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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

人との出会い、いろいろ

2007-10-15 06:14:45 | M/Cレース
昨日はON ANY SANDAのヴィンテージモトクロスを見に行った。

前々から予定をし楽しみにしていたイベントだが、天気もよく春以上の盛り上がりで非常に楽しい一日であった。

モトクロスレースが仕事の大半を占めていたのは、45年以上も前のことではあるがレースを担当したお陰で、普通では付き合うことの出来ないいろんな人と出会えた。

それが今でも続いている感じである。
レースを愛する人たちの独特の心情を今でも充分理解できるし、レースに関しては若い人たちと余りズレずに話が出来るのは昔の経験のお陰である。


元全日本チャンピオの山本隆君は今回も出場して、春と同じく抜群の安定した走りを見せてくれた。
その山本ファミリーの人たちとも沢山出会えた。
春、お会いしてその後ブログにコメントをずっと頂いているRM250(kakogawalionya)さんとも、はっきりお顔を覚えたしいろんな話をすることが出来た。
主催者の高下さんとも、貴島さんとも春以来だが、よりスムースな会話が出来た。

カワサキファクトリーのMX担当の河野君も観に来ていて、本当に久しぶりにお会いしたし、じっくり話が出来たのははじめてであった。
彼などとは私が現役の頃は、年齢的に離れていて知ってはいてもそんなに話をする機会はなかったのである。

「北海道の旭川のほうであったMXのとき来て頂いて」と言われたが、行ったことは覚えていたが話をしたのは、忘れていた。



今回最も劇的だったのは、歳森康師君と会えたことである。
ホントにひょんなことでこのレースを見来ていた方が、歳森と仕事で知っていてそれで繋がったのである。

歳森は山本と同じ神戸木の実クラブの所属で、山本とともに初期のカワサキのファクトリーの中心選手だった。
天才肌のライダーで一足早く4輪の日産に転向し、彼が星野一義を日産に引っ張ったような経緯であった。

当時の神戸木の実クラブは御大の片山義美はスズキであったが、
山本隆、歳森康師、金谷秀夫、星野一義と錚々たるカワサキのメンバーが籍を置いていた名門クラブであった。

その歳森に電話をしたら「直ぐ見に行きます」との返事で1時間後には現地に現れたのである。

10年以上も前のカワサキのレースのOB会以来であった。
いろんな話をして、ゴルフのZ1会にも入ることになった。

昨日のレースは私にとって、歳森と会えただけでも十二分の価値があった。


ヴィンテージなマシンたち

楽しい人たち、仲間たち

ON ANY SANDA in ANNEX PARK

ON ANY SANDA-2

2007-10-11 05:39:27 | M/Cレース
10月14日、この週末の日曜日、三木のアネックスパークで行われる。

先日、このブログでアップしたら、
このレースに出場する、60おじさんこと元全日本チャンピオンの山本隆君ご本人や、よく三木のブログにコメントを下さるRM250さん、からコメントを頂いた。

また、このレースの運営に関わっておられて、BUG IN MIKI などにも出店されたりした貴島さんからは、このレースの当初からの経緯など詳しくコメントで頂いた。

今朝はこのイベントの主催者の高下さんからもお誘いのコメントを頂いた。

コメントの部分だけリンクすることも出来るのだと思うが、それが解らないので前回の本文をリンクしますが、是非コメントを是非お読み下さい


また、山本隆君のブログにも、ON ANY SANDAがアップされています。

三木でやるのに何故SANDA?
これは、ON ANY SUNDAYをもじって名付けられたもので、
はじめは、三田で開催されていたからだそうです。
これは、春のON ANY SANDAで仕入れました。

on any sanda

2007-10-02 05:43:09 | M/Cレース
ヴィンテージモトクロスON ANY SANDAは、今年の春にも三木のアネックスパークで行われた。

初めて見せて貰ったが、荒井市次、山本隆という、私にとっては誠に懐かしい元全日本チャンピオンたちの走りを間近かに見て感激もひとしおであった。

その秋の大会が同じアネックスパークで10月14日に行われると、ブログでお付き合いのあるRM250さんから連絡を頂いた。


これを見ていると、荒井、山本のほかに立脇三樹夫、佐々木隆、堀口雅史などの名前も見られる。ベテランたちが沢山参加して賑やかに楽しくやればいい。

ゼッケンナンバーを誰を何番にするのか事務当局が気を使っていたら、荒井が「俺は70歳だから070番でいい」と言えば、山本は「ジャおれは060番」とあっさりと決まってしまったようである。

