季節を描く

季節の中で感じたことを記録しておく

“トゥールーズ=ロートレック展”  2011.11.22 (三菱一号館美術館)

2011-11-23 10:04:01 | Weblog
 トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)は伯爵家に生まれた。しかし両足の大腿骨を骨折。脚の発育が停止した。身体に障害を負った彼は画家になる。自分が差別を受けていたためか、娼婦、踊り子などに向ける目が優しい。彼はデカダンな生活を送り36歳の若さで死ぬ。
                 
          
 「ムーラン・ルージュ(ラ・グーリュ)」(1891年、リトグラフ、ポスター):トゥールーズ=ロートレックのポスター第一作。彼はこのポスターでデヴューした。中央は人気ダンサー、ラ・グーリュ。前の男は“骨なしヴァランタン”。
                            
    
 「『悦楽の女王』」(1892年、リトグラフ、ポスター):小説『社交動物園』の中の1編、『悦楽の女王』のポスター。高級娼婦のお別れのキスの様子。
                                 

 「アリステッド・ブリュアン、彼のキャバレーにて」(1893年、リトグラフ、ポスター):アリステッド・ブリュアンは歌手でトゥールーズ=ロートレックの友人。
                    

 「ジャヌ・アヴリル(ジャルダン・ド・パリ)」(1893年、リトグラフ、ポスター)手前はコントラバス。歌川広重的な構図。ジャルダン・ド・パリはムーラン・ルージュの別館。踊るジャヌ・アヴリルの写真が残るが、こちらの方がはるかに美人。
                             

 「『カフェ・コンセール』ジャヌ・アヴリル」(1893年、リトグラフ):版画集の1枚。カフェ・コンセールは演芸喫茶。踊るジャヌ・アヴリルの線が躍る。
     

 「ディヴァン・ジャポネ」(1893年、リトグラフ、ポスター):ディヴァン・ジャポネは店名で「日本の長いす」の意。日本趣味。
                             

 「ロイ・フラー嬢」(1893年、リトグラフ(青色の刷り)):ロイ・フラーのダンス、「炎の踊り」を描く。彼女は「アール・ヌーボーの化身」と呼ばれた。
               

 「コンフェッティ」(1894年、リトグラフ、ポスター):製紙会社のポスター。紙吹雪(コンフェッティ)が描かれる。
              
 
 「マルセル・ランデール嬢」(1895年、リトグラフ):トゥールーズ=ロートレックは彼女の背中の美しさをほめる。写真の方が美女と思う。
                          

 「シンプソンのチェーン」(1896年、リトグラフ、ポスター):シンプソンは、チェーンと自転車の会社。チェーンの描き方が違うと言われ、書き直しさせられた2枚目の作品がこれ。
                      

 「『彼女たち』(ポスター)」(1896年、リトグラフ):当時のパリには130軒の娼館があった。トゥールーズ=ロートレックはそこで働く娼婦たちを描いた版画集『彼女たち』を出版。そのポスター。しかしエロティックさがなくあまり売れなかった。
          
 「『彼女たち』体を洗う女―身繕い」(1896年、リトグラフ)

 「『彼女たち』コルセットの女―束の間の征服」(1896年、リトグラフ)

 「エグランティーヌ嬢一座」(1896年、リトグラフ、ポスター):表情が厳しい。お互いに張り合う。一座はすぐに解散した。
                               

 「化粧」(1898年、油彩):赤毛の娼婦が描かれる。仕事の前の醒めた情景。
           
 トゥールーズ=ロートレックは体をこわし、故郷アルビに帰る。36歳の彼は、母親の腕の中で死ぬ。彼の優しさ、人間への信頼はおそらく母の愛情に支えられていた。
 
 「絵には人間だけが必要。」「人間は醜い。けれど人生は美しい。」このようにトゥールーズ=ロートレックが言う。
 彼は自分が醜いことを知る。人間も醜い。しかし人への信頼、人相互の愛が人生を美しくする。

“プラド美術館所蔵、ゴヤ、光と影”展  2011.11.12 (国立西洋美術館)

2011-11-13 09:02:09 | Weblog
 フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)はフランス革命期を生きたスペイン美術の巨匠。
 
  ① ゴヤの自画像
 「自画像」(5、1815年)は69歳のゴヤ。すでにナポレオン侵略期の悲惨と残虐を見ている。表情が暗い。
          
  ② タピスリー用原画における社会批判
 「日傘」(6、1777年):若い娘は上流階級。フランスかぶれ。日傘を差しかける男は下層階級の伊達男、マホ。身分の差が描かれる。
          
