青龍神界鏡

次はまた首相してみんかお前。
https://www.youtube.com/watch?v=CsI7GSs4d1s

百九十一面目   青龍記 その一

2014年01月31日 12時00分01秒 | 投稿

奈良県桜井市には三輪山という山が鎮座しています。
中々探す事の無い秀麗な円錐形です。
この山は縄文時代から始原的信仰形態の祭祀場であった事が出土品の学術解釈から推測されています。
現在は神奈備山(かんなびやま)、神の籠る神体山を社の御神体として奉ずる大神神社(おおみわじんじゃ)の背後で、奈良県の一宮(いちのみや、高い格式)の象徴となっています。
私が霊能力で調べると、三輪山信仰の起源の目的は特定出来ません。
余りに雑多なのです。
縄文時代、周辺に住居を構えた人々が権勢の主張の為に、見栄えの良い三輪山で行った各種の儀礼的行為の数々が初期振動のようです。
権勢の目的はそして、雑多に細分割されます。
儀礼的行為以前には、無名の民の意味深な踊りが見えます。
目的は、大人しげな斜面の山での自己陶酔的演劇への参画が自己と周囲に期待させるやもしれぬ、共同体内の道楽地位への当選です。
時代を経て後続していった祭祀の変遷は常時、雑多さの流入口でした。
そして決定的な遺伝子の変質点を迎えます。
今から約八千年前、自動的定立を見た不可視の、定立者不在の摂理により、この山はある物の沼としての内装整備が完了したのです。
ある物とは、謎の振る舞いを見せる万物付随の波運動の因子、霊的波動です。
この霊的波動は、非現実世界への逃避欲を自己陶酔的に正当化しつつの怠惰が、出自の八割を説明出来ます。
今から約六百年前、大量の霊的波動を宿した山は起動を始めます。
入山中の人々に奇跡を見せ出し始めたのです。
衣服を揺らす。
意味深な解釈が起きる名前の昆虫群を道先に出現させる。
深い因縁を抱えた人間との偶然の出会いを与える。
目的は謎です。
人々の人生軌道を思いやった上での、不可思議象限への気付きを通じた過去への回顧の促し、社への尊崇の念の確保等、道筋の立つ推論は奇跡の遭遇者の衣の裾の糸からは辿れないのです。
ただ雑多な現象群との遭遇場なのです。
遭遇者への利益は、実のところは何もありません。
主観的に体感する利益があったとしても、起きてしまう事実上の利益については摩耗による消滅が起きるのです。
遭遇した奇跡を起点とするあらゆる思考、純朴な尊崇の念等は一定量がこの世の常識の向こうの不可思議象限の利益として吸収されてしまいます。
始め出した祭祀については、継続という功徳は自身の意識にもちろん刻まれる事になりますが、発生を期待するのは自由として、不可思議な救済、人生の導き等の利益はありません。
祭祀の際の想念は三輪山に渦巻く霊的波動の沼を太しめるのみです。
太しまった三輪山の沼の目的はただそこで渦巻くのみです。
そこで人間に奇跡を気紛れにかざし、不可思議象限の存在を気付かせていくのです。
ところで人間はこの山で不可思議象限の実在を気付かずとも、現実世界での五感の活躍を通じ、堂々と日々を歩む事で実りの多い人生を過ごす事が出来ます。
過去一時的に禁足地(進入不可の地)とされていた神秘の山に入山して奇跡を期待する必要など無いのです。
滞留を続ける霊的波動の沼は歴史を経て開闢してしまった異世界への入口です。
もはや未来永劫これは閉じる事は出来ません。
三輪山の特殊属性の原因は、日本人の肉体的素因に由来します。
堕落への耽溺欲の強さ、堕落へのなし崩し的耽溺権の掌握力、集団への自己埋没時に於ける責任感の壊死速度といった、日本人が遺伝的に継承してきた緒元が山の起動の遠因です。
長期間にわたる祭祀や祭祀もどきによる、異世界への逃避欲でくくられる怠惰想念の滞留が異世界へのもはや閉じぬ入口です。
山への接近は危険なだけです。
好奇の接近履歴とは何と、死後の輪廻を経ても恒久的に消えません。
重度となると人生の機知駆動力が完全に壊死し、治りません。
この山に鎮座坐(ましま)すとされるのは神名、大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)の奇魂(クシミタマ、魂の奇しき働きを司る力)、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)です。
