季節を描く

季節の中で感じたことを記録しておく

“国宝 阿修羅展”(東京国立博物館:2009.4.28)

2009-04-29 22:06:13 | Weblog

  連休前日の午後3時、上野公園は陽射しがまだ明るい。10分待ちで“阿修羅展”に入場。

                          
 第1章 興福寺創建と中金堂鎮壇具 

  和銅3年(710)の平城遷都にともない藤原鎌足の子、不比等が春日山の麓に興福寺を創建した。その地鎮祭の時に地中に埋められたのが鎮壇具である。05国宝「金銅大盤」(奈良時代 8世紀)は五穀を盛った大きな器である。中金堂から出土した。仏教の寺院を建てるのに日本の神々に工事の安全を祈願するとは不思議な感じである。

 中金堂から出土したものが他に色々ある。17国宝「ガラス碁石形玉」(8世紀)が色とりどりでとても美しい。黄、薄緑、青、オレンジ、朱色と新鮮で1200年前の前のものとは思えない。14国宝「水晶念珠」・15国宝「水晶念珠親玉」・16国宝「水晶丸玉・水晶面取玉・水晶碁石形玉」(8世紀)はいずれも全くの曇りなく透明であるのが感動する。21国宝「瑪瑙丸石・瑪瑙碁石形玉・瑪瑙面取玉・瑪瑙念珠玉」(8世紀)は茶色できれい、すべすべである。24国宝「黒水晶玉」(8世紀)も美しい。22国宝「舎利石」(8世紀)はただの多数の小石のように見えるが仏の舎利が普通はないのでその代わりに使われる。

 驚くのは37国宝「和銅開珎」(8世紀)が大量にひもに通されてあること。一つ二つではなくたくさんある。56国宝「銀鋌(ギンテイ)」(8世紀)は銀の延べ板で素材である。同じく素材としての金も出土している。32国宝「砂金」・33国宝「金塊」・34国宝「延金」・35国宝「金小玉」(8世紀)が鈍くキラキラ輝く。

 
 

  第2章 国宝 阿修羅とその世界 

  八部衆像・十大弟子像・華原磬(カゲンケイ)(金鼓(コンク))は光明皇后が734年(天平6年)に亡き母、橘三千代(不比等の妻)の一周忌供養のために造ったものである。
 48国宝「阿弥陀三尊像及び厨子」(伝橘夫人念持仏)(飛鳥時代 7世紀)は新品のように生き生き見える。光明皇后の母親の念持仏である。思いのほか大きい。

                  

   49国宝「華原磬(カゲンケイ)」(奈良時代 734年)は優れた金工品である。『金光明最勝王経』という経典にには仏が説法しているときに波羅門が打った金鼓(コンク)の音は人々を悟りに導くようであったという。その金鼓(コンク)を模したものである。

                                                
 十大弟子像はいずれも国宝である。62国宝「舎利弗(シャリホツ)立像」(734年)は智慧第一の人と言われた舎利弗の写実的な像である。釈迦の代わりに説法ができたという。65国宝「富楼那(フルナ)立像」(734年)は大貿易商人の家にうまれ釈迦の弟子となり説法上手だった富楼那の像である。
 

  八部衆像のうち53国宝「五部浄(ゴブジョウ)像」(734年)は首のみである。象の被り物をしている。56国宝「緊那羅(キンナラ)立像」(734年)は額のすぐ上に一角をはやす。横から見るとよくわかる。55国宝「乾闥婆(ケンダッパ)立像」(734年)は音楽神であり獅子の被り物をする。52国宝「沙羯羅(サカラ)立像」(734年)は竜神で蛇が頭から胸に絡む。ここまでいずれの八部衆像も少年である。新たに仏法に帰依した異宗教の神々なので少年として描かれたのかもしれない。しかも憂いと苦悩の表情を持つ。59国宝「迦楼羅(カルラ)立像」(734年)は鳥の顔であり蛇を食べる霊鳥である。インド神話から仏教に入りインドネシアではガルーダと呼ばれる。後の烏天狗の原型とも言われる。

    

