「花子とアンへの道 本が好き、仕事が好き、ひとが好き」の本の中に、次のような文章がある。
花子が寄宿舎で、文字通り「同じ釜の飯を食べた」友人に、歌人の柳原白蓮がいた。
白蓮は青春期の花子にとっての「腹心の友」である。
1908(明治41)年、柳原伯爵令嬢子として編入するが、実は既に「令嬢」ではなく、政略結婚で一男を儲けた後、
離婚をして、23歳でこの学校に辿りついた。ひとわたりの人生を経験した白蓮に対し、
恋愛も人生も文学の中でのみ玩味していた花子だったが、まっすぐな親愛の情を白蓮に向け、白蓮も心を開いた。
花子は英詩や西洋の物語を翻訳して白蓮に語り聞かせることを歓びとし、白蓮は、短歌の師である佐々木信綱に
花子を紹介した。8歳の年の差と、生まれ育ちも違う稀有な友情を、洋の東西の詩歌がとりもった。
白蓮にとっても、東洋英和の寄宿舎での生活は失われた青春を取り戻す日々だったのだろう。
「彼女たちとの出会い 村岡花子の交友関係」という、村岡恵理の文章がある。
(略)16歳の花子にとって「腹心の友」は8つ年上の柳原白蓮だった。
九州、伊藤伝右衛門のもとに嫁ぐ白蓮を許せず、絶縁を言い渡した花子であったが、
やがて友のいない虚しさを思い知り、自ら和解の手紙をしたためた。
その頃の雑記帳には、自分の「友情」の幼さを悔やみ、真の友情とは何かー
「真正なる友情は相互の助力を意味す。(中略)友情より発する助力には制限なし、
総てをあたへて惜しまず、必要あらんは生命も之なげうちて分毛の軽きに比し得るなり」
ーと、しきりに思索した後が見られる。
数多くの書簡の写真の上に次のような文章があった。
「柳原白蓮から届いた書簡の一部。この終生の親友と花子は数え切れないほどの手紙を交わした。」