勿論二人とも私よりは若いのだが、60,70才になって、モトクロッサーにのるとは大変なことである。


三木の細川町にアネックスパークがあることなど、三木市民も殆ど知らぬと思うが、その筋では名前の通っているサーキットである。


もう2週間先に迫った。
春はまだ、ブログに写真を貼り付けることは出来ていなかったのだが、
今回は写真を撮って楽しい雰囲気でも、紹介できたらと思っている。

平井稔男くんや藤原良さんなど、カワサキの昔の関係者も遊びに来ればいいのにと思っている。

モトGP世界選手権第15戦、日本GP

2007-09-30 06:06:18 | M/Cレース
先週の日曜日、「ツインリンクもてぎ」で、モトGPが行われた。

もう現役から離れてしまうと、レースの話も解からなくなってしまう。

今年の8耐にはカワサキはファクトリーが参加しなかったので、カワサキファンの方からこのブログにもお叱りを受けたりした。

相信会の会合のとき田崎さんにも会ったので、その辺のことも頼んだりしたが、
その時今年はモトGPに力を入れているので、という話であった。

「もてぎには応援に行く」と言っていた。


そんなことも忘れていたら、doppyさんから
「おめでとうございました。2位と7位に入賞でした。カワサキレーシングの素晴らしい采配が実ったレースでした。そして何よりも会長さん自身が応援に駆けつけられたようで、kawasakiの底力が発揮されたと思います。」との最高のお褒めのコメントを頂いてはじめて知ったようなことであった。

もてぎの建設中はまだ現役で、カワサキも松井田にサーキットを造ろうとその直接担当もしていたので、もてぎは完成前からコースレイアウトなどよく知っているのだが、実際のレースは見たことも無い。


忘れかけていたら、

今日、家に二輪車新聞の日本GP特集号が届いた。
特集だから、全て日本GPの記事である。

オートバイ誌の記者もしている衛藤さんとは50年のお付き合いだが、彼がまだ現役なので、二輪車新聞を今でも送ってくれるのである。

レース経過も結果も詳細に書いている。

カワサキのホームページも、その結果が載っている。

途中カワサキがトップを走っていたこともあったようである。
優勝はドゥカテイで2位カワサキ3位ホンダと入っているので、ホンダに勝ったのは大健闘である。


いまは誰がレース担当で、監督をしているのか知らないが、担当の方には心からお目でとうと申し上げたい。

直接担当した人でないと解からぬ、嬉しさである。
ほっとしたことだろう。


みんなどのチームも優勝を狙って、やってくるので優勝は勿論、表彰台もなかなか難しいのである。

2位に入ったピュニエは 「いい1日だった。すごく厳しいレースだったのでとてもハッピーだ。ハードに働いてくれたチームにも感謝している。」
といいコメントである。

来年は、優勝を目標にやれるだろう。

だが、ホンダもヤマハもスズキもカワサキにやられて、ハッパが架かっているはずだ。
だからレースは難しく、また面白いのである。

鈴鹿8耐30周年

2007-07-28 05:41:15 | M/Cレース
鈴鹿8耐がこの週末30周年の記念大会である。

朝日新聞なども連載で30年の8耐の歴史を振り返っている。
丁度その真ん中の1990年からの何年間か8耐のど真ん中にいたような、そんな夏を毎年経験していた。

鈴鹿に20万人近い人たちが押し寄せ、8耐が一番華やかだった時代である。

30年の歴史の中で、カワサキが優勝したのはたった1回、1993年7月25日、ラッセル、スライトのコンビで悲願の優勝を果たしている。



カワサキが耐久に弱かった訳ではない。むしろその逆である。
耐久の本場フランスのルマン24時間では当時2連覇を達成している。
そのフランスのチームをKAZEのスポンサードで何度か招んだりしたのだが、それでも勝てなっかった。

8時間の鈴鹿耐久レースは独特の高速耐久で、それなりに非常に過酷なレースだったのである。


当日の日記には、
「8耐ウイークがまだ梅雨の明けない異常気象で雨の心配のなかスタートした。----本当に優勝はあっけなく手中に入った。夜スポンサーのイトーハムや高橋鉄郎さんらと祝杯を挙げた。
日本航空高校チームの参戦などもあって、カワサキが8耐の話題を独占した。」と書いている。

そして、あけて26日の日記、
「独り鈴鹿から車で帰社、午後の営業報告会はシャンパンでの乾杯から始まった。
岩崎君が出席していなかったが、彼が一番ほっとしたと思う。モタースポーツ部が出来た年に優勝できてよかったと思う。----」とある。


当時、カワサキはレース界からも注目されていて、
スポンサーもイト-ハムやまんだい、
さらにはアート引越しセンターが「0123のゼッケン」で出場するなど話題を集めていた。
実現しなかったが、朝日でも紹介された千石さんが、「カワサキで」と島田しんすけと明石まで訪ねてくれたりした。

