師走の忙しさで、長い間更新をサボってしまい申し訳ございませんでした。一昨年に私が書いた記事「日本の植民地支配と東アジアの林業」という記事に対し、最近、素里奈さんから以下のようなコメントをいただきました。
****<素里奈さんのコメントの引用>*****
日韓や日中関係を一方の当事者の目から「對」でみるよりも、第三者の目でみれば、お互いがもっとよく分かる。韓国から日本を見れば悪魔に見え、日本から韓国を見れば、遅れて野蛮に見えるかももしれない。だが、それでは、まともな説明にならない。
隣国に住む者として日本の存在は大きい。「日本の植民地になった方が得だ」と言われて、朝鮮は植民地にされた。だが、それは他の帝国主義国の支配より苛酷だった。日本自身が貧しかったから朝鮮を激しく収奪した。
(以下参照者の私見)
そればかりか、日本はただ収奪するに止まらず、施政方針にも問題があった。
例:英国と日本との口約によって、片やインドを、一方日本は朝鮮半島を手中に入れたが、両者のやり方は、天と地の違いを見た。前者は、如何なる場合も話し合いで事を処した、その延長線上にガンジーの「無抵抗の抵抗」が生まれる余裕があり・・・
(後略)
*******<引用終わり>*********
以上のコメントに対する私のコメントを、若干の修正の上で新規記事として投稿させていただきます。
素里奈さま (関)
あまりの多忙さにブログを放置しておりました。返信が遅れてまことに申し訳ございませんでした。
>それは他の帝国主義国の支配より苛酷だった。日本
>自身が貧しかったから朝鮮を激しく収奪した。
もちろん日本のやったことは決して許されないと思います。日本人が大韓帝国を植民地化したことは恐ろしく恥ずべき行為であり、それに関しては、一部を除く多くの日本人が罪の意識を共有しています。一部の政治家の心無い言葉が韓国の人々を傷つけています。それについては一日本人として謝罪いたします。そういう恥ずかしい政治家を擁する政党が一刻も早く政権から退場するよう、行動するしかありません。
しかし、日本は西洋の帝国主義諸国同様にひどかったとは思いますが、「それよりひどかった」とは思いません。私は歴史学者ではありませんが、私の考えを述べさせていただきます。
多分、素里奈さんは、西欧が植民地で何をやってきたのか、十分にご存知ないのです。例えば、私が思いつく文献というと下記のようなものがあります。ぜひご一読ください。
・ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』岩波文庫
・フランツ・ファノン『地に呪われたる者』みすず書房
・藤永茂著『「闇の奥」の奥』三交社
これらの文献では、それぞれスペイン、フランス、ベルギーの各時代における蛮行が詳述されています。いずれも、あまりの恐ろしさで背筋が凍りつきます。イギリス帝国主義は、スペインやフランスやベルギーに比べると残虐さは若干はマシかも知れません。そうは言ってもやはり非道さは変わらないと思います。
>英国と日本との口約によって、片やインドを、一方
>日本は朝鮮半島を手中に入れたが、両者のやり方
>は、天と地の違いを見た。前者は、如何なる場合
>も話し合いで事を処した、その延長線上にガンジー
>の「無抵抗の抵抗」が生まれる余裕があり
英国と日本の植民地統治の間に「天と地の違い」があるといった歴史的事実ないと思います。
また、イギリスは19世紀初頭からインドの支配権を確立しています。英国の方は、日英同盟の締結にあたって「インドと朝鮮半島の支配権の交換」といった認識を持っていなかったと思います。英国としては、ロシアに朝鮮半島を奪われるよりは、日本に支配させた方が英国の利益になると思っただけでしょう。
明確な交換条件であったのは日米のあいだです(1905年の桂・タフト協定)。アメリカは1898年からフィリピンを侵略し、フィリピンの独立勢力を20万人以上虐殺して植民地化しました(日本が韓国にやったことの比ではない残虐さでした)。
残念ながら日本が政府としてフィリピンの独立運動を支援することはありませんでしたが、当時の日本人の中には、フィリピンの独立を支援する空気が強かったのです。