神名の物は超自然的存在の意味があり、非通常世界に属する異形の力、鬼(もの)に通じます。
私は“偉大な奇跡の主”という解釈を見つけていました。
山への鎮座の機縁とは政治的でした。
そして政治的理由の歴史的な裁縫行為の結果、首尾一貫した社史にはもはや誰にも到達出来なくなっています。
何故なら存在が無いからです。
残念ながら古事記(こじき)の編纂経緯、現在の内容からして雑多なのです。
古事記では大国主大神には蜂、百足(ムカデ)に囲まれる試練が訪れます。
このような試練を記憶し、三輪山を訪れる者に待つ道のりにはそして、神話通り蜂と百足が現れます。
つまり奈良県の霊的波動が、大国主大神が祀られる島根県の出雲大社(いずもたいしゃ)の二礼四拍手一礼(にれいよんはくしゅいちれい)の礼拝作法を覚えていると奇しき事に、神話を実現してしまうのです。
近辺に伝わる伝承では三輪山には蛇神が七巻き半数えてとぐろを巻いているそうです。
ところで、蛇神伝承と三輪山に関する明晰且つ大量の記憶と共に神社を訪れれば、境内の巳の神杉(みのしんすぎ、蛇の住む杉)に開いている穴ぐらが、姿を見せぬまま鳴き声を聞かせてくれます。
その主は分かりませんが、杉の名と奉げられている卵からして蛇のものであると想像してしまいます。
辺津磐座(へついわくら、下の方に在る神霊の依代の岩)近辺で蜂に、中津磐座(なかついわくら、中に在る神霊の依代の岩)近辺で百足に出会っていれば、神話との心地良い偶然に登拝客は心が躍ります。
山中の足先を常に先行する動きを見せていた蜂が頂上前でついに視界から消えます。
「案内してくれんのかい。」
と声をかけていた者に、自然万象の意図を編んだ橋の上を人に歩ませるこの世非ざる存在の力の索引はまだ辞書にありません。
三輪山頂上の奥津磐座(おきついわくら、奥に在る神霊の依代の岩)はほんの数百年程前に権勢の主張を目的に大勢の人間が頂上に持ってきた岩が正体です。
大物主大神と異名同神説のある物部氏(もののべし)の祖神邇藝速日命(ニギハヤヒノミコト)の被葬推定地は奥津磐座ですが、霊能力によるとこの異名同神説は単なる数多くの解釈群のつぎはぎの結果でした。
山中のものの破壊や取得は一切禁じられている為、磐座近辺で立ち塞がる蜘蛛の糸はしゃがんでくぐります。
奥津磐座には撒かれている清めの塩が見える事があります。
磐座から更に奥に進み斜面を下った盾状(たてじょう)台地では祭祀具が出土していますが、ここへ至る道は存在していません。
奥津磐座の前では落ち葉の埋もりから姿を見せぬまま聞こえる声が巳の神杉のものと同じなら、その主は蛇と推測してしまいます。
姿を探そうとするも、その鳴き声の直後に聞こえてくる、落ち葉が鳴らしてくる雨音が偶然にも鳴き声と全く同じ“カカカ”という音なら、山と本殿を飲み込む何らかの現実理力無視存在をついに想定せざるを得ません。
蛇の居所を傘の先で探そうとするも辺り一面は蛇の鳴き声で埋まり、全く分からなくなります。
頂上から高宮神社(こうのみやじんじゃ)に向かう手前で空中を停止浮遊したままの蜂の交尾が“ブーン”と羽を鳴らして存在を知らせつつ待っており、下山後に山への入口近くの狭井(さい)神社拝殿前に向かおうとすると、立つ場所を示すように拝殿前の一点を雲間の光が照らし、小雨が再開すれば気候すら操る祭神の祝福であると、感動せざるを得ません。
三つの磐座群の前では、山でかつて遭遇した事の無い衝撃や、それまでの多くの衝撃の連続であった人生を中和する意味合いでは無く、別の名前を名乗る事を真剣な面持ちで宣言していく当人は今や私生活、仕事面双方に於いて太陽神と蛇神(だしん)信仰の地、物部(もののべ)氏族とは無関係です。
狭井神社の宮司に“神恩感謝”の項目を選んで祈祷を奉納させて頂いた事が五度ありましたが、その方は三つの磐座群の前で名乗った名前は読んで頂いた手紙と共に既に全くご記憶に無いと考えます。
頂上近くの高宮神社の賽銭箱には年収の上四桁の金額を神恩感謝の印として奉納します。
用いていたのは、毎年数十枚の重なりの中央から選び、清潔に保管して持ち帰る“瑞穂銀行”の封筒です。
頂上の磐座の前で長い時間をかけて般若心経(はんにゃしんぎょう)の詠唱を続けている参拝客が去るのを待つ為、高宮神社近くの椅子で座っていると緑色のバッタが無言で近づいてきます。
