムースに展開出来たのは、大東京の市場の大きさがあったからで、その他の地域では、自転車屋さんからの販売網の脱皮はそんなに簡単ではなかったのである。

ホンダ、スズキ、ヤマハなどにとっては、国内の販売の主力は圧倒的に50ccモペットだから、委託販売の自転車屋主力の販売方式からの転換など考えられなかったのだろうと思う。

 

 

北多摩モータースも、城東城北などの名前も見える)

 

昭和44年に3社合併があり、川崎航空機から川崎重工業となって、今後の単車事業の展開を中大型スポーツ、海外市場特にアメリカ中心に展開するという方針に転換した時期でもあったのである。

それまでは、B8からB1などが中心の『実用車のカワサキ』であったし、その主力市場も、九州や東北といった地方が販売台数でもリードしていたのだが、1970年代に入って、従来一番弱かったと言われた大阪市場など注力することになり、私は仙台から大阪へ異動となったのである。1970年(昭和45年)大阪万博のあった年である。

それから約5年間、国内のカワサキは国内市場に於いて、全く新しい特約店制度展開の時代に入るのである。

 

★ 毎年日本一の実績を続けていた岩手カワサキなどの販売網は、自転車屋ベースだが、それなりにカワサキに対しても忠誠心もあったのだが、大阪に来てみると、販売網らしきものは殆どなくて、取引店の数は500店とか600店とか何店あるのか解らないほどあるのだが、年に部品を何点か購入してくれるようなところも入っていて、カワサキへの忠誠度などは殆どないそんなお店ばかりであった。

当時の中心店、船場モータースの岡田博さんなども、どちらかと言えばスズキが中心で、

『仙台ではどうだったか知らぬが、大阪でのカワサキは、「ホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサキ」ぐらいだね』 などと言われてしまうような状況であったし、販売台数もお隣の兵庫県は地元で、平井稔男さんなどが頑張っていて、大阪よりははるかに多い販売台数を誇っていたのである。

まず特約店制に入る前に、カワサキシンパの店を創るべく『カワサキ共栄会』を組織して対策に入ったのである。この共栄会のメンバーを大阪の全販売店600店の中から選んで組織化をし、その会長を船場モータースの岡田博さんに務めて頂いたのである。

その選定は店の大きさなどよりは、店主の人物中心に、カワサキから見れば、育て甲斐のある考え方の確りした店という選定基準で徹底した。

二輪の販売網は4輪と違ってネット販売、販売網というシステムで売る訳だから、その中心の店が弱体であったのではどうにもならないのである。

なぜあんな田舎の岩手が毎年ダントツの日本一の実績を続けるのか?

それは岩手の久保克夫社長のトータルシステムの発想と、その販売網なのである。最初の営業経験で久保さんに会えたのが、その後の私の人生の基本的な発想のベースになっていて、そういう意味で久保克夫さんは恩師だと思っている。

 

★大阪商人はエゲツイなどと、よく言われるが口は悪いが結構本音が通るところだと思う。最初はマージンの額の多寡みたいなことばかりを言うものだから、営業所の仕入れ値を教えたら、その後一切マージンの額の話はなくなった。

共栄会の25店で大阪の600店全体の60%を売るような実績になったら、その時点で25店の特約店制に移行する、と宣言したら一挙にお客から『仲間』に、そして『同志』に変わっていったのである。会長の岡田博さんは、わがことのように先頭に立ってこの制度の実現に尽力して頂いたし、当時はホントに小さな店だった、伊藤モータース、今の忍者の伊藤さんなど熱心を通りこして熱烈だったのである。

共栄会時代を約2年を経て、まず大阪、京都、愛知の3県から特約店制度はスタートしたのである。

 

その特約店制度とは、

● 特約店契約を締結した店以外とはカワサキは取引しない

● 特約店契約を締結する店は担保の提供、または保証金の積立をMUST とする。

● その最初の契約は甲乙平等の立場で、1店1店、店の希望なども入れたもので、一律に印刷された約款のようなものではなく、手書きのモノからスタートした。

● 大阪で言うと600店の店を25店に、京都では京都市以外は宇治カワサキの1店だけで京都府全体で10店ほどの徹底したスタートだった。

● 台数契約ではなく『金額契約』とし、取引価格も一応の基準はあったが、1店1店、店の希望を入れたものであった。

● 中大型車で金額も張ることから原則『委託』としたが、担保の提供のある店には買い取りも、手形による支払いも許容した。

● 特約店を育てると言うコンセプトであるから、特に財務面の徹底した経営指導を行い、これにより店の経営内容は飛躍的に改善が見られた。

● お客とはユーザーのことを言うのであって、特約店はお客ではなく、仲間、同志という認識であった。

この特約店制度がスタートたのが40年前で、カワサキの名車Zの販売された時期になるのである。特約店制度の展開にZの果たした役割も大きかったし、一挙に店の規模を大きくしていったところも現実に多いのである。

