代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

脱ダムから緑のダムへ

2006年07月13日 | 治水と緑のダム
 ひさしぶりに緑のダムに関する話題です。先月、同志社大学の社会的共通資本研究センターのディスカッション・ペーパーとして、「脱ダムから緑のダムへ -森林整備の代替機能と社会的共通資本-」という文章を書いてみました。このページからPDFファイルを読み込めます。興味のある方は、ご笑覧くださいますと嬉しく存じます。政治・経済の話と自然科学的な話題が混ざったエッセイになっています。長野県の「脱ダム」がなぜ暗礁に乗り上げたのか、どうすれば良いのかという話題にも触れています。長野県知事選に関心のある方々、また反田中の立場からダム問題に関してまったくトンチンカンな報道ばかり続けてきた『信濃毎日新聞』など信州のメディア関係の方々に読んでいただきたいと思うのですが・・・。
 
 これは論文のような固い文章ではなく、口頭での発表を文章にしたものです。ちょっと導入の部分を紹介いたします。

「脱ダムから緑のダムへ ―森林整備のダム代替機能と社会的共通資本―」
http://www1.doshisha.ac.jp/~rc-socap/publication/12green_seki.pdf

(1)はじめに

 社会的共通資本としての社会インフラストラクチュアは、官僚的基準でも私的基準でもなく、その地域に暮らす住民と納税者である一般市民の監視を受けながら社会的基準に従って整備・管理・運営されるものです(宇沢弘文『社会的共通資本』岩波新書、2000年:20-24頁)。こうした基準に照らし合わせると、官僚主義的な規律に従って地元住民や市民の反対を押し潰しながら建設され続けるコンクリート・ダムは、「官僚インフラ」とは呼べても、「社会的共通資本」とは呼べないものでしょう。
 宇沢弘文先生は、これまで「治水」を大義名分として建設され続けるコンクリート・ダム建設を批判する活動を精力的に展開し、吉野川や川辺川流域の住民運動が提起してきた「緑のダム」による治水方式を支持してきました。宇沢先生は、熊本県の川辺川ダム建設計画を批判して、以下のように述べています。

<引用開始> 
いま望まれることは、川辺川水域全体の総合的な治水、利水計画を、コンクリートを中心とした人工的構造物を中心とするのではなく、日本古来の治水システムである、自然の条件を有効に使って水の流れを巧みに調節し、同時に山々の流域を保全して、水害を防ぐ「緑のダム」方式にもとづいて作成し、実行に移すことである。
(中略) 
 「緑のダム」方式によると、総事業費は大幅に削減され、ずっと大きな地元の雇用を生み出し、地元の経済の活性化に対してもはるかに大きな効果をもつ。しかも、川辺川という貴重な、文化的、自然的遺産を守ることによって、長期の観点から、地元の安定的、持続的な発展に寄与することができる。
(宇沢弘文『経済学と人間の心』東洋経済新報社、2003年:156-158頁)
<引用終わり>

 「緑のダム」による治水方式の提起は、現在でも日本で300あまり検討されている治水ダムを建設し続け、何十兆円という資金を環境破壊のために投じるのか、それとももっと低い予算で環境を保全しながら自然に順応した形態の治水方式に転換するのかを問うものです。これは日本の未来を大きく左右するといっても、決して過言ではない問題だと思います。

 (中略)

(2)エコロジカル・ニューディール政策としての緑のダム整備

 私は1999年から、力石定一先生(法政大学名誉教授。経済政策・社会工学)の政策研究グループとともに緑のダム運動に取り組むようになりました。たまたま私が林政学を専攻していた関係で、「一緒にやらないか」とお誘いを受けたのです。そこでまず、私が一緒に運動をしてきた力石定一先生が、どのような論理で緑のダム政策を提起するようになったのか、簡潔に解説することにいたします。

 力石先生がダムや堰の建設による治水公共事業の代替案として「森林保水力の強化」が有効であるという論考を最初に発表したのは1993年、『エコノミスト』(毎日新聞社)誌上においてでした(力石定一「長良川河口堰:“鉄とセメント”より“自然林植林”を ―わずかの投資で可能な森林の保水力強化計画―」『エコノミスト』1993年7月6日号、毎日新聞社)。それ以来、力石先生は緑のダム政策を社会運動として組織しようと裏方で尽力されてきました。吉野川の緑のダム研究を行なった「吉野川流域ビジョン21委員会」の委員としても活躍されました。

