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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

第2回MFJ全日本グランプリ

2008-09-27 04:56:01 | M/Cレース
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MFJの第1回大会は相馬が原である。
この大会はカワサキにとって散々な結果であった。誰一人いいところには入らなかった。

第2回が名古屋東山である。
この大会の少し前からレースを本格的に担当をした。
その1回目の大会だからよく覚えている。

高橋鉄郎さんと、確か名古屋まで、初めて名神を走ったうな気がする。
そのころ、高速道路を走った人は珍しい時代であった。

この2回大会から、
第3回四国愛媛、第4回東北郡山、第5回北海道札幌手稲山の4年間は、現地でレースを見ることが出来た。
私自身ある意味、レースに夢中な時期でもあった。

山本隆君がその時のレースの写真をブログで紹介してくれている



このころは、モトクロスと言えばスズキが断然強かった。
東の鈴木誠一、久保和夫などの城北ライダースは、矢島、榎本、菅家など多士済々だった。
西のマウンテンライダー小島松久。

ヤマハは荒井市次の一匹狼みたいな感じだった。
ホンダはファクトリーでの参加はなかった時代である。

カワサキは
三橋、安良岡、梅津、岡部、(カワサキコンバット)山本、歳森(神戸木の実)と頭数は多かったが、やっとレースに参加した時期と言えるだろう。
星野一義(カワサキコンバット)のノービスクラスでの全日本デビュー戦でもあった。

写真は125ccだと思うが、本命の久保が前を走っていたが途中でトラブル。
歳森がぶっちぎってその後みんなカワサキ勢が走っていたのである。
荒井が5位か6位にいて、これは『どうころんでも優勝』と思っていたのに、
後4周くらいから荒井に一人ずつ抜かれて、とうとう2位岡部、3位山本、4位歳森となってしまったのである。

それでも、全日本でカワサキとしては、初めての入賞で大喜びであった。



旧い写真をよく持っているものである。
これは山本隆だろう。
マシンは12ccツイン、赤タンクのカワサキである。
カワサキは、マシンと言うか車体のデザインに関しては意外に新しいことをいろいろやったと思っている。

誰が、そんなことを考えたのか、誰の指示でやったのかよく解っていないが、
バイクの顔とも言えるタンクは当時はメッキタンク、タンクマークがついて、ラバーのニーグリップが付いているのが普通でした。

どなたかマシンに詳しい人、調べてみて下さい。
私のは単なる『ウロ覚え』ですが、当時のカワサキはこんなことをやっています。

1.タンクの色塗装、カワサキと文字を入れたのも珍しかった。
2.市販車のタンクの色塗装。(A1)
3.ニーグリップのゴムをなくした。(マッハ)
4.タンクマークをタンクから無くした。(マッハ、Z)
5.シートの後ろに、弁当箱みたいなのを引っ付けた。

などなど、
『赤タンクのカワサキ』はそのハシリです。

いずれにしても40年も前の、昔話です。

山本隆が65歳になった

2008-09-02 04:22:07 | M/Cレース
往年の名選手荒井市次君が亡くなったが、多分これが彼の生涯の最後のレースであったろう。

その相手というか最後のレースのバトルを演じ他のが、山本隆君である。
三木市のアネックスパークで開催された昨年の 「ON ANY SANDA」でのことである。

そのときの写真を、山本隆君のブログから借りてきた。
貴重な記念すべき写真である。



ヴィンテージな走り、荒井市次、山本隆』と題して、ブログもアップしたが、
ダートヌポーツがこれを取り上げてくれたりして、一挙にアクセスが増えたりしたのである。


なぜ突拍子もなくこんなことをとお思いだろうが、
実は9月1日は山本隆君65歳の誕生日である。
そんなことを知っていたわけでもないのだが、
『ひょこむ』のトモダチの誕生日欄に紹介があるのである。

ついそんなことで、ひょこむにも、「お祝いのブログ」をアップしたので、
ついでにこちらにもと思ったのである。

往年の名選手、山本隆も還暦を過ぎて 「60おじさん」のハンドルネームでブログにもモトクロスにもトライアルにも、活躍しているが、もう65歳である。



四捨五入すると、70歳である。
「60おじさん」のハンドルネームもサバを読むことにもなる。
でも、バイクに乗らせたらまだまだ元気で、
この秋には、『山本隆のオフロード教室』 をやろうという計画もある。

