goo blog サービス終了のお知らせ 

雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

レースの世界の繋がり

2010-09-29 04:55:06 | M/Cレース
★昨日の朝、東京の雷神マッハさんから電話があった。
『KR250/350のカワサキのレース関係の方、ご存知ありませんか?』というのである。


若いころ、カワサキがファクトリーレースを始めた黎明期に3年ほどレースを担当した。
この3年間で、レース界の人たちと懇意になれたのは、あとあと営業に移ってからも大いに役立ったのである。
ホンダ、スズキ、ヤマハの人たちともレースを通じて懇意になって、なんとなくレース界の仲間意識みたいなものがあって直ぐ繋がってしまうのである。

昨日の電話は、かって、ホンダのレーサー開発など担当され渡辺さんからの依頼なのである。
電話のあと、こんなメールが送られてきた。

『私の友人の 元HONDA レーサー(NS500他多数)エンジンの開発者であった渡辺さんから カワサキ レース関係者の方に メッセージを頂きました。
以下メッセージ転送いたします。

最新の雑誌「RACERS」カワサキKR特集を観ての私感です・・・

巻頭部分の特集は1980~82にWGPに参戦したKR500になっています、
私が知りたかったKR250、350については詳しい記事や写真が無いのは大変残念です。
今でもKR250・350とKバリントンは鮮明に記憶に残っています。
それまでの全日本レースレベルだけを観ていた私には衝撃的でした・・・この時の体験が後のNS500開発時にコンセプト設計とマシンレイアウトに大きく
影響をしているからです・・・このことはホンダ・HRCでも数人しか知りません。

雑誌に掲載された内容では、KR500のモノコック設計を担当した平松さんが82年末にホンダに移り私とも1年半くらい仕事を一緒しました。
又、元カワサキチームの鈴木様が現在、軽井沢でペンションを営んでいるとの事ですので、是非友人の方々とお尋ねして、当時のカワサキとホンダのGPレース歓談をしたいですね
今なら全て本音で語り合えると考えております、鈴木健夫様と繋がりをお持ちの方にご配慮をお願いしたいと思います。
又、この雑誌P90~91頁の清原さんのコメントは大変面白く貴重な内容です、ご一読頂ければ幸いです。

カワサキにご縁のある方、レース関係の方に情報連絡とさせていただきます。
レスポンス 希望しております。     雷神マッハ こと 蘇原宏介 』




★私は、KR250/350のころは東南アジアの新市場開拓に没頭していて、一番レースから遠ざかっていた時期である。
清原明彦君がライダーでヨーロッパを転戦していたぐらいしか知らない。メールの中にある鈴木さんも名前しか知らないのである。
昨日早速キヨさんに電話をして、いろいろ聞いてみた。
エンジン設計や当時のレース関係者の名前を聞いたが、残念ながら面識がない。

キヨさんの話では大槻さんは技術部長でヨーロッパへの遠征も大槻さんの許可だったとか、
今日はZ1会のゴルフなので、大槻さんにでも聞いてみようと思う。

★キヨさんの電話のあと、ちょっと調べてみた。
まず、『RACERS』という雑誌のこと、そんな雑誌があることも知らなかった。
ホームページは見つからなかったが、
RACERSブログ』があって、これがなかなか面白かった。

ブログだから、順番は逆になるのだが
『カワサキ編として、3回にわたりいろいろ書かれてある。

第1回カワサキ編
カワサキワールドに行ってそこのKR250の写真が載っている。もうひとつヘルメットかと思ったら新幹線のアタマだった。

第2回カワサキ編


キヨさんの店の2階にあるマシンの写真もあるのだが、ブログの文章がなかなかである。

『関西では貴重なお話が聞けましたよー。
久しぶりに会った“キヨさん”こと清原明彦さんも相変わらずの毒舌ぶりで安心しました
上の写真はキヨさんのお店プロショップキヨの2階に展示されているKR250。

見た目も話しかたも関西ヤクザ風のキヨさんですが、
実はとても人情味あふれた優しい人なので、
お近くに行かれた際は寄ってみてください。』 と書いてあった。

そのほかにもいろいろ。
●第3回カワサキ編 もどうぞ


●取材『平松さん編』
KRの車体設計の平松さんはカワサキからホンダに移籍しているのだが、平松さんの写真付きで、この記事も面白い。

平松さんへの取材も、カワサキの広報が『勝手にどうぞ』と言ってくれたので、ラッキーと取材したと書いてある。
『というのも、普通メーカーの広報さんは、基本的に「OB取材はNG」と言ってきます。
どうしてか? 考えられる理由は以下のとおり。』 と幾つかその理由をあげているのだが、
三つ目にこんな風に書いている。

「OBが好き勝手しゃべり出してしまったとき、特にそのメーカーにとってあまり喜ばしい話ではない場合、
それを制止する立場にない。それなら、最初っから立ち会わない。
ゆえに、一応ボクには、OBのところには行かないでね、と言っておいたほうがイイ」

確かに、私もカワサキのOBだが、私の書くことを現役諸君は止められない。
たまにはいやなことも書くので、『なるほど』と思ったが、
カワサキの場合、バイク雑誌に登場するのは、OBの方が多いのではと思ったりもする。


★こんな雑誌を見て大体解ったので、渡辺さんに直接電話してみた。

いろいろ話ができた。モトクロスも担当されていて『吉村太一ちゃん』がスズキからホンダに移ったころだとか。
キヨさんにも、金谷にもレース場で話はしたことがあるとか、『だが多分覚えておられないでしょう』と言っておられた。
二人とも今日Z1会で会えるので、聞いてみたい。
NPO The Good Times の会員さんの『CKデザイン、こざる』の佐々木さんも、ホンダのファクトリー 関係者だが、よくご存じであった。
こちらも雷神マッハさんのご紹介である。

みんなOBになって、『レースの世界にいたもの同士』で繋がっていくのはいいことである。
こざるの佐々木さんは、確か鈴木さんをよくご存じだったと思うのだがーーー。


今朝はZ1会、8時半集合なので朝ちょっと忙しい。4時半に起きました。


弾む雑談

2010-09-22 05:22:12 | M/Cレース
★昨日、2時少し前、カバン屋さんから電話があった。
『ガレージHaradaのハラダさんが、NPOのことで来られるそうですが―――』
そんなことで2時過ぎにカバン屋さん宅に伺った。