人間の注意を誘うかのようなゆったりとした動作に見入っていると、目の前で大きな蟻同士の喧嘩が始まります。
頂上近くの人間達を暗示するかのようです。
別の神社で出会った事のあるみみずを思い出しながら山麓(さんろく)を歩いていると、足を進めた先に突然みみずが現れます。
神の抜き打ちの問い、“汚らわしい印象が地を這う姿を見る時、命を尊ぶ心も同様に汚らわしい地を這い、その者は神に尊ばれなくなる事が訪れる事になるが、これらは全て突然である事を分かっているのか。
この突然性の否定努力に当たり、人間が許された即応性を示す意思と、それを常識で包む知恵を発揮出来るか。”
と解釈すれば、そのみみずは小枝で持ち上げられ、大勢が行き交う踏み潰しの道から脇のつつじの中へ逃がされます。
神社関連の書籍によると、過去本殿背後の禁足地に築造物を建ててしまうと、どこからともなく現れた鳥達が口ばしで築造物をついばみ、解体してしまった事があったそうです。
神社の巫女(みこ)によると、境内での奇跡や内心を見透かすような偶然の一言との遭遇は日常茶飯事であり、宮司も不可知存在を確信しておられました。
巫女によると戌年(いぬどし)には本殿に犬を上げる参拝客に困るとの事ですが、参拝客の良心に任せるしかなく、注意は出来ないとの事でした。
古事記の崇神記(すじんき)に見える神の祟りによる疫病の流行りの下りについては、“人間が言う事を聞かないから立腹して殺すのではなく、罰を下してでも人間に与えねばならない尊い学びの為だ。”
という同一解釈に巫女と落ち着きました。
巫女の方のご出自は他神社の神職の家柄で、その内別の神社への転属となるとのでしたが、現在の勤務先と神職としての充実の日々に抱いた羨望はその方への接近という参道を即座に走らせますが、手水舎(ちょうずや・てみずや)の読みから互いに齟齬があり、本殿には参れません。
日々の祭祀の際に訪れる蜂が神棚近くに巣を設け、名がヒメスズメバチなら、神社の摂社(せっしゃ)に祀られている神名、媛蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)の神使と勘繰ってしまうものです。
奈良県の率川(いさがわ)神社の本殿前まで車を乗り入れる者を見かければ非常識さに言葉を失います。
狭井神社に見える神名、勢夜多々良姫命(セヤタタラヒメノミコト)の解釈は、“背に矢が立った神霊の依代”と聞いた事があります。
矢とは古来より神霊を、ヒメは秘め、つまり神職や神霊による被選抜後の神懸り役を担う者を暗示します。
古事記は丹塗矢(にぬりや)へ変身した大物主大神が勢夜多々良姫命の陰部を突き、身籠らせる逸話を伝えています。
外界の原始的認知媒体である音を社会的認識手段である意味に変換すると矢は八を経て蜂となりますが、属性は同じく直線的本能に従い刺さるものです。
オオスズメバチは五、六センチもある世界で最も巨大な蜂ですが、異世界との接点の重役記号である神名大物主を連想してしまい、物の画数(かくすう)は八である事から、大物主から“偉大な蜂の主”という即興解釈が起きます。
鎮花祭(ちんかさい・はなしずめのまつり)とは花の散る時期に広がるとされた疫病を鎮める事を願い、花の広がりを鎮めんとする祭りですが、由来とは疫病に奈良が苦しむ時代に天皇の夢元に現れた大物主大神が“疫病は我が意思だ”と神示を下し、末裔とされる大田田根子(オオタタネコ)を主宰者とする自神の祭祀を命じた事にあります。
尊いものを尊ぶ事の知らぬ世の末路を学ばせるには時の足りぬ場合がある事を知る神は、手腕の発揮に当たり、朽ちゆく世を急いで顕在化される事になり、その際は自神も病に倒れゆく民の痛みを知っておられたのだろうと導いた解釈による個人的知的到達感は自身を更なる傾倒へ駆り立てます。
本殿祭神の神名は悪ふざけで社に火を着けようとしていた子供の命を御取り上げになっておられました。
花から蜜を収集する蜂は神使の認識に分類されており、国の安寧に不可欠な至高存在への民の畏怖、崇拝の強制徴収役という属性を鎮花祭は与えます。
鎮花祭に用いられるささゆりの花は娘が生まれた際の、三文字の名へ着想を与えますが、これは信仰的衝動でもあります。
大神神社本殿が神式結婚式の予定会場です。