なんとしても優勝したかった頃である。
モータースポーツ部が出来て、岩崎茂樹君が部長で担当した。



今年の8耐に出発するチームの 「はらださん」 から先日。
「今から8耐に行ってきます。 岩崎さんもどこかで見てくれていると思います。」 とコメントが届いた。

カワサキが唯一優勝を果たしたときのマネージャー岩崎茂樹君も故人になってしまった。


でも、いろんな人がいろんな想い出を持っている鈴鹿8耐である。
30周年の記念大会の今年はどんな結果になるのだろうか。

カワサキ単車の昔話-68

2007-07-23 05:23:01 | M/Cレース
鈴鹿2&4



88年10月に国内担当に戻って、直ぐレースのOB会を開催した。
安良岡、岡部、梅津、星野など関東にいるライダーたちとも久しぶりに旧交をあたためた。
昔のレース関係者、当時の高橋鉄郎さんをはじめ大槻、田崎さんなど事業部のトップたちも参加して大いに気勢を上げたものである。

現役ライダーは、宗和、多田、塚本などが主力で、鶴田、北川がまだ若手であった時代である。
チームグリーンを中心にサテライトチームも入れて国内レースの活性化を図ろうとしていた。




明けて89年3月4日、鈴鹿サーキットで2&4という2輪と4輪が同時に開催されるレースがあって、
カワサキも宗和などが出場しTT、F1で宗和が3位に入賞などした。

4輪ではまだ星野も走っていて、星野インパルの金子豊君とも久しぶりに会った。
確か記憶が正しければ、片山右京も星野のチームに居たのではなかったかと思う。

このレースからカワサキの新しいレース活動が再開されたといっていい。
そんなレースで、しばらくレース活動の現場からは離れていたので、当時の鈴鹿の関係者の方たちにも改めてご挨拶をしている。

 

その翌年の3月4日にも同じく2&4が開催されている。

1年経って、レース活動の成果も出てこの年の2&4でカワサキは、
F1では優勝こそ逃したが、ドーソン、塚本、宗和が2,3,4位に入り、7位には北川が入って好成績であった。

F3では、サテライトチームとして活躍していたビートの和泉、高橋が1,2フィニッシュで優勝を飾った。


4輪のF3000では、星野一義君が優勝した。
若い頃、カワサキにいた星野の優勝は何度も現地で見ているのだが、4輪での優勝を見るのは始めてだった。

このレースには、星野がカワサキの主力になった当時のマネージャーだった故岩崎茂樹君も来ていたのだが、
星野はビクトリーランの最後にわざわざチームグリーンのパドックの前でマシンを止めてみんなと言葉を交わし、優勝の喜びをカワサキと分かち合ってくれた。


そんな2&4はカワサキはこの年までだったのか?
翌年は平成3年3月3日に札幌のショールームを開設する予定になっていて札幌にいたからか、何故か翌年には、2&4の記録は残っていない。

でも、私にとっては印象に残っている2&4であった。



コメントありがとう。

2007-06-19 05:31:57 | M/Cレース
松尾勇さんのことを書いたら、
メカニック仲間の藤原良さんと、当時のライダーの山本隆君からすぐコメントを頂いた。

良さんとは先日のZ1会のゴルフで、金谷秀夫や吉田和さんと一緒になり、
その時初めて、ブログを読んでくれているのが解ったのだが、コメントを頂いたのははじめてである。

松尾さんのことはいつか書こうと思っていた。
先日、良さんとゴルフで一緒になったのが、今回書いたきっかけとなった。

こんなレース仲間が読んでくれていることは、励みになるしコメントを頂くと、また書こうと思う。
レース仲間からは今までにも、大槻さん、山本君、田崎さん、ライダーの塚本君などからコメントを頂いたし、今回、藤原良弘君からも頂いた。

ただ、苧野豊秋、安藤吉朗、松尾勇、岩崎茂樹さんと同じ釜の飯を食った先輩や仲間たちが、この世を去られたことも悲しいことである。



山本隆君のコメントには、松尾さんとは芦屋の竹園でのOB会以来会っていなかった。
「早くOB会をやらぬと頭の毛ではなく頭数が少なくなりますよ」とある。


25周年のレースチームのOB会。1988年10月15日に芦屋の竹園で開催した。

その年の10月1日から3度目の国内販社担当となった。
国内対策の一番最初にレースのOBたちと一緒の会合を持って、
レースを重点施策の一つに位置づけてスタートしたいと思ったのである。

山田、苧野、中村、高橋、大槻、田崎さんらの既に会社の幹部になった人たちも、
北村、百合草、岩崎、大西など昔の仲間たちも、西海、松尾さんも平井さんも。
ライダーたちは安良岡、山本、岡部、梅津、金谷、和田から清原、星野の当時の若手から、現役では宗和、塚本など懐かしい連中が全て出席した。

