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英国ヴィクトリア朝絵画の巨匠、ジョン・エヴァレット・ミレイ展(Bunkamura ザ・ミュージアム)

2008-08-31 23:09:47 | Weblog

 夕方の渋谷。雨。いつも通りたくさんの人。足早にBunkamura に向かう。 

 イギリスの画家ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-1896)は初期のゴッホに強い影響を与える。また「オフィーリア」(1851-52年)はロンドン留学中の夏目漱石に感銘を与え『草枕』の中で語られた。私個人としては『不思議の国のアリス』(1865)、『鏡の国のアリス』(1872)の同時代人としてミレイに関心を持った。

  ミレイは確かに神童である。10歳の作品「ギリシア戦士の胸像」(1838-39頃)のデッサンはすばらしくうまい。

  ラファエロの均整が取れた古典的様式の拒否としてラファエロ前派をミレイたちは結成する。芝居がかったアカデミー絵画への反抗である。均整への対極としてわざと愚直な構図をとること、リアリズムを目指すこと、したがって細密に描くことなどがラファエロ前派の特徴である。ラファエロ以前、中世・初期ルネサンスの絵画はそのようなものと定義された。

 「両親の家のキリスト」(1849-50)はスキャンダラスな作品とみなされた。マリアは普通の母親でありイエスの手の怪我は生々しくリアルである。ヴィクトリア女王のもとに特別に運ばれて鑑賞されたという。

             1849-50年 油彩・キャンヴァス テート蔵 Tate

 テニソンの詩に由来する「マリアナ」(1850-51)ではあの人は来ないと嘆く捨てられた女性がリアルに同時にエロチックに描かれる。青が印象的。

                1850-51年 油彩・板(マホガニー材) テート蔵 Tate

 ラファエロ前派期のミレイの頂点が「オフィーリア」(1851-52年)である。写真撮影のようなリアルさを理想とした彼の植物描写、またモデルを実際に浴槽に浮かべて描いたオフェーリアの溺死の姿は人をひきつけた。

              1851-52年 油彩・キャンヴァス テート蔵 Tate

  ラファエロ前派が消滅したあとミレイは物語性を持った風俗画を描く。イギリスがクリミア戦争に熱狂していたとき彼はあえて消防士の献身を「救助」(1855年)で描く。スコットランドの反乱で敗北しとらわれた兵士の赦免を主題とした「1746年の放免令」(1852-53)は人気を博し商業版画にされた。

 「信じてほしい」(1862)は父親が娘に手紙を渡せとせまる場面を描き物語を予想させ“プロブレム・ピクチャー”と呼ばれるジャンルに属した。

 ミレイは唯美主義の絵画も制作する。物語にこだわらず美そのものを描く。彼の三人の娘をモデルとした「姉妹」(1868)は唯美主義の傑作でありリアルであるとともにどこか幻想的な雰囲気を漂わせる。

                1868年 油彩・キャンヴァス 個人蔵

 人間の様々な情緒を主題とした“ファンシー・ピクチャー”もミレイの作品にある。「はじめての説教」(1863)・「二度目の説教」(1863-64)の連作は子供の緊張そして退屈をそれぞれ対比的に示す。

                  1863年 油彩・キャンヴァス シティ・オブ・ロンドン、ギルドホール・アート・ギャラリー蔵

 ラファエロ前派的な細密さを全く捨て去って荒削りに劇的なテーマを扱った一群もある。16世紀末に活躍し反逆罪で処刑された「ローリーの少年時代」(1869-70)、老水兵の心情を描きイギリスでの北極探検の機運を盛り上げた「北西航路」(1874)、最初の殉教者「聖ステパノ」(1894-95)などである。

                  1869-70年 油彩・キャンヴァス テート蔵 Tate 

                1874年 油彩・キャンヴァス テート蔵 Tate

  彼はヴィクトリア朝でもっとも成功した画家であるがその豊かな収入は上流階級の肖像を描くことで得られた。と同時にロンドンの美術界・社交界から逃れてミレイはスコットランドで風景画も制作した。「露にぬれたハリエニシダ」(1889-90)はターナーの風景画の雄大さも感じさせる傑作である。