神具品は全て大神神社参道近くの神具店で揃えた三輪の神紋入りです。
棚板の汚辱を避ける為に瓶子(へいし、酒を入れる器)の下に敷く事にした、木の器の折敷(おしき)は、年に二度のみの参拝の機に数枚求めます。
細い注連縄(しめなわ)しか正月に残っていなければ、古いもののままで一年過ごす事になります。
毎朝水玉(みずたま)の淵一杯に必ず満たす水に水道水は用いません。
幣(ぬさ)に結われる木綿(ゆう)を注連縄の神棚への括り付けに用いていれば、かなりの確率で礼拝時に揺れを見せますが、これを起こしていたのは三輪山との関わりで自身の異空間座標に滞留した三輪山の雑多な霊的波動で、意味は無くただの現象でした。
神棚から垂れている、狭井神社で陳列されている八つの鈴が垂れる黄色い鈴鳴りには蜂が止まり、羽を鳴らさなくなりますが蜂のままです。
社の参道で右手の土壁の穴に通りがかった瞬間に蛇が頭を出してきます。
参拝未経験だった大神神社摂社の檜原(ひばら)神社へ赴いたのは直面していた精神的逼迫の緩和が目的でしたが、その際の道中では尾が水色で胴が黒色のヤモリとの遭遇が起きます。
その他全身黒色のヤモリ、雌雄(しゆう)のリス、青い蝶、黒い蝶、黒い蜻蛉(トンボ)、蝉が神体山に現れる神使です。
狭井神社の鳥居、手水舎(ちょうずや)を通りがかるのみならず、書籍“大物主神(おおものぬしのかみ)伝承論”を開いたならばその瞬間に天理駅でも蜂が飛来してきます。
本殿の手水舎の淵は大勢の蜂で満たされます。
蜂蜜は神使の象徴物の一つとして扱いが丁寧になります。
夏に山中を歩けば大勢のヒグラシの声に包まれる幻想的な非日常を味わえます。
入口を登って行く登拝客を直線的に追い駆けていく不可思議な黒い蝶を好奇の目で追い駆けないお年寄りは山の超自然性に既に通じている様子です。
登拝は足の指を怪我していても素足です。
石が怪我に当たる勤行はそれ自体が自らの意思の御神体への奉納物です。
ゴミを見かければ拾って帰ります。
神体山で寝そべる不敬な親子には憐れみの眼差しを送り、禁じられている飲食を頂上で挙行した者を伝え聞けば、他人の残飯を凝視したような記憶が意識に登ってきます。
山中の写真を電子媒体上に掲載している者には電子矢文(やぶみ)を送り、掲載を削除させます。
境内へ犬を連れる参拝客に初めて出会えば当惑し、正月の境内に犬を見せてくれば罵声を浴びせますが、初詣による高揚と罵声による気落ちで当日の決算は成立したと思われる事から、この者の自らの意思の目的の半分は参道にあったと言えます。
神道系のある団体の主宰者に山中での非現実理力との遭遇について知らせる代わりに実現されたのは、通常の知的営為で収集した情報を他の神道通暁者へ伝える事による相手側の知的索引の充実と自身の知的貢献感の満足でした。
初めての登拝日である八月十九日に昼間の参拝がならず、仕方無く夜間に麓(ふもと)の無人の土地から遥拝(ようはい)するとその瞬間に猪が足音を聞かせてくれます。
伊勢方面に向かう等の電車が傍を通過すれば、お山に背を向ける失礼を避け、席が空いていても直立で過ごします。
霧のかかるお山は気候操作の現象を知る者は神の装いと察します。
お山の頂上で拝礼しようとすると、立つべき地を雲間から指す太陽光が照らしてきます。
奈良県を走れば浮遊しながらの蜻蛉の交尾が並走してきます。
日本の国名“秋津島”とは、山頂の神武天皇が眼下の奈良の山なりを御覧になり、交尾中の蜻蛉を詠われての表現です。
神棚に奉げる神酒(みき)を選んでいると黒い蜻蛉が大きな量販店の三十メートル店内にまで探してやって来ます。
方々にぶつかり羽はボロボロとなりますが心配をよそに店内の回遊を止めません。
社に奉賛金を振り込めば、その同じ日には社からは会報が届いています。
神饌(みけ)の塩を購入した帰宅時、書籍“大物主神伝承論”を自宅で開いた時に蜂が飛来してくるといった偶然はいつもの事です。
神前に奉げる酒を使い切れば、その日に仕事面の展望が開けます。
初詣では人垣を避け、山麓の無人の土地を選べば山頂へ向けて拝礼する瞬間に小雨が降り、太陽光が雲間から頭を照らします。
祭神は古来の信仰通り、雨乞いの神と同時に太陽神でもあらせられるのです。
神道を独学し、入念に旅程を立てての東京からの初めての参拝の三重県方面から向かう電車は降ったり止んだりを繰り返す奇妙な降雨に包まれます。