この会のときは、当然私が主催する立場にあったし、お世話も出来たのだが、
山本だけでなく、清さんやいろんな人にOB会やりましょうと言われるのだが、なかなか難しい。

誰か現役に近い連中が、旗を振らぬと具体的に進まぬと思う。
もうあれから20年も経とうとしている、当然レースのOBの顔ぶれも増えている。

誰か、いい案はないですか。
未だ現役の田崎さん辺りが旗を振ってくれればいいのだが、少々偉すぎる。

山本隆君のコメントにそんなことを思っている、日曜日です。

カワサキ単車の昔話-64

2007-06-16 05:35:03 | M/Cレース
創生期のレースメカニック松尾勇さん


まだファクトリーのメカニックが製造部門に属していたホントに最初の頃、工場のヨコの通路を挟んで、小さなレース職場があった。
よく仕事をサボってレース職場に遊びに行ったものである。

松尾勇、福田弘美(ひょっとしたら下の名前違うかも)それに先日Z1会のゴルフで一緒に廻った藤原良弘君の3人だった。
みんな、松尾さん、福ちゃん、良さんと呼んでいた。

チーフメカニックの松尾勇さんは、カワサキのレースの指導的な立場にあった兵庫メグロの西海社長のところから、カワサキがレースをするということで移籍してきた。
オートレースの現場でたたき上げたメカニックとしての実力は誰もが一目も二目もおいたものだった。

マシンに関することは何でも出来た。
独特の語り口で喋りながらも手は動いて休むことなく、いろんな作業を仕上げていた。

当時の山本、歳森、星野などの若手は松尾さんから多くを学んだと思うし、
三橋や安良岡などのベテランも松尾さんにはアタマが上がらなかった。



一番印象に残っているのは、F21Mのクロモリのパイプフレームを作ったときである。
津軽の岩木山で行われた全日本を前に7台のマシンを一挙に揃えたのだが、
エンジンはB1ベースの238cc、フレームは全て松尾さんの手作りだった。

当時はスズキが久保、小島だけに2台のRHを持っていたが、
一挙に7台のマシンを揃えたのは、レース界の話題となった。
(このリンクした記事に関西オトキチさん、山本隆君がコメントをくれてON ANY SANDAに山本がF21Mで出場することになるのである。)

三橋、安良岡、山本、梅津、歳森、岡部、星野の7人の主力ライダーに7台のマシンが造られた。
1台1台造られたマシンも、この順番に作られたはずである。
当時のカワサキのライダーの序列で、星野一義はまだ新人の域であった。

この頃になると、メカニックの数も増えて、榎本、吉田君などが加わっていたが、最初からの三人がみんな印象に残っているようだ。

松尾さんは私が仙台に行ってからも、東北のレース関係をよく手伝ってくれた。
仙台にも何回も来てくれたし、当時東北のジュニアチャンピオンであった服部謙治君のマシンなどの面倒もみてくれた。

そんな思い出多い、業界でも名物メカニックだった松尾さんも今年亡くなった。
心からご冥福を祈りたい。




ずっと後、カワサキでは宗和、塚本、北川、鶴田の頃のレースチームもよく知っているが、
その頃になるとレースチームも技術部門の管理で、メカニックたちも昔の職場という雰囲気とは全然違ったものになっていた。

考えてみると、我々の時代は、
技術部はマシン特にエンジンの担当とレース現場での監督で大槻さん、安藤さん。

メカニックは生産部門所属で高橋さんや田崎さんの管轄で、
マシンに仕上げるのは松尾さん以下のメカニックの仕事だった。

レース予算やライダー契約、レース運営のスケジュールなどは私や大西健治君の担当だった。

その上には、山田えん明、苧野豊秋、中村治道さんと我々以上にレースに関心のある上司がいて、常にハッパがかかっていた。

まだ当時のカワサキは、商品もシェアも売上も、レース以外はホンダ、スズキ、ヤマハに勝てる、或いは対等に戦えるものは何もなかった、そんな時代であった。


そんな体制が、いい悪いは別にして、
専任ではないがレースが大きな比重を占めて携わっていたし、
何よりもレースが好きな人たちばかりが集まっていた。

そんなことで年をとってもレースを忘れられないし、集まればレースの昔話を楽しんでいるのである。




カワサキ単車の昔話-61

2007-05-26 05:29:16 | M/Cレース
 
 仙台時代ー3  モトクロスレース


仙台には1967年から4年間居たのだが、
この前半の2年間は、カワサキの国内モトクロスが最も充実していた黄金時代といっていい。

マシンもF21Mなどのほか 90,125ccも充実していたし、
メカニック陣も松尾勇さん以下経験豊かな人材が揃っていた。

何よりも、ライダー布陣が他メーカーを圧倒して、質量共に揃っていたのである。

神戸木の実の山本隆、歳森康師、
カワサキコンバットの梅津次郎、岡部能夫、星野一義、
ジュニアには清原明彦、従野孝司。
誰が優勝してもおかしくないメンバーであった。

その頃、東北は毎月のようにレースがあって、これらのライダーたちが大げさに言うと殆どのレースで優勝している。

例えば67年の東北でのレースの優勝回数は、私の日記の記録によると、
山本5回、星野6回、歳森3回、岡部3回、梅津2回と凄まじいし、
68年も同じような傾向で、更にジュニアに清原、従野の名前が出てきている。