上記の中で特筆できるのが、担保の提供と保証金の積み立て制度である。担保提供した店や保証金が一定額に達した店は『手形発行』を可能とし、通常の利率の適用をOKとした。 当時の金利は『アドオン方式』と言うべらぼうに高い金利が二輪や4輪業界では一般的だったのである。担保はともかく、保証金はお金など持っているわけはないので、3年とか5年とかの長期分割の手形支払い方式であった。これはその後販社にとっては資金繰りに効果したし、特約店にとっては利益蓄積として機能したのである。

 

この最初の時期に特約店契約を結んだ店で、現在も頑張っている店としては、

●大阪では株式会社忍者、当時の伊藤モータースだったり、

名古屋のミスターバイク  当時の店名は春日井スズキ(斎藤さん)という小さなお店だったのである。

●岡崎では、今は世界一のバイク販売店かも知れないレッドバロンの前身ヤマハオートセンター(杉浦斎さん)が、当時は岡崎1店だけで、店をスタートさせたばかりだったのである。

 伊藤さん、斎藤さん、杉浦さん、それぞれなかなかのうるさ型で仕事ではいろいろとあったのだが、私は結構仲がよくていいお付き合いをさせて頂いている。40年経つと立派になるものである。

 

★そんな特約店制度は、世の中によくある全国一斉の実施ではなくて、大阪、京都、名古屋からスタートし、その後兵庫、さらには広島、千葉、福岡、などと大きな県から順次『特約店説明会』を開催し、その趣旨に共感する店だけで1県、1県順次展開していったのである。

 ●まず、各地の責任者が共感し『やる』と自ら手を挙げたところからの順次実施で、現地の責任者が『やる気』であったこと

●全国展開の実務担当として、当時、古石喜代司くんが非常に細やかに現地と繋いでくれたのである。

●『特約店説明会』で、最も説得力があったのは、大阪の船場モータースの岡田博さんが、現地まで行って頂いて、特約店制について話して頂いたことである。

●そして、カワサキ側の厳しい条件ではあったが、現地の販売店のうち納得、共感された方だけが、特約店として仲間に入って行かれたのである。

 

 この最初の時期特約店制度の実現に関わってくれたカワサキオートバイ販売の中心的なメンバーは、(失念した人もいるのだが・・・)

 大阪 古石喜代司、宮本進(滋賀カワサキ)、竹内優、北村 

 京都 藤田孝明、久後淳一郎、関初太郎(モトボックスセキ)、柏原久 吉川健一(山科カワサキ)

 名古屋 鍋島英雄、南昌吾、五島頼孝(ファイブテン)平田篤郎さん達である。

推進した人たちとともに特約店として活躍してくれた人も多い。

兵庫地区は当時平井稔男さんが担当をしていて、大阪などよりはずっと多くの販売実績があったのだが、典型的な自転車屋の旧い店ばかりで、殆ど候補店がなくて、カワサキの従業員からの独立開業ののれん分け制度で展開したのである。

財満君(灘カワサキ)が第1号店で、次々にカワサキ関係者の出店が続いたのである。西宮カワサキ、明石カワサキ、姫路カワサキ、加古川カワサキなど、みんなそうだし、大阪なども八尾カワサキなど全国的にカワサキ関係者からの独立が多いのも特約店制度特徴と言えるだろう。

と書いていたら、山本レーシングサービスの山本隆くんに『私が抜けてる』とオコラレタ。彼はちゃんと特約店説明会から出席したようで、その時の話をよく覚えていていろいろ話してくれたりした。

 

この特約店制度は、大阪でカワサキ共栄会からスタートして、約5年の歳月を経て全国展開がほぼ完成したのである。

全国約1000店の二輪専門店網が、ホンダ、ヤマハ、スズキさんに先んじて、カワサキ独特の制度として完成し、その後各メーカーも、同じような方向での販売形態を取り現在に至っている。