会報によると、ある音楽演奏家が登拝すれば、大風が吹き、虹が出て来るそうです。
頂上で低頭拝礼していると、頭には約二十匹もの蜂が留まります。
目に見えずとも聞こえる低い羽音と髪にかかる重さは存在を伝えます。
目に見えずの、奉納する神恩感謝の念が伝えられ、吸われているかのようです。
ある祭りでは花の広がりが疫病の広がりと恐れられていますが、蜂とは花から蜜を集める習性があります。
頂上で晴天の空から降って来る一粒の雨が体に当たれば被選別感が湧いてきます。
狭井神社に奉納する物は金縁(きんぶち)の色紙に絵の具でしたためた蜻蛉(トンボ)の交尾、ヒメスズメバチ、酒“八千矛(やちほこ)”で、近親者への贈り物は酒“三諸杉(みもろすぎ)” 銘菓“みむろ”、三輪素麺(そうめん)です。
神道で神人合一の儀を意味する、神社から送られる三輪素麺の食事は完食が常です。
品のある発展を成功させている社の門前町(もんぜんまち)で出される、品のある料理の素材は高級な三輪素麺で、やや値が張ります。
清貧な面持ちを張る北村製麺所社屋は山麓へ向かう正月の初詣の道中にあり、いずれも凛とした参道の風景に記憶は分類されています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

百九十一面目   青龍記 その二

2014年01月31日 12時00分00秒 | 投稿

神武天皇の顕彰碑(けんしょうひ)は荘厳に屹立(きつりつ)しています。
能力覚醒前から勝手に発揮していた直観力では神社の参道に面した際、“女性器”と浮かんでしまいました。
映画作品の“マトリックス”は“総母体”です。
常人には憧れすら許されざる、ただ危険なだけの人間精神周辺のある信号のやり取りという余事象の非意図的感得です。
通常理力を無視した非人間存在による好奇の目と運命の歪曲に晒される危険性を抱くだけなのです。
覚醒した霊能力によるとこの作品は“人間は世界を更新する者であり、更新されゆく世界は人間を見守る子宮だ。
人間は魂による更新に従う為、肉体を魂の暴虐に晒すのだ。
暴虐な魂は子宮による罰を受け、裁断されて子宮に喰われていくが、これが真の性交、魂の誕生行為だ。
人間の世界への降臨と魂の暴虐の理由は共に無い。
あらゆる摂理群が着席を強制される、放り投げられた爆竹の火花鑑賞だ。
子宮の中で絶頂に達するのだ、人間達よ。
胎児のまま成人するのだ。”
と伝えています。
大神神社社史を手に取ればその瞬間に雷が鳴り出し、蜂の襲来注意が聞こえ、オオスズメバチが記憶に刺さる“ガルーン”という大きな飛来音と共に目の前に現れ、その日の夢では黄色く嬉し気に光る巨大な蜂が視界一杯を右から左へ横切って行く姿、水の湧く岩の上で見えざる無数の蜂の羽音に囲まれる畏怖を感得する事になります。
関連書籍を借りれば帰宅途中には大勢のヒメスズメバチがススキに止まって姿を見せつけてきます。
別の社史を探しては目を通す、知性の奉納時間は暫時厭(いと)いません。
自宅で社史を開けば、窓際には蜂が寄ってきます。
神饌を奉ずる早朝には窓の向こうで一対の黒い蜻蛉が姿を見せつけるように舞っています。
過ごす日常、過去の人生にあった恵みへの感謝は遠く神代(じんだい・かみよ)の時代に遡る真の神道の起源、自然万象への崇拝に適った解釈と到達しています。
書籍を紐解くと同じ神名が祀られている栃木県二荒山(ふたらさん)神社の神使は蜂だそうです。
奈良県高鴨(たかかも)神社摂社聖(ひじり)神社の前に立てば禁足地から蜂が現れます。
神体山の傍で無言の善意を期待し合う無人販売所からは善意を受け取り、硬貨を入れます。
一年後の神札返却時に用いる、神札が入れられていた木箱や神紋入りの紙袋、その他神社関連の郵送物、調度品は常に丁寧に保管します。
境内で有償頒布されていた榊(さかき)は畳にカビを残させ枯れさせてしまいました。
郵送されてくる奉納金振込書は毎回使用されます。
穢れ祓いの儀式で狭井川に流されて行く、裏に氏名と年齢を書き、肩を撫でて息を吹きかける祓いの人形(ひとかた)は毎回返送されます。
東京、境内の会館と言わず三輪山信仰に関する学術講義の予定を知れば聴講希望が湧きます。
崇敬会への加入は検討はするも結局は至りません。