 力石先生が1993年当時に、「ダムの代わりに森林保水力強化を」という論陣を張ったのは、バブル崩壊後に「公共事業の前倒し実施」を掲げた自民党の「ケインズ派」が、「穴を掘ってまた埋め戻す」ような、無駄なハコモノ建設の愚行に走ることを予見した上で、先行的に公共事業の「民主的で社会的な運用」と「質の改善」という政策要求を提起しようとしたものです。

 自民党という政党は、財政均衡論を唱え続けた福田赳夫元首相が率いた福田派(現在の森派)を除けば、どの派閥も「景気が後退したらすぐに財政出動」と考える点、大なり小なりケインジアン的だったといえます。バブル崩壊当時に首相であった宮沢喜一氏もその典型であり、1993年に13兆円にのぼる補正的財政出動による内需拡大策を実施に移しました。

 力石先生は、そうした状況の中で、バブル崩壊後の不況対策としての公共事業のあり方として、ダムというコンクリート構造物の構築よりも、森林保水力の強化の方がはるかに適切な経済政策であると訴えたわけです。力石先生は、もともとマルクス経済学者なのですが、池田内閣時代の1960年代から、「ケインズ政策」を社会改良の手段として一方で高く評価し、他方ではケインズ政策に潜む危険性についても喚起してきています。例えば力石氏は、1967年の『転形期の経済思想』という本で以下のように指摘しています 。

<引用開始>
(ケインズ派の)補整的財政政策が、社会的・民主的支出の増大を通じて行使されるかぎり、それは財政制度の一種の社会化であるとみなして支持するが、次のような留保つきでそうするのである。いかなる公共支出も、釣合いのとれた発展を保証するに足る一定量の追加的民間投資を引出すことができるのだというような“ケインズ的あいまいさ”とでも呼びうるものを克服すべきである。・・・・・・ 第一に考慮すべきことは、投資の量ではなくて、むしろその質である。
(力石定一『転形期の経済思想 ―その政治力学的考察―』徳間書店、1967年:79-80頁)
<引用開始>

 これは自民党の土建ケインズ派が最後の最後まで理解しなかった点だと思います。公共投資の「民主化」「社会化」そして「質」の重要性を、ついに理解することのなかった日本の「ケインズ派」は、1990年代を通して「穴を掘ってまた埋め戻す」式の、「金額が先にありき」の公共事業を実行するに至りました。その暴挙が、経済理論は分からないが、しかし社会正義の意識に燃える市民層の広範な怒りを呼び起こして小泉政権の誕生を許し、本来は「社会的共通資本」として管理されるべきであった郵便貯金・簡易保険・郵便事業の「私有化」を許してしまいました。

 日本では自民党の失政によって、ケインズの顔にも泥が塗られてしまったといえます。いまや「ケインズ政策」は、悪しき「バラマキ政治」の代名詞のようになってしまったのです。そして、マスコミによる反ケインズ・キャンペーンが展開され、「市場原理主義」と「緊縮財政」の強要が、「社会正義」の名の下に正当化されてしまいました。

 力石氏は、ケインズ型の失業対策(=総需要管理)も行いつつ、なおかつエコロジカルな技術革新も生み出すイノベーション型の公共事業・公共投資を「エコロジカル・ニューディール政策」と名づけました(力石定一・牧衷「『失われた10年』からどうやって脱出するか」『発想 No.1』(力石定一・牧衷責任編集)季節社:8-73頁)。間伐の実施は、治水機能の他に、それ自体として高い雇用吸収能力を持つのみならず、木質エネルギーという新エネルギー産業への波及効果が期待できます。雇用面で有効需要を創出しながら、同時に新しい自然エネルギーを振興するという形で供給面での「創造的破壊」に寄与します。環境を保全しながら、ケインズ政策とシュンペーター的技術革新を同時に展開するという、理想的な形態のエコロジカル・ニューディール政策と考えられるのです。