私もそんなな元気のおすそ分けをして貰っている昨今である。

とりあえず、山本隆君、65歳のお誕生日おめでとう。

今年も鈴鹿8耐が始まります

2008-07-27 11:02:33 | M/Cレース
ひょこむのブログに、カブトムシなどののんびりしたブログをアップしていたら、

久留米はラーメンさんからこんなコメントを頂いた。


『こんにちは。
カブトムシ良いですね。子供達は大喜びするでしょうね。

泳げる川がこんなに減っていったのは、哀しいことですが、きっと元に戻すことが出来ると私は信じています。

今日は鈴鹿で8時間耐久レース決勝、が行なわれます。
カワサキ勢の健闘を応援しています。
ガレージ原田さんがクラブの写真を貼って、決勝を走ってくれます。

http://roadrace.jp/blogsquare/g-harada/all/id17554/comment.as…

すっかり忘れていたが、今年も鈴鹿では8耐が始まるのである。

7月末、4耐、6耐、8耐、全国安全運転大会と3週続けて週末を鈴鹿で過ごす年が続いた一時期があったのだが、現場を離れてしまうとすっかり他人ごとである。
然しハラダさんのようにずっとレースに賭けて活動されているチームも、それを応援するファンもいるのである。


最近は、レース事情にもすっかり疎くなってしまったが、
カワサキの8耐体制はどうなのだろう?
MOTO GPのほうは、力が入っているように思うが。


今11時。まだスタートしたばかりである。
原田さん、頑張って下さい。

伊豆丸野山、富士朝霧高原、松崎

2008-04-30 04:25:48 | M/Cレース
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KAZE191号が送られてきた。

2008年レース参戦特集で始まっている。
つい先日、MFJ全日本モトクロス第1戦で新井選手の走りなど見ただけに、身近に感じるのは不思議である。

今年は250ccにNinja250Rなどが出て好評のようである。
それら250シリーズが紹介されている。

そして、ツーリングレポートはKLX250で走る『春の伊豆』のレポートである。
伊豆と言えば関西人にとっては熱海とか修善寺ぐらいが有名だが、レースなどに関係したお陰で、あのあたりのいいところに行ったことがある。



1964年当時、MCFAJの全日本は富士の麓の朝霧高原や伊豆の丸の山で行なわれていた。
壮大な大自然の中でのレースで騒音問題などもなかった時代である。
今は、観光地の中心でそんなところでモトクロスレースをするなんて考えられないことだろう。

そういう意味では、昔はよかったと言うか懐かしい。

朝霧高原は壮大な富士の裾野で、滝の白糸の直ぐヨコであった。
この年の4月のMCFAJ全日本で山本隆がオープンでカワサキとして初めて全日本クラスに優勝した。


伊豆では丸の山のスカイラインの直ぐヨコでレースが開催された。
1964年の秋10月10日、東京オリンピックの開会式の当日、MCFAJの全日本があって伊豆にいた。
当時は広告宣伝課でヘリコプターを持っていて、レース場にはヘリ帯同の贅沢な時代であった。
他メーカーのライダーたちにヘリへの搭乗をせがまれて、いろんな選手たちと懇意になれたりした。

このレース、4種目中3種目に優勝した。
カワサキコンバットの三橋、安良岡、梅津、岡部。
神戸木の実、山本、歳森の時代でまだ星野はいなかった。
星野はこの1ヵ月後、11月8日和歌山がデビューである。

天城山の直ぐ下で、まだ有料道路が珍しい時代で、伊豆スカイラインが快適であったのが印象に残っている。


それから10年ほどあとだが、
伊豆と言えば、あまり人は行かない西海岸の松崎にマリーナを契約して持っていた
温泉があったり、魚が旨いと言って会社の上の人たちに人気があった。
全然行く機会がなかったのだが、ボート事業を止めるころにその契約中止の交渉に千葉君と一緒に行った。
海岸線の曲がりくねった道で大変だったが、行ったついでに伊豆半島を一周した。
そんなことで、一応は下田も伊東も知っている。


