永青文庫から目白駅

2015年10月17日 | 健康・病気

私は、関口芭蕉庵からまた永青文庫の前を通り目白通りに出た。
懐かしい日本女子大学に行ってみたかったのです。
歩いて10分ほどで日本女子大に着いた。

私としては校内に入って学生会館内にある生協に入ってみたかった。
しかし、やはり入れなかった。
私が生協に勤めていた頃、男子学生は校内に沢山いた。
おもに早稲田の学生が多かった。
しかし、私は若くない。
どう見ても、学生には見えない。
怪しい初老の不審者と思われるだろう。
「本学にご用のお方は、警備員にお申し出ください。」と書いてあるが、
「40年前に生協に勤めていた者ですが、懐かしいので中を見たいのだが…」
なんて私はいえなかった。

私が日本女子大の生協で働き始めたのが、22歳の3月からだった。
4月から入学したデザイン学校の夜間の授業を受けるために、そこでバイトを始めた。
最初は、学生会館地下の食堂の隅にあったパンやドリンク・アイスクリームを売る仕事をしていた。
女子学生が沢山パンや牛乳を買いに来るお昼が忙しかった。
午後3時頃は、付属中学の女の子が大勢来た。
私は、中学生から「お兄さん」と呼ばれて人気者だった。
私の人生で、あのときほど毎日多くの女性に囲まれて生活したことはない。
学バスで職場に行くのだが、満員のバスに男は運転手と私だけということがほぼ毎日だった。
食堂の隅でパンを売っていた私が、10月から本を売ることになった。
それまで書籍部にいた女性職員が、妊娠して子どもを産むために退職してしまった。
店長がアルバイトの私に、正職員になって書籍部を担当してくれないか、といった。
結局それで私は夜間のデザイン学校に行けなくなった。
正職員となると残業もあり、デザイン学校をやめるしかなかった。
でも、本の好きな私は、書籍を売るのならデザイン学校はやめてもいい、と思った。
それが甘かった。
翌年の8月、私は東大生協に移籍