雨で片頭痛が止まらないren.です。
脳みそ取り出して、冷水で洗えたら、どんなに気持ちがいいだろう。
さて、大詰めの「地球へ…」。
ここにきて、大きく原作を覆すサプライズがありました。
「出生をコントロールしているはずのS・D体制下で、なぜミュウが生み出され続けるのか」
大マザーへ疑問を投げかけるキース。
これは、キースの信念であるS・D体制の確かさへの疑問です。
この疑問を持つこと自体が、地球の再生、ひいては人間社会の秩序を守るマザーへの背信行為でもあります。
こうしたアンビバレンツが、キースの魅力なのですが、アニメではここまで表に出ることがありませんでした。原作ではナスカ事件の頃には抱いていたものだったのですがね。
おかげで、アニメのみの視聴者には、キースがただの悪役のように印象付けられてしまう傾向にあったのは、大変残念です。
もう一つ、キースの持つ疑問……というより、確認したいこと。
フィシスはキースにとって、遺伝子上の母です。彼女ら試験体によって、異常や不安定を改良されてきたDNAが、キースという存在です。
人類。ミュウ。人造生命……。
ここで、全ての人間(DNA)関係がはっきりとしました。
つまりアニメでは、ブルーはフィシスの子に殺されたことになります。
これはなかなか深い関係ではないでしょうかね。
アニメでは、ジョミーの絶望が描かれなかったこともあり、フィシスの魅力もほとんどみせられていないことが大変残念。おかげで出番自体も少なくなってしまっています。
「地球へ・・・」の作品上、彼女の存在感は大きいはずなのですが……。
さあ、ついに地球へとたどり着いたミュウ。
原作では、地殻変動や気象変化は不安定ながらも、自然環境の再生が進んでいた地球ですが、アニメの地球はまるで「宇宙戦艦ヤマト」冒頭のように、赤くただれた大地に。
うーむ……まあ、現代的なアレンジかもしれませんが、これってかなり思い切った改変ですよね。
厳しい旅を続けてきたミュウの苦難が、ここで少しでも報われるというシーンであるのですから。確かに「こんなもののために」犠牲を強いてきたのは、かなり残酷な事実。
その割りに、結構アッサリと地球へと降り立ってしまったのは、なんだか拍子抜け。もしかして、サプライズを用意したのに、尺が合わなくなっちゃった?(邪推
その地上が浄化されたときに、住民となるべき子供たち……カナリヤ。
カナリヤという鳥は大変繊細な種で、外的なストレスに弱く、すぐ死んでしまいます。特に毒物に対しては敏感なため、毒ガス検知に使用されることがあります。
そういう意味や比喩も、ここには含まれているのでしょうね。
ちなみにこの子供たちは、アニメオリジナル。
ミュウが地球に降り立ったことで、人類のマザーへの依存性が際立ちます。
偏見で膨らむミュウへの恐怖でおびえる民衆は、マザーの癒しを求めます。
マザーに思考だけでなく、感情すらコントロールされている人類。
それを外れているミュウの、至極まっとうな疑問と訴え。
それを理解できる立場であるキースの自嘲。
ミュウが求めるのは唯一つ。ミュウという種の生存権。
長い旅の中で、ブルーがこだわった地球への思慕という鎖は断ち切られようとしています。それがジョミーの決断でした。
しかし、S・D体制は……マザーはそれを許しません。なぜでしょう……?
まあ、原作でもそれは、最後の最後までお預けだったんですけれど(w
平行線に入る会談。
ついにキースの呼び水により、ジョミーが大マザーに直接謁見することになります。
アニメ版ではキースの「……サムが死んだよ」が、大変よかった!
原作との差異に驚き、戸惑った「地球へ…」も次回、ついに最終回。
個人的には、さらに大きく裏切ってくれると嬉しいのですが。それが原作モノの醍醐味だよね。
それにしても、最期に現れた大マザー。
私の目には、たがみよしひさの「GREY」のナゴシに見えました(w
マイナーすぎか(w
でも、この物語も「地球へ…」のイメージが強い作品です。興味のある方は最近文庫版が出たので、ぜひ。
豆知識は、ひとつだけ。
来週のタイトル「地球の緑の丘」は、ロバート・A・ハインラインのSF短編のタイトルです。そうきたかぁっ!!