レースや遊びが半ば仕事であったお陰で、いろんな人が行けないところにあちこちと行けた。
春の伊豆は知らぬが、『伊豆はいいところだ』という印象は残っている。

そんなことを思い出させてくれたKAZE191号であった。

荒井市次さん

2008-04-27 04:59:59 | M/Cレース
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今朝、山本隆君のブログを見てビックリした。
荒井市次さんが亡くなったという。
先日、ON ANY SANDA の時に体の調子が悪いとは聞いていた。

1960年代のはじめ、丁度レースに関係しだした頃、
日本のモトクロスの頂点にいた人、スズキの久保和夫、ヤマハの荒井市次。
この二人は傑出していた。

昨年久しぶりに、ON ANY SANDA でお会いして元気な走りも見たし、お話もさせて頂いた。
『ビンテージな走り、荒井市次、山本隆』とブログにも書いた。
昔のままのヘルメットが印象的であった。

突然で残念です。心からご冥福を祈ります。




今年のON ANY SANDAで出会った人たち

2008-04-21 06:16:22 | M/Cレース
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今年もON ANY SANDAは三木アネックスパークで晴天に恵まれて開催された。

3週連続で60おじさんとご一緒である。
第一日曜は『どこ竹の竹とんぼ教室』の生徒の一人。
第二日曜は『MFJ全日本モトクロス』の招待客の一人だったが、
第三日曜は『ON ANY SANDA』の主役の一人としての登場であった。

彼の行くところ人が集まり、サインをせがまれたりして、昔の山本隆に戻った一瞬であった。

彼のパドック周りには人の輪が出来て賑やかだった。
ヴィンテージモトクロスの次は亀岡トライアルランドで5月にヴィンテージトライアルに挑戦すると言う。
そのトライアルランドを経営する森さんもこの輪の中にいた。

マシンのゼッケンNOは、ハンドルネーム通りの『060おじさん』である。
ファンの一人が特別に作ってくれたとか

昼休みに談笑している4人は、左から山本の少し後のカワサキのファクトリーを支えた立脇三樹夫君。その当時のメカニック、今もファクトリー現役の河野君、先週に続いてお会いできた。
そしてこのイベントの立役者貴嶋君と山本隆君。
昼休みには、山本、立脇のサイン入り写真も配られて人気を集めた。
後ろのゼッケン3のマシンは、立脇君の当時のファクトリーマシンである。


写真を貰ってきた。ゼッケン3番、F81Msに乗る山本隆。
『時としてこんな具合に後輪が流れ出す。ライダーは逆ハンを切って修正しマシンを立て直す。舌打ちするひまもない』とモーターサイクリストはコメントしている。
赤タンク時代でなくて『ライムグリーン』の成熟の山本である。
昨日はこんなにかっこよくはなかったが、午後トップを走った。

少しだけ、若い頃の片鱗を残してトップを走った。

そのスタート前、1台1台、マシンの紹介がある、和やかである。
紹介をしているのが主催者高下隆次さん。
レース名は『浅間』、出場資格はマシンか、乗り手が『旧ければいい』とか誰かが言っていた。


MFJの全日本もいいがこんなレースも楽しい。
全てがボランテイア仲間の運営で和やかで、仲間意識が随所に見られるいい1日であった。

もっといっぱい写真を見たい方はこちらをどうぞ。

MFJ全日本モトクロスで会った人たち

2008-04-14 07:17:50 | M/Cレース
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今年のモトクロス全日本第一戦が名阪スポーツランドで行なわれた。
60おじさん山本隆君と一緒にクルマを走らせた。

大阪の古川君からVIP招待券を贈って頂いてレースもさることながら、昔の懐かしい人たちに出会いに行ったみたいなものである。
予想以上の楽しい一日であった。

写真もいっぱい取ってきた。
Yahooに纏めたが、この世界では最高峰の人たちで有名人である。
それでも昔仲間は、今の職位を離れて昔仲間で歓待してくれた。
有り難いことである。

最初に出会ったのがこの人、『吉村太一ちゃん』と親しく呼んでいるが現スズキのレース総監督である。今日は仕事現場である。
春のMFJふれあいミーテング以来である。仕事中なので長話は遠慮した。

古川君にVIPの招待券を頂いたのでこの大会の文字通りVIPと一緒に、天守閣のような、普通ではちょっと入れない場所からレースを見せて頂いた。
田中隆造、斉藤昇、山本隆、この世界では超有名人である。