カワサキは、特約店ARK(Authorized & Reliable shop of Kawasaki)などの時代を経て、現在に至っている。

独りカワサキだけでなく、国内の二輪販売網の嚆矢としての役割を果たしたものと思っている。

 

昭和45年から、この特約店制度展開の5年間は、国内のカワサキにとってはZ2の発売があって、初めて『バックオーダー』を体験するなど、特筆すべき5年間だったのである。

私自身は、この特約店制度のほぼ完成を見て、ちょうど10年間のカワサキオートバイ販売の出向期間を終り、川崎重工の発動機事業部企画室への異動となり、また違ったカワサキの単車事業の展開を経験して行くことになるのである。

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。


カワサキ単車物語50年  その5  川崎航空機時代の国内対策

2013-04-22 06:21:46 | カワサキ単車の昔話

 

★ 昭和40年(1965)がカワサキが本格的に単車事業を川崎航空機の経営の一つの柱とすべく決心をした年と言っていい。

従来の国内市場一本からアメリカ市場開拓を大きな柱にA1などの新機種も開発されて、カワサキにとってはアメリカ市場での華々しさが非常に顕著な時期ではあったが、日本国内に於いても販売会社や明石工場内での事業運営体制が着々と整備されていったそんな時期、そのころは未だ川崎航空機だったのである。

 

『販売会社体制』

★メイハツ、メグロの人たちが中心のカワサキ自販が東京に本社機能を持って全国を統括していたのだが、

カワサキオートバイ販売に社名変更すると同時に、その企画中枢を東京から明石に移したのである。それは、岩城良三常務が自ら社長を兼務されて、当時の川崎航空機の事務屋の精鋭たちが、集められたことから始まったと言っていい。

その中心となった営業企画部門には本社から川崎航空機再開の定期採用第1期生の矢野昭典さんが赴任され、誰が見ても会社としてここに全力投球だ ということが解るそんな体制だったのである。当時アメリカを担当された浜脇洋二さんも東大だが矢野さんはその1期上で本社人事課長からの異動であった。

販売促進部には販売促進課広告宣伝課が創設されたのだが、販促が八木健、広告宣伝課が私、いずれも未だ係長にもなってもいないのに、出向先とは言え、異例の課長抜擢だったのである。特に販売促進課には、八木健さん以下、北村敏、野田浩志、前田祐作、岩崎茂樹、鍋島秀雄と当時の川崎航空機の事務屋のトップクラスが集められたと言っていい。ただ、確かに潜在的な能力は優秀だが、バイクに関しては全くの素人ばっかりだったが、後々事業の中心的な役割を果たした人たちであったことは間違いない。

 

私が担当した広告宣伝課は、誠に対照的な高校卒の実務派ばかりで、かって野球部のマネージャーをやっていた川合寿一さん、営業の実務派大西健治さん、技術部のデザインルームから榊くんなどが明石で、東京にはカワサキ自販以来の広告宣伝課のメンバーの下原さん以下がいて、主として東京モーターショーを担当していた。担当する範囲は、単なる広告宣伝でだけではなくて、当時のファクトリーレース活動をカワサキのイメージ戦略と位置付けて、契約ライダ―達は全員が広告宣伝課の嘱託として名を連ねていて結構な人数だったし、当時のライダーたちはやんちゃなのも多かったので、エリート揃いの販売促進課に比べたら、おもろい元気なのばかりの集団だったのである。

カワサキ自販時代の企画戦略の中枢であり、カワサキコンバットの産みの親、私にも大きな影響与えた小野田滋郎さん(フィリッピンの小野田寛郎さんの実弟)は、この機に退社されたのである。

ただ、広告宣伝費予算は、本社から事業開発費として1億2000万円もの膨大な予算が3年間与えられていたのである。これは単車再建のための市場調査を行なった日本能率協会が事業再建の条件の一つにあげたもので、当時の単車事業の総売上高が10億円そこそこの時期に1億円を超す額は普通では考えられない額なのである。サラリーマンの年収が40万円ぐらいの時期だから、その額の大きさがお解り頂けるだろう。1年目は7000万円しか使えなくて、『お前らは金をやってもよう使わん』と本社専務にオコラレタリしたのである。

こんな予算を目当てに、大広、電通、博報堂などの広告代理店は神戸の支店ではなくて、本店の企画メンバーが担当で、当時の日本のマーケッテング関係ではトップクラスの人たちばかりの超エリートメンバーでもあった。この時期この人たちから得たマーケッテングのノウハウなどは、カワサキにとって大きなソフトの資産になったことは間違いない。