アメリカもフィリピンでひどいことをやり、日本も韓国でひどいことをやりました。そこで、日本政府はアメリカのフィリピン領有を黙認するのと引き換えに、アメリカ政府に日本の韓国支配を認めさせました。日米は、それぞれお互いにひどいことをやって、それぞれ後ろめたかったのです。そこは新興の帝国主義国同士。それぞれの非道なふるまいを相互に黙認し、免罪し合ったというわけです。
しかしです。アメリカ統治下のフィリピンといえば、サトウキビ、マニラ麻、ココナッツ、木材などのアメリカへの輸出向け一次産品ばかりを生産するモノカルチャー経済を押し付けられました。
日本統治下の朝鮮半島はまがりなりにも工業化しています。それが違いです。
西洋のアジア植民地はどこも一次産品偏重のモノカルチャー経済しか許されませんでした。西洋はアジアにおいて、一次資源と一次産品を収奪することにしか興味がなかったからです。
もちろん日本がやったことが免罪されるわけではありません。しかしどうか、西欧がアジアで何をやったのかは十分に勉強してください。
「イギリスは如何なる場合も話し合いで事を処した」とおっしゃいますが、アヘン戦争が何故起こったのか知っていますか? イギリスは話し合いよりも武力に訴えることを好んだ国でした。
イギリスは19世紀初頭、インドに自由貿易を押し付けて、インドの発達した木綿産業を壊滅的に破壊しました。裕福だったインドは一瞬で貧困・失業のどん底と飢餓地獄に陥れられたのです。「失業した木綿職工の骨はインドの大地を白くしている」とイギリス人が本国に報告しているくらいなのです。
木綿産業が崩壊したインドにおいて、イギリスが生産させたのがアヘンでした。そのアヘンを中国に売りつけて、中国を中から腐らせた上で引き起こしたのがアヘン戦争です。インド経済を崩壊させたときと同様、「自由貿易」が錦の御旗になりました。清朝がアヘン輸入を規制するのは自由貿易の原理に反するというわけです。清朝がアヘンを規制する以上、話し合いも何もなく、問答無用で武力に訴えたのです。まさに悪魔の所業というしかありません。インドも中国も、「自由貿易」を掲げるイギリスの侵略を受けて伝統的な地場産業と産業構造を破壊され、失業と貧困と麻薬中毒を強制されたのです。日本が朝鮮半島と台湾で行ったことは、これほどまでに非道だったでしょうか?
日本の場合、創氏改名など別の次元での非道さはありました。しかし、少なくとも植民地での経済政策に関しては西洋と日本の帝国主義には違いが見られます。一次資源の供給基地としてしか見なかったのか、殖産興業を試みたのかの違いです。
アヘン戦争当時、日本は幕末でした。韓国と同じく儒教道徳が深く浸透した当時の日本人にとって、イギリスが行ったアヘン戦争は、驚天動地の許しがたい蛮行でした。日本人の多くは激怒し、この蛮行を行ったイギリス人を憎み、いわゆる尊皇攘夷運動が始まったのでした。
儒教道徳に照らして許しがたい西欧の横暴に対し、当時の日本の先進的知識人は次のように考えました。科学技術の水準では西欧人には決してかなわない。それは認め、彼らの進んだ技術を摂取するしか方法はない。その上で、このように平然と侵略戦争を行う価値観は決し許してはならない。儒教道徳・東洋の王道思想を堅持して、西洋の野蛮な侵略性と戦わねばならないと。
しかしそう考えた人々(例えば佐久間象山とか横井小楠)は、皆、幕末の動乱の中で暗殺されました。残った明治政府の政治家といえば、ひたすら西欧を模倣すればよいのだと安直に考える小者ばかりだったのです。それで日本から儒教道徳はうすれ、西洋のマネをするばかりで、ついに野蛮な侵略性までマネるようになってしまったのです。
かくして日本も、英国がインドや中国に行ったようなひどいことを大韓帝国に対して行ってしまいました。でも英国同様ひどかったが、英国のマネをしてそうなったのであって、決して英国よりひどかったとは思いません。先例を作ったのはあくまでもイギリスなのです。
少なくとも江戸時代の日本人の道徳観念では、アヘン戦争のような蛮行は決して許せないことでした。それが東洋道徳です。