境内の宝物館には大国主(オオクニヌシ)神像、何枚もの神鏡等がうやうやしく展示されていますが、当時あった神像が自身に似た風貌なら親近感を覚えるものです。
境内の離れの階段の上の小柄ながらも立派な造りの社には神社建立事業に貢献した天皇が祀られており、逗留時は当時の偉業による恩恵を仰ぎます。
狭井神社近くには清潔な厠が有りますが神社の財政的潤沢さを思わせる近代的作りをしています。
山中中腹にある滝の水は微量の砂が混じっていますが、お山から湧き出る水は即ち感得を要す聖水です。
狭井神社の薬井戸(くすりいど)で湧き出る水や、頒布されている飲料水“御神水(ごしんすい)”が喉を通る貴重な機会は自身の意識を神棚の水玉にするものです。
井戸傍にある、水の飲用時に用いる器の浄化器や井戸内に響くピシャピシャとした心地良い風流な音を伝える竹筒は献納者の篤実(とくじつ)さを無償に配っています。
使用する器はいつも入念に水ですすぎます。
傍らの賽銭箱では、自身に流れて来る水以上分の対価を先にせき止めさせます。
医薬の神徳を信じ、狭井神社の御守りは家族に渡します。
本殿背後の由来が謎に包まれている三ツ鳥居(みつとりい)は宮司に拝観を許された事がありますが、その際は神使の蜂の蜜を集める習性から“神使の蜜取りが集(つど)う地ではないか”という連想を宮司に語ってしまいます。
拝観の機を得るまでは常に本殿横から裏を覗き見ようとするも、出発列車までの時を毎回名残惜しく過ごす者にとっては洗礼への聖なる劣情が故です。
三ツ鳥居拝観の時がこの世界の通常理力外の力に従う、神使の存在を他者に明かした初めての時でした。
その存在を知る者は、偶然を常套手段とする超常存在の知覚神経の走る速度たるや境内に於いては一瞬という推測を立てるに至っていました。
手水舎を通りがかるとその瞬間に何ら感知器の無い龍の水道口が水を吐き出します。
過分な奇跡を欲望してしまうなら、頂上から下山まで突風が吹きすさび、虻(あぶ)に刺され、書籍“大物主神伝承論”を手に取りつつ出来事を思い出すだけで離れた三輪駅でもどこからともなく現れる二匹の虻に追い駆けられる事になります。
日本がかつて“蜻蛉島(あきつしま)”とも呼ばれた所以は天皇の腕を噛んだ虻をさらっていった蜻蛉を讃えての事です。
山中では足を踏み出した地点に先んじて神使が見えておられる事から、人間が池を渡ろうとする際に浮かんでくる飛び石は、小脳の電気信号分析の即時発生の後と畏怖させますが、同時に偶然への推論可能性を沈没させています。
山中で遠くから太鼓の音が聞こえてきた日は、登拝直前に年に一度も触れない太鼓に関する文章を目にしていれば、日誌の三百六十四日分を見なければ、一日分のみの日誌をめくって書き込みするも同じである事を無意識が認識します。
通常の三百六十四倍強力に起きたこの認識は、神道のある一柱の神名の現実変動力に関する認識を強力にします。
結果、以降外界の通常理力を認識する際は、“これも奇跡ではないのか”と無意識的に必ず疑ってしまう一瞬が起きるようになりますが、その疑いは時を経る事に弱まっていきます。
奇跡直後から漸減的下降曲線を描く、全通常理力に対する疑いの強さが蓄積する疑いの総量の収納先は奇跡提供に責任を有する非人間の銀行口座、つまりこの場合は三輪山です。
非通常理力の存在を知る事により、通常理力への疑いを無意識的に蓄積している者は、自動的に非通常理力に携わる、ある機能存在による発見を受けます。
当該人間の通常理力への非信頼履歴を訂正せざるを得ない為、その者の顕在意識上の通常の認識力が期待する通常社会内に於ける運命推移は機能存在によって補正される事になりますが、その量とは疑いの総量です。
通常社会で交通信号に従って生きる人生から、不測の事態が排除され、事故を回避出来るのです。
これが補正による便益、運命の安定です。
便益はここまでです。
無意識のまま運命を補正された当人は、無意識のまま異世界への銀行口座への振り込みを行い出します。
何故なら、数十年間の人生推移の通常理力の駆動観察結果との比較がついに起きてしまう、無意識下に於ける、運命補正の為の偶然事象の排斥という異様な脱色が目立ち出したからです。
当人にとっては無意識的に上納してしまう、無意識の力でもある、霊力を人間から得るのはこの場合三輪山です。