『ガレージハラダ』は、こんなKawasakiのこんなプライベートチームである。
その代表、原田洋孝氏は39歳、お会いするのはこれで2度目である。

カバン屋さんこと登山さんは、40代後半、私の息子より一つ若い。
私は77歳、まあ普通で言えば、おかしな組み合わせで、こんな3人でどんな話になるのかとお思いであろうが、
話が弾んで6時前まで、尽きぬ雑談が続いたいい4時間であった。

この3人つい3年前までは何の関係も面識もなかったのである。
今日のブログのカテゴリーを何にしたらいいのかと、と正直迷ったのである。

『カワサキカワサキワールド』、『ブログ関連』、『NPO』、などいずれもあてはまるのだが、雑談の時間の長かった『M/Cレース』と言うことにした。


★元々何の関係もなかった3人を繋いでくれたのは、私が書いた『岩崎茂樹君のこと』というブログなのである。
このブログ、haradaさんのことに始まり、沢山のコメントを頂いたが、その中の一人に登山さんがいた。

そういう意味では、故岩崎茂樹君が紹介してくれたようなものである。
そのベースは、カワサキワールドであり、M/cレースなのである。

昨日のハラダさんの直接の目的は、NPO The Good Times への入会で、メンバーズカードを取りに来られたのだが、
勿論、NPOの話もしたが、
レ―スのこと、月木レーシングのこと、ジェットスキーのこと、世界チャンピオン金森実のこと、多田、宗和、岩城滉一のこと、kiyoさん、姫路カワサキ島津龍くんのこと、thiraiさんのこと、SPA直入の林くんのこと、今の川重単車の技術部の技術本部長
胡蝶さんのこと、これはひょこむ関連で、そしてミニSLでは古橋くんのこと、チームグリーンの野村君、京都のヨシケンのこと、ねこさんのこと、果てはNPOのホームページを作ってくれている『まっしま』さんの8耐現役時代の話など
まだまだいっぱいあったのだが、こんな話が年代も違う、お互い会うのは二度目の3人で、雑談が尽きないのは、ほんとに不思議なくらいである。

ブログで繋がり、ひょこむで繋がって、昨年初めて三木の鮓屋で会合した時に初めて会った。
あの時のメンバーも、四国も大阪の人もいて、不思議なメンバーであったが、それ以来である。

★カバン屋さんは、今ドイツからのRIMOWAが入庫したばかりでこんな状態である。



今はNPO Good Timesの事務局長をお願いしているし、事務所も貸していただいている。
ここが事務所なのだが、いつも雑談をするばかtりで、あまり事務などしたこともない。
この時代に、RIMOWAのカバンは売れに売れて、忙しくて大変なのである。
カバンが一個売れるごとに、NPOの個人会員は一人増えるので、最近は毎月100人以上の入会がカバン屋さんだけでもある。

こんなカバンのかげで、暗くなるまで、話は途切れずに続いた。

なぜ」こんなにスムースいに話が続くのか?
ホントに不思議である。
Kawaqsaki のいろんな人が話を繋いでくれるのである。
レースの世界も、マシンの話も、
ひょコムも、NPO The Good Times もみんな3人の『共通話題』なのである。
ハラダさんが正式に会員になった。
ツイッターも是非と、勧めておいた。

プライベートチームで8耐参戦など、いろんなことで大変なのである。
いつの日にか、NPO The Good Timres の仕組みの中で全国から、ファンを集めてお役に立てたらいいと思っているのだが。


★いろんな世界があるが、
レースの世界は一種独特である。
そんな世界なのだが、それにしても話がこんなにスムースに繋がるのは、ネットの世界のおかげである。

殆ど会っていないのだが、ある意味毎日会っているのだと思う。
そんな話題を共有している安心感みたいなものが、お互いにあるのだろう。

ハラダさんとは、間違いなく繋がった。
ツイッターでもおやりになれば、さらに前進するだろう。
どんなことになるのだろうか?
          

鈴鹿8耐

2010-07-24 16:21:07 | M/Cレース
MotoBeCool
  
真夏の祭典「鈴鹿8耐」開幕。今日は計時予選。猛暑の中みんながんばれ! http://www.j-bike.com/blog/2010/07/206

我が人生にカワサキあり

2010-05-31 05:33:53 | M/Cレース
★ツイッターでフォロー頂く方から、いろんな質問がある。
『古谷さんはカワサキ派ですか?』というのもあった。

『カワサキ色に染まっています』とも自分では言い難いなと思っていたら、
4月末に取材のあったカワサキバイクマガジンが送られてきた。

『赤タンクのカワサキ』時代の取材で、その頃の中心ライダーであった、山本隆君への取材で、当時のファクトリーチームの関係者が呼ばれたのである。



こんな表紙の『カワサキバイクマガジン』だが、
こちらのブログに大きく貼り付けることが出来ないので、

excite のほうに写真と記事をリンクしたので、興味のある方はそちらをご覧ください。


★『我が人生にカワサキあり』と雑誌の表紙に書いてあるが、
まさに、その通りの人生を歩いてきたような気もする。

現役を引退して10年も経とうとしているが、
まだ、カワサキが生きている。

明後日は、三木セブンハンドレッドで、大槻さんが会長のZ1会のゴルフだが、
今回は浜脇洋二さんとご一緒である。

アメリカ市場でどこよりも早く現地生産意に踏み切ったのは、カワサキである。
当時アメリカ市場の指揮をとっておられたのが浜脇さんで、
若し当時のアメリカでの成功がなかったら、カワサキも違う歴史の道を歩んだであろう。


★今、私はNPO法人 The Good Times を仲間と一緒にやっているが、
この『Good Times Concept』 を1975年ごろ発表されたのは『浜さん』である。

その後、使用されずに眠っていた時期があったが、ゼファー人気でカワサキの国内市場が沸いた時期に国内で復活し、当時の事業本部長の高橋鉄郎さんが世界に展開されて現在に至っている。

雑誌の中には、懐かしい名前がいっぱいあった。
そんなことで、こんなブログを書いている。


にほんブログ村 シニア日記ブログへ最後までお読み頂いて有難うございました。
お手数ですが、ちょっとクリックして頂けますか?






