「一番大切なのは、家族である」というメッセージ。
「人間」の最後の決断は、理解できる。彼女は、家庭内暴力の加害者となった兄に、「家族として、寄り添う」と決断。
「神」の決定も、理解できる。「自動車事故で死んだ妹ちょうちょと、後追い自殺した姉ちょうちょを、生まれ変わらせて、ひとつの家族とする」と決定。
「ちょうちょ」(姉)は、妹ちょうちょの死後、「自分が自殺して神に会う。そして、神に頼んで、妹ちょうちょを生き返らせてもらう」と決断し、実行した。
しかし今、姉ちょうちょは、自分の決断が間違いだと思う。なぜなら「妹ちょうちょを生き返らせたとしても、自分が死んでいるから、家族が復興できない」と思うから。
しかし、ここで観客の私の見解では、姉ちょうちょの決断は、間違いでない。
なぜなら、家族は、本来、「思いor理念」の中に、存在するから。姉ちょうちょと妹ちょうちょとの間に、現実の家族、事実としての家族が出来なくても、永遠の理念としての家族が、存在するor存在可能である。
一方で、この世に生きる妹ちょうちょ、他方で、あの世に生きる姉ちょうちょ、両者にとって、事実的家族は成立しないが、各々の思いのうちに。理念的家族が存在し、存在し続ける。
姉ちょうちょが、「自分が自殺して神に会う。そして、神に頼んで、妹ちょうちょを生き返らせてもらう」と決断し実行したことは、間違いでない。
彼女は、「永遠の理念としての家族」に、殉じた。
「神」は偉大である。非事実的な理念的家族を、再び、事実的家族として復興するのだから。
初めに、姉ちょうちょと妹ちょうちょの事実的家族。
次いで、(観客のわたしの見解では、)永遠の理念的家族の出現。
最後に、偉大な神が、理念的家族に、再び、事実的家族の形態を付与する。
かくて、「もういちど、バタフライ」の題の通り、事実的家族の復興の物語が、完成する。