 「マハとマントで顔を覆う男たち(旧称、アンダルシアの散歩道)」(7、1777年):マハは下層階級の粋な女。連れの男に言いがかりをかけそうな3人の男たち。女が気をつけるように男に言う。
 「マドリードの祭り」(10、1778-79年):王太子夫妻の寝室用の絵。フランス啓蒙主義の波はスペインにも至る。神話や宗教画でなく街の風俗が主題となる。横柄な上流階級と卑屈な露天の商人が対比される。

  ③ 女性のイメージ:嘘と無節操
 「洗濯女たち」(15、1779-80年):彼女たちは奔放あるいはふしだら。寝る女の手は下腹部にある。羊はエロチックさを示す。
           
  ④ 「国王夫妻以下、僕を知らない人はいない」:宮廷でのゴヤの成功&心理研究としての肖像画
 1789年、ゴヤは首席宮廷画家となる。1800年はゴヤの宮廷での成功の絶頂期。
 「赤い礼服の国王カルロス4世」(48、1789年頃):威厳ある国王。
 「スペイン王子フランシスコ・デ・パウラ・アントニオの肖像」(52、1800年):王子として、将来の国王として、自信に満ちたまなざし。
          
 (参考)「カルロス4世の家族」(1800-1801年)
                       
  ③(続) 女性のイメージ:嘘と無節操(続)
 首席宮廷画家となり成功の絶頂にあったゴヤだが、自由な発想を失わない。
 「掃除している若い女<素描帖A>(n)」(13、1794-95年):彼女は着飾って掃除している。夫は年寄りの好色な金持ち。それを牡牛の頭の骨が暗示する。鳥かごが彼女の立場を示す。もちろん彼女は裕福な生活を望む。
 「アルバ女公爵と“ラ・ベアタ”」(16、1795年):アルバ女公爵はゴヤを寵愛。この絵では彼女が老女の迷信を責める。
 「着衣のマハ」(29、1800-07年):宰相ゴドイからの注文。これとセットの「裸のマハ」は最初、ヴィーナスとの説明だった。異端審問所で問題にされたがゴヤは、うまく言いぬける。マハは下町の伊達女。
     
  ⑤ 版画集『ロス・カプリーチョス』:ごまかし・偽りの告発&魔物たち
 1793年、耳が聴こえなくなったゴヤは内省化する。夢がゴヤの関心を惹く。
 「魔女たちの飛翔」(43、1798年):司教の長い帽子をかぶった魔女たちが若者に口づけし、魔女の知識を注入しつつ飛翔する。これは独立した油絵。
                    
 1799年『ロス・カプリーチョス』をゴヤは出版する。ロス・カプリーチョスとは気まぐれ、奇想、自由な発想、創作の意である。
 「<ロス・カプリーチョス>39番、祖父の代までも」(39、1797-98年制作/1799年出版):人間の愚かさのシンボルとしてのロバ。ロバの先祖もロバ。

  ⑥ 版画集『戦争の惨禍』(1810-14年制作)
 1808-14年、ナポレオンによるスペイン侵略。ゴヤは、故郷サラゴサで、戦争における偉業を描くよう召集される。しかし彼が見たのは戦争の悲惨な成り行きだった。
 「これもまた」(36、1810-14年制作)
                 「同じことだ」(3、1810-14年制作)
                    
(参考)「マドリード、1808年5月3日」(1814年)
                                       
  ⑦ <素描帖C> (1808-14年頃):悪夢が示す狂気・無分別 
 「同じ夜の3番目の幻影(<素描帖C>、41番)」(90、1808-14年頃):理由もなく笑う女が踊っている。

  ⑧ 教会批判をしごまかし・偽りを告発するゴヤが示す宗教への願望
 「無原罪のお宿り」(92、1800-1801年)
 「荒野の若き洗礼者ヨハネ」(94、1808-14年頃):ゴヤの作と2000年に確認される。若く美しい洗礼者ヨハネ。

  ⑨ 版画集『闘牛技』(1814-16年制作/1816年出版)
 1814年、スペインは独立戦争に勝利する。戦後の闘牛人気を見込んでゴヤは1816年、版画集『闘牛技』を出版する。しかし悲劇・不運・残酷・悲惨を主題にしたので売れなかった。
 「<闘牛技>21番、マドリード闘牛場の無蓋席で起こった悲劇と、トレホーン市長の死」(1814-16年制作/1816年出版):悲惨な場面である。

  ⑩ 版画集『ロス・デスパラーテス(妄)』(1815-19年制作/1864年初版):ナンセンスな世界の背後の正気
 「<妄>4番、大阿呆」(108、1816-19年制作/1864年初版):腹の横にも顔がありグロテスク。

 独立戦争勝利後、フェルナンド7世は異端審問所を使って仏協力者を摘発、残酷に取り締まる。
 1821-23年(75-77歳)、ゴヤは「黒い絵」と呼ばれる14枚の壁画を描く。
 (参考)「子を喰らうサトゥルヌス」(1820-23年頃)はそのうちの1枚。
              
 仏協力者=自由主義者に対する弾圧を避けて1824年、ゴヤは78歳の時、フランスに亡命。ボルドーにおいて1828年に死去。享年82歳。
  
  ⑪ <ボルドー素描帖G>(1825-28年頃):奇怪な寓話
 「蝶の牡牛<素描帖G>53番」(1825-28年頃):牡牛を吊り上げる蝶たちには奇妙な顔がある。妄想。
                      
  ⑫ <ボルドー素描帖H>(1825-28年頃):人間の逸楽と暴力
 「必死に喧嘩する二人の大男<素描帖H>38番」(1825-28年頃):喧嘩する大男の一方は手にナイフを持ちもう一方を殺すかもしれない。娯楽と暴力は紙一重。異常なもの、歪んだものをゴヤは描く。

“法然と親鸞 ゆかりの名宝”東京国立博物館(2011.11.1)

2011-11-03 12:43:40 | Weblog
  第1章 人と思想
 末法の世が1052年に始まる。浄土宗の宗祖・法然(1133-1212)が「念仏をとなえれば救われる」と説く。法然の弟子となった親鸞(1173-1262)は浄土真宗の宗祖となる。2011年は法然没後800回忌、親鸞没後750回忌。
 1167年平清盛が太政大臣となる。1192年鎌倉幕府成立。源平争乱の時代である。

 法然が専修念仏を唱え浄土教を開いたのは1175年。彼は中国の善導の書によって回心を体験し比叡山を降り専修念仏の教えを広め始めた。

 重文「法然上人像」(鎌倉時代・13世紀、京都二尊院)は「足曳御影(アシビキノミエイ)」と呼ばれる。肖像画を断る法然を絵師が秘かに描く。法然は湯上りで足を投げ出してすわり、絵師にそれを描かれた。ひどいので法然が仏に祈ると絵の中の法然が足を曳いてきちんと座ったという。墨染めの衣、両手に数珠、法然頭でてっぺんは平。
          
 重文『選択本願念仏集』(センジャクホンガンネンブツシュウ)(鎌倉時代・12~13世紀、京都廬山寺)は法然が1198年に専修念仏を正当化した著作。題名が法然の自筆である。
          
 重文「二河白道図(ニガビャクドウズ)」(鎌倉時代・13世紀、京都光明寺)は日本最古の二河白道図である。左側に憎しみの炎の河。右側に貪欲の黒い河。その真ん中に狭い白い道。この困難な道を行く者のみが浄土に達することができる。キリスト教の“狭き門”である。「狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きい」と『マタイによる福音書』7章にある。
           
 親鸞は叡山で20年の修行を積むが限界を感じ山を降り、1201年、法然の弟子となる。法然より「綽空」(シャックウ)の名を与えられる。法然69歳、親鸞29歳。
 親鸞は「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と述べる。煩悩に悩む凡夫は「悪人」。「悪人」であると目覚した者こそが阿弥陀仏の救済を知りえるの意。
 親鸞は人はすでに阿弥陀により救われており、それを感謝して念仏すると言う。

 重文「親鸞聖人影像」(室町時代・15世紀、奈良国立博物館)は「熊皮御影(クマカワノミエイ)」と呼ばれる。親鸞が熊皮の上に座る。高僧であることを示す。
     
 国宝「教行信証(キョウギョウシンショウ)、坂東本、親鸞筆」(鎌倉時代・13世紀、京都・東本願寺)全六巻からなる浄土真宗の根本聖典。坂東本は親鸞の自筆。60歳代の文章が8割。その後も死の直前の80歳代まで筆を入れ、高僧たちの諸著作を親鸞が解釈した。
                    
 国宝「西方指南抄(サイホウシナンショウ)、親鸞筆」(鎌倉時代・13世紀、三重・専修寺)は法然の法語・消息・行状記・日記・手紙などを親鸞が記した書物。6冊。84歳の親鸞が1256-7年に一気にまとめたもの。

 重文「歎異抄(タンニショウ)、蓮如筆」(室町時代・15世紀、京都・西本願寺)は親鸞の死後、弟子の唯円が親鸞の教えを無視した異説を嘆き文をしたためた。蓮如(1415-99)は本願寺中興の祖。
                    
  第2章 伝記絵にみる生涯
 国宝「法然上人行状絵図(四十八巻伝)巻第一」(鎌倉時代・14世紀、京都・知恩院)は法然9歳のとき、父が夜討をしかけられ殺害された事件を描く。父は美作の国(岡山)の武士。法然は、父の遺言によって仇討ちを断念し、出家して比叡山で学ぶ。

 重文「法然上人絵伝(増上寺本)、巻下」(鎌倉時代・13世紀、東京・増上寺)には、法然が絵師に、善導の絵を描かせている場面がある。夢に師善導が現れその下半身が金色に輝いていたという。

 重文「善信聖人絵(淋阿本)、詞書 覚如筆」(鎌倉時代・14世紀、京都・西本願寺)には33歳のとき親鸞が、法然から『選択本願念仏集』と御影を写すことを許される場面がある。法然への入門5年後のことであり、親鸞が優秀な弟子だったことを示す。この頃、親鸞は善信と改名する。(覚如は親鸞の曾孫、本願寺3世。)

 重文「本願寺聖人親鸞伝絵(弘願本)、詞書 善如筆」(南北朝時代・1346年、京都・東本願寺):興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって1207年、後鳥羽上皇が念仏停止を命じる。法然は讃岐へ、親鸞は佐渡へ流された。このときの場面がある。(善如は本願寺4世。覚如より継承。)


  第3章・1 法然をめぐる人々
 重文「七箇条制誡」(鎌倉時代・1204年、京都・二尊院):1204年、法然は比叡山延暦寺の専修(センジュ)念仏停止(チョウジ)の訴えに対して自戒の決意を示すべく「七箇条制誡」に門弟ら190名の署名を添え送る。他宗派を非難攻撃したり道徳をおろそかにしたりしないことを誓ったもの。「綽空」(シャックウ)の名で親鸞の署名もある。

 重文「阿弥陀如来立像」(鎌倉時代・1212年、浄土宗):法然の一周忌に造立。像内には結縁(ケチエン)した4万6000人の名簿が納められていた。清盛・頼朝・天皇・貴族から庶民まで、平等に記名された。
                    

  第3章・2 親鸞をめぐる人々
 重文「善鸞義絶状 顕智筆」(鎌倉時代・1305年、三重・専修寺):親鸞が布教した東国では異説を説く者が現れ混乱。京から親鸞は、息子の善鸞を送る。しかし善鸞自身が混乱を深めた。親鸞は善鸞に義絶状を送り破門。 親鸞84歳、1256年のことだった。(顕智は親鸞の弟子。)

 
  第4章 信仰の広がり
 重文「阿弥陀三尊坐像」(鎌倉時代・中尊1299年、両脇侍13世紀、神奈川・淨光明寺)高さ約4m。迫力がある。阿弥陀は説法印であり、信者がすでに極楽にあることを示す。
      
 重文「八字名号 親鸞筆」(鎌倉時代・13世紀、三重・専修寺)親鸞は阿弥陀仏は像として描くことができない無限の光と考えて“南無不可思議光佛”などと名号で示し礼拝対象とした。現在親鸞聖人真筆のものは専修寺に一幅伝わるのみ。
          
 重文「聖徳太子立像」(鎌倉時代・14世紀、茨城・善重寺):聖徳太子の夢のお告げで親鸞は専修念仏の道へ進んだ。29歳の親鸞に聖徳太子の本地の救世観音が現れ「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」と告げた。
                        
 国宝「当麻曼荼羅縁起」(鎌倉時代・13世紀、神奈川・光明寺):奈良当麻寺の本尊の「当麻曼荼羅図」の由来を描いた絵巻。蓮糸で曼荼羅を織りあげた中将姫が阿弥陀如来のお迎えを受け極楽へ旅立つという物語。
      
 国宝「阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)」(鎌倉時代・14世紀、京都・知恩院):たちまちやってくるので「早来迎」である。右下隅の家で人が祈って阿弥陀菩薩の来迎を待っている。
      
 国宝「本願寺本三十六人家集」(平安時代・12世紀、京都・西本願寺):この日は「素性集」が展示。三十六人家集の最古のもの。豪華な装飾で有名。