昨日の日曜日、ON ANY SANDA で

2010-04-19 05:25:02 | M/Cレース
★昨日は第3日曜日、カワサキマイスターのモーニング集会が三木の防災公園である日です。
ちょっと季節遅れですが、葉桜のお花見をするというので出かけて見ました。
バイクでツーリングがてらですから、当然ですがアルコールは一切ありません。

こんな連中が集まっての楽しい会話がいっぱいありました。



つい先日からカワサキマイスターの同好会にも、NPO The Good Times のアシスタントにもなってくれたbunCさんの顔も見えました。
いつものことですが、マイスター同好会の仲間たちは本当に気持ちのいい人たちです。



★その後、三木アネックスパークで、恒例のON ANY SANDAがありましたので出かけて見ました。



昨年末、『古代の窯プロジェクト』にも参加してくれた60おじさん山本隆君、今回もF11スペシャルとBSAの2台のマシンで参加です。
写真のバックが1300年前の古代の窯を再現したその場所です。



60おじさん、レースになると人が変わったように颯爽と走ります。
F11は、最終回トップにたっていたのに、チェーンが外れてリタイア。
BSAでは、見事ぶっちぎってのトップでした。



特性のゼッケン060番をつけてご機嫌の60おじさんです。

★このON ANY SANDA いつも楽しいのは、いろんな方との会話です。

昨日は、あの伝説の浅間を走った宇野順一郎さんに会えました。
宇野、茎留など大阪のかたで、当時のトップライダーで名前はよくお聞きしていましたが、
お会いするのも、お話をするのも初めてです。

大阪の方や関東の加園さんなども加わってのレースの昔話はまた格別です。
宇野さん、先日のカワサキファクトリーのOB会のこともご存知で当時の同僚の片山義美君のことや故荒井市次さんや鈴木誠一さん、野口種晴さんなど昔の懐かしい人たちの名前が
いっぱい飛び出した会話でした。

いつも思うのですが、私自身レースの世界にちょっとの期間でしたがいたことが、今の生活にも大きく影響しています。
これも何かのご縁だと思います。
二輪の世界の話をしても、マシンのことは技術オンチでさっぱりなのですが、
レースの世界のことは、人並み以上に話についていけます。
これは私の財産のひとつだと思っています。

昨日も宇野順一郎さんと初対面でしたが、すっかり打ち解けて話ができたのはよかったです。
いい日曜日でした。


にほんブログ村 シニア日記ブログへ最後までお読み頂いて有難うございました。
お手数ですが、ちょっとクリックして頂けますか?







冬季オリンピックの年に、またーー

2010-04-09 04:25:17 | M/Cレース
★一昨日のZ1会のゴルフの会場で『次の冬季オリンポックの年に』にとキヨさんが言った。
先日のカワサキのレースのOB会
今後4年ごとに開催しようということになっているのである。

4年後それが、実現するかどうかはよく解らない。
誰言うとなく、そんな雰囲気になったのである。
そう言わすような無茶苦茶いい雰囲気が会場に満ち溢れていた。

Z1会の雰囲気もそうなんだが、
これはカワサキの『単車事業部の連中』の専売特許のような雰囲気なのである。
くそみそに言われた苦しい時代を背負ってともに苦労して乗り越えた、当時の仲間たちだけに自然に芽生えている感情なのだろう。
職位や職種を越えて『仲間として』結束する要素みたいなものがそこにある。


★大体世間一般に、OB会や同窓会は、最後そこを卒業した同種の人たちの集まりなのが普通だが、
カワサキの場合は、1日でもカワサキの飯を食った人を仲間と認めてしまう『おおらかな風潮』も、
役員も技術屋も事務屋も現場の連中もライダーもメカニックも
40年も前のレベルに戻って横一線に遠慮なく付き合える雰囲気が、そこにある。
先輩はちゃんと立てるが、堅苦しい敬語などは殆ど使われたりしないのである。

★特にライダーたちは、勿論山本隆や清原明彦のようにカワサキ一筋のライダーもいるのだが、ホンダ、スズキ、ヤマハのほうが長かったライダーも多い。
なのに、カワサキのOB会に『自分のふるさと』を感じてくれているようである。

それを普通のことのように受け入れて何の違和感もない。
今回も、ご自身はカワサキとは、何の契約関係もなかった片山義美さんがレース界の大御所兼仲間として参加してくれたのである。

そういえば、彼の引退パーティーには、子弟の金谷秀夫が司会など一切を仕切ったのだが、カワサキからは私と故岩崎茂樹が招かれて、
その幕開けのご挨拶を契約会社のスズキやマツダを差し置いて、カワサキの私がすると言うようなこともあった。
今回の片山義美さんの出席とご挨拶は、カワサキへの好意溢れたもので、あのときの返礼みたいなもののように私には思えたのである。


★モータサイクリストやカワサキバイクマガジン、そして風まかなど、
バイクの専門雑誌の取材もあったりしたが、
そんなカワサキ故に、記事としての面白みもあるのだろう。

会社側に席を置いた出席者は、あえて年齢順に言わせて頂くと

高橋鉄郎(元川崎重工副社長、カワサキ最初の青野ヶ原MX監督)
大槻幸雄(元川重常務、Z1開発責任者、当初のロードレース監督、Z1会会長)
古谷錬太郎(レーススタート時の運営、ライダー契約責任者、レース委員会事務局など)
平井稔男(チームグリーン監督、サーキット建設などーー)
田崎雅元(元川重社長、会長、レーススター時の生産関連メカニック統括)
藤原良(レース当初、山本、歳森、星野時代のメカニック)
渡部達也(チームグリーン関係、元九州オートポリス責任者)

の7人、数あるカワサキのレース関係者の中から、
キヨさんこと清原明彦君やライダーたちが選んでの人選なのである。
選んで頂いて光栄。

このメンバー出席者全員が、NPO法人 The Good Times のメンバーである。
総帥の高橋鉄郎さんには、相談役をお願いしている。
私が理事長、渡部達也君が副理事長、平井稔男、山本隆君が理事、
星野インパルは、当初からの団体会員なのである。

ジェットスキーの福井昇君も理事さんだし、まあ言えば、カワサキのレース関係者がいっぱいなのである。

★4年後の、冬季オリンピックの年にまたお会いできることを楽しみにしている。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ最後までお読み頂いて有難うございました。
お手数ですが、ちょっとクリックして頂けますか?