アジア人同士、お互いに「お前は醜い」と罵倒し合うのは止めましょう。それこそ西洋人の思うツボです。事実は、東洋の方が道徳的に優れていて、西洋の方が野蛮だったのです。日本は残念ながら、その野蛮な西洋をマネちゃったから変になってしまったのです。
西洋人の偏見に満ちた歴史言説を受け入れて、彼らの価値基準に従って、アジア人同士が「お前はより遅れている」などとお互いに叩き合うのはやめましょう。
私利私欲を礼賛する米英の野蛮な価値観を拒否し、仁義礼智信徳孝恕の東洋思想に回帰しましょう。「利」よりはるかに大事なのは「義」です。それが東アジア共同体の核になると思います。
****<素里奈さんのコメントの引用>*****
日韓や日中関係を一方の当事者の目から「對」でみるよりも、第三者の目でみれば、お互いがもっとよく分かる。韓国から日本を見れば悪魔に見え、日本から韓国を見れば、遅れて野蛮に見えるかももしれない。だが、それでは、まともな説明にならない。
隣国に住む者として日本の存在は大きい。「日本の植民地になった方が得だ」と言われて、朝鮮は植民地にされた。だが、それは他の帝国主義国の支配より苛酷だった。日本自身が貧しかったから朝鮮を激しく収奪した。
(以下参照者の私見)
そればかりか、日本はただ収奪するに止まらず、施政方針にも問題があった。
例:英国と日本との口約によって、片やインドを、一方日本は朝鮮半島を手中に入れたが、両者のやり方は、天と地の違いを見た。前者は、如何なる場合も話し合いで事を処した、その延長線上にガンジーの「無抵抗の抵抗」が生まれる余裕があり・・・
(後略)
*******<引用終わり>*********
以上のコメントに対する私のコメントを、若干の修正の上で新規記事として投稿させていただきます。
素里奈さま (関)
あまりの多忙さにブログを放置しておりました。返信が遅れてまことに申し訳ございませんでした。
>それは他の帝国主義国の支配より苛酷だった。日本
>自身が貧しかったから朝鮮を激しく収奪した。
もちろん日本のやったことは決して許されないと思います。日本人が大韓帝国を植民地化したことは恐ろしく恥ずべき行為であり、それに関しては、一部を除く多くの日本人が罪の意識を共有しています。一部の政治家の心無い言葉が韓国の人々を傷つけています。それについては一日本人として謝罪いたします。そういう恥ずかしい政治家を擁する政党が一刻も早く政権から退場するよう、行動するしかありません。
しかし、日本は西洋の帝国主義諸国同様にひどかったとは思いますが、「それよりひどかった」とは思いません。私は歴史学者ではありませんが、私の考えを述べさせていただきます。
多分、素里奈さんは、西欧が植民地で何をやってきたのか、十分にご存知ないのです。例えば、私が思いつく文献というと下記のようなものがあります。ぜひご一読ください。
・ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』岩波文庫
・フランツ・ファノン『地に呪われたる者』みすず書房
・藤永茂著『「闇の奥」の奥』三交社
これらの文献では、それぞれスペイン、フランス、ベルギーの各時代における蛮行が詳述されています。いずれも、あまりの恐ろしさで背筋が凍りつきます。イギリス帝国主義は、スペインやフランスやベルギーに比べると残虐さは若干はマシかも知れません。そうは言ってもやはり非道さは変わらないと思います。
>英国と日本との口約によって、片やインドを、一方
>日本は朝鮮半島を手中に入れたが、両者のやり方
>は、天と地の違いを見た。前者は、如何なる場合
>も話し合いで事を処した、その延長線上にガンジー
>の「無抵抗の抵抗」が生まれる余裕があり
英国と日本の植民地統治の間に「天と地の違い」があるといった歴史的事実ないと思います。
また、イギリスは19世紀初頭からインドの支配権を確立しています。英国の方は、日英同盟の締結にあたって「インドと朝鮮半島の支配権の交換」といった認識を持っていなかったと思います。英国としては、ロシアに朝鮮半島を奪われるよりは、日本に支配させた方が英国の利益になると思っただけでしょう。
