Ⅰ 京・機内における細川家の時代
最初に印象深かったのは国宝「柏木莵螺鈿鞍(カシワミミズクラデンクラ)」(10、鎌倉時代 13世紀)である。足利義輝から拝領の鞍。平治物語に源頼朝が柏と木莵の鞍に乗っていたと記述されている。この鞍も同じ模様。歴史の中の流行を感じる。
Ⅱ 細川幽斎・三斎・ガラシャ
「黒糸威二枚胴具足(クロイトオドシニマイドウグソク)」(14、安土桃山時代 16世紀)は関が原の戦いで細川忠興(三斎)が着用した鎧そのもの。歴史が現前して感慨深い。
「細川藤孝(幽斎)像」(30、江戸時代 1612年)は厳しい表情を見せる。幽斎は忠興(三斎)の父。本能寺の変のとき、息子の嫁が明智光秀の娘ガラシャであり、幽斎自身が光秀と親友であったため、秀吉から謀反の共犯者と疑われる。この危機を彼はかろうじて切り抜けた。
「細川忠興(三斎)像」(45、江戸時代 1641年)は利休七哲の一人、忠興(三斎)を描く。彼は茶人として名高い。また合理的な人であり鉄砲の時代に合わせた鎧を考案する。
「細川ガラシャ消息(松本殿御内儀宛(マツモトドノゴナイギアテ))」(52、安土桃山時代 16世紀)が興味深かった。嫁いだ次女宛。母の愛情を感じさせる。ガラシャは関が原前夜、石田三成の人質となることを拒み胸を突かせて死ぬ。彼女は16歳で忠興に嫁ぐ。本名はたま又はたま子。ガラシャは恩寵を意味する。
Ⅲ 肥後熊本の細川家
細川忠利のとき細川家が熊本に入る。宮本武蔵が忠利の下へ行き1640年に著したのが『五輪書』である。武蔵は生涯60回の果し合いすべてに勝利した。『五輪書』の武蔵の自筆本は残っていない。「五輪書」(71、江戸時代)は1667年の写本である。
Ⅳ 武家の嗜み、能・和歌・茶など
国宝「太刀 銘 豊後国行平作」(158、平安-鎌倉時代 12-13世紀)は幽斎が関が原講和の勅使に送ったものである。端正で美しい。
「黄天目 珠光天目」(193、中国 南宋-元時代 13-14世紀)は侘茶の祖、村田珠光が取り上げた中国渡りの天目茶碗。茶の湯は禅宗とともに日本に伝わった。
「唐物尻膨茶入(カラモノシリフクラチャイレ)」(183、中国 南宋時代 13世紀)は細川三斎(忠興)所有の茶道具。千利休が北野大茶会で使った。徳川秀忠から三斎が拝領。細川家第1の名宝である。
「瓢花入(ヒサゴハナイレ)銘 顔回」(166、安土桃山時代 16世紀)は千利休作。当時、三斎は利休を直接知る唯一の人となった。
「竹二重切花入(タケニジュウキリハナイレ)」(168、安土桃山時代 16世紀)も千利休作でざっくりしたつくりである。赤と茶色の縦の模様が入る。
「唐織 胴箔地撫子蝶文様(カラオリ ドウハクジナデシコチョウモンヨウ)」(107、江戸時代 18世紀)は蝶が妖しく撫子が華やか。
「能面 小尉(コジョウ)」(127、室町-安土桃山時代 16世紀)は老人の姿の神である。古びた能面。能は足利義満が好み以後、武家の嗜みとなる。幽斎は能の囃子方の太鼓の名手だった。
Ⅴ 細川護立コレクション
細川護立(モリタツ)は細川家16代当主で昭和25(1950)年に永青文庫を設立。元首相細川護煕の祖父にあたる。白州正子が彼を美の指南役とみなす。
「乞食大燈像」(231、江戸時代 18世紀、白隠慧鶴(ハクインエガク)筆)は鎌倉時代末の禅僧で大徳寺を開いた大燈国師を描く。すごい迫力である。大燈国師は乞食の群れの中に入って修行した。
「人形売」(247、江戸時代 19世紀、仙義梵(センガイギボン)筆)は楽しそう。仙は臨済宗の禅僧。分かりやすい禅画で人々に禅の教えを広めた。
国宝「短刀 無銘正宗(名物包丁正宗)」(252、鎌倉時代 14世紀)は変わった短刀である。太い。このため「包丁」と呼ばれる。刃紋がすごい。家康が所持していた。
重文「桜に破扇(ハセン)図鍔(ツバ)」(263、江戸時代 17世紀、伝林又七作)は模様が精緻な金象嵌で美しい。肥後鍔の名品である。
Ⅵ 芸術のパトロン、細川護立
細川護立(1883-1970)は白樺派の後ろ盾であり若い芸術家たちのパトロンだった。
重文「黒き猫」(283、明治43年(1910)、菱田春草)は有名な作品。菱田春草が36歳で亡くなる前年に一気に描かれた。岡倉天心の指導のもと日本画の革新を行ったのが横山大観、下村観山、菱田春草である。
重文「髪」(297、昭和6年(1931)、小林古径)は着衣の女性と半裸の女性が黒い髪を境に対照的に描かれる。大英博物館で模写した中国・東晋の名画「女史箴図巻」(じょししんずかん)にヒントを得た。(顧之筆とされる「女史箴図巻」は宮中の女官に心得を説く著作「女子箴」をもとに一節ごと絵で表したものである。)
「紫禁城」(307、昭和15年(1940)、梅原龍三郎)は現地のホテルの5階の部屋からの風景であり、彼がそこに2ヵ月陣取り描いた。オレンジ色の紫禁城の屋根が鮮やかで美しい。
Ⅶ 東洋美術と細川護立
国宝「金銀錯狩猟文鏡(キンギンサクシュリョウモンキョウ)」(309、中国 戦国時代 前4-前3世紀、河南省洛陽金村出土)は猛獣と騎馬の武人との戦いを金銀で象嵌する。精巧で気品がある。
重文「三彩宝相華文三足盤(サンサイホウソウゲモンサンソクバン)」(325、中国 唐時代 7-8世紀)は世界的に有名な唐三彩の名品。金属器に似て均整が取れている。蠟抜きの技法が効果的である。大正時代には陶器が茶の湯の道具としてでなく、完成された造形美そのものとして捉えられるようになる。
最初に印象深かったのは国宝「柏木莵螺鈿鞍(カシワミミズクラデンクラ)」(10、鎌倉時代 13世紀)である。足利義輝から拝領の鞍。平治物語に源頼朝が柏と木莵の鞍に乗っていたと記述されている。この鞍も同じ模様。歴史の中の流行を感じる。
Ⅱ 細川幽斎・三斎・ガラシャ
「黒糸威二枚胴具足(クロイトオドシニマイドウグソク)」(14、安土桃山時代 16世紀)は関が原の戦いで細川忠興(三斎)が着用した鎧そのもの。歴史が現前して感慨深い。
「細川藤孝(幽斎)像」(30、江戸時代 1612年)は厳しい表情を見せる。幽斎は忠興(三斎)の父。本能寺の変のとき、息子の嫁が明智光秀の娘ガラシャであり、幽斎自身が光秀と親友であったため、秀吉から謀反の共犯者と疑われる。この危機を彼はかろうじて切り抜けた。
「細川忠興(三斎)像」(45、江戸時代 1641年)は利休七哲の一人、忠興(三斎)を描く。彼は茶人として名高い。また合理的な人であり鉄砲の時代に合わせた鎧を考案する。
「細川ガラシャ消息(松本殿御内儀宛(マツモトドノゴナイギアテ))」(52、安土桃山時代 16世紀)が興味深かった。嫁いだ次女宛。母の愛情を感じさせる。ガラシャは関が原前夜、石田三成の人質となることを拒み胸を突かせて死ぬ。彼女は16歳で忠興に嫁ぐ。本名はたま又はたま子。ガラシャは恩寵を意味する。
Ⅲ 肥後熊本の細川家
細川忠利のとき細川家が熊本に入る。宮本武蔵が忠利の下へ行き1640年に著したのが『五輪書』である。武蔵は生涯60回の果し合いすべてに勝利した。『五輪書』の武蔵の自筆本は残っていない。「五輪書」(71、江戸時代)は1667年の写本である。
Ⅳ 武家の嗜み、能・和歌・茶など
国宝「太刀 銘 豊後国行平作」(158、平安-鎌倉時代 12-13世紀)は幽斎が関が原講和の勅使に送ったものである。端正で美しい。
「黄天目 珠光天目」(193、中国 南宋-元時代 13-14世紀)は侘茶の祖、村田珠光が取り上げた中国渡りの天目茶碗。茶の湯は禅宗とともに日本に伝わった。
「唐物尻膨茶入(カラモノシリフクラチャイレ)」(183、中国 南宋時代 13世紀)は細川三斎(忠興)所有の茶道具。千利休が北野大茶会で使った。徳川秀忠から三斎が拝領。細川家第1の名宝である。
「瓢花入(ヒサゴハナイレ)銘 顔回」(166、安土桃山時代 16世紀)は千利休作。当時、三斎は利休を直接知る唯一の人となった。
「竹二重切花入(タケニジュウキリハナイレ)」(168、安土桃山時代 16世紀)も千利休作でざっくりしたつくりである。赤と茶色の縦の模様が入る。
「唐織 胴箔地撫子蝶文様(カラオリ ドウハクジナデシコチョウモンヨウ)」(107、江戸時代 18世紀)は蝶が妖しく撫子が華やか。
「能面 小尉(コジョウ)」(127、室町-安土桃山時代 16世紀)は老人の姿の神である。古びた能面。能は足利義満が好み以後、武家の嗜みとなる。幽斎は能の囃子方の太鼓の名手だった。
Ⅴ 細川護立コレクション
細川護立(モリタツ)は細川家16代当主で昭和25(1950)年に永青文庫を設立。元首相細川護煕の祖父にあたる。白州正子が彼を美の指南役とみなす。
「乞食大燈像」(231、江戸時代 18世紀、白隠慧鶴(ハクインエガク)筆)は鎌倉時代末の禅僧で大徳寺を開いた大燈国師を描く。すごい迫力である。大燈国師は乞食の群れの中に入って修行した。
「人形売」(247、江戸時代 19世紀、仙義梵(センガイギボン)筆)は楽しそう。仙は臨済宗の禅僧。分かりやすい禅画で人々に禅の教えを広めた。
国宝「短刀 無銘正宗(名物包丁正宗)」(252、鎌倉時代 14世紀)は変わった短刀である。太い。このため「包丁」と呼ばれる。刃紋がすごい。家康が所持していた。
重文「桜に破扇(ハセン)図鍔(ツバ)」(263、江戸時代 17世紀、伝林又七作)は模様が精緻な金象嵌で美しい。肥後鍔の名品である。
Ⅵ 芸術のパトロン、細川護立
細川護立(1883-1970)は白樺派の後ろ盾であり若い芸術家たちのパトロンだった。
重文「黒き猫」(283、明治43年(1910)、菱田春草)は有名な作品。菱田春草が36歳で亡くなる前年に一気に描かれた。岡倉天心の指導のもと日本画の革新を行ったのが横山大観、下村観山、菱田春草である。
重文「髪」(297、昭和6年(1931)、小林古径)は着衣の女性と半裸の女性が黒い髪を境に対照的に描かれる。大英博物館で模写した中国・東晋の名画「女史箴図巻」(じょししんずかん)にヒントを得た。(顧之筆とされる「女史箴図巻」は宮中の女官に心得を説く著作「女子箴」をもとに一節ごと絵で表したものである。)
「紫禁城」(307、昭和15年(1940)、梅原龍三郎)は現地のホテルの5階の部屋からの風景であり、彼がそこに2ヵ月陣取り描いた。オレンジ色の紫禁城の屋根が鮮やかで美しい。
Ⅶ 東洋美術と細川護立
国宝「金銀錯狩猟文鏡(キンギンサクシュリョウモンキョウ)」(309、中国 戦国時代 前4-前3世紀、河南省洛陽金村出土)は猛獣と騎馬の武人との戦いを金銀で象嵌する。精巧で気品がある。
重文「三彩宝相華文三足盤(サンサイホウソウゲモンサンソクバン)」(325、中国 唐時代 7-8世紀)は世界的に有名な唐三彩の名品。金属器に似て均整が取れている。蠟抜きの技法が効果的である。大正時代には陶器が茶の湯の道具としてでなく、完成された造形美そのものとして捉えられるようになる。