斉藤さんとはホントに久しぶりである。彼は今鈴鹿のツインサーキットも経営している。田中さんとはBSの現役ライダー時代からみんな40年来の仲間である。



上から見下ろすレースはまた格別である。日本の文字通りトップクラスのレースだから迫力満点である。
現役時代のようにレースの結果はそんなに気にもならなかったが、
今年からこのクラスに昇格したカワサキ新井君?が2位に入ってよかった。


昼休み、カワサキのファクトリーパドックを訪ねた。
今のカワサキの二輪事業を推進するトップたちにお会い出来たし、昔のレース仲間たちにも会えた。みんな文字通りトップマネージメントに参加しているのは嬉しいことである。
ひょこむで今でもお付き合いのあるthiraiさん、相変わらずこの人のいる周りは賑やかである。来週も続いてON ANY SANDAでご一緒できそうだ。


エライさんだけでなく、こんな懐かしい人たちとも会えた。
今もチームグリーンやレースを担当しているとか。孫崎さんと井上君。
昨年のシリーズ優勝マシンと一緒の細谷君とは大阪の飲み屋から忍者の伊藤さんが電話を掛けてきたとき以来である。
4月から本社に移動したとか、久しぶりに雑談をした。
昨日一番長く話が出来たように思う。新天地で頑張って欲しい。


レースよりも、懐かしい人たちとの出会いの場であったような、
MFJ全日本モトクロス第一戦、名阪スポーツランドでの一日でした。
二輪仲間は本当にいいものです。特にレース仲間は。


追伸)
山本隆君がコメントで教えてくれました。
混雑が嫌で少し早く会場を出たのですが、最後のメインレース
1A-1-Ⅱでは
溝口哲也、新井宏彰のカワサキ勢が1,2フィニッシュで、優勝だったようです。
KRTおめでとう。

近畿MFJふれあいミーテイング

2008-02-04 05:59:55 | M/Cレース
近畿地区のMFJふれあうミーテング。
昨年は山本隆君に、今年はひょこむで出会ったハンドル名、亀田万吉さんに誘われて出席した。

若い頃、レースを担当したし、MFJの運営委員も何年かやらして頂いた。
私も若かったし、その頃の第一線で活躍した日本を代表するライダーたちが、今はこの会の役員としての運営や世話役で貢献している。

昔のレース仲間との昔話も楽しかったし、今年は「ひょこむ」ではじめて出会った人たちと実際にお会い出来てお話できたのは、今後のひょこむでの毎日がより身近なものになるだろうと思う。

午前中の表彰式、昼からの親睦パーティと歓談、いい1日であった。

写真を撮ってきたので、ご覧下さい。

有名人もいっぱいだが、こんな方が写っている。順不同で言うと

ずっと昔からお付き合いのある二輪車新聞の衛藤さん、MFJの中垣さん、今もMFJの中心で世話をされている田中隆造君、杉本五十洋君、カワサキの古川君。

もうMFJのほうもOBになった有名人たち
山本隆、吉村太一、和田将宏、金谷秀夫、みんな日本を代表するライダーたちである。スターを詠ぶときは敬称抜きが普通である。

ひょこむで出会った亀田万吉、ねこ さん、そして多分今後ひょこむに何人かお誘いした若い人たちや、かってトライアル委員長を務めた山本隆君を囲んでの現役のトライアルチャンピオン他のみなさん、こんな方が写っている。

帰りは、山本隆君と二人、加古川まで寄り道して送ったが、大阪から加古川まで、講釈師山本隆のラジオつきのようなドライブで、
更に加古川では、ブログやひょこむ、ON ANY SANDAでもお付き合いのあるkakogawalionyaさんのお店でまた、楽しい会話を1時間。

三木に帰る頃には、暗くなっていたが、いい1日であった。


いやあ、すごいメンバーですね。

2007-12-07 05:31:00 | M/Cレース
先日、小嶋松久君の引退パーテイに山本隆君が出席するそうだとお伝えしたが、山本君が早速ブログを二つ写真つきでアップしてくれた。

これは錚々たる日本のレース界の創生期を担ったライダーたちの集まりである。

まず、山本隆君のブログをじっくりどうぞ。

あの時代のライダー勢ぞろいで

そして、個別の懐かしいライダーたちと



小嶋松久君はモトクロスの世界でも、
本当に若い頃から頭角を表わし、自らはRHで久保和夫君とともに日本人ではじめてヨーロッパ参戦を果たした。
京都で名門マウンテンライダースを主宰して吉村太一君など逸材の育成にも務めたりしたが、
ライダーとしての現役引退後の活躍が群を抜いて素晴らしい。