明確な交換条件であったのは日米のあいだです(1905年の桂・タフト協定)。アメリカは1898年からフィリピンを侵略し、フィリピンの独立勢力を20万人以上虐殺して植民地化しました(日本が韓国にやったことの比ではない残虐さでした)。
残念ながら日本が政府としてフィリピンの独立運動を支援することはありませんでしたが、当時の日本人の中には、フィリピンの独立を支援する空気が強かったのです。
アメリカもフィリピンでひどいことをやり、日本も韓国でひどいことをやりました。そこで、日本政府はアメリカのフィリピン領有を黙認するのと引き換えに、アメリカ政府に日本の韓国支配を認めさせました。日米は、それぞれお互いにひどいことをやって、それぞれ後ろめたかったのです。そこは新興の帝国主義国同士。それぞれの非道なふるまいを相互に黙認し、免罪し合ったというわけです。
しかしです。アメリカ統治下のフィリピンといえば、サトウキビ、マニラ麻、ココナッツ、木材などのアメリカへの輸出向け一次産品ばかりを生産するモノカルチャー経済を押し付けられました。
日本統治下の朝鮮半島はまがりなりにも工業化しています。それが違いです。
西洋のアジア植民地はどこも一次産品偏重のモノカルチャー経済しか許されませんでした。西洋はアジアにおいて、一次資源と一次産品を収奪することにしか興味がなかったからです。
もちろん日本がやったことが免罪されるわけではありません。しかしどうか、西欧がアジアで何をやったのかは十分に勉強してください。
「イギリスは如何なる場合も話し合いで事を処した」とおっしゃいますが、アヘン戦争が何故起こったのか知っていますか? イギリスは話し合いよりも武力に訴えることを好んだ国でした。
イギリスは19世紀初頭、インドに自由貿易を押し付けて、インドの発達した木綿産業を壊滅的に破壊しました。裕福だったインドは一瞬で貧困・失業のどん底と飢餓地獄に陥れられたのです。「失業した木綿職工の骨はインドの大地を白くしている」とイギリス人が本国に報告しているくらいなのです。
木綿産業が崩壊したインドにおいて、イギリスが生産させたのがアヘンでした。そのアヘンを中国に売りつけて、中国を中から腐らせた上で引き起こしたのがアヘン戦争です。インド経済を崩壊させたときと同様、「自由貿易」が錦の御旗になりました。清朝がアヘン輸入を規制するのは自由貿易の原理に反するというわけです。清朝がアヘンを規制する以上、話し合いも何もなく、問答無用で武力に訴えたのです。まさに悪魔の所業というしかありません。インドも中国も、「自由貿易」を掲げるイギリスの侵略を受けて伝統的な地場産業と産業構造を破壊され、失業と貧困と麻薬中毒を強制されたのです。日本が朝鮮半島と台湾で行ったことは、これほどまでに非道だったでしょうか?
日本の場合、創氏改名など別の次元での非道さはありました。しかし、少なくとも植民地での経済政策に関しては西洋と日本の帝国主義には違いが見られます。一次資源の供給基地としてしか見なかったのか、殖産興業を試みたのかの違いです。
アヘン戦争当時、日本は幕末でした。韓国と同じく儒教道徳が深く浸透した当時の日本人にとって、イギリスが行ったアヘン戦争は、驚天動地の許しがたい蛮行でした。日本人の多くは激怒し、この蛮行を行ったイギリス人を憎み、いわゆる尊皇攘夷運動が始まったのでした。
儒教道徳に照らして許しがたい西欧の横暴に対し、当時の日本の先進的知識人は次のように考えました。科学技術の水準では西欧人には決してかなわない。それは認め、彼らの進んだ技術を摂取するしか方法はない。その上で、このように平然と侵略戦争を行う価値観は決し許してはならない。儒教道徳・東洋の王道思想を堅持して、西洋の野蛮な侵略性と戦わねばならないと。
しかしそう考えた人々(例えば佐久間象山とか横井小楠)は、皆、幕末の動乱の中で暗殺されました。残った明治政府の政治家といえば、ひたすら西欧を模倣すればよいのだと安直に考える小者ばかりだったのです。それで日本から儒教道徳はうすれ、西洋のマネをするばかりで、ついに野蛮な侵略性までマネるようになってしまったのです。