モーターーサイクリスト別冊3月号

2010-03-06 04:17:24 | M/Cレース
★モーターサイクリスト別冊3月号が我が家に直送された。

1月21日、有馬の泉郷荘で開催した『カワサキファクトリーのOB会』の記事が掲載されたのである。

同じ写真でも、プロが撮るといい顔に写っている。



写真も記事も、これでは見えないのでこちらの方でご覧下さい。クリックすると大きくなります。


写真も全て名前を入れてくれている。

本当に『世界のーー』とアタマに持ってきてもおかしくない人もいっぱい居るし、
『日本のーー』中では当時一番と言った人たちばかりである。
それもみんな個性豊かで、今では伝説のように言われてはいるが、
こうして集まってみると、そのもっと前のそんなに有名でなかった頃に戻っての会話になるのがいい。

会社のメンバーも田崎さんなど川重のトップに上り詰めた人もいるのだが、
ここでは高橋鉄郎さんが一番の大先輩である。
田崎さんご自身が高橋さんの家までの送り迎えを担当してくれた。

レース仲間はいいものである。
久しぶりに会った星野も金子も、昔のままである。

NPOを立ち上げた直後からメンバーに入ってもらった人たちが半分以上いたのだが、
残りのメンバーもこの日全員が
NPO The Good Times のメンバーになってくれた。

総帥高橋鉄郎さんはNPOの相談役でカードNOは、昔のプロ野球の監督ナンバー30番だし、
その30番台に田崎さんも、大槻さんもいる。
今回新たに参加してくれた人たち10人は511番からだった。


流石、モーターサイクリスト、レースの写真のトップ争いは、スタート直後のカーブだと思うが鈴木忠雄、山本隆、星野一義、矢島金次郎と当時の御三家に星野が絡むところのいい場面である。

(追記)
と書いたら写真に写っている当人、60おじさんこと山本隆君からこんなコメント

『この写真はとても気に入ってる写真です良く見かけます。
たしか1969年全日MX第1戦谷田部の250ccクラスのスタート直後と思います。
結果は1位鈴木忠男、2位矢島金次郎、3位山本隆、5位星野一義

ちなみに90ccクラスは1位山本、2位星野、3位西信之、
125ccクラスは1位星野、2位山本、3位鈴木忠男
と言う風にカワサキが圧勝街道のシーズン幕開けでした!』






右側の片山義美さん以下みんないい顔である。


にほんブログ村 シニア日記ブログへ最後までお読み頂いて有難うございました。
お手数ですが、ちょっとクリックして頂けますか?


カワサキファクトリーOB会

2009-12-29 04:40:17 | M/Cレース
もう何年も前から、もう一度OB会をという話はずっとあった。
かって1度だけやったことがある。
巨人の定宿として有名であった芦屋の竹園旅館で開催したのが、もう20年も前の話である。

その時の写真などを今年の夏、山本隆君がブログで公開した。



この写真は、小さくて解らないから上のリンクのブログの写真で見て下さい。
当然のことながら、20年前はみんな20年は若かったのである。
真ん中に座っておられる西海さんは、つい先日亡くなられて、その葬儀に参列したばかりである。


★この写真のなかの15名ほどは今回も集まる。
1列目は高橋さん(元川重副社長)と右端の大槻さん(元川重常務)だけだが。
2列目の左から、岡部、金谷、平井、田崎(元川重社長)古谷、安良岡、和田、山本、清原は今回の主力メンバーである。
キヨさんが今回世話役で、高橋、大槻、田崎、平井、と私はスタート当時のレース担当仲間として招んで頂いた形である。
この写真の最後尾右端が星野一義である。

当時は、OBの末席が清原と星野であった。
20年経って今回は塚本、竹沢、杉尾、梁、やトライアルの世界やパラグライダーで活躍の加藤文博君も来る。

カワサキのモトクロス初戦青野ヶ原を走った飯原、当時のメカニックの藤原良さんや吉田君、
神戸木の実の歳森や御大の片山義美さんも、
カワサキコンバットにいて、今は星野インパルの金子豊君も。
みんな素晴らしいメンバーである。


★40年以上も前、明石工場の小さなレース職場に、毎日こんな仲間がたむろしていた頃は、みんなこんなにエラクなったり、こんなに有名になるとは思ってもいなかった。
星野一義だってまだ17歳の少年だったし、金谷もひょんなことでカワサキに入ってきたし、加藤文博君も、安良岡健さんに頼まれて、福島の草レースで初めて会ったのである。

もっと驚きは、一時はお荷物と言われた単車事業から、川重の社長や副社長が出るなど、夢にも思わなかった。
40年も経つと、みんなエラクなるものである。


★そんな素晴らしいメンバーだが、私たちカワサキのレース初期のメンバーたちにとっては、多分最後の機会になるだろう。
業界紙誌の世界で今も活躍中の石井さんも今回参加と聞いたので、
カワサキの歴史を一番よく知っていて、今尚現役の二輪車新聞(オートバイ)の衛藤誠さんにも耳うちだけはした。
もし、KAZEも取材ご希望ならお気軽にどうぞ。


★このメンバーの半分以上は、
既にNPO The Good Times の役員や会員メンバーである。
この機会に残りの方も、全員の参加をお願いしたいと思っている。

その上で、翌日のゴルフ場三木セブンハンドレッドクラブは、既に団体会員なので、このコンペを機会に、The Good Times 会員への特典割引をスタートしようと企画中である。

また新しい世界への幕開けとなる、カワサキファクトリーOB会となって欲しいものである。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ最後までお読み頂いて有難うございました。
お手数ですが、ちょっとクリックして頂けますか?