小嶋エンジニアリングで4輪レースに片山義美、星野一義などとF2.F1に参戦した。小嶋エンジニアリングのKEのステッカーが人気で、一般のクルマにも貼られていた。
ボート業界でも琵琶湖を中心に販売だけかと思っていたら、ボートのレースにも参戦している。
ジェットスキーも個人販売よりボートのオマケとして扱ってくれた。

スケールが大きかったし、先進性があった。
京都の事務所と言うか、設計室の製図版が当時のメーカーの水準とは比べモノにならない立派なものだったのを鮮明に覚えている。
片山義美君の引退パーテーが神戸であった時、「鈴鹿からヘリで来ました」などと言っていた。

山本隆君のブログの写真の
今年6月日本グランプリでファイナルウイナーを獲った、KE jaguar35のパワーボートすごいですね。

小嶋松久君を象徴していると思います。




昔のレース界

2007-12-02 04:47:39 | M/Cレース
山本隆君からこんなメールが届いた。


「12/2の夕方からリーガロイヤルホテル京都で小嶋松久の現役引退記念パーティが行われます。
招待状によりますと、発起人 二輪 久保和夫 河崎裕之 吉村太一、四輪 高橋国光 片山義美 黒澤元治の面々です。

モータースポーツ界のOB総動員、おそらく日本で今まで無かったような錚々たるメンバーが集合、当日は同窓会のような懐かしい若かりし頃の思い出話を語り合い楽しいひと時を過ごしましょう。
との誘いがあり、出席の知らせ出しております。

 おそらく星野も来ると思います。
当日は朝から忙しいんですが、済まして行って来ます楽しみです。

山本レーシングサービス
山本 隆 



私のこのブログにも「小島松久」の検索ワードでよくアクセスがあったりする。
丁度、レースを担当していた頃の日本のレース界はこのメールに出てくる名前の人たちが頂点にいた頃である。

特に久保和夫は城北ライダース、小島松久はマウンテングライダースというスズキの名門モトクロスクラブでのトップライダーであった。

なぜか、スズキのライダーたちとは親しくして頂いていた。
片山義美(スズキ)の主催する神戸木の実クラブのメンバーが山本隆、歳森康師、金谷秀夫、星野一義、清原明彦などカワサキのメンバーばかりであったためかも知れない。
マン島で亡くなった藤井敏夫君を私に紹介してくれたのは久保和夫君だった。

そんな時代の小島松久君が「現役引退」、今まで現役だったのかとビックリしている。
ひょっとしたら事業のほうからの引退かも知れない。


小島君と言えば、一番脳裏に浮かぶのは、
66年7月、青森岩木山の全日本MXでカワサキF21Mはデビューするのだが、山本、歳森、星野、岡部というカワサキのライダーたちが揃って上位を占めたのに、トップの座だけはRHの小島にやられたのである。

その後、コジマエンジニアリングとして四輪のレース界に進出し、片山義美、星野一義などとF2,F1の世界で名を馳せた事業家でもあった。
マリンのボートもやっていて、ジェットスキーなどでも関係があった。
彼の京都の事務所にも何度かお邪魔したことがある。

最後に会ったのは、片山義美君の引退パーティーの席だったからもうだいぶ前のことである。


ずっと昔のレース界は、ライダー個人というよりは、所属するクラブチームごととの繋がりが強かったように思う。
城北ライダース(スズキ)、 マウンテンライダース(スズキ)、 スポーツライダース(ヤマハ)、 カワサキコンバット(カワサキ)、 神戸木の実クラブ(スズキ、カワサキ)など、名門といわれるクラブにトップライダーたちが所属していた。