かくして日本も、英国がインドや中国に行ったようなひどいことを大韓帝国に対して行ってしまいました。でも英国同様ひどかったが、英国のマネをしてそうなったのであって、決して英国よりひどかったとは思いません。先例を作ったのはあくまでもイギリスなのです。
少なくとも江戸時代の日本人の道徳観念では、アヘン戦争のような蛮行は決して許せないことでした。それが東洋道徳です。
アジア人同士、お互いに「お前は醜い」と罵倒し合うのは止めましょう。それこそ西洋人の思うツボです。事実は、東洋の方が道徳的に優れていて、西洋の方が野蛮だったのです。日本は残念ながら、その野蛮な西洋をマネちゃったから変になってしまったのです。
西洋人の偏見に満ちた歴史言説を受け入れて、彼らの価値基準に従って、アジア人同士が「お前はより遅れている」などとお互いに叩き合うのはやめましょう。
私利私欲を礼賛する米英の野蛮な価値観を拒否し、仁義礼智信徳孝恕の東洋思想に回帰しましょう。「利」よりはるかに大事なのは「義」です。それが東アジア共同体の核になると思います。
それ自体は、どちらの歴史観の持ち主も合意できるでしょうか。
その中で、結果的に日本はどのような役割を果たしたのでしょう。
一度中国や韓国の人に聞いてみたいのですが、彼らにとって理想の歴史とはどのようなものでしょうか。
自国が日本のように真っ先に近代化し、アジアを支配して西洋と戦って、日本と違って勝つ?
それでは女工哀史、侵略の加害者としての面もその国が引き受けるということです。
最初から近代化、侵略帝国主義化ではない、ガンジーの非暴力不服従のような正しい道で西洋と戦う?
でも、根本的に日露戦争の勝利なくして、ガンジーは出現できたでしょうか。太平洋戦争で徹底的に敗れずに、憲法九条は生まれたでしょうか。
歴史のifを許して柔軟に考えれば…おのずから分かることは多くあるのでは。
無論、現実のこの歴史が最善ではない…もっと良い歴史もあったはずです。
中国や朝鮮もインドも自発的に近代化し、日本と争うのではなく協力して西洋に対抗することができていたら、と夢みる思いはあります。
近代化ではない道があったかどうかは…疑わしいです。
>うのではなく協力して西洋に対抗することができて
>いたら、と夢みる思いはあります。
この可能性がアジアにとって最善だったと思います。どうしてそうならなかったのか検討する必要があるでしょう。
この記事で紹介した佐久間象山と横井小楠の双方の教えを受けていた勝海舟ははっきりと、日本・清・朝鮮との三カ国が連合して西洋と戦うという構想を持っていました。勝海舟の弟子の坂本龍馬もそうだったでしょう。勝海舟のみ明治まで生きていました。海舟は清朝にも大韓帝国にも深い同情を寄せ、日清戦争にも反対の立場でした。
同じく佐久間象山の教えを受けていた吉田松陰が何故か征韓論を唱えてしまい、明治の長州政権にその思想が伝わってしまったように思えます。その点は残念で仕方ありません。
右派の礼賛する作家、司馬遼太郎は著書の中で、満州侵略時(1933年)にいたっても日本の経済は軽工業が牽引している状態(したがって帝国主義的な植民地は実は必要性が低かった)と書いています。だから、道徳的観点から収奪がましだったという見解は(そういう観点に立つ人物が当時居た可能性までは否定しませんけれども)牽強付会の衒いがあるかなと(要するに収奪するほどの力はなかったということ)。
実際殖産興業といってもその利益は勃興し始めた日本の資本家が握るのであり、それらのインフラが光復後の半島両国家の役に立ったのは、それを接収したからです。
関さんのお好みでない経済決定論ですみません。まあ、よくご存知のことだとは思うのですが。
>品の過剰生産をしていたことに対して、日本は韓国
>併合時、いまだに工業化の離陸段階にあり、イギリ
>スのインドに対するほどの生産力は有していなかっ
>たと見るべきでしょう。
それについてはその通りです。イギリスは、植民地を一次資源の供給基地としてのみならず自国が過剰に生産しすぎた綿製品などを輸出するための市場としても使いました。それ故、植民地にも、イギリスの綿製品を買うだけの購買力は有してもらわねばなりませんでした。