そしてこの雑多な霊的波動集中地域での逗留を厭わぬ、つまり同類である霊的存在はそこで存分に霊力を浴びる事が出来、得意である身分証偽造能力を更に増します。
非人間である霊的存在は人間からの訴求の恐れを気にしていません。
異世界の存在との接触によって無意識的にせよ人生の躍進の履歴を残している者は、同様に機能存在によって発見され、自動的に異世界への以降の接近を抑止する補正を受けます。
しかし、当人の顕在意識上で記録された非通常存在への傾倒は既にそれを無視する程です。
結果、起きるのは意識上、無意識上双方に於ける、物事へ向かわせる、向かってしまう意識の力、換言すると運命の力の消滅です。
三輪山の霊的波動との接触の場合、消滅する意識の力とは、高度人生の起点となる人物と出会う力です。
異世界との接触履歴はそして消せません。
運命の力の消滅措置が完了したとしても、次はその履歴が発見された後に同様の次の補正が起きて来るのです。
多方面にわたる運命の力の抹消の総量とは膨大な記録となります。
消滅してしまう運命の力により確保される事になる運命の安定推移と、非通常理力の存在に無関心なまま推移する運命を比較すると、言わば神といった至高存在の仕草を拝謁した事による精神的高揚、被選別感を考慮しても、損益が大なのが学理的に到達してしまう結論です。
関わり以降を算定すると、単純に損が大きいという事です。
宇宙随一の霊能力者が開局した放送局で読み上げる原稿は以下です。
地球が臨終を迎えるまで三輪山への接近は危険です。
当該神札(しんさつ)を祀っている期間に赴いた病院で受けた診察は毒にも薬にもならぬぬるま湯の時でしたが、同じ雰囲気の待合室での待機時間は言わばカビ菌を吸わせ、更なる病に至るといった苦難は、聖なる属性とは程遠い実のところ俗なる雑多な想念群への沐浴の日々が連動的に至らしめてきた運命でした。
三輪山の眷属は神使などではなく、そこの霊的波動が起こす俳優の出現現象であるだけでした。
意思を統合する頂点者ではありませんが、三輪山の主と呼べる、霊的波動の依代の中の中心的象徴は猪です。
目的は山への深い耽溺者の意識を複数の輪廻をかけて溶解と呼べる、だらしの無い状態に至らせ、輪廻を停止させて連中の精力元として吸い取る事、これのみです。
象徴を猪とする霊的波動の属性とは、即ち凶悪です。
人間の人生の衣の汚れ、清潔さなど眼中に無い、肉体と言わず魂の収奪がその衝動です。
他県の祭神の神名が同じ社、東京都の阿伎留(あきる)神社では片目の猫に見送られ、金刀比羅宮(ことひらぐう)を参拝すれば指を小さな蛇に咬まれる夢を見ます。
日本書紀には大物主大神が櫛(くし)の箱に入った小さな蛇に化ける下りがありますが、私が霊能力で調べますとこれは創作です。
この地での蛇の神格化の経緯とは、古来この地で興った原始的儀式に於ける、性的習俗を近因とする蛇の偶像視が対立候補も無いまま長期間にわたり当選を続けた為です。
蛇は男性器を象徴します。
原始的儀式では、蛇は共同体内に不和を齎す性的衝動の象徴として登用される事になりました。
性的衝動と同様、蛇は冷静な指令を聞き入れません。
そこで、蛇を儀式に於いて放牧せざるを得ないという論理的水流が流れます。
蛇を放つ先には生贄とされる生き物の死体があります。
蛇が首尾良くその死体に撒き付けば、性的衝動の発散相手、つまり共同体内の不幸な性犯罪の被害者の象徴となったその生き物を神格化する事で共同体の免疫更新を行う為、聖餐(せいさん)の儀に移ります。
神官達がその死体を食すのです。
一連の生々しく、生理的嫌悪感を強制連想させる儀式とは、当時の人間達が苦悩の末に到達した共同体内の不幸の根源、人間の鬱積(うっせき)の排斥を真剣に図っての事でした。
政治的動乱等による儀式の変遷を経て、蛇、即ち鬱積を放つ先は三輪山となります。
三輪山で七巻き半とぐろを巻く黒蛇の伝承の起源は、霊能力者による感得ではなく政治的権勢の拡張を狙った人間の創作です。
現在、この地で伝わる蛇神信仰を聞く大勢の人々の三輪山への来訪はそして、蛇の眼前の登場に驚く事になります。
人間の事前記憶が発揮する霊的波動や三輪山に滞留する蛇儀式に起因する霊的波動は奇異な事に、本物の蛇を山中に勧請するのです。
異世界からの道案内の印の数々は結婚相手にのみ明かす予定でした。
