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「クリムト展 ウィーンと日本1900」東京都美術館:人生は戦いなり!

2019-05-18 12:44:14 | Weblog
(1)グスタフ・クリムト(1862-1918)!
グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862-1918)は貧しい家庭の7人兄弟の第二子としてウィーン郊外で生まれた。父は彫版師。クリムトは1876年(14歳)、美術工芸学校に入学させられる。1879年(17歳)から美術やデザインの請負をするようになった。
(1)-2 芸術家商会「キュンストラーカンパニー」!
卒業後、1882年、弟のエルンストらと芸術家商会「キュンストラーカンパニー」を設立。以後10年間彼らはウィーンおよびオーストリア・ハンガリー帝国全土に渡る数多くの建物の壁画・天井画の制作を委託された。クリムトは、ウィーンの新しいリンク大通りの建築物の仕事をする芸術家の仲間入りをした。なお1892年(30歳)、芸術家商会は弟エルンストの死で終了した。
(1)-2 19世紀後半、グリュンダーツァイトの時代!
クリムトの子供時代から青年時代は、19世紀後半、ドイツ・オーストリアにおける経済繁栄と大型建築物建造の全盛期、グリュンダーツァイト(Gründerzeit)の時代だった。ウィーンでは、リンク大通りプロジェクトの巨大建築物の建設が、最終段階に入っていた。
(1)-3 ウィーン美術界で名声を確立!
1886-88年(24-26歳)、クリムトはブルク劇場の装飾を引き受け、金功労十字賞を授与された。ウィーン市の依頼で1888年(26歳)に製作した『旧ブルク劇場の観客席』は第一回皇帝賞をうけた。また美術史美術館で装飾の仕事を行った。こうしてウィーン美術界で名声を確立したクリムトは、1891年(29歳)、クンストラーハウス(ウィーン美術家組合)に加入した。
(2)「世紀末」!
クリムトは、古いインテリア装飾のスタイルから脱却した。ジグムント・フロイトが画期的な精神医学の論文(『夢判断』1900年等)を出版した「世紀末」前後のウィーンでは、芸術も新たなる方向を模索していた。象徴主義の影響の下、クリムトは、感情の暗部を持ち、また希望に満ちた幻想的イメージを持つ魂の心象を表現するため、新しい形式言語を探し求めた。
(2)-2  ウィーン分離派結成!(1897年)
1897年(35歳)、保守的なクンストラーハウス(美術家組合)を嫌う若手芸術家達がウィーン分離派を結成。古典的、伝統的な美術からの分離を標榜した。クリムトは分離派の初代会長に就任し、突然世間の脚光を浴びた。ウィーン市街のカールスプラッツにあるセセッシオン(分離派会館)は、新しい芸術運動の展示会場となった。分離派は展覧会、出版などを通してモダンデザインの成立に大きな役割を果たした。『ヌーダ・ヴェリタス(魂の真実)』(1899年)。

(2)-3 『学部の絵』事件!(1901-02年)
クリムトの一連の事件の中でも1900年(38歳)前後に物議の頂点を迎えたのが、いわゆる『学部の絵』と呼ばれるウィーン大学大講堂の天井画三部作(『哲学』『医学』『法学』)の大論争だ。オーストリアの芸術界は最もスキャンダラスな出来事を目の当たりにした。三部作はクリムトが1894年(32歳)に制作依頼を受けたが、理性の優越性を否定する寓意に満ち、大論争(1901-02年)となり、契約が破棄された。
(3)ジャポニズム展(1900年)!
1900年(38歳)分離派会館で開かれたジャポニズム展は、分離派とジャポニズムの接近を象徴するイベントだった。特に浮世絵や琳派の影響は、クリムトの諸作品の随所に顕著に見て取れる。『ユディト1』(1901年)。この頃、いわゆる「黄金の時代」が始まる。(ジャポニズムを呼び起こした、1867年パリ万国博覧会、1873年ウィーン万国博覧会!)