ですのでインドの伝統産業を破壊した後には、代わりにアヘンを生産させて外貨を獲得させ、インド人にイギリスの綿製品を買うだけの購買力を維持させたわけです。
そこがイギリスと、フランス、スペイン、ポルトガル、ベルギーなどとの違いだったのでしょう。つまり、イギリスに比べ工業化の遅れていたフランス、スペイン、ポルトガル、ベルギーなどはイギリスよりもっとひどかったのです。彼らにあっては、植民地を市場として活用する意識もなく、純粋に天然資源を収奪するためのみに植民地経営を行い、抵抗する者は容赦なく殺戮していったわけです。
こう考えると、イギリスに比べ工業化していなかった日本は、スペインやベルギーなみに残虐であってもおかしくないはずですが、そうではありませんでした。やはり経済決定論では語れないのだと思います。
<代替案西洋の帝国主義と日本の帝国主義> の見出しで、大変啓示に富んだコメントを頂き有り難くぞんじます。まず初めにお詫びとお礼を申しあげなければならないことは、私が投稿したボードが何方のものであるかも存じ上げずに、たまたまテーマが「朝鮮の近代化と日本」とあったので、私見を、それも時代遅れのものを投稿したものでした。どれほど頭が古いかを代弁いたしますと、最近(2007年8月初版)五月書房刊
『江田船山古墳鉄剣銘の秘密』江口素里奈著を出版しました。もし四世紀後半五世紀の日本のことにご興味がおありでしたら、未完成・不完全なものですが、お目通し願っておきます。百三十年以前に発掘された剣の銘文75文字を七十四年間解説できなかったものを、解明したものです。望み通り(ご近所の書店で、出版社・著者名でお取り寄せ、紀伊国屋、池袋ジュンク堂そしてアマゾンネット)閲覧が叶ったならば、それをもって自己紹介に代えさせて頂きます。
>一昨年私が書いた[日本の植民地支配と東アジアの林業]という記事に対して最近素里奈
さんから以下のようなコメントをいただきました。
(残念ながら、見落としました)。
>素里奈さんは、西欧が植民地で何をやって来たか、十分にご存知ないのです。
(ご紹介いただいた2冊の書物、近々折りを見て入手、勉強しなおすことをお約束いたします。
私が論じた「英国とインド」そして「日本と韓国」の例は、何等の基礎的勉強
など、持たず、直近の出来事を感じたまま記したものです)。
重複しますが、近現代的にポリシアップされたlearningで欧米や東アジア植民地で起こった過去の歴史記録を解釈なさる貴台の思惑と、私のように生まれながら抑圧されたdamageを背負って成長した者との心の谷間には第三者の入り込む余地などない、例:加害者は加害の事実を忘れようとし、被害者は決して被害を忘れることはない。このことを、日本の小泉総理の折り、外務大臣をお勤めになられた町村さんは、「足を踏んだ方はすぐ忘れるが、踏まれた方はいつまでも忘れない」と表現なさいました。
関さまが私のためにお書きになられた「代替案・論説」を二度ほど読み返してみて感じたことは、「勿論、関様の、手をとり合って前進する以外に、そして、両者を楽天的な未来へ誘う方法はない」ことに賛同し、二言はないことは承知の上での話ではありますが、あえて読後感を述べますと “弱肉強食の社会であるから、仕方がないではないか。”または “植民地時代の日本は、植民地時代(欧米)英国がもっと破廉恥なものであったことを認識した上で、いつまでもうじうじ嘆き続けるのは時代遅れだ。”と仰っておられる風に感じられます。 つづく・・・。
一九四五年八月一五日、日本は植民地の放棄を規定したボッタム宣言を受託して連合国に無条件降服した。この旧日本帝国主義からの朝鮮民族の「解放」の日から、もう六三年もの時が流れているのだが、外力が朝鮮社会の内部にまでかってないほど深く影響をおよぼし、歴史的に形成された朝鮮民衆の内在的発展の志向とは、かけ離れた状況を作り出してしまっている。「解放」がすなわち朝鮮民衆が自主的発展をするための軌道の完全な回復、苦難の終わりではではなかった。
政治的にも経済的にも、一体性がけたちがいに進んだ戦後世界の中で、大国の戦略のぶっつかりあいが朝鮮民族の運命を翻弄してきた。最近では、日本がふたたび、そのことに重大な一役を買うにいたっているとはお思いになりませんか。不可避的に緊密化した国際条件の中で、韓国(いや南北朝鮮半島)民衆のとうぜんな自主的発展の要求を、いかにして真にみたしうるかが課代となっているのである。