  51国宝「阿修羅(アシュラ)立像」(734年)もまた八部衆である。インド神話でアシュラは正義の神、インドラは力の神である。ある時アシュラの娘を見て気に入ったインドラは彼女を強引に自分の宮殿に連れ去る。娘を奪われたアシュラの怒りは烈しくアシュラはインドラに戦いを挑む。そしてついにインドらを追い詰める。

 インドラ神がヴィシュヌ神に助けを求めたところ海を1000年間撹拌すればアムリタができこれを飲めばアシュラに負けなくなると言われる。ヴィシュヌ神が大亀に変身し背に載せた曼陀羅山にナーガを巻き付け、アシュラをだまして頭の方をアシュラに、尾の方をデーバに引かせ海を撹拌した。途中でナーガは熱くなって口から火を噴いたがアシュラはアムリタが欲しいので我慢してナーガを引き続けた。1000年経ってアムリタができたときインドラ神は自分だけアムリタを飲んでアシュラに飲ませなかった。

  この結果インドラ神はアシュラに勝利する。アシュラ軍は惨敗につぐ惨敗。それでも果敢にインドラ軍に戦いをいどむ。めんどうくさくなったインドラはアシュラを天界から追放する。仏教はこの神話にもとずいて敗北者のアシュラを「阿修羅」または「修羅」と呼んで魔神にし勝利者のインドラを「帝釈天」と呼んでいる。阿修羅は後に仏に帰依する。「阿修羅(アシュラ)立像」は少年として描かれる。(参考:下右図はアンコールワット第1回廊、浅浮き彫りにみられる乳海攪拌(一部)。中央にヴィシュヌ、その下に彼の化身の亀クールマがいる。ヴァースキ=ナーガを引っ張っているアスラが左側に、神々が右側に描かれている。)

                
 

  第3章 中金堂再建と仏像 

  興福寺の中金堂は7回焼失し享保2年(1717)の火災後は仮金堂のままである。来年、2010年、創建1300年に当たり中金堂の立柱予定である。今回は仮金堂の諸像のうち釈迦如来坐像(江戸時代)を除く薬王・薬上菩薩立像、四天王立像が出品される。1180年、平家の南都焼き討ちによる中金堂焼失後、鎌倉時代の復興期にこれら諸像は造られた。会場に6つの仏像が並ぶ様子は壮観である。

  四天王像:まず66重文「持国天立像」(1189年)が手に玉を持ち邪気を踏みつけ東を守護する。南は67重文「増長天立像」(1189年)、北は69重文「多聞天立像」(1189年)で手に塔を持つ。西が68重文「広目天立像」(1189年)である。これらは京の仏師たちに対抗し鎌倉の康慶が奈良時代の仏像を参考に制作した。

  

  本尊釈迦如来坐像の脇侍が右側に70重文「薬王菩薩立像」(1202年)、左側に71重文「薬上菩薩立像」(1202年)である。ともに大きく4-5メートルはあり圧倒する。

  後の火災の際に運び出されて現在、残るのが72重文「釈迦如来像頭部」運慶作(1186年)で威厳を感じさせる。

                                  国宝・阿修羅展 at 東京国立博物館
 

  第4章 バーチャルリアリティ映像「よみがえる興福寺中金堂」と「阿修羅像」 

  かつて奈良時代の興福寺の伽藍の全体が映像化されて描かれ規模の壮大さが印象的だった。また阿修羅が人間でなく異形のものとして造形される仕方が説明される。

 
 会場を出たのは午後5時過ぎ。風がやや冷たくなった。影が増した夕方の道をもどる。
 


“カルティエ・クリエイション”展(東京国立博物館表敬館:2009.4.26)