広告宣伝の世界では、例えば『カワサキ』と言う4文字のレタリングを『ちょっと有名な人にやって貰いましょうか』と言うので『そうしよう』と言ったら、オリンピックのポスターのデザイナーの亀倉雄策さんの見積が出てきて、そのデザイン費用が7000万円だと言うのでビックリしたリした。

本来の広告宣伝のテレビ番組などは、1億2000万円あっても簡単には使えない額だし、何よりも当時のカワサキの主力市場は実用車が主体の田舎ばかりで、東京、大阪、名古屋地区は要らない と言うものだから、テレビも、新聞も全国版は使えないのである。だから地方紙ばかり50紙をかき集めて広告したり、現実的なライダ―の契約金をちょっと弾んだり、中古のヘリコプターを所有して、地方のイベントやレース会場に参加したり、結構派手にはやっていたのである。

少なくとも、私の現役生活で、一番自由に金が使えた3年間であったのである。

広告宣伝価格と言うのは、その効果などが基準で、『カワサキ』と言う4文字はどの広告にも使われる『広告のもっとも基本的な4文字』だから高いので、これがZEPHYR のような商品名であったりすると、7000万円と言う値にはならないのである。同じタレントさんを同じ時間占有しても、それを全ての媒体に使う場合と、雑誌だけに使う場合では値段は違う、そんな世界なのである。そんな発想の仕方も、広告を本格的にやって広告代理店の本社の連中と付き合っていろいろ教えてもらったのである。

 この時期、カワサキの独特のイメージ創造にレースの果たした役割も大きくて、競合3社に対して何一つ1番になれるものがない時期に、レースだけは互角以上に戦ってきたのである。

三橋実、安良岡健、山本隆、歳森康師、梅津次郎、岡部能夫、星野一義のほかロードレースライダーの金谷秀夫など錚々たるメンバーが広告宣伝課の嘱託社員だったし、当時厚木にあったカワサキコンバットには月20万円の選手養成費を渡し、全国から有望ライダーを集めて育成に務めていて、星野一義などもその中の一人で全部で何人いたのかはよく解らなかったのである。年間契約金もトップライダーたちには100万円を越す金額を払ったが全体の広告宣伝費の予算から言えば大した額ではなかったのである。

広告宣伝的な効果としては、何度も全日本MXを制覇したし、『赤タンクのカワサキ』と一世を風靡したレース活動は、その後もカワサキのイメージ創りに大いに貢献したと言えるだろう。

 

 (MCFAJ全日本MX 朝霧高原、ヘルメットにタテの1の印はカワサキコンバットの選手達。 山本隆、歳森康師の二人は神戸木の実クラブ、星野一義もいるから多分昭和41年度の春、全日本の写真である。)

 

★第1線の販売網対策として、、特に兵庫県などは幾つもの営業所を造り、川崎航空機から多くの人たちが出向し、現場第1線の経験を積んでいったのだが、みんな二輪の営業などは素人もいいところで、運転免許の取得から始まったりしたのである。

このころの先生役を務めたのが、兵庫メイハツから参加した平井稔男さんなのである。

だから、彼は『カワサキの真打ち』と自ら称しているのだが、言われても仕方のない実績なのである。後々カワサキの国内の二輪もジェットスキーの販売の中核を果たした藤田孝明君などもこのころからの参加で平井門下生の一人なのである。

さらに昭和41年度からは、カワサキオートバイ販売としての定期採用者の採用を開始するのである。その第1期生が昭和41年度の富永邦彦、渡部達也さんの二人だが、42年度は大量な採用で、これらのメンバーがその後のカワサキの国内市場を支えたことは間違いない。

この時期に、国内市場としての販売台数はそんなに芳しい結果は残してはいないが、単車事業を進める上での基本的なノウハウなど、全くの素人から、それぞれが身につけて行ったことがその後の事業展開に貢献したのである。

昭和40年から45年までの創成期の初期は、未だ地方代理店の時代であったが、その先駆者としては、後イギリス、、ドイツなどヨーロッパ市場を開拓し、カナダも担当した内田道夫さんを挙げねばなるまい。彼は元々メグロの出身だが、当初は北陸の代理店を担当し、後岡山に移った後川崎重工に移籍してヨーロッパ市場開拓の先駆者となるのである。営業だけでなく、レースにも熱心で、カワサキが初めて鈴鹿を走ったジュニアロードレースには山本隆とともに走った塩本選手を北陸から送ってくれたのである。イギリスの社長時代もヨーロッパのファクトリーレースをケン鈴木さんなどと引っ張り、カワサキのKR時代を演出したのである。