たまたま67年は郡山、68年は札幌と、
MFJ日本グランプリが北で開催され観戦の機会に恵まれたが、

67年は90cc山本125cc星野、
68年は逆に90cc星野、125cc山本が優勝している。
250ccはこの頃からヤマハのDT1が登場して互角の戦いとなっている。

いずれにしても、初期のレース担当として契約やレース運営で苦労してきたが、
レースを離れて仙台に来て、花開いた時期のレースが目の前で展開されたのは感慨ひとしおであった。

仙台での後半は、優勝の回数は減少したが、
山本隆君による各県の白バイ隊員の指導や、
今の菅生の前身である宮城県の村田町に東北MFJに関係していた佐藤さんが個人で造った仙台テクニカルハイランドなどへの協力や、
ジュニアの東北チャンピオンであった服部謙治君への援助、などレース仲間との交流が多かったのである。
現在、星野インパル社長の金子豊君などもその頃はまだ秋田に居て、しょっちゅう出入りしていた。


仙台での4年間、レースばかりで遊んでばかりいた訳ではないが、レースに割いた時間は結構多かったと思う。
それが即販促に繋がったそんな環境であったし、デーラーの関心も高かった。


この時代に活躍した山本隆君がつい先日、三木のアネックスパークで開催されたヴィンテージモトクロス 「ON ANY SANDA」 で当時のマシンF21Mで、昔を彷彿させる走りを見せてくれたのは、私にとって40年前を懐かしく思い出させてくれた出来事であった。

山本隆のブログ ON ANY SANDA

2007-04-30 05:47:11 | M/Cレース
山本隆君のブログにON ANY SANDAの写真掲載でアップされている。

私は今のところ未だブログに写真掲載出来ない。

リンクは出来るようになったので、写真掲載のブログをアップしてくれたら、それをリンクすると、約束していたので。

山本君が当日乗ったBSA,なかなかエンジンが掛かりません。
ヨコに映っている年寄りは、私です。




もう一つ、Sunny Dayメンバーのブログで、当日の様子と私の話し相手を積極的にして頂いた貴島さんについて、立派な写真つきでどうぞ。



私のブログでは
 4月24日 ヴィンテージな走り 荒井市次、山本隆 (F21Mでの)
 4月25日 カワサキ単車の昔話 X-11 (貴島さんとの話に出た)
 に、当日の様子をアップしました。

ヴィンテージな走り、荒井市次、山本隆

2007-04-24 06:06:53 | M/Cレース

私にとって、これほど楽しい一日は久しぶりだった。

三木市のアネックスパークで行われた「ON ANY SANDA in ANNEX MIKI Park」というヴィンテ-ジモトクロスに行くことを楽しみにしていた。

カンサイオトキチクラブが主催したこのイベントは素晴らしく、期待を裏切らぬ楽しい時間を過ごさせて頂いた。

ダートスポーツでも紹介されて
「かっこいいバイクとかっこいい人たちが集う」ところまでは間違いないのだが、

果たして「昔かっこよかった人たち」が、今でも「かっこいい走りが出来るのだろうか」
これは実のところ、大いに心配していたのである。


ところがである。
元、全日本モトクロスチャンピオン、荒井市次70歳、山本隆63歳。
本当にその走りは素晴らしく、40年以上経った今も、昔のままと思えるレベルに近い走りを展開して、観る人みんなが驚いたと思う。

メインレースの浅間では、二人が他の出場者を完全にぶっちぎってのバトルを展開した。
二人の現役時代の凄さをよく知っている私には、昔そのままの荒井と山本がそこにいるように思えた。

トップで戻ってきた山本がちょっとコースを開けた,第一コーナーのインを果敢についてトップを奪い返した荒井を,裏のコースで山本がまたトップに立って戻ってくる、といった展開だった。
年齢とマシンの差が少しあって、最後は山本が昔のように片手ジャンプでゴールをしたのだが、
昔々の全日本チャンピオンは今でも尚健在で本当に観ている人を驚かせたのである。


他のレースもみんな楽しくよかったが、
特に、全日本レディスNO7のゼッケンで登場した現役の山本いずみさんが、並み居る男性ライダーを尻目にぶっちぎって優勝したのにはビックリした。

出場者のライダーたちはみんな家族や仲間たちの応援で、日本にもこんなスポーツ文化が定着してきたのを肌で感じた。
山本隆君は、息子さん夫婦とお孫さんや近所の山本ファンの応援で、
荒井一次君も昔の応援する仲間たちと一緒の出場だった。

会場には立脇君から提供された往年のファクトリーマシンも飾られて、ヴィンテージモトクロスの雰囲気を盛り上げていたが、更に、カワサキのはじめての市販レーサーB8Mや85J1MそしてF21Mなど、
私にとっては思い出多い懐かしいマシンがいっぱいで、それを観るだけでも楽しかった。


