季節を描く

季節の中で感じたことを記録しておく

特別展「茶の湯」東京国立博物館・平成館(2017/5/14)

2017-05-16 18:14:02 | Weblog
一 足利将軍家の抹茶:唐物荘厳と唐物数寄
 12世紀頃、中国の宋からもたらされた点茶(抹茶)という新しい喫茶法が、次第に日本の禅宗寺院や武家に広まる。彼らは「唐物」で自らのステイタスを示した。
 室町時代、15世紀頃には、足利将軍家に最高級の唐物が集められた。唐物を愛でる「唐物数寄」が、のちの「茶の湯」に大きな影響を及ぼす。

 国宝「青磁下蕪花入」(南宋時代・13世紀、アルカンシエール美術財団蔵):中国の青磁は鎌倉時代以降、日本へ大量に運ばれ、茶碗、花生、香炉など茶湯道具として珍重された。


二 佗茶の誕生:心にかなうもの
 15世紀末になると町衆が力をつけ、連歌や能、茶、花、香などを楽しむ。そうしたなか、珠光(1423〜1502)や「下京茶の湯者」と呼ばれる人々が、唐物だけではなく、好みに合った「高麗物」、「和物」へと向かい、茶湯道具に対する価値観が変化する。この「侘茶」は、武野紹鷗(1502〜1555)ら、次の世代へ広がる。
 
三 佗茶の大成:千利休とその時代
 安土桃山時代、侘茶を継承した千利休(1522〜1591)によって茶の湯は天下人から大名、町衆へと、広く深く浸透する。天下人、豊臣秀吉の茶頭となった利休は、珠光以来の伝統を受け継ぎ、唐物に比肩する侘茶の道具を見い出しただけでなく、新たな道具を創り出す。続いて、古田織部(1544〜1615)が、利休の精神を継ぐ。

 重文「黒楽茶碗 銘 俊寛」長次郎(安土桃山時代・16世紀、東京・三井記念美術館)


四 古典復興:小堀遠州と松平不昧の茶
 江戸時代、太平の世において、小堀遠州(1579〜1647)は、武家の茶を再興し「きれいさび」と称される新たな茶風を確立した。また、江戸時代後期、すでに茶の湯が形骸化していたといわれるこの時代、松江藩主・松平不昧(1751〜1818)は、古典をたどり、道具を収集、評価した。

 重文「油滴天目」中国・建窯(南宋時代・12〜13世紀、九州国立博物館蔵):松平不昧は名器を、宝物、大名物、中興名物と細かく分類、評価した。本作品は古田織部所持と伝わり、不昧の『雲州蔵帳』に「大名物」と記載されている。

“国立新美術館開館10周年、チェコ文化年事業、ミュシャ展” 国立新美術館(2017.05.11)

2017-05-13 18:07:16 | Weblog
 アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)(1860-1939)。チェコ語表記ではムハ。オーストリア帝国領モラヴィア(現代のチェコ)生れ。

(1)アール・ヌーヴォーの旗手(1895年、35歳)
 ミュシャ、19歳、ウィーンで夜間のデッサン学校に通う。23歳、エゴン伯爵がパトロンとなる。25歳、ミュンヘン美術院に入学。28歳、パリにてアカデミー・ジュリアンに通う。
 彼の出世作は1895年(35歳)、舞台女優サラ・ベルナールの「ジスモンダ」のポスターである。この作品は、パリにおいて大好評を博し、彼はアール・ヌーヴォーの旗手となる。
 煙草用巻紙(JOB社)、シャンパン(モエ・エ・シャンドン社)、自転車(ウェイバリー自転車)などのポスター制作もおこなう。
 ミュシャは、また、装飾パネルも多く手がける。連作『四季』(1896)など。
 パリでの初期苦闘時代、ミュシャは雑誌の挿絵によって生計を立てた。次第に認められ、パリの大出版社、アルマン・コランの挿画家として活躍。最初に高い評価を得たのが、『白い象の伝説』の木版画33点(1894年)だった。


 (2)万国博覧会ボスニア・ヘルツェゴビナ館の壁画装飾(1900年、40歳)
 1900年、万国博覧会でボスニア・ヘルツェゴビナ館の壁画装飾を手がけたことがきっかけとなり、ミュシャはその活動を変える。作品制作のため、現地を訪れたミュシャは、オーストリア帝国支配下の現地の人々の窮乏ぶりに驚き、「僕は今まで何をやっていたんだ・・・」と思う。
 そして後半生を、画業を通しスラヴ民族の意識高揚のために尽くそうと決意する。
 彼の生まれ故郷チェコも、同じスラヴ民族として、繰り返し異民族であるゲルマン系民族の侵攻に苦しんだ。

(3)『スラヴ叙事詩』制作の3者契約(1909年、49歳)
 愛国主義に目覚めたミュシャは、『スラヴ叙事詩』制作を決意する。それは、スラヴの諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという「汎スラヴ主義」にもとづく。スメタナの組曲『わが祖国』(1882年初演)を聴いたことで、構想を抱いたといわれる。
 パトロン探しと資金集めに、ミュシャは、1905年一旦、アメリカへ渡る。1909年、パトロンのチャールズ・クレイン、プラハ市と3者契約を締結し、チェコへ帰郷。『スラヴ叙事詩』制作に専念する。

(4)チェコスロバキア共和国成立と『スラヴ叙事詩』の発表(1918-9年、58-9歳)
 第1次大戦後、1918年、オーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立。ミュシャは、新国家のため紙幣、切手、国章などのデザインを無報酬で請け負う。
 1919年、20点の絵画から成る連作『スラヴ叙事詩』が初めて展覧会で発表された。さらに、完全版が1928年に再度発表される。しかし彼が描いたアカデミックなスタイルの具象画は、「時代遅れ」とみなされ、評判は今ひとつだった。


(5)ナチスドイツによるチェコスロバキアの占領・解体とミュシャの死(1939年、79歳)
 1939年春、ナチスドイツがチェコスロバキアを占領・解体すると、ミュシャは「愛国者」として逮捕される。ミュシャ(78歳)は厳しく尋問され、釈放の4ヶ月後、死去する。
 『スラヴ叙事詩』は、彼の没後、長らく美術史から姿を消す。

(6)チェコスロバキア独立(1945年)&共産党政権(1948年成立)によるミュシャ黙殺
 第二次大戦後、チェコスロバキアは独立を果たす(1945年)。さらに、1948年に共産党政権が成立。共産党政権は、愛国心との結びつきを警戒し、ミュシャの存在を黙殺した。
 『スラヴ叙事詩』は、わずかに毎年夏、ミュシャの生まれ故郷にあるモラフスキー・クルムロフ城でひっそりと公開されるのみだった。
 しかし、チェコ国民のミュシャへの敬愛は生き続け、プラハの春翌年の1969年には、ミュシャの絵画切手数種が制作された。
 世界的には、1960年代以降のアール・ヌーヴォー再評価とともに、ミュシャは、改めて高い評価を受けた。

(7)ビロード革命による共産党政権崩壊(1989年)&『スラヴ叙事詩』がチェコ・プラハ市の市民会館へ戻る(2012年)
 1989年、ビロード革命で共産党政権が崩壊。
 1993年、連邦解消法に基づきチェコ共和国とスロバキア共和国が分離(ビロード離婚)。
 ミュシャの『スラヴ叙事詩』の再評価が進み、2012年、チェコの首都、プラハ市の市民会館へ戻った。