(3)-2 「黄金の時代」の始まり!(1901年頃)
クリムトは1902年(40歳)、第14回分離派展(ベートーヴェン展)に大作『ベートーヴェン・フリーズ』(1901-02年)を出品したが反感を買う。この作品は、装飾性を優先し、新しい創造性の時代の幕開けを示した。技巧的には、金箔の使用量が増え始めた頃の作品で、「黄金の時代」の始まりの時期だ。
(3)-3 『人生は戦いなり(黄金の騎士)』(1903年)!
翌1903年(41歳)、第18回分離派展ではクリムトの回顧展示が行われた。『人生は戦いなり(黄金の騎士)』(1903年)は当時のクリムトの状況を示している。
(3)-4 分離派を脱退!
1903年にホフマンらが設立したウィーン工房にクリムトは強い関心を示したが、美術の商業化だとの批判が出た。また写実派と様式派の対立、国からの補助金停止などが重なり、クリムトたちは1905年(43歳)、分離派を脱退。翌1906年(44歳)オーストリア芸術家連盟を結成。『女の三世代』(1905年)。『接吻』(1908年、46歳)は「黄金の時代」の頂点だ。

(4)クリムトの顧客は富裕な上流市民!
クリムトは、上流市民の婦人たちの肖像画を多く手がけた。彼は富裕な上流市民を顧客とした。特に、新しいアートトレンドに対し開放的なユダヤ人のパトロンが何人もいた。『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』(1907年、45歳)。
(5)1910年代!
1910年代(48歳以後)、作品が少なくなり、金箔などを用いる装飾的な作風からも脱却した。なお1914年に第一次大戦勃発。『オイゲニア・プリマフェージの肖像』(1913/1914年、51/52歳)。『赤子(ゆりかご)』(1917/1918年、55歳)。

(5)-2 風景画!
クリムトはかなりの数の風景画も残した。彼はアッター湖付近の風景を好んで描いた。正四角形のカンバスが愛用され、平面的、装飾的でありながら静穏で、どことなく不安感がある。『アッター湖畔のカンマ―城Ⅲ』(1909-10年)。『丘の見える庭の風景』(1916年)。

(5)-3 モダンアートのパイオニア!
クリムトはモダンアートのパイオニアだった。30年間(1888-1918年)に及ぶ集中的な創作活動と、数多くの栄光、そして、評論家たちとの激しい対立の後、1918年(55歳)、ウィーンで脳梗塞と肺炎により死去した。
(6)多くの女性モデル!
クリムトの家には、多い時、15人もの女性が寝泊りし、何人もの女性が裸婦モデルをつとめた。クリムトは生涯結婚しなかった。多くのモデルと愛人関係にあり、何人かの女性との間に子供をもうけている。
(6)-2 エミーリエ・フレ-ゲ!
しかし、ウィーンのモードサロンのオーナー、エミーリエ・フレ-ゲこそがクリムトの生涯の伴侶だった。クリムトの風景画に描かれ、毎年夏に訪れていたアッター湖を、彼に教えたのはフレーゲだ。クリムトの最期の言葉は「エミーリエを呼んでくれ」だった。クリムトの死後、エミーリエは生涯独身を貫いた。
(7)エロスと死!
女性の裸体、妊婦、セックスなど官能的なテーマを描くクリムトの作品は、エロスと同時に、常に死の香りを漂わせる。(若い娘の遺体を描いた作品もある。)また、「ファム・ファタル」(宿命の女)も多用されたテーマだ。そして「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出す。
(8)ユダヤ人のパトロンたち!
クリムトは自身についてあまり語らなかった。輝かしい仕事の成功にも関わらず、クリムトは社会生活に自信が持てなかった。彼はいつも青いスモック(仕事着)を身にまとい、頭髪は乱れ、出身地訛りのある下層階級の言葉で話した。オーストリア皇帝から勲章を授与されていたが、クリムトは上流階級から無視された。彼の顧客は富裕な上流市民、とりわけ新しいアートトレンドに開放的なユダヤ人のパトロンたちだった。
(8)「陽気な黙示録」の時代!
クリムトの人生は、オーストリアの作家ヘルマン・ブロッホが「陽気な黙示録」(私たちは笑いながら死んで行く)と呼んだ時代だ。クリムトはこの時代を、芸術的な探査と解釈のための題材として捉えた。
(8)-2 オーストリア・ハンガリー帝国滅亡!
彼の没年の1918年、オーストリア・ハンガリー帝国は滅亡した。その後、経済的苦難の時代を迎え、「世紀末」の記憶は色あせた。さらにナチスによる恐怖の時代が訪れ、クリムトのパトロンであった多くのユダヤ人の家族たちが、この恐怖の時代の犠牲となり、あるいは国外亡命を余儀なくされた。