                     1889-90年 油彩・キャンヴァス ジェフロイ・リチャード・エヴァレット・ミレイ・コレクション

  見終わって作品世界から再び現実に戻る。夕方の薄明が終わり外は夜である。雨がまだ降っていた。歩いて渋谷駅にもどる。


フェルメール展:光の天才画家とデルフトの巨匠たち(東京都美術館)

2008-08-28 18:37:35 | Weblog

 雨の多い8月下旬。この日も曇り。東京都美術館のフェルメール展に出かける。

 ヤン・ファン・デル・ヘイデンが同じデルフトの旧教会を15年越しに1660年頃と1675年頃の2回描く:「アウデ・デルフト運河と旧教会の眺望」。2度目の作品は空気遠近法を採用。 

                  

 デルフト・スタイルの特徴のひとつはデフォルメされた遠近法。それがいくつかの作品で印象的である。ヘラルト・ハウクヘースト「デルフト新教会の回廊」(1651年頃)はパノラマ的な遠近法。

 ヘンドリック・ファン・フリート「オルガン・ロフトの下から見たデルフト教会の内部」(1662年頃)は変形された一点透視法でかつ教会のサイズそのものもアレンジされている。

                  

  カレル・ファブリティウスはレンブラントに天才と称され、またフェルメールの師であるともいわれる。彼の「歩哨」(1654年頃)はこの時代の兵士の実情がわかり強烈。平時なのにひざが破れて膝頭が見えるズボンをはく。彼が銃に火薬をつめる。

            

  デルフト・スタイルの特徴をなす新境地が風俗画である。ピーテル・デ・ホーホ「窓辺で手紙を読む女」(1664年頃)は当時確立した郵便制度のもとで最新流行の手紙を取り上げる。彼はデルフトに特有の絵画技法の確立者である。デルフト・スタイルに特徴的な光の効果の重視もこの作品で典型的に示されている。 コルネリス・デ・マン「カード遊びをする人々」(1665-70年頃)は風俗画であり、女の胸元を見る男を描き怠惰への戒め・恋の駆け引きなどを示す。 

 フェルメール(1632-75)の作品は全作品30数点のうちの7点が展示されている。最初期の「マルタとマリアの家のキリスト」(1655年頃)ではかいがいしく働くマルタが画面の中央にありオランダの当時の労働倫理が主張される。

          「マリアとマルタの家のキリスト」1655年頃

 「ディアナとニンフたち」(1655-56年頃)は月と狩の女神ディアナにたとえた妻に捧げた作品とも言われる。

         「ディアナとニンフたち」1655-56年頃

 くっきりと建物が描かれ赤と黄色が際立つのは「小路」(1658-60年頃)。

           「小路」

 いかにも危うい情景だが色恋沙汰への戒めであるのが「ワイングラスを持つ娘」(1659-60年頃)。

           ワイングラスを持つ娘

 「リュートを調弦する女」(1663-65年頃)はフェルメール円熟期の作品であり光の効果が最大限に生かされている。

           リュートを調弦する女

 偽作とされていた「ヴァージナルの前に座る若い女」(1670年頃)は高価なラピスラズリの使用がフェルメール作品の決め手のひとつとなった。

               ヴァージナルの前に座る若い女

 「手紙を書く婦人と召使い」(1670年頃)は光が印象的。 

           手紙を書く婦人と召使い

 オランダ、そしてデルフトが栄えた短い時代を思い起こさせるコンパクトなフェルメール展。やがて来る短い秋を予感させるよう。都美術館の外は曇り。道と木々が雨のあとにぬれていた。


金GOLD:黄金の国ジパングとエル・ドラード展(国立科学博物館)

