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“フランク・ブラングィン展”国立西洋美術館(2010.3.11)

2010-03-24 20:08:35 | Weblog

 川崎造船所の初代社長松方幸次郎の松方コレクション。この大コレクターを支えたのがベルギー生まれの英国人画家フランク・ブラングィン(1867-1956)である。

 松方とブラングィンが出会うのは1916年である。それ以前のブラングィンの作品を見てみよう。 

 「海賊バカニーア」(20、1892年)は赤い旗が鮮烈。どの色も鮮やかでカンディンスキーに影響を与える。 

              

 「フランク・ブラングィンによるデザイン《〈ぶどうの樹〉のカーペット》」(16、1896-97年)はとても洒落た装飾的図案でアール・ヌーヴォー風である。 

 「グラフトン・ギャラリーズでの「アール・ヌーヴォー」展ポスター」(18、1899年)が時代の雰囲気をよく感じさせる。このとき米国のガラス工芸家ティファニーがヨーロッパで初めて大々的に紹介された。 

 「フランク・ブラングィンによるデザイン《ダイニング・チェア》」(5、1902年頃)はモダンである。今でも決して古くない。 

 「りんご搾り」(23、1902年)は豊かな多様性が凝縮した絵である。 

               

 彼は工場や労働者をしばしば題材にする。「造船」(29、1910-15年)は大きな船2隻が多くの労働者によってつくられる様子を描く。画面が明るい。 

 松方とブラングィンは第1次大戦のさなかに出会う。出会った年の作品が「松方幸次郎の肖像」(40、1916年)である。わずか1時間で描かれた。 

               

 戦争はナショナリズムを高揚させる。「戦時広報ポスター:復讐の誓い」(32、1914-16年)はベルギーに対するドイツのツェッペリンによる攻撃への非難である。 

 「〈十字架の道行き―母マリアに対面するイエス〉のための素描」(30、1920-22年)は第1次大戦とキリストの受難を重ね合わせる。連合軍の兵士たちがイエスの後ろに描かれる。 

 松方の夢はコレクションを公開する共楽美術館の建設である。ブラングィンはその建築デザインを手がける。「背後に別館を配した美術館の俯瞰図」(48、1918-20年)がその計画を示す。しかし関東大震災と金融恐慌がこの夢の実現を阻む。 

                 

 ブラングィンの装飾的デザインの傾向を見事に示すのが「白鳥」(65、1920-21年)である。鮮やかなオレンジ色、黒い輪郭などオリエントのカーペットと類比される。

                 

 アート・アンド・クラフト運動の職人の手作業の味を残す陶器作品がある。例えば「フランク・ブラングィンによるデザイン《カップとソーサー〈収穫〉》」(74、1927-40年)、「同前《青い大皿〈収穫〉》」(75、1927-40年)、「同前《貝、海草、青い花模様の橙色の花瓶》」(76、1930-35年)などがそれである。


“没後400年 長谷川等伯 特別展”東京国立博物館(2010.3.10)

2010-03-20 21:12:22 | Weblog
 午後2時前、3月だというのに風が冷たい。数日前、上野公園は雪だった。
 “没後400年 長谷川等伯 特別展”を東京国立博物館・平成館で見る。
 
 Ⅰ 能登の絵仏師・長谷川信春。
 長谷川等伯(1539-1610)は能登七尾に生まれる。父は染物屋。等伯は20代で寺に絵を納める絵仏師になる。七尾時代、彼は信春と名乗る。
 「十二天像」(1、1564年)は最初期のものだが図像は精緻でキリリとしている。
                
 「鬼子母神十羅刹女(ラセツニョ)像」(4、1564年)が色鮮やか。彼は法華宗の信仰があつい。「日蓮聖人像」(5、1564年)は色が美しい。
 
 Ⅱ 転機のとき―上洛、等伯の誕生―
 養父母がともに亡くなり1571年、数え33歳のとき彼は自身の才覚を試すため京に上る。その後、十数年、彼には不明の時期がある。当時全盛の狩野派などに学んでいたと思われる。
 彼のデヴューとなったのが「山水図襖」(28、1589年)、等伯50歳の時の作品である。彼は住職が断ったのに勝手に寺の襖に描く。その優れた出来栄えが都で評判となる。唐紙の一面の桐の模様が雪に見立てられる。狩野永徳など狩野派への挑戦である。

 Ⅲ 等伯をめぐる人々―肖像画―
 「千利休像」(35、1595年)は利休の死の4年後に描かれた。顔の表情に厳しい精神性が示される。黒い衣服が印象的である。
              
                
 Ⅳ 桃山謳歌―金碧画―
 国宝「楓図壁貼付」(41、1592年頃)は3歳で亡くなった鶴松の菩提寺の襖に秀吉の命により等伯が描く。狩野派を抑え長谷川派の全盛期がもたらされる。楓の周囲に秋の草花、萩・白菊などが細かく描かれる。抒情性を示し鶴松の魂を包み込むような優しさがある。
               
 国宝「松に秋草図屏風」(42、1592年頃、2曲1双)は左右全体でまとめる意匠がモダンである。右側は松がダイナミックで下部の白い槿が美しい。左側は白、赤の菊が鮮やかである。
                
 
 Ⅴ 信仰のあかし―本法寺と等伯―
 「仏涅槃図」(48、1599年)は等伯61歳の作品である。息子を20歳でなくしその7回忌に制作された。縦10m、横6mと巨大である。釈迦の死を弟子、信者、動物、植物たちすべてのものが嘆く。
                
 「日通上人像」(48、1608年)で等伯は亡くなった10歳年下の盟友を懐かしく描く。日通上人は法華宗の寺、本法寺の住職だった。
                 
 Ⅵ 墨の魔術師―水墨画への傾倒―
 50歳代半ばから等伯は水墨画の世界へ進む。
 「山水図襖」(60、1599年)のうち、夏の図は松の下にいる人が団扇をもち涼しげである。春の図は梅が咲き家の中で人がくつろぐ。
 「竹林猿猴図屏風」(69)は家族の手長猿がかわいい。
               
 国宝「松林図屏風」(76)が描くのは霧の松林である。霧は描かれず、松のみが描かれその狭間に霧が浮かび上がる。日本の水墨画の最高峰であり幽玄を示す。
             
 見終われば上野公園はすでに午後4時。噴水のそばの避寒桜の赤い色がきれいだった。上野駅公園口まで歩く。