いうまでもなく、外力が韓国(韓半島全体)現代史の発展をゆがめて来た最大のあらわれは、南北の分断である。分断というおおきな制約条件をぬきにしては、南北いずれの現代史も語れない。解放の時点で、韓半島民衆のだれが、今日にいたるような分断を予想したであろうか。「解放」はすなわち韓国民族の自主独立であり、独立はいうまでもなく南北一体のものと考えられていた。
そもそも分断の発端は、北緯三八度線を境とする米ソ両軍の分割占領にある。従来、ヤルタにおいてすでに、ルーズベルトとスターリンの間で、この点についての密約がせいりつしていたとみる説が有力だったが、近年公表されたアメリカの外交文書にみるかぎり、その形跡がみえない。かりに何らかの一般的合意があったとしても、具体的な線引きが行われたのは、ソ連の参戦後、八・一五までの短い期間のことである。それもアメリカがあわただしく交渉をもちかけた結果であった。当時、米軍の前線はまだ沖縄に膠着していたのに対し、ソ連軍は早くも韓国北部に進駐しており、軍事情勢の自然の推移にまかせれば、現在の南北韓半島がソ連軍の占領下にはいるところだった。
アメリカ側はそれを阻止すべく急遽協議を提案したのだが、情勢の不利さから、最終的には譲歩もやむをえないとおもいつつ、まず目いっぱいの要求として、ソウルの南にとりこんだ案をしめしたところ、意外にソ連はすんなりとそれをのんでしまったのだという。
だが、分割占領自体は、日本軍の武装解除のための便宜的分担にすぎず、また一時的なものにすぎないと思われていた。それを分断国家体制までもっていってしまった根因は、冷戦体制下の外力、とりわけアメリカの思惑(おもわく)からする介入であった。しかし、分断に対して日本の責任に属することもないわけではない。三八度線が境界とされた形式的根拠が、もともと日本軍の師団の分担境界であったことは、よく知られている。又、日本軍の降服の時期がもう少し早くても、もう少し遅くとも、分割占領はなかったと推定される。つまり故意ではないとしても、日本自体の分割占領をまぬがれるための降服の時期設定が、結果として韓国半島に分断をおしつけてしまったのである。つづく・・・
もっと本質的には、解放後に、無謀な永久支配を強行しようとして、民族解放の戦線を寸断していたことが問題にされねばならない。(このことは、日本軍閥と総督府が撤退した後の出来事なので、この紙面では、どやかく云々される問題ではないまでも)いま韓半島の歴史家は、外力による分断を内部の統一によって克服しきれなかったことを厳しく問い返しながら63年の歳月が経過したことを嘆く現状である。考えてみると、その問題は、解放後にソウルに集まった諸勢力が、それまで相互にまったく意思疎通を持ち得なかった状況におかれていたことに関連しているのではなかろうか。たとえ制約された範囲内であっても、解放前に自主的な政治の場がもう少し開かれていたなら、解放後の国内諸勢力の相互強調の努力は、もう少しスムーズでありえたであろう。
李承晩が南の、金日成が北の、最初の頭領になったこと自体、必ずしも韓半島民衆にとっては、救世主の役を演じられる人物たちであり得なかった。
しかし、日本が、現在の韓半島の現状をいつまでも傍観していていいはずのものではない。歴史は生きているものである。同時に権利と義務は、常に同時に駆使されなければならないものである。この場合、日本が権利を駆使するとは、アジアの一等国を自負する立場から論じて、一番身近な、そして36(正しくは35.5)年間も君臨したことのある隣国の歪な状況を正常ならしめる手立てを(例えば、日本の最高責任者であると思える位置の人が、南北の平和を具現させるために、日の丸を掲げたヘリコプターで、三八線の休戦境界地に降り立っても、両方の民衆が、諸手を上げて歓迎するような、(過去に見た「日の丸」は嫌悪のしるしそのものであったが、いま仰ぎ見る「日の丸」が尊敬の的にとって変わるような)を考えることこそ要求されるものではなかろうか。さらに解放後に生じた外交上の両国間の諸問題は、何はともあれ、最初に「すっきりした指導的清算があって後に解決の道を開くべきであり、おのずから解決されるはずのものではなかろうか、と、考えるのは、分不相応な考え方であろうか。」過去に日本が犯した罪は、日本自身が担うべき精神的、社会的義務と思われ、権利とは隣国の人々を無言の内に追従させることこそ、要求される急務であると思うことは、高望みだろうか。朝鮮半島における36年間の圧迫・総督政治は決してほんらいの日本文化、社会体制からのものから生まれたものではく、それを現地の人々に分かって貰えるための、否、人間の尊厳の根本を覆したそのものでさえ
あった。これら過ぎ去った、精神的苦痛・過去を和らげ、忘れさせる努力こそ、向後の課代であると思う。 了。 (本編、一部を梶村秀樹氏の論旨を骨子にした。大まかには筆者の私見を加筆したものである。)
朝鮮半島でも、農業の面では米作のモノカルチャー化が強引に進められたように見受けられます。
栄養学的によりふさわしかったかは、脇に置くとしまして、朝鮮半島での当時の食文化は、雑穀のウェイトが大きかった様子です。そこへ、「米の増産」を強いたわけですから(しかも「本土」への輸出作物として)、プランテーション農業の匂いをどうしても感じてしまいます。
植民地化後、確かに韓国国内での米の消費も増えていきましたが、それ以上に中国からの雑穀移入が増えていたはずで、そのことからも、「米を食べられる機会が増えたヨカッタね(日本でも朝鮮半島でも)」
と言い切るのに、抵抗を感じます。
>『江田船山古墳鉄剣銘の秘密』江口素里奈著を出版
>しました。
本の紹介ありがとうございました。私は古代史の知識が不足していますので、ぜひ買い求めて拝読させていただきます。
>「足を踏んだ方はすぐ忘れるが、踏まれた方はいつ
>までも忘れない」と表現なさいました。
全く同感です。日本国内だってそうです。長州人が会津人に「過去のことは忘れて未来に向けて生きよう」と言ったところで、会津人はそうした言葉を決して受け入れられずにおります。本土の人間は沖縄戦の悲惨な歴史を真剣に学ぼうともせず、軽率な発言をして沖縄人の感情を傷つけています。ましてや国が違えばなおのことです。
>“弱肉強食の社会であるから、仕方がないではない
>か。”または “植民地時代の日本は、植民地時代
>(欧米)英国がもっと破廉恥なものであったことを認
>識した上で、いつまでもうじうじ嘆き続けるのは時
>代遅れだ。”と仰っておられる風に感じられます。
これは誤解です。加害者の側は、謙虚に反省し続けねばならないと思います。100年や200年はそうせねばならないと思います。
その上で、日本人が西洋人より残虐だったかのように言うのは、西洋人の偏見に満ちたアジア人蔑視感情に基づくバイアスだと申したかったのです。
とくに米国の戦略的利害は、アジアを分断し、相互に仲たがいさせて力を弱めることにあります。米国は、戦略的に「日本人が最も野蛮だった」という歴史観をアジア諸国に刷り込もうとするのです。
>冷戦体制下の外力、とりわけアメリカの思惑(おも
>わく)からする介入であった。しかし、分断に対し
>て日本の責任に属することもないわけではない。
同意いたします。分断は日本のみの責任だと言われれば反論したくなりますが、主要には米ソの責任であり、日本にも責任があるというのは全くその通りかと存じます。
私は、一刻も早い南北統一を願っております。そのための方策として下記のような記事を書いたこともあります。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/005eef155806e3a55102273e520ecda1
米・中両国は自己の戦略的利害からもう少し長く分断させておきたいと願っているのでしょう。日本の右派もそうだと思います。
雑穀文化は何か貧しい、遅れたものという偏見で見ているのかも知れません。今だって、アフリカへの援助で米作をムリに押し付けたりしてますから。アフリカは気候的にも雑穀文化で、それが生態的に適しているのだからそれを尊重すればよいのに・・・。