レースもマシンも良かったが何にも増して一番は、
レースをこよなく愛する同じ想いの人たちとの楽しい会話であった。

このイベントの主催者の高下さんとも、ブログを通じての繋がりで始めてお目にかかったのだが、もう何年も前からの知人のような会話がはずんだ。

いろんな人の名前が話題に上がり、スムースに会話が広がる、同じ世界の空気を吸った仲間たち。

荒井君とも、ホントに久しぶりでトレーニングでずっとバイクに乗っているとか、とても70歳とは思えない身体で、話しぶりも昔のまだった。
レース直後、「山本と走れて楽しかった」の一言、実感がこもっていた。

ON ANY SANDAというこのイベントの名前の由来を、
「スティーブ、マッキーンのON ANY SUNDAYという栄光のライダーを最初の開催地、三田にもじって付けられているのだ」と説明してくれたのは、主催者の高下さんではなく山本隆君であった。
講釈師、山本隆はここでも昔のままだった。


昔の雑誌からコピーした
「名門神戸木の実のマークのヘルメットで、F21Mに乗る山本隆のサイン入り写真」が賞品として用意されていたが、それを記念に1枚頂いた。

「時として、こんな具合に後輪が流れ出す。ライダーは逆ハンを切って修正し、マシンを立て直す。舌打ちするひまもない。」

 とかっこよくコメントされている。
 レースをお解かりの方なら即座にイメージできる、かっこいい写真である。


高下さん、本当に有難うございました。また、次回を楽しみにしています。


オマケ。

山本隆君、ブログはノービスですが、
当日サウンドオブサンダに出場した時乗った「BSA441の写真」が載っている彼のブログ見つけましたので、見てコメントしてあげて下さい。


ヴィンテージMX、ON ANY SANDA

2007-04-20 07:25:05 | M/Cレース
昨日、ブログのアクセス数が増えた。
何故かと思って、アクセス解析でURLを調べると、ダートスポーツに紹介されているのである。

今度の日曜日、MIKI ANNEX Parkで7年目を迎えるカンサイオトキチクラブ主催のヴィンテージMXがあって、このブログで出会ったカンサイオトキチクラブからも是非来て下さいとお誘いを受けていた。
山本隆君がF21Mで出場するというので、久しぶりに独特のノイズとほこりを楽しもうと観戦を予定していた。

先日,大阪で行われたMFJ関西ふれあいミーテングのとき山本隆君にもお会いしたが、還暦を既に迎えた今も口だけは昔のままの「講釈師、山本隆」のままだったが、そんな彼が果たしてどんな走りをするのか、本当に楽しみである。

ダートスポーツの記事によると、荒井市次君も来て走るという。
荒井君とはもう10年も前になるが、KAZEのスーパーバイカーズが姫路のサファリーパークであったとき出場してくれていて、その時以来だが昔の面影が残っているだろうか。

ダートスポーツの記事には「かっこいいバイクが集合するのだろうなと思ったら、かっこい人も来るらしい」と紹介されている。
いずれにしても、二人とも抜群の実力を誇った全日本チャンピオンである。「かっこいい人」のイメージを崩さぬ「かっこいい走り」を期待したいものである。


このイベントの正式名称が「ON ANY SANDA 春の祭典 in ANNEX MIKI Park」ということも始めて知った。

ボランテアだけで運営されるこうした楽しい催しはいいものだ。

三木市では西日本で最大の規模と言われるBUG IN MIKIも5月末ごろには道の駅みきで7回目の開催とか。1万人の人たちが集まって楽しむようである。

三木には金物祭りとか伝統のお祭り行事も多いが、BUG IN MIKIとかON ANY SANDAin ANNEX Parkのように若い人向けの新しいイベントも「新しい三木のイメージ創造」には格好のイベントと思うのだが。

三木には、みっきいマラソンもあるし、国体をやったテニスコート、サッカー場と抜群の施設もいっぱいである。

立地も大阪と姫路を定規で結ぶと三木を通るのはご存じない人が多いと思うが、イベントを行う一つの条件、その立地にも環境にも恵まれている。

「ON ANY SANDA in ANNEX MIKI Park」が新しい三木のイメージを造る楽しいイベントに成長することを期待したい。



今朝、この記事をアップしようと思っていたら、山本隆君から先日このブログで書いたジェットスキー開発物語にコメントが入った。
「J/Sは他のMXライダーは乗れなかったが、私は始めてでも上手く乗れて、ジャンプまで出来ました。」とある。
野球など丸いものの球技は、からっきし下手糞だが、オートバイや自転車などの乗り物は信じられないほど上手いことは認める。
それを独特の語り口で喋るのを人は「講釈師」と呼ぶのである。
J/Sの短いコメントのなかにもそれが見られる。
興味のある方は,覗いて見て下さい。