 室田武先生も、間伐材の利用に関して早くから同様な主張を展開してきました。室田先生は、小泉内閣発足前の1998年から郵貯の民営化に反対する論考を発表し、郵貯の預金を環境保全と循環型社会構築のために戦略的に投資すべきと訴えています。室田先生は、郵貯の資金が戦中においては戦争遂行目的に使われ、戦後においては原発建設やダム建設を筆頭とする幾多の環境破壊に使われてきた点を強く批判しながらも、郵貯・簡保の資金を、悪い目的ではなく、社会福祉と循環型社会の建設という良い政策課題を遂行させるための新しい使命を帯びた戦略通貨(=環境通貨)へと転換すべきであると論じました。その具体例として、路面電車の復活やスギ・ヒノキの間伐材を利用した木材コージェネレーション・システムの構築を掲げたのです(室田武「郵貯から考える環境通貨制への転換試論」『アエラムック 新経済学がわかる』朝日新聞社、1998 年:94-99頁)。
 室田先生は2004年の著作では次のように述べています 。

<引用開始>
生物多様性(biodiversity)の保全は今や世界的な課題となっている。それが豊かな地域には、エコツーリズムを求める人々が集まる。ダムなどのない豊かな河川の流域環境が形成されれば、そこに新しいビジネスが生まれるのである。環境通貨は、そのような分野に運用されるようにする。
 林業は、国有林、民有林の別を問わず、特に環境通過による融資対象として重要である。林業投資については長期、短期の二つが考えられる。長期投資は用材林業、短期投資はエネルギー林業であって、前者は美林育成型、後者は燃焼消費型である。国産材不振が続く中で、全国各地の国有林、公有林、民有林各々における針葉樹人工林の多くが、枝打ち、除伐等の作業を欠き、荒廃の度を強めている。そこへの長期投資は、21世紀の日本の森林を世界の模範となるような美林へと変えるであろう。他方、エネルギー林業とは、人工林の間伐材、松枯れ病初期のマツ材、里山(雑木山)の択伐材を木材火力発電、ないしは木材コージェネレーション(熱併給発電)の燃料とする事業のことで、この分野への投下資本は10年程度で回収できるのではあるまいか。
(室田武『地域・並行通貨の経済学: 一国一通貨制を超えて』東洋経済新報社、2004年:84-85頁)
<引用終わり>

 官僚によって独占されてしまった郵貯を、民営化という形態での私的資本へ転換させるのではなく、市民が奪い返し、本来あるべき社会的共通資本の姿に転換させよう、ダム建設という官僚的インフラの建設事業はとり止めて、自然環境の改善と自然エネルギーの振興のために予算を用いようという提起です。

 官僚的基準でも私的基準でもなく社会的基準に従って社会的共通資本を管理せねばならないという宇沢弘文先生の考え方は、そもそもケインズ経済学の危機、ジョーン・ロビンソンの言う「経済学の第二の危機」に対して、制度主義的立場からの回答として生み出されたものでした。

 「自民党的ケインズ政策」の危機に対して、社会的共通資本の観点に立脚した社会資本整備の改善策が、政府レベルでもっと真剣に考慮されていたならば、市場原理主義者たちによる政権の簒奪を回避できたのではないかと、私には残念に思えてなりません。

(後略)
 詳しくは本文を読んで下さるとうれしいです。

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7 コメント

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Unknown (oozora通信)
2006-07-14 08:39:24
門外漢の私には治水、利水から見る河川と森のより専門的な関係はよくわかりませんが、四季がある日本では梅雨末期と台風による集中豪雨以外は比較的適度な雨量があり、夏の日照りもすこし辛抱すればやがて秋雨前線がたすけてくれます。暑さ寒さも彼岸までです。自然と上手に付き合う。多額の税金を投入してまでの治水事業が費用対効果の面で根本的にどうなのか?疑問には思います。むしろ関さんたちの主張される方向へ進むことのほうが日本の国土や自然環境のなかではより賢い選択ではないかと思います。

南米ニカラグアのようなエコツ-リズムまではいかないでしょうが、自然を生かす知恵は我々も大事にしなければと思います。

それと、集中豪雨の被害がでるたびに短絡的に役所の責任を糾弾する我々の姿勢も改める必要ありです。

糾弾された役所にしてみれば、責任を追求されるのなら、対策を講じたという形にはしなくちゃあならないから・・・・それがダムという答えに結びついたのかどうかは解りませんが?