人の繋がりの深さ

2009-12-03 04:35:44 | M/Cレース
昨日は、西海さんのお葬式であった。

兵庫メグロの社長さんであったし、勿論商売上もカワサキとの取引もあったのだが、西海義治さん個人とのお付き合いは、レースを中心に兵庫県警さんなどとの繋がりであった。

世の中には、いろんな方が居られて、通り一遍の商売だけとか、同じ会社に籍を置いたとかと言う繋がりが普通一般なのだが、
同じ会社にいて、同僚などと言っていても
『ホントにその人と一緒に仕事をしたことがあるのか?』と言えば、
意外に『NO』、『と答えねばならぬ、
『ただ単に同僚として、知っていた』というレベルの人は多いものである。


私自身は、どちらかと言うと、同じ会社にいた人とも勿論仕事はしたのだが、
会社以外の人たちと一緒にいろんなことをやったことのほうがはるかに多いような気がする。
西海さんは、勿論先輩だが、そんな方の一人だし、
西海さん自体が、ホントにいろんな方との親密な『一緒に仕事をされた』トモダチをいっぱい持っておられた方のように思う。



式場には、トモダチのように肩を並べている本田宗一郎さんとの写真もあった。
どんな偉い人にでも堂々と物怖じしない態度は西海さんの特技であったし、
同時に若いライダーたちとも同じように付き合われた。



昨日集まった人たちや弔電や花束を贈った人たち、
特にレース界や二輪業界では、『面白く、ユニークな有名人』ばかりである。

カワサキ関係だけでなく、
スズキやホンダで関係のあった吉村太一、BSにいて今はNFJのモトクロス委員長の田中隆造、片山義美、大久保力、山本隆、金谷秀夫、清原明彦、杉尾良文この人たちはみんなスターだから、敬称なしのほうがよく似合う。

京都モータークラブの山本学さんの花束もあったし、兵庫県警の有名な機動隊長だった松岡さんも来られていた。
カワサキのレース関係者は高橋鉄郎さんをはじめ、井出、大槻、田村、上月、大津、安井さんなどなど、歴代の関係者の顔が見たれ、葬儀委員長を務めたのは平井稔男さんであった。


レースの世界は、一種独特の仲間意識があるものである。
それは、現在よりも昔のほうが、単なるメーカーの枠を超えて、深かったような気がする。
そんな輪の真ん中にいた人たちが、だんだん少なくなってゆくのは、寂しいことである。
わざわざ大阪から、足を運んでくれた太一っちゃんと田中隆造さんには敬意を表したい。
葬儀委員長を務めてくれた平井さんにも心から感謝である。

60おじさんは、こんなブログをアップしている。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ最後までお読み頂いて有難うございました。
お手数ですが、ちょっとクリックして頂けますか?







カワサキのモトクロスの始まりは?

2009-11-09 04:56:48 | M/Cレース
先日、カワサキのレースは青野ヶ原が初めてだと言われているが、もっと以前に走っているのではと、『何となくそう思っていた』と書いた。

もう一度、再録してみると。

『カワサキのレースの初戦は1963年5月19日兵庫県青野ヶ原のモトクロスということになっている。確かに、明石工場の人たちが初めてレースに参加したのは間違いなく、青野ヶ原が最初である。


然し、何となく、ホントに何となくだが、
もう少し前からカワサキも、レースに参加していたのではないか?
それにもし関係した人がいるとすれば川崎航空機では井出さん、
カワサキ自販では故小野田滋郎さんだと、私は思っているのである。

その理由は、井出さんは『三吉一行君』をよく知っていて可愛がっておられたのである。
彼は元々ヤマハで三橋実君などとともに東京スリーホークスのメンバーだった。
カワサキにも一時関係はあったが、彼を知っているというのは、青野ヶ原より前ではなかったのか?

『新明和にレースのプロみたいな人がいたでしょう』
『いたな、名前は忘れたけど』
三吉一行君のリンクの写真の『富士の朝霧高原のレースも懐かしいな』
こんな会話が出来るのも、もう井手さんぐらいになってしまった。
残念ながら、井出さんは、正確には覚えておられなかった。

小野田滋郎さんは、青野ヶ原で大勝したとき、
今までレースに反対だった部長さんたちが競って記念写真に納まる様を、
『今までの苦労を知らずにーー』と言われたのである。
三橋実君をヤマハからカワサキに連れて来たのは、間違いなく小野田さんで、
青森であったレースのときである。
青森の八戸や厚木や福岡の雁ノ巣などの米軍基地の周辺から日本のレースはスタートしている。
その青森のレースなどは、多分青野ヶ原より前だったような気がするのである。』


とこんな風に記述したのである。

このブログに、60おじさん、山本隆君がこんなコメントを寄せてくれたのである。

『私が始めてMX出場したのが1961年1月4日の第1回兵庫県MXです青野ヶ原でMCFAJでした。
記念すべし初レースに2位となり、有頂天で次のレースを待ち望んでいました。

第2回が5月21日新明和工業宝塚工場敷地内で行われました。
この時にカワサキB7MXレーサーを東京の三吉選手が乗っていました。

ちなみに私は両レースともホンダCB95元浅間レーサーでした。
二戦目は散々な結果に終わり、心入れ替えた事を覚えています。 』


B7のMXレーサーがあって、61年5月21日に三吉一行君が乗っている。
新明和のレース場、これに小野田さんや井手さんがかんでいたに違いない。
私は61年5月は入院中なのだが、井手さんは61年は日本ジェットから川航に間違いなく戻られている。
当時私は財産課に所属していて、日本ジェットから戻られた井手さんや、大槻さんの机は、私が60年に準備したのでよく覚えているのである。

私の『何となく』も当たっているような感じである。
もう少し確りと詰めてみたいが、
『60おじさん、貴重なコメント』 有難う。

その後、60おじさんと電話でちょっと話をして、幾つか解ったが、
今日は、NPOのオフ会でご一緒する。
またいろいろ聞いてみたい。


にほんブログ村 シニア日記ブログへ最後までお読み頂いて有難うございました。
お手数ですが、ちょっとクリックして頂けますか?











kiyoさん 清原明彦君

2009-09-09 04:28:43 | M/Cレース
ついこの間から、thiraiさん、平井稔男さんが新しくブログを始めた。

Team Greenを愛する馬鹿な男の夢』 と題して、NO.をふって、今NO.20である

スタート1ヶ月で、20だがどんどん続きそうな勢いである。
流石、自称『カワサキの真打』というだけのことはある。

そのNO.19 が『キヨさん』である

カワサキファンの方、是非お見逃しないように。



こんな写真と共に、キヨさんのことに触れている。
この写真もなかなかいいのだが、平井さんいい写真をいっぱいお持ちである。
ブログの中の旧い写真、当然だが、懐かしくていい。
若いタッチャンを発見してビックリした。この頃のタッチャンは知らないのである。
タッチャン、今はNPO The Good Timesの副理事長で援けてくれている
平井さんも、山本隆君も、福井昇君もそのメンバーである。


さて、キヨさんだが、
私もカワサキのレースの創生期昭和38年から4年間、(1962~1966)レースチームに直接関係をした。
その頃の、キヨさんはよく知っている。
星野もまだ20歳にならない頃だから、キヨさんもまだ10代でであったと思う。
三橋、安良岡、山本、歳森、梅津、岡部のモトクロスライダーたちに、星野が契約ライダーとして加わり、ロードライダーとして金谷が加わった時期である。

キヨさんは、まだレースライダーではなくて、テストライダー時代であった。
当時のカワサキのレースの主力はモトクロスで、ロードに正式に参加したのは65年5月3日の6時間耐久レースである。
歳森の紹介で、彼とのコンビで金谷秀夫が無契約で、初めてカワサキに乗ったレースである。
カワサキの初めてのレース青野ヶ原のモトクロスにも出場した、清原の先輩の飯原、加藤さんたちのテストライダーたちもその6時間耐久に出場したのだが、キヨさんはまだレースには出ていなかった。

キヨさんはロードのライダーで知られているのだが、
実は私は彼のぱりぱりのロードの現役時代は知らないのである。
ファクトリーのロードマシンに乗ったキヨさんを見たことがないのである。
ちょうどその時期は、内外の販売網整備で掛かりきりだった時期である。

若い頃の、その前のモトクロスに乗っていた時代のキヨさんをよく知っている。
彼をモトクロスのレースに乗せたのは、ひょっとすると私かも知れない。
確か、テストライダーとの二股だったと思う。
モトクロスでも、ずっとトップを走っていた。

その実績を見て、ロードに引っ張ったのだと、これはチームグリーンの監督など、長くカワサキのレース一筋の野村君に聞いた話である。
だから、最初はアップハンドルの縞のシャツスタイルだったのかも知れない。

星野を最初のレースに走らしたのは、間違いなく私なのだが、
その頃の、カワサキのレースチーム、星野一義、清原明彦、従野孝司といった後の有名人たちがぺいぺいの時代で、金子豊も、西も木村も若手はいっぱいいた。
従野も片山義美さんのお母さんに頼まれて、カワサキのレースチームで面倒を見ていた頃で、みんなキヨさんと同期ぐらいである。
それぞれ4輪やロードで名を成したが、3人ともモトクロスを走っていた。


そのあと、キヨさんと接触したのは、もうずっと後の、彼が販売店を出したいといってきたときである。その頃は販社にいたので、直接担当だったしよく覚えている。
『事業計画でも作って来い』 といったら、めちゃめちゃきれいな字の計画を持ってきたので、『誰に書いてもろた?』 と聞いたら『私が書きました』と言うので
ビックリしたのを覚えている。

そのあと、宗和が現役の頃、チームグリーンのことでも世話になったし、
大分のSPA直入のオープンに金谷と一緒に来てくれてここでもお世話になった。


何故、こんな昔話をしているのかというと、
来週に三木セブンハンドレッドであるZ1会のゴルフの私のパートナーは、
『飯原武志、金谷秀夫、清原明彦』なのである。

(三木セブン、ブログを始めた。NPOの仲間でもある。支配人の橋本さんは元カワサキにも乗っていた。実は今日、橋本さんと二人でハーフを回る約束である。)

大勢いるのでなかなかこんな組み合わせにはならないのだが。
『いいさん』が事務局にわざわざ、申し入れて実現したようである。
私をZ1会に誘ってくれたのも、『いいさん』である。
金谷を誘ったのは私である。
みんながサインを欲しがるような有名ライダーたちのなかに、名指しで入れて頂いて光栄である。

この4人、ゴルフをさしたら昨年までなら、
間違いなくキヨさんが一番へたくそなはずだが、最近は練習熱心になって、ウデをあげているようだ。
先日、マイスターのオープンのときに会ったらそんなこと言っていた。

ちなみに、キヨさんはギッチョである。ゴルフは左打ちである
右利きは左カーブが左利きは右カーブが得意だそうである。
但し、得意カーブのほうが転倒が多い。
『無理するんやな』
前回のZ1会でキヨさんがこんなこと言っていた。何でもレースの話になってしまうのである。

今度は4人でどんな話が聞けるだろうか?

にほんブログ村 シニア日記ブログへ最後までお読み頂いて有難うございました。
お手数ですが、ちょっとクリックして頂けますか?




miki ANNEX PARKで

2009-08-31 04:13:14 | M/Cレース
昨日の日曜日、miki ANNEX PARK に出かけた。

ON ANY SANDA でいつも出会っている貴島さんから、モトクロスの講習会があるので、『来られませんか?』 とブログのコメントがあったからである。
元カワサキのファクトリーライダー野宮君が講師をするということもあったのだが、

日本でたった一人の世界モトクロスチャンピオン渡辺明君の主催する講習会も同時にあると聞いて、60おじさん山本隆君を誘って出かけてみたのである。



講習が始まる前のひと時、お互い初対面だが、
世界チャンピオンと3年連続全日本モトクロスチャンピオンは山本君が10年ちょっと先輩だが、直ぐ打ち解けた話になった。
城北の久保、菅家、黒沢、長谷見それに星野などの共通の話題もあって、話が直ぐ通じるのである。

こんな旧い連中の話になると私も仲間入りが出来るのである。



元カワサキファクトリーの立脇君も顔を見せたし、



講師役で忙しい野宮君も、あちこちでサイン攻めであった。

最近は、『チームグリーンのブログの執筆で忙しい』平井さんにも、昨日お誘いしたのだが、『私は現役ですから、ちょっと忙しくて』と妙な?事を言われていたが、
みんな会いたがっていましたよ。