川崎航空機から最初に現地に出たのが井川清次さんで、当時の全国カワサキ会会長の荻原さんがおられた山梨カワサキに出向した。後ドイツの社長などを務められている。さらに、野田浩志さん(後アメリカKMC社長)が長野県のデ―ラ―に出向したし、営業企画部長の矢野さんご自身も岩崎茂樹くんと九州事務所を創って博多に出向されたのである。

そして私自身も、当時カワサキ最大の市場であった東北6県も担当として仙台事務所を創設するために仙台に異動となったのである。

後UKの社長などを担当した永友節夫さんや中島直行さんなどもこの時期の現地出向組なのである。

 

 『明石の工場体制』

 ★この時期には明石工場内の体制も、大きく整備されていったのである。特筆されるのはサービス、品証体制部品補給体制だと言っていい。

まず、サービス体制だが、昭和36年(1961)12月、私が単車の営業に異動した時にもサービス機能はあったが、吉田、福田、福井のサービス員3人だけの体制だたのだが、昭和40年JET部門から田村一郎さんがサービス部門に来られてから急激にその体制強化が図られたのである。

単なるサービスから、品質保証と言うコンセプトも含めて、現地第1線にいたメイハツ、メグロの経験者や当時の開発のテストライダーたちもその傘下に入って綜合的なシステム構築がなされたのである。田村一郎さんは、ユニークな人が揃っている単車グループの中でも突出した存在で、カワサキの単車では誰知らぬ人はいない有名人である。

その田村さんが一番最初にされたのは、当時の兵庫メグロに弟子入りして、自ら二輪の整備技術を学び、『整備士2級』の難しい資格を所得することからはじめられたのである。そんな実戦的なところがすごかったし、いろんなサービス関連の冊子などを作ったりするのに、広告宣伝費をと仰るので、当初の立ち上がりは結構な額を提供したのである。

下のメンバーもテストライダーには清原明彦、山本信行の今では有名人も揃っていたし、ユニークでオモシロイ人いっぱいだった。

この時期に、カワサキのJ1が富士登山に成功したことなどご存じの方はおられるだろうか? 

これにチャレンジしたのが、当時の品証の福田、加藤さんなどのメンバーである。加藤さんとは今の八尾カワサキの加藤さんである。確か、夏休みの時期だったが、山頂まで登って、ちゃんと写真を撮ってきたら、成功報酬で広告宣伝費で費用を見てあげると言う約束でのチャレンジだったのである。当時のレース職場でモトクロスタイヤを装着したりして、見ごと成功、当時のオートバイ誌にちゃんと写真付きで収録されている。昭和40年ごろの話である。

現場のサービス員3人でスタートしたサービス部門だが、この時期以降、単車事業の骨格の部門となって行くのである。

 

もう一つの部門が、部品部門と言えるだろう。この部門もメイハツから来られた正垣さんたちが、何となく細々とスタートしていてたのだが、アメリカの市場を経験された桑畑禎文、田崎雅元さんが担当して、急激に様変わりして行くのである。

アメリカの部品流通システムなども経験されたのだろうが、それ以前のJETエンジン部門で、アメリカ的な管理方式は、既に基礎として身についていたのだと思う。当時建てられた部品の自動収納、自動取り出し方式の倉庫は、50年近くたった今もそのまま使われているような当時としては画期的なシステムだったのである。

部品NOの付け方などもカワサキは車種から始まるものではなくて、JETの部品と同じ、部品そのものからスタートする先進的なものが使われて、その後の部品の共通化などの対策が容易に行われたのである。この時期の単車事業部の技術屋さんは、JET部門から来られた方が中心で引っ張ったので、生産関連はJET部門の当時では新しい管理方式や発想が次々に採り入れられたのだと思う。

『航空機の技術』と当時の広告にはよく使われたコピーだが、商品だけではなくて生産技術にも、それは活かされていたのである。

 

★昭和40年からの5年間、国内の販売や工場の体制は、このように着々と進行したのである。

クルマで言えばA1からH1ぐらいの時期、未だ川崎航空機であった時代であった。

『カワサキのイメージ、カワサキの単車事業の基盤』は川崎航空機時代に創られた と言っていい。

昭和44年に3社合併があって、川崎重工業となり、Z1が発売されてまたちょっと違ったカワサキに向けて進んで行くのである

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。