確かに、メーカー色はあったのだが、ライダー間の付き合いや、メカニックたちも交流があったりしてレース界が成り立っていたような気がする。

私が、ライダーでもないのに面識があったりするのはそんな時代のお陰だと思う。
山本君もそんなことでわざわざメールをくれたのだと思う。
懐かしい人たちばかりである。

よろしく、お伝えくださいとメールには返事した。


和田将宏君のことと

2007-11-30 04:53:50 | M/Cレース
mixiのメッセージで、大阪の森田さんからこんなメールを頂いた。

「昨日、MFJ近畿ブロックの会議があり 休憩時間に和田将宏氏と最近のブログ等について話をしていたところ 和田氏が「古谷さんの雑感日記やろ アレ毎日見てるで」と言われ 何かとても嬉しく、カワサキの昔話も交え いつもより更に会話が弾みました。
知っている人同士もブログを通じて更に深く繋がったり 世代を越えて理解しあえるきっかけになる ブログの力を改めて感じた次第です。」


和田将宏君、ご存知の方も多い有名ライダーである。
引退後もMFJの役員として大いにレース活動に貢献をした。

こんなレース成績が残っている。

カワサキの契約ライダーの頃も、引退してミスターヒロというバイクの店を出してからも懇意にして頂いた。
彼のBMWに乗せてもらって、大阪の町を走り廻ったりもした。
ところが、不思議なことに彼のレースで走る姿は一度も見たことがないのである。

私がレースを担当していたのは66年までで、67年からは仙台で営業をやっていた。
彼がカワサキと契約をしたのは67年からである。
カワサキのマッハ、H1,H2時代、世界を舞台に活躍していたのはよく知っていたのだが。

そんなことで和田君と初めて会ったのは仙台から大阪に戻った71年である。

大阪営業所にめちゃくちゃレースの好きな篠ちゃん(篠原)というのがいて、篠ちゃんのところにしょっちゅう出入りしていた和田君と出会ったのである。
今、チームグリーンの監督をしている野村君も当時はまだ学生だったのだが、同じレースグループで大阪営業所にはよく出入りしていたようである。


私もまだ、若かったしもともとレースは好きだったので、レース関係で営業所に出入りをする連中には、よく面倒を見ていたのだと思う。

当時、モトクロスが好きでレースに熱心だった野崎さん(故人)というお店があり、その店のレースもよく手伝っていたのだが、実は冒頭の森田さんは、この野崎さんとのご縁でブログで繋がったのである。

森田さんは、今いろいろとレース関連の面倒を見ておられて活躍中で、和田さんとも繋がっており、私ともそんな関係である。

来年2月3日(日)にはMFJのふれあいミーテングが大阪であるので是非お会いしましょうと誘って頂いている。
この会合には今年も出席させて頂いたが、想い出を共有する仲間たちがいっぱいいて楽しい会合である。

是非、来年もと今から楽しみである。

カワサキ単車の昔話-80

2007-11-27 04:41:35 | M/Cレース
カワサキ単車の昔話も80話になった。

旧い昔を、思い出させてくれる出来事が先日あった。
ブログにもアップした「マッハの思い出の座談会である。」

座談会の後、懐かしいクルマにいっぱい出会った。
そして、懐かしい人にも。特に加藤君は久しぶりである。

1965年5月3日、カワサキ(山本隆)が、会社には内緒で、始めて鈴鹿を走った。
その結果の3位のお陰で、
1ヵ月後の6月13日の6時間耐久に、カワサキは初めて正規にロードで鈴鹿にデビューしたのである。

3台のマシンを用意した。そのライダーたちは、
1台は歳森とカワサキに初めて乗った金谷秀夫。
もう1台はモトクロスライダー同士の梅津と岡部。
そしてもう1台がテストライダーチームで加藤と飯原であった。
この二人はカワサキのはじめてのモトクロス青野ヶ原でもライダーとして出場している。

そしてこの6時間耐久の監督が大槻さん、助監督が田崎さん(現川重会長)だった。
ライダーなどのチームマネージメントを私と大西君で担当していた。

大槻さんたちとは、昔のライダー諸君も含めてZ1会のゴルフでよく会っているが、
加藤君とは本当に久しぶりである。今回出会った懐かしいクルマの数々は今加藤君が整備を担当してくれているとか。


6時間耐久は結果はだめだったが、ここからカワサキのロードレースはスタートしていった。
まだ、タンクもグリーンになっていない、まだ「赤タンクのカワサキ」時代の話である。

そういえば、写真にある安良岡が乗った125のGPレーサーも、金谷の乗ったA1のロードレーサーもタンクはグリーンではなく赤である。

そんな昔のカワサキの歴史を背負ったマシンの数々と歴史を作ってきた人たちの写真をどうぞ。
マシンは説明抜きですが、充分お解かりの方が多いと思います。


カワサキ単車の昔話-79(マッハ)

2007-11-17 05:02:12 | M/Cレース
60年代、カワサキ創生期のレースには色濃く関係をした。
長く、カワサキの二輪に関係して、晩年までレースとの縁は切れなかった。

最後のほうは、ジェットスキーのJJSBAのレースやサーキットの建設などもやったし、ファクトリーを支えたチームグリーンの活動に関心を持ち支援した。
そのチ-ムグリーンの中心で活躍し、今はその監督をしている野村純一君に先日会った。

マッハⅢの取材があって、その頃の営業やレースの話を期待されていたのだが、私が一番レースに遠ざかっていた時代が70年代である。
その頃は、国内の特約店制度を新たに立ち上げていたのと、
その後東南アジアのCKD進出と言う二つとも全く新しい未経験の分野を担当していて、レースを振り向く間もなかったのだと思う。

マッハのレースがスタートしたのは、そんな時期であった。
当時もレースに関係していた野村君を引っ張り出して取材の助けを求めたのである。

(当日の取材の写真、クリックすると大きくなります。
左から飯原武君、青野ヶ原のカワサキ初のモトクロスに出場、金谷がデビューした鈴鹿6時間耐久にも出場。私をゴルフのZ1会に誘ってくれました。
次が、現チームグリーン監督、野村純一君。
その向こうが、Z1もマッハも当時の開発責任者であった大槻幸雄さん。6時間耐久の監督でもあり、若い頃ずっとレースで関係があった。今はゴルフZ1会の会長でもある。
こんな人から声が掛かれば余り関係がないと思っても断わる訳にはいかない。それで、野村君に応援を求めたのである。)




取材中に私もはじめての話をいろいろ聞けて楽しかった。

アップハンドルのマッハで当時の鈴鹿を席捲し、清原明彦君が一躍ロードレースライダーとして有名になったのは私も知ってはいる。

野村君の話の中に、「モトクロスのライダーだと思っていたのに、ロードを走らせても早かったのでマッハで鈴鹿を走らせた」というのである。
清原はロードのライダーで有名である。取材の方も「清原がモトクロスを?」と不思議なような顔をされた。

清原はもともとテストライダーであった。
せがまれて、モトクロスのノービスのレースに出場さしていた頃は、私も関係していた。モトクロスも結構早くて、仙台の全日本でずっとトップを走りながら、何かで失格したようなことがあったと、おぼろげながら記憶にある。

マッハに乗り出したのは、その頃だと思う。
アップスタイルのロードレーサーは清原のマッハだけであろうし、あの縞々のシャツスタイルは、どこかで買ってきたものだ、などという話を野村君はした。


昨日は野村君にお世話になったので、若い頃の野村君の話を。

71年頃、大阪の所長をしていた。
所員の中「篠ちゃん」というめちゃくちゃレースを好きなのがいて、和田将宏君らがしょっちゅう出入りしていた。
和田君は当時カワサキのファクトリー契約のライダーだったのだが、
実は彼のレースは見たことがない。営業所で出会って親しくなったのである。
そのグループの中に、まだ学生であった野村君がいたのである。

これも、野村君本人から聞いた話だが、彼は根っからレースが好きなのである。
私のように、仕事で関係があって好きになったと言うレベルではない。
ホンモノである。

チームグリーンが常に確りとしているのも、彼のようなホンモノがそれを支えているからだと思っている。

カワサキ単車の昔話-77

2007-11-09 04:49:43 | M/Cレース
昨日、「カワサキ単車の昔話」はちょっとご無沙汰である。どうも書く気になれないのである、などと書いた。

それなのに、今77話を書こうとしている。懐かしい連中に会ったら、気が変わったのである。


Z1会の今年最後のゴルフがあった。
秋晴れの晴天に恵まれて、8組いつものように賑やかなゴルフだったが、今回は私が推薦した、歳森康師君も初参加であったし、同じパーテイには金谷秀夫君や大西、西海君といった創生期のカワサキのレースなどに関係した人たちがいて、昔話に華が咲いたのである。

歳森は天才肌のライダーだった。当時の山本隆、星野一義などとともにカワサキ赤タンク最盛期を支えたライダーである。
16歳で契約しモトクロスで山本とともに活躍していた。

カワサキが鈴鹿のロードレースに始めて正式にエントリーしたのはアマチュア6時間耐久なのだが、その時歳森がパートナーに選んだのが金谷だったのでである。
メンバーを決めるときに、歳森が私に「ロード、早いのが木の実にいるけど連れて来ていいですか?」と聞いてきたのである。
これが金谷の初レース、契約もないままのカワサキでのデビューであった。
金谷ははじめから、早かった。そしてその後正式に契約することになったのである。契約を担当していたのが私である。まあそんな仲である。


250A1の名神のテストで「ミッションが焼きついて」と言う有名な話がある、その焼きついた車に乗っていたのが金谷である。
「流石金谷だ。後輪ロックのまま転倒せずに」と言う話は何度か聞いていた。

その昔話が出た。そのテストに同行していたのが西海君で金谷の直ぐ後ろを走っていたと言うのである。これは、はじめて知った。
「120キロ位でロックして、右左に流れたが転倒せずに何とか止まった]という話も目の前で実際に見た人の話はまた格別である。当時を思い出した。


三木セブンのゴルフ場にロードレースをしていたと言う人がいて、
金谷秀夫と聞いて、神様に接するような態度であった。その道の人から見ればそうかも知れない。
Wikipediaで「金谷秀夫」を検索されたら、彼がどのくらいのライダーであったかがお解りになると思う。

私が金谷のことをブログで気安く書くものだから、
そのWikipediaの記事を書いた当のご本人から、丁寧なコメントを頂いたりもした。


歳森は金谷をカワサキに結んだ男である。
彼は人をいい方向に導く運みたいなものを持っているのかも知れない。
モトクロスもロードも器用にこなした彼は一足早く4輪の世界へ転向し日産と契約した。
そして、当時まだカワサキのモトクロスをやっていた星野一義を日産に引っ張ったのである。
日本一早い男といわれた星野を4輪の世界に導いたのは歳森だとも言える。
今、星野インパルの社長をしている金子豊君も当時はカワサキコンバットにいた仲間である。

こんな有名人たちを気安く呼び捨てにして書いているのも、昔のレース時代がそのまま繋がっているからである。


二輪やレースの世界では、結構有名な人たちが集まっている、Z1会はそんなメンバーの会である。
大げさに云えば、カワサキの歴史を造り育ててきた人たちの集まりであるといっていい。
楽しいZ1会のゴルフのそんな人たちの写真を撮ってきた。

このブログを昨日アップしたら、早速60おじさんという名前でブログを出している山本隆君が早速コメントをくれた。
山本、歳森、金谷、星野みんな神戸木の実のチームメートで山本が兄貴分だった。
彼は、ゴルフを残念ながらやらないのである。今からでもやってはどうかと勧めておいた。



三宅島レース開催おめでとう

2007-10-15 12:09:56 | M/Cレース
今年の春、いろんな議論があった。開催が難しいのではないかとも思われた。

三宅島の復興も大きな目的の一つとして、
健全なモータースポーツの発展のためにも、
是非ともイベントは、中止ではなく実施されることを希望して幾つかのブログもアップした。

日本一の速さを三宅島で競おうということでないのは明らかなのだから、やりようは幾らでもあると思った。



今回、「チャレンジ三宅島 07モーターサイクルフェステイバル」 
と銘打って11月16日から18日の3日間、主催三宅島、支援東京都で実施される運びとなった。

永くモーターサイクルの世界にお世話になった一人としてご同慶の至りである。

名誉大会会長石原都知事や三宅島村長のほかに、
大会理事の名前に杉本五十洋君や神谷忠君など懐かしい名前も見えるし、
一時、カワサキともロードレースやジェットスキーで一緒に活動した岩城晃一さんもスペッシャルゲストとして名前を連ねているのは、本当に嬉しいことである。

マン島レース100年、鈴鹿でのロードレースから50年の歴史を経て、
三宅島のモーターサイクルフェスティバルが新しいモータースポーツの幕開けを飾って欲しい。

サポータークラブもあるようなので一般の部に申し込みをした。




春にアップしたブログご参考までに。

4月12日 三宅島オートバイレース
4月16日   三宅島オートバイレースー2