脳みそ取り出して、冷水で洗えたら、どんなに気持ちがいいだろう。
さて、大詰めの「地球へ…」。
ここにきて、大きく原作を覆すサプライズがありました。
「出生をコントロールしているはずのS・D体制下で、なぜミュウが生み出され続けるのか」
大マザーへ疑問を投げかけるキース。
これは、キースの信念であるS・D体制の確かさへの疑問です。
この疑問を持つこと自体が、地球の再生、ひいては人間社会の秩序を守るマザーへの背信行為でもあります。
こうしたアンビバレンツが、キースの魅力なのですが、アニメではここまで表に出ることがありませんでした。原作ではナスカ事件の頃には抱いていたものだったのですがね。
おかげで、アニメのみの視聴者には、キースがただの悪役のように印象付けられてしまう傾向にあったのは、大変残念です。
もう一つ、キースの持つ疑問……というより、確認したいこと。
フィシスはキースにとって、遺伝子上の母です。彼女ら試験体によって、異常や不安定を改良されてきたDNAが、キースという存在です。
人類。ミュウ。人造生命……。
ここで、全ての人間(DNA)関係がはっきりとしました。
つまりアニメでは、ブルーはフィシスの子に殺されたことになります。
これはなかなか深い関係ではないでしょうかね。
アニメでは、ジョミーの絶望が描かれなかったこともあり、フィシスの魅力もほとんどみせられていないことが大変残念。おかげで出番自体も少なくなってしまっています。
「地球へ・・・」の作品上、彼女の存在感は大きいはずなのですが……。
さあ、ついに地球へとたどり着いたミュウ。
原作では、地殻変動や気象変化は不安定ながらも、自然環境の再生が進んでいた地球ですが、アニメの地球はまるで「宇宙戦艦ヤマト」冒頭のように、赤くただれた大地に。
うーむ……まあ、現代的なアレンジかもしれませんが、これってかなり思い切った改変ですよね。
厳しい旅を続けてきたミュウの苦難が、ここで少しでも報われるというシーンであるのですから。確かに「こんなもののために」犠牲を強いてきたのは、かなり残酷な事実。
その割りに、結構アッサリと地球へと降り立ってしまったのは、なんだか拍子抜け。もしかして、サプライズを用意したのに、尺が合わなくなっちゃった?(邪推
その地上が浄化されたときに、住民となるべき子供たち……カナリヤ。
カナリヤという鳥は大変繊細な種で、外的なストレスに弱く、すぐ死んでしまいます。特に毒物に対しては敏感なため、毒ガス検知に使用されることがあります。
そういう意味や比喩も、ここには含まれているのでしょうね。
ちなみにこの子供たちは、アニメオリジナル。
ミュウが地球に降り立ったことで、人類のマザーへの依存性が際立ちます。
偏見で膨らむミュウへの恐怖でおびえる民衆は、マザーの癒しを求めます。
マザーに思考だけでなく、感情すらコントロールされている人類。
それを外れているミュウの、至極まっとうな疑問と訴え。
それを理解できる立場であるキースの自嘲。
ミュウが求めるのは唯一つ。ミュウという種の生存権。
長い旅の中で、ブルーがこだわった地球への思慕という鎖は断ち切られようとしています。それがジョミーの決断でした。
しかし、S・D体制は……マザーはそれを許しません。なぜでしょう……?
まあ、原作でもそれは、最後の最後までお預けだったんですけれど(w
平行線に入る会談。
ついにキースの呼び水により、ジョミーが大マザーに直接謁見することになります。
アニメ版ではキースの「……サムが死んだよ」が、大変よかった!
原作との差異に驚き、戸惑った「地球へ…」も次回、ついに最終回。
個人的には、さらに大きく裏切ってくれると嬉しいのですが。それが原作モノの醍醐味だよね。
それにしても、最期に現れた大マザー。
私の目には、たがみよしひさの「GREY」のナゴシに見えました(w
マイナーすぎか(w
でも、この物語も「地球へ…」のイメージが強い作品です。興味のある方は最近文庫版が出たので、ぜひ。
豆知識は、ひとつだけ。
来週のタイトル「地球の緑の丘」は、ロバート・A・ハインラインのSF短編のタイトルです。そうきたかぁっ!!