三宅島オートバイレース大会-2

2007-04-16 05:54:52 | M/Cレース
先日、三宅島オートバイレースについて私見を申し上げたら、「弁天小僧」さんからコメントを頂いた。

私も忘れていたが、以前「ゼファーの終焉」というブログでコメントをさして頂いた方である。
書かれているブログは、「行く道は風なりオープンくるま生活」と題してくるまや二輪について記述されている。

どれも、車や二輪の造詣が深く中味が濃くて非常に面白い。発想がユニークで素晴らしい。


その弁天小僧さんから、三宅島のレースについて次のようなコメントを頂いた。

「盛岡のイーハトーブ、トライアルのように末永く継続的に開催していきたいものです。
次世代燃料を見据えた革新性が必要な気がします。いかがでしょう。」
というものだった。

イーハトーブ、トライアルも知らなかったし、コメントの後半の意味を確かめたくて、もう一度、弁天小僧さんのブログを訪ねてみたら、
日本版マン島TTレース、その成功の鍵は?編」を見つけた。
是非ご一読をと思うが簡単にご紹介すると、

「マン島が100年の歴史と化石燃料を燃やして走る二輪車レースでその産業の発展に大きく寄与したのなら、次の世代を見据えた取り組みをしてこそその存在意義があるというもの。今更マン島のまねでもないでしょう」

そして、ドリームカップのソーラカーレースや電動スクーター、パッソル24H耐久とか、岩手県盛岡で31年続いているイーハトープ、トライアルなどと続くのである。


レースもいろいろある、少なくとも世界一、日本一の速さを競うものでないことは確かなのだから、アタマを使って何か考える。知恵を出すべきと思う。

「ただ反対」ではなしに将来夢のある、永く続く発想での検討が必要である。
「コンセプトやレースの内容」の検討「参加者の態度」こそが最も大事なことだと思うと先日も述べた。


弁天小僧さんの発想は、ホントに次の世代を見据えていて非常に面白いと思う。
今年の11月にすぐ出来るかという問題もあるが、このような方向を見据えながら単に早く走るのではなく、楽しい永く続くイベントに育てて欲しい。

そのためには、中止するのではなく「知恵を絞って開催する」方向が大事だと思うのである。
とにかく、現役の関係者は頑張って欲しいのである。


今回はコメントを頂いてそれがきっかけで「三宅島レース」に言及した
それにまたコメントを頂いて、今日また更新している。

また一つ知識も増えた。
ブログのもつ双方向の情報発信や広がり、ブログの面白さである。


三宅島オートバイレース大会

2007-04-12 06:00:54 | M/Cレース
ハゲアメリカーナというきれいなブログの持ち主から、
「石原都知事再選が決まりましたが、三宅島バイクレースについて、どのようにお考えでしょうか?コメント頂ければ幸いです。」というコメントを頂いた。

三宅島のオートバイレースについては、このニュースが出始めた1月29日に感想を書き、山本隆君がそのコメントで「私も賛成ですが、反対もあるようですよ」とコメントしてくれている。

今は傍観者の立場なので、そんなに確りした意見を持ち合わせている訳でもないが、少し纏めて最近の想いを述べてみたい。


私自身、昔のことだがレースには色濃く関係をした。
公道レースのメッカ、マン島TTレースでは、藤井敏雄君を事故で亡くしている。
「カワサキ、デグナーの想い出」のコメント欄でそれについて触れている。

国内のJJSBAのジェットスキーレースでも、残念ながら何人かの方を事故で亡くした。

そんな悲しい想い出を有している。事故は大変なことである。
安全に気を配った運営やコース設定は、レース運営の当事者が最大の配慮をしなければならぬのは当然のことである。

そういう意味で、三宅島のオートバイレースが「開催できる素地があるかどうか」は、都をはじめ地元の関係者など主催者は万全の検討をしなければならない。

その検討のために、「マン島での現地調査をはじめ、種々の検討がなされた上で決定された」 と受け止めている。また、三宅島の復興などの観点からも行政は検討し、地元がそれを望んだものと思われる。


計画が発表されて以降、反対意見も強いようである。
多分その理由の一番は「危険」「事故」ということであろう。

このイベント自体が「無意味である」とか、「楽しくない」とか、「三宅島の復興の役に立たない」というのであれば、それには耳を貸さねばならないと思う。


世の中の、楽しいイベントは「すべてが安全である」とは限らない。
むしろ「危険」を伴ったものは多いのである。

日本の伝統的なお祭りの中にも、危険いっぱいの、現実に事故を伴うものも多い。
世界で行われている二輪、四輪の公道レースやラリーなどを見ても、それが安全であるから行われている訳ではない。
危険いっぱいなのである。

然し、それらが続けられているのは、危険ではあるかも知れないが出場したい参加してみたいという人たちも、そのスリルを観て楽しみたいという観衆も、必ずいるのである。
お祭りとか、イベントとは本来そのような性格のものである。