2008-08-03 10:59:42 | Weblog

 上野の国立科学博物館へ行く。この日も暑い。上野公園の木陰が救いだった。

 日本・コロンビア外交関係樹立100周年記念のこの特別展は、自分が見た限りで分類するとⅠ金の特性、Ⅱ日本の金、Ⅲコロンビアの金、Ⅳ現代の金、4本立ての展示だった。

 Ⅰ金の特性では①金鉱を探すときは紫の霧を見つけるとの指摘が面白い。金の蒸気は紫なのだという。それを見せる装置もあった。②オーストラリアの自然金、最大のものは75キロ。模型があった。1グラム3000円として1キロ300万円だから75キロは2億2500万円である。現在、世界2位の自然金、ニューモント・ノルマンディー・ナゲット25キログラムが実物の展示だった。 ③金は重い。1000立方センチ(1リットル分)の金塊が19.3キロ、20リットルポリタンク1杯の石油に相当する。実際に触ることができ重くて持ち上げるのが大変だった。銀10.5、銅8.9、アルミ2.7も塊を持ち上げて比較できて良かった。(なお鉄は7.8である。)

  Ⅱ日本の金:①北海道に明治30年代、ゴールド・ラッシュがあった。最大760グラムの自然金が見つかったという。砂白金の実物が興味深かった。

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 ②国宝が展示されていた。金銅製棘葉形杏葉(コンドウセイ・キョクヨウケイ・ギョウヨウ)で藤の木古墳出土、鞍の付属品。緑青が取り除かれ金色が輝く。

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 ③興福寺の鎮壇具も国宝。金塊・砂金・延金(ノベキン)が建物の守護のため埋められたという。④金字の経典の作り方について説明がされていた。金泥(ニカワ+金粉)で字を書いたあと猪の牙で磨くと金色に光る。⑤668年天智天皇創建の崇福寺の舎利容器も国宝。金・銀・銅の箱に順に舎利が入れられていて愉快。⑥奥州藤原氏が1.7トンの金で買った宋版一切経がある。この藤原氏の黄金の文化が日本を黄金の国ジパングとマルコポーロに呼ばせたのかもしれない。

 ⑦秀吉、黄金の茶室の復元があったが金箔張りであって障子の桟が金無垢でないのが残念だった。

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 ⑧聚楽第跡出土の金箔瓦(重文)はなかなかすごい。

 ⑨江戸時代の大判5種類、小判10種類の展示は楽しい。慶長小判は金15.0グラムを含むのに対し元禄小判は金10.2グラムとひどい。ともに小判の重量は17.9グラムである。

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 Ⅲコロンビアの金:①コロンビア黄金博物館には200BCからAD1600までの金製品が収集されている。インカでは太陽信仰のもと金は「太陽の汗」と呼ばれた。エル・ドラード伝説の発祥地はコロンビア。ボゴダ郊外のグアタビータ湖での宗教儀式では体を金にぬった首長が金の奉納物を湖に沈めたという。エル・ドラードとは黄金の人の意味である。②金製の鳥型ペンダントがたくさんある。シャーマンはトランス状態の中で宇宙の異次元に入り込み鳥として飛行しすべてを見、すべてを解き明かす。そもそも人間と動物は入れ替わり可能とされた。とりわけシャーマンは鳥の飛行、ジャガーの力、コウモリの視力を生きながらに獲得する。

 ③コウモリ男のペンダント(金製)はシャーマンの変容の様子を示したもの。

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 ④金製品の主要な種類は耳飾り・鼻飾り・ペンダント・胸飾りである。半人半獣像が多い。

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 ⑤変わったところでは石灰用容器(金製)があった。コカの葉の即効性を引き出すための石灰をいれる容器。長い棒がついた蓋を持つ。

 Ⅳ現代の金:①世界の金の生産量は年間約2500トン。銅約1300万トン、鉄約7億トンと比べると非常に少ない。②北島康介のアテネ・オリンピックの金メダル(実物)がある。オリンピックの金メダルは銀に金メッキだが、ノーベル賞のメダルは18Kの無垢である。これも本物が展示されていた。③人間国宝、江里佐代子作品の截金(キリガネ)細工は精緻。截金(キリガネ)は玉虫の厨子にも見られる技法である。

 金に関して多方面からの展示だった。

 科学博物館をでればまだ午後の日差しが強く空気は暑い。それでも上野公園の人出は多かった。