2009-04-27 00:06:17 | Weblog

  春の夕刻、午後4時半、国立博物館に行く。目指すのは“カルティエ・クリエイション”展。表敬館。  とても混んでいたので空いているところから見る。                  

  そこは2階:ルームCである。最初に見たのは1930年代半ばすぎの作品。169「ネックレス」(1936年)はルビー66個の赤が美しい。170「ティアラ」(1937年)はアクアマリンの青が魅力的。171「ネックレスとブレスレット」(1936年)は淡い緑色の宝石を使うが、これはぺりドットである。172「ティアラ」のオレンジ色の宝石はシトリン。宝石の中で人気があったルビー(赤)、エメラルド(緑)は高価である。1929年に始まる世界恐慌の不況の中、それまで「半貴石」とされていた宝石が使われるようになった。それがアクアマリン(青)、ぺりドット(緑)、シトリン(橙)などである。

シトリン

アクアマリン

ペリドット

 

 

 

    

  20年代の最後の頃以降、30年代はジュエリーはプラチナとダイヤモンドを使って製作され白が主流となる。ホワイト・アール・デコの時代である。163「バングル」(1937年)はその典型である。この作品は幾何学的に四角が並び端正でいかにもアール・デコを感じさせる。 193「ネックレス」(1928年)は大きく五重になっており巨大なシトリン(黄色)が際立つ。プラチナとダイヤモンドが基調の儀式用ネックレスでインドのマハラジャのために製作された。 

                            poster for 特別展「Story of …」カルティエ クリエイション~めぐり逢う美の記憶            マハラジャ

  1930年代の終わりになるとイエローゴールドが再び多く利用されるようになる。ゴールドは土台であるだけでなく、そのものが装飾品・宝石として使われる。第2次大戦でプラチナは「戦略的」素材と宣言されゴールドのみが唯一の入手可能な貴金属となった。178「ブレスレットとイヤークリップ」(1938年)のセットはゴールドの黄色とサファイアの青の対照が美しい。大きな四角が並ぶデザインはシンプルで大胆である。 

  2階:ルームDでは、199「『2本のフェーン(シダ)の葉』ブローチ」(1903年)が落ち着いた感じでとてもよかった。プラチナに規則正しく作られたくぼみにダイヤモンドが精細にマウントされた「ミルグレイン」のセッテングである。これは1900年代に登場した新しい宝石のスタイルである。重々しい金や銀の土台からプラチナの土台へと変化した。プラチナの強靭さと可鍛性がきらめく糸状の金属を土台とするという革新を生み出す。

                             スクロールティアラ

  217「ブレスレット」(1925年)はプラチナ、ダイアモンドの白とコーラル(珊瑚)のピンクの組み合わせが優雅である。珊瑚はカルティエが選好した素材の一つである。 

  2階:ルームFは花と動物のコーナーである。1933年、ルイ・カルティエはジャンヌ・トゥーサンをハイ・ジュエリー部門のトップとする。彼女は様式化されたアール・デコから離れて花と動物を装飾化する。これは「トゥーサン趣味」と呼ばれる。これはカルティエの新たな伝統となった。257「『ブルーローズ』クリップ・ブローチ」(1959年)はサファイアの青いバラが美しく魅力的である。260「『開閉式』フラワー・クリップ・ブローチ」(1969年)、261「『開閉式』フラワー・イヤー・クリップ」(1967年)はほぼ同形の作品である。ゴールド・ワイヤーでできた花弁の金色が華麗でありそこにエメラルド(緑)・サファイア(青)・ルビー(赤)・ダイヤモンド(白)の花蕊がきらめく。

  動物では「キメラ」のモチーフが神話的多義性と力強さを表現する。264「『キメラ』バングル」(1980年)は金の体とエメラルドの眼(緑)の対照がどきどきさせる。264「『双子のキメラ』の頭部バングル」(1980年)はホワイト・ゴールドとダイアモンドの白い体に赤いルビーの模様の組み合わせが力強くすばらしい。 

  1階:ルームAでは034「『エジプト』スタイル ペンダント」(1913年)が夢の国のおとぎ話のようにかわいい。プラチナとダイアモンドが基調だがオニキスの黒が神秘的である。第2次大戦前の時期はカルティエではオニキスの使用が盛んであった。オニキスはダイヤモンドまた宝石それぞれの個性を際立たせる。(Cf. 後に1922年にハワード・カーターによるツタンカーメン王の墓の発見はエジプトの流行を生み出す。)025「ストマッカー(胸飾り)ブローチ」(1907年)はプラチナとダイアモンドの白にサファィアの青が映える。 