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oozora通信さま ()
2006-07-14 21:03:24
>南米ニカラグアのようなエコツ-リズムまではいか

>ないでしょうが



これはニカラグアではなくコスタリカのことです。コスタリカは非武装中立を本当に実践している国ですが、平和立国、環境と観光立国を目指しているようです。隣のニカラグアの方は、米国に軍事介入されて80年代に内戦になったので国土は破壊されてメチャクチャな状態になって今に至る・・・・。痛ましいです。



 森林の保水力と森林整備によるダムの代替機能に関しては、国交省はこれまで懸命に否定しようとしてきましたが、研究が進んできて国交省の論拠はどんどん崩れてきています。今後もご注視ください。
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Unknown (oozora通信)
2006-07-15 06:59:35
コスタリカでしたか。・・・・だから素人の生兵法はおそろしい!!。

思い込んでまして、確認しないでコメントしました。

以後気お付けます。
返信する
必要なことに投資することはあたりまえなこと (山澤)
2006-07-17 00:10:30
なのに欺瞞的構造改革によって公共投資全般が悪であるかのような論調になったのは忌々しきことですね。しかしそれもこれも田中角栄以降の列島改造論の無思想性の弊害でしょうか。(ふるさと創生1億円などバラマキ以外の何者でもなかった・・・)しかし、もっとつきつめるならば、金はあるのにその有効な使い方を見出しえなかった、という政策不在という問題なのかもしれません。従って批判を超えてそこを基点に考えるのが代替案的発想というべきでしょうか。緑のダムは代替案思考の原点なのですね。私のブログのテーマは「共認経済学」ですが要はみんなが必要としないものをムリヤリ押し付ける経済ではなくて、みんなが必要としているものを供給していこう。ということです。今度、私のブログでも扱いたいのですが、取り上げていただいた宇沢先生、力石先生の書籍以外にもお薦めというか入門書がありましたらご紹介頂けると幸いです。
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山澤様 ()
2006-07-17 01:26:56
>金はあるのにその有効な使い方を見出しえなかっ

>た、という政策不在という問題なのかもしれません。



 本当に、政府の「アイディアの貧困」が、日本の悲劇の根源的原因だと思います。日本の民間レベルではアイディア・マンは豊富にいるのに、それを吸い上げるシステムが欠如していると思います。



>取り上げていただいた宇沢先生、力石先生の書籍以

>外にもお薦めというか入門書がありましたらご紹介

>頂けると幸いです。 



 以下のページに、力石先生の政策提言の骨子が紹介されています。レジュメのような箇条書きですが。



http://www.alter-magazine.jp/backno/backno_19.htm
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林政はダブルスタンダードか (mine)
2007-05-12 09:14:40
平成18年9月8日 3兆円からの赤字を抱える林野庁が方針を転換し、新たな森林・林業基本計画を閣議決定しました、これまで指導の高密度植林の指導とは、まるで様相の異なるものです。基本計画では広葉樹の落葉の有効性を認めています、又植林には草が生える明るさ(空間)を確
保せよとも言っています、言わば自然林化のようです。しかるに基本はヘクタール当たり3千本という高い密度の植林をせよとするもので、これでは間伐そして森林組合への助力要請は必然となります。
利害や権益、癒着などがからんでダブルスタンダードとなっているのでしょうか、どなたか解説頂けませんでしょうか
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mineさま ()
2007-06-14 23:06:57
 返信遅れて申し訳ございませんでした。
 緑資源公団問題で、日本の林野行政の闇があらためて浮き彫りにされました。やっぱり緑資源公団だけでなく、林野庁もスクラップ・アンド・ビルトした方がよいかも知れませんね。
 私は林野行政は、環境省に移管すべきだと思います。
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