写真いろいろ、ご覧下さい。


このmiki ANNEX PARKもThe Good Times のメンバーにモリチャンや平井さんが誘ってくれて、仲間である。
山本隆君がこちらにこんあレポートを。
経営者の山田さんとは、前から面識はあったのだが、これをご縁にと、じっくり話をさせて頂いた。

モトクロスレースとはおよそ関係のない、こんな話に発展した。



太古の昔からある、窯跡研究の話である。
このモトクロス場の一部にそれは造られていて、毎年秋に学究者が集まってこんな研究をしていると言うのである。
その窯は、パドックの奥にあった。



思わぬことに発展するものである。
このはなしは、また別の機会にと思うが、山田さんとこんな話が出来たのはよかった。

それこそ役所のさるとるさんか、
教育委員会、
或いは、出向先の武雄で『飛龍窯灯ろうまつり』のイベントを担当した小田さんにでも、意見を聞いてみたい話なのである。


にほんブログ村 シニア日記ブログへ最後までお読み頂いて有難うございました。
お手数ですが、ちょっとクリックして頂けますか?




一番印象に残っているロードレース

2009-06-30 04:20:13 | M/Cレース
昨日BSの滋野選手の記事を書いていて、こんな記録を見つけた。
1966年度日本選手権ジュニアロードレースの記録である。

モトクロスと掛け持ちの懐かしいライダーたちの名前が多い中で、金谷などロード専門の選手がまだ珍しかった時代である。


この年、日本グランプリは富士で初めて行われることになった。
ホンダは第1コーナーの須走り落としが危険という理由で出場しなかった年である。MFJの運営委員会でいろいろ検討されたが最後までホンダは「YES]とは言わなかった。今思えばホンダの見識かも知れない。


この年はレース担当最後の年であったがいろいろあった。
モトクロスはF21Mがデビューして圧倒的に強かった。
山本、歳森、岡部、梅津、星野とライダーをそろえて連戦連勝であった。

ロードレースは不運続きであった。
カワサキは、藤井敏雄をマン島のプラクテイスで亡くし、1ヶ月後の富士では練習中にデグナーが転倒入院し出場不可能になった。
カワサキの初めてのGP参戦だったのだが、ライダーを2人欠いて、急遽谷口、安良岡などで対応したのである。


このロードレースの中で、ジュニア250はA1のエンジンを使ってまずまずの仕上がりであった。ほぼ勝てると内心思っていたのだが、ヤマハが直前になってアメリカからGニクソンを呼んだのである。
後、カワサキに移籍して活躍したあのGニクソンである。

当時、日本人のライダーはみんな真っ黒のツナギであった。
そんな中に赤い異様なイデタチでGニクソンが現れたのである。
練習タイムから早かった。



結果的に金谷と文字通りの一騎打ちになった本番は凄まじかった。
タイムをご覧になれば解るが、他をぶっちぎって二人だけの戦いとなったのである。
最後は、ニクソンに敗れはしたが、まだ新人とも言える金谷はよくやったと思う。
和田正広君はまだホンダのライダーであった。

最高ラップ 2.14.27 をGニクソン、金谷秀夫の二人で記録しているのである。こんなことも珍しい。

私が見たロードレースの中で、もっとも印象に残ったレースだった。
そして、このレースがレース担当最後の公式戦となったのである。

三橋、村上、歳森も出場したのだがリタイアだった。
歳森は転倒で鎖骨骨折だったのだが、
藤井、デグナーと大事故が続いた後だったので、歳森にかけた言葉が、『鎖骨でよかったな』だった。

レースが終わって、『ほっとした』のをよく覚えている。
このレースが終わって10月末からモーターショー。
12月には仙台への異動を告げられたのである。

レースと広告宣伝最後の年であった。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ最後までお読み頂いて有難うございました。
お手数ですが、ちょっとクリックして頂けますか?








公式練習 レース
順位 ライダー名 タイム     順位 車番 ライダー名 マシン クラブ名 タイム Km/H
1 G・ニクソン 2.16.31      1   76 G・ニクソン  ヤマハ スポーツライダース 34.08.34 158.176
2 金谷秀夫 2.18.05       2   23 金谷秀夫  カワサキ 神戸木の実 34.19.73 157.302
3 三室恵義 2.18.11       3   20 三室恵義  ヤマハ スポーツライダース 34.56.14 154.569
3 村上 力 2.20.95       4   75 和田正宏  ホンダ テクニカルスポーツ 35.33.13 151.889
5 歳森康師 2.21.17       5   51 長谷見昌弘  スズキ 城北ライダース 36.09.26 149.359
6 三橋 実 2.21.61       6   70 増田 武  ヤマハ . 1周おくれ
7 和田正宏 2.25.87       7   63 松本潤郎 . . 2周おくれ
8 長谷見昌弘 2.27.14      8   71 S・バーグスマ .  西多摩スピード
    
.
最高ラップ ― ニクソン・金谷 ― ― 2.14.27 155.957




BS滋野靖穂選手

2009-06-29 04:26:46 | M/Cレース
60おじさんの日記、最新版はトライアルのことなのだが、いっぱいコメントが寄せられている。

そんな中に、こんなのを見つけた。

『はじめまして。
何気なく叔父の名前を検索してましたら、こちらのページに行き当たりました。
叔父は滋野靖穂と言います。
おそらく、ブログを拝見した様子では叔父と一緒にレースに出られていたのでしょうか?私は滋野靖穂の長兄の娘で(と言ってももうかなりのおばさんですが…)子供の頃、よく叔父のレースを見に行っていた記憶がかすかにあります。
なんだか、突然このようなメールをしまして失礼します。何か叔父のエピソードなどお聞きできたら…
| あいまま | 2009/06/05 4:45 PM |

もうずっと昔の話だが、まだブリジストンが二輪業界にいて、50,90ccの分野のレースに活躍していた時代、滋野選手はBSのエースライダーであった。
年間の最優秀選手に選ばれて、ご褒美にヨーロッパに派遣されている。
この記録の中には、当時の懐かしいライダーの名前もいっぱいである。


60おじさんはこんな風に、コメントで返している。

『あいままさん初めまして、いやービックリです!ようこそです。

滋野靖穂選手とは随分ライバルバトルを展開いたしました、中でも私が一番印象に残っているのは、第1回鈴鹿ジュニアーロードレースです。
スタートより終始雨の中のレースでした、ホンダの佐藤実・鈴木義治選手に続いてブリジストンの滋野選手が3番手を走っていました、しかしそのスリップストリームにピッタリとカワサキ山本が終始付いていたのです!

最終周にスリップから抜けた山本は鈴鹿サーキットの表彰台に初のカワサキマシンを歴史的に上らせたのです。
カワサキにとっても、山本にとってもこのロードレースが初出場でした。

たぶん滋野氏は一番苦い思い出だと思います。
また滋野氏の僚友だった、的野氏もとても速い選手でしたが、その後カワサキの技術部に来られてからは仲良くさせてもらってます。

ブリジストンレーシングチームの事は最近別冊モーターサイクリストで毎号特集を組まれていますのでとても懐かしんで見ております。
乱筆で失礼しましたが、滋野叔父さんにくれぐれもよろしくお伝えください。

| 60おじさん! | 2009/06/05 11:22 PM | 』

山本が書いている、この鈴鹿のレースは私は現場にはいなかったが、若しこのレースで山本が入賞していなかったら、カワサキのロードレースへの展開もまた違ったものになっただろう。
何度もご紹介した『カワサキがはじめて鈴鹿を走った日』なのである。

滋野選手はモトクロスにも出場していたが、ロードレースの50,90はめっちゃ早かった。『天敵』とも言える存在であった。
BSのマシンもよかったのだが、何人も居るBSのライダーの中でも彼の記録が飛び抜けていた。
FISCOでカワサキもヤマハもみんな滋野にやられて、エンジンが彼のマシンだけ大きいのではないか?
金を積んだらエンジンを開けさせられる規定があって、一度あけさせるかと、本気でそんなことを考える人も出てきたりした。

それくらい早かった。
今、MFJのモトクロス委員長をしている田中隆造さんなどもBSのチームメイトであった。
そんな滋野に山本が勝てたのは、当日の鈴鹿が雨だったのが最大の理由だと、
私は思っている。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ最後までお読み頂いて有難うございました。
お手数ですが、ちょっとクリックして頂けますか?




日本モーターサイクルの夜明け

2008-09-28 03:48:46 | M/Cレース
にほんブログ村 シニア日記ブログへお手数ですが、ちょっとクリックして頂けますか


私のブログのブックマークに
日本モーターサイクルの夜明け』がある

スズキの中野広之さんが纏められている労作である。
このホームページは2003年から纏められたようだが、今もなおその編集は続いている。

私のブログのエルンストデグナーのことや、
マン島で亡くなった藤井敏雄君のことなども、2007年にひょんなことから載せて頂いた。
そんなこともあって、毎日のように、ここから私のブログに訪れて頂く方が多いのである。


デグナーの話
鈴鹿のデグナーカーブにその名を残す名ライダーである。
カワサキが、初めて契約した外人ライダーでもある。
その契約金は、当時私が担当していた広告宣伝費で支払った。
そんなことで関わりがあったのである。

当時、社内には聞く人も居なかったので、鈴鹿まで出向いてホンダさんに教えを乞うたのである。
そのデグナーは練習中転倒入院して、カワサキのデグナーは実現しなかった。

(こんな私の話より、中野さんのデグナーの記述は数段詳しいレベルの高いものである。
この「デグナーの追憶」も素晴らしい。)




藤井敏雄君のこと

話は前後している。
藤井君の話が、1ヶ月ほど前の話なのだが、
私のレース担当の時期の思い出で一番悲しいできごとであった。
どうしても、そのことだけでは書くことが出来なかった。
中野さんとのデグナーのことでのコメントのやり取りの中で書いたのが、この記事である。

大槻さんの話でも、後、片山義美君に聞いた話でも、藤井君は転倒後ぴんぴんしていたようである。
事後処置が良かったらこんなことになっていなかったのではと、本当に残念に思っている。


もう何年も前の話で、時効だとは思うが。
藤井敏雄君との契約は単なるマシンの貸与契約であった。
欧州から帰って日本GPの前に、欧州の結果を見てライダー契約をして欲しいと言うのが彼の希望であった。
人身の保険も掛けてあったのだが、まさかこんなことになるとは夢にも思わなかった。

それがこんな事故になって、この保険金のことで社内でもめたのである。
受取人は当然会社である。
ライダーの契約担当として、この保険金は遺族に渡したいと言ったのだが、契約上は単なるマシンの貸与契約ではないかということで、葬儀も保険も関係ないというのが社内の意見の大勢であった。
独り若輩が、『そんなことではレースの世界は通用しない』と頑張っていたのを援けて頂いたのが、デグナーの契約で関係のあった山田さんである。

葬儀にはスズキはもとより、ホンダ、ヤマハさんも参列された。
若しカワサキが知らぬ顔だったらどんなことになったであろうかと思う。
カワサキもレースにそんな無知の時代もあった。
考えてみると、そんな理屈も一般的には成り立つのかなとその後思ったりした。



『カワサキのモーターサイクルの夜明け』のような出来事であった。

これはみんな1966年私のレース担当最後の年の出来事である。
マシンはモトクロスはあのF21Mのデビューがあったり、
ロードレースにカワサキが初めてGPマシンを登場させたりした。

ライダー担当としては、正に受難の年であった。
春には鈴鹿で、三橋実が転倒入院をした。レースで転倒は何度もあったが、ライダーが入院したのは初めての経験だった。

MFJの全日本モトクロスも怪我があっていい成績は残せなかった。

夏には、藤井敏雄君を亡くして大変であった。

その後の、FISCOでのはじめての日本GPの練習テスト中にデグナーの事故である。一時はその生命も危なくて、病院を移したりした。

レース当日は、歳森康師君が転倒して鎖骨を折った。
怪我をした歳森に、『よかったな』と言ったのを覚えている。
『鎖骨でよかった』 と本当にそう思った。

そんな大変な1年であった。