  1階:ルームBにはイスラム教ペルシアやインドの芸術の影響を受けた作品がある。これは1910年以降、カルティエの作品の一部に見られる。098「『インド』スタイル クリップブローチ」(1938年)はダイアモンドのほかにいくつものサファイア(青)、ルビー(赤)、エメラルド(緑)、ターコイズ(水色、トルコ石)などが房になった豪華なものである。102「ティアラ」(1936年)はプラチナと彫刻を施したターコイズ(水色)の組み合わせが異国趣味を示す。 

  一通り見終わればもう夕方5時30分に近い。夕刻で上野公園は風が強く寒かった。

                                  クロコダイルネックレス

                            

 

 


箱根ラリック美術館(2009.3.30)

2009-04-02 20:52:16 | Weblog

 アール・ヌーヴォーとアールデコをともに代表する巨匠ルネ・ラリック(1860-1945)の美術館である。彼は初めアール・ヌーヴォー時代、宝飾デザイナーとして活躍していた。彼の宝飾品は1900年パリ万国博覧会に100点以上出品され大成功をおさめる。その後、1908年、初めてフランソワ・コティのために香水瓶を制作し、これがまた成功する。こうして彼は第1次大戦後、戦間期、アール・デコを代表するガラス工芸作家となる。1925年パリのアール・デコ(装飾美術・工業美術)博覧会で彼は会場のモニュメントとなるガラスの噴水を製作した。

                                  

 アール・ヌーヴォーの彼の装飾品はジャポニズムを引き継いだトンボ、蝶のモチーフが傑出している。また七宝焼きの微妙な淡い色合いが美しい。アール・デコの彼のガラス製品は単に工業美術的でなく、装飾美術的要素が強い。装飾における単純さと過剰さがきわどいバランスを保っている。 

               

 ラリックが制作したガラス・パネルで飾られた「オリエント急行」の車内が予約制(コーヒー・デザート付き)で見られる。アガサ・クリスティ原作「オリエント急行殺人事件 」(1974年の映画)で撮影に使われた列車、その1両が展示されている。 

                   

 美しく端正な庭と瀟洒な建物をもつモダンな美術館である。

                       


“肖像の100年:ルノワール、モディリアーニ、ピカソ”展(箱根、ポーラ美術館、2009.3.30)

2009-04-02 20:01:56 | Weblog

 とても風が冷たくて寒い日だった。3月だというのに。日射しはでも明るかった。強羅からバスで15分くらい。モダンな美術館。音声ガイドを借りて鑑賞。 

 “Ⅰ.肖像の100年”  ルノワール「レースの帽子の少女」(1891)が茫洋としてかわいい。有名なシャガール「私と村」(1923-24)は再会して懐かしかった。ローランサン「ヴァランティーヌ・テシエの肖像」(1933)はドレスの色が美しくとてもよい。ピカソ「帽子の女」(1962)は典型的なキュビズム的作品。色々に見えていかにも不思議。

 “Ⅱ. ポーラ美術館の絵画”  シスレー「ロワン河畔、朝」(1891)は明るく爽やかな印象派的作品。税関吏ルソー「異国風景」(1910)は一目見て彼の作品とわかる。藤島武二「女の横顔」(1926-27)には気品がある。ルネサンスの様式を真似たもの。

          

  “Ⅲ.化粧道具”  アールヌーヴォーの銀製手鏡がずらっと並び壮観。どれも重そう。値段が高そう。そして磨けばピカピカになるのにと思う。化粧品の会社だから化粧道具を集めたのだと納得。 

 レストラン「アレイ」で昼食、Aコース2350円。明るくて外の景色が美しくおいしかった。 光にあふれ自然と共生する美術館である。 

  PS:ホールに何点かの彫刻がある。その中でブールデル(1861-1929)「バッカント」がとてもよかった。あの荒々しいバッカスの巫女の彫像である。イサドラ・ダンカンがモデルだという。すばらしい。