そしてそれらが永い歴史を重ねていくと、伝統行事となって暗黙のうちに世の中が認めるようになるのだと思う。


残念ながら、三宅島オートバイレースには歴史も伝統もない。
今新たな1ページを開こうとしているのである。

参加する人は自分の意思で、ある程度の危険も承知でエントリーをするのである。
全くの素人ではなく、コースの危険度は判断できる人たちである。
エントリーが皆無なら、レースは当然ながら成り立たない。

レースはその着順を争う競争ではあるが、むやみやたらにただ突っ走っている訳でもない。
安全に転倒しないように危険を避けて、結果の着順を争う競技である。

大体このような議論は、反対する方が正義のように見える。
レース経験のあるライダーたちも公道レースを数多く経験している訳でもないだろう。
ただ、公式に意見を求められたら「NO」と言う方が無難である。普通の人は若し意見を求められたら「NO」と言うだろう。

開催やその内容を決定するのは、あくまでも開催の当事者であって欲しい。


その昔、FISCOではじめて二輪の日本GPが開催されたとき、ホンダは強行に危険を主張し自ら参加を辞退した。
Hを除く、S,Y、BS,Kの参加で開催されたのだが、
後ホンダが主張したようにFISCOの「須走り落し」は危険すぎるということでコースの改造がなされた。
当時のMFJ運営委員の一人としてその経緯を思い出すが、今思えば流石ホンダの見識だったと思う。
危険ヶ所の修正や、変更は後からでも可能なのである。


三宅島オートバイレースが永く伝統行事として継続するかどうかは解らない。

全てのイベントには、それを待ち望む多くの人がいる。

オリンピックマラソンならともかく、東京マラソンでも、2時間10分を目指して走るのはほんの僅かの人たちで、大部分の人たちはその参加を楽しんでいるのである。

オートバイレースもやりようはいっぱいある。
三宅島のこのコースで、世界一、日本一早いライダーを競うのではないことは明白である。
「コンセプトやレース内容」の検討、「参加者の態度」こそが、最も大事だと思う。

もっと、建設的な意見があってもいいと思うのだが。
「危ないから」だけで、「とにかく反対」は、どうも頂けないと思うのである。

私と同年代で、何となく応援している石原都知事には初志貫徹してとにかく第1回の大会だけは開催して欲しいと願っている。
その結果でまた、いろんな知恵が出てくるのだと思う。

私のように、傍観者の立場で何となく「やってくれたらいいな」と思っている人たちも多い筈である。
でも、積極的に意見は述べたりはしない。何となく述べにくいのである。
今回はハゲアメリカーノさんからコメントがあったので、敢えて想いを書いてみました。

ハゲアメリカーノさん

SPA直入物語ー5 昔話ー44

2007-03-21 05:56:45 | M/Cレース

SPA直入物語ー5

起工式から丁度1年後の1990年4月15日、SPA直入はオープンイベントで幕を開けた。

金谷、和田、清原、宗和などカワサキに関係したライダーたちが参加してくれてイベントを盛り上げてくれたが、主役は何といっても自分の愛車に乗って集まってくれたユーザーたちだった。

その数4000人。広いと思っていたパドックが埋まってしまった。

岩屋万一直入町長は開会セレモニーで、
「今日、有史以来一番大勢の人が直入町を訪れた。」と挨拶された。

愛車に乗って直入を訪れたユーザーたちが、その車でサーキットを体験走行したのである。
先導をつけたものではあったが、切れることなく続いた走行はまさに壮観であった。

これは日本で始めての試みであった。

これを機会に各地のサーキットでも一般ユーザーの走行会などが開催されるようになったのだが、その皮切りの役目をSPA直入は果たしたのである。

建設当初からレースだけでなく、
「一般の人たちも気軽に走れるサーキット」というコンセプトでイベント当日だけでなく、「インジョイライデング」などと称してその後も一般ライダーに開放する時間帯を設けたりしたのである。


地元直入町にもいろんな意味でお役に立てたと思う。
もともと、温泉で有名であったがSPA直入ができて若者も集まるようになり、温泉だけでなくモータースポーツのサーキットのある町というイメージも生まれた。

芹川ダムのジェットスキーもプラスになった。
特に、後年カワサキといろんなことで関わりのあった岩城滉一がジェットスキーで芹川ダムに、レーサーでSPA直入を好んで訪れるようになった。

今、人気の宿房「翡翠之荘」がスタートしたばかりの頃で,その主、首藤文彦さんとも仲良くなって岩城滉一の定宿となったのである。

SPA直入と時を同じくして建設されたオートポリスもご縁があって、今カワサキのサーキットになってKMJがマネージメントを担当している。

その責任者の渡部達也君は、直入とも深く関係があった。
機会があれば是非訪ねてみたい懐かしい思い出いっぱいの、今は竹田市直入町である。