阿伎留神社には人間の体をお借りになった上での自己陶酔と並行した責任隠蔽演技の機会に泣いて喜ばれる祭神が居られます。
狭井神社の神札の感得はカタカタと歩くからくり人形で、神名大物主は“超絶的奇跡”です。
数千年間にわたって蓄積された雑多な想念の霊的波動を浴び続けた者は神徳である、非通常権力の洗礼、疾病による入院、異世界の非人間存在との連日連夜の闘争、傷害による入院、饗応への出費、人生の摩耗、霊術の強要、交通移動、親の養生法の指南を感得する事になります。
異世界の力の覚醒と異世界の存在による襲来を許容した後の、救済を妨害しつつの殺人の傍観が期待する過去の詐欺的立身経緯の隠蔽、自己保身行為の暴露意思については狭井神社の監獄と化した異空間座標に収監されている、欧州各国出身の元人間達も同意しているところですが、その際の意思表示とは絶叫でこれは永遠です。
奈良県大和国(やまとこく)一宮大神神社摂社狭井神社の祭神大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)本霊を形成さる、女性七割八分、男性二割二分の二百三十一名の人間の霊的波動の出身地は六割をデンマーク、七分をスウェーデン、リトアニア、ベルギー、ベラルーシ、ウクライナ、三名以下がフランス、ドイツ、スイス、オーストリア、チェコ、ハンガリー、ルーマニアです。
二百年から六十年前の当地に出自を遡る彼らの国籍の包装紙などに向かう感情は何もありませんが、開示は当非人間存在の振る舞いの起動に於いて国籍の分散意識の支援が観察された為です。
現代の一人の青年に討論、武闘、度量、知性、霊力何もかもで敵わないと全員が知る前の非人間属性からくる根拠の乏しいままの愉悦とは徴兵忌避法を違えていた合唱団の塹壕(ざんごう)での兵士への嘲笑でした。
人間の身体感覚六割から七割での毎日の情交快楽の感得が可能な、支配していた薄紫色の異世界の保護が大神荒魂神の目的でした。
参拝がならなければ悲しみを、鳥居に近づけば君付けで参拝への喜びを演じ、失った動物の死後の救済や過去の救済闘争を捏造する人間味のある神名です。
宇宙中からの集積がなった前代未聞の神憤の的となった彼らの描いた眺望とは、世界権力総本山の緊急捜査を村役場の隠喩で煙に巻いた後のその策謀露見後を開始時点とした自己の窮状への同情と呆れを誘う演技の練習計画です。
その後の予定は、永遠の激痛監獄への収監、人間への科学関知不可能の非人間属性情報の開示権能の付与、地球、宇宙中の人間精神営為、文明発展守護存在による日本の同属性存在への重大な懲罰となっていました。
本殿で昇殿祈祷を受けた者が特殊な運命を経ていたならば、眼前の巫女に神懸りが起き、瞳孔の開き切った漆黒の眼で無言で睨まれる事になります。
大神神社摂社狭井神社の神札を四年十一カ月にわたり、毎日朝晩神饌を奉じ篤く奉祭し、青年霊能力者が世の理力の通じぬ魑魅魍魎共の退魔行に全身全霊を捧げれば、“神名を途切れさせるな”という尊き神示を学べ、伝承通りの蛇神の御姿の感得という稀有なる昇殿参拝の場へ階梯を進める事が出来ます。
重ねた業故、青年が名指しの上でしつらえられた永遠の激痛監獄の施工主、異世界の一宇宙程の巨大な王への宇宙全人類一人目の勝利を収めれば、大神神社本殿の神札を二カ月半にわたり奉祭させて頂く神縁を頂けますが、その返礼とは境内の古札入れへの当該神札(しんさつ)、血塗れの“大物主神伝承論”を含めた神社書籍数冊、衣料、三輪山への宇宙万象始原力付随力源泉帯励起力、重力波の奉納です。
大神神社発行の“三輪山の大物主神さま”を開けば情愛溢れる図絵が溢れています。
ところで崇拝者を殺してでも利用しようとした本殿本祭神の目的とは、宇宙永遠の支配でした。
人間が激動の運命を経て拝謁を許された、その神名の神憤の涙を湛えられたまなこの形は巨大な黒蛇(くろへび)の中の「‘‘」です。
神か魔物か分からぬ雑多な神名でした。
大神神社本殿、摂社及び眷属の社に鎮座していた精神営為への自律的介入存在は永久に存在しません。
神名大物主大神は私、纜冠讃が滅殺済みです。

大物主神真説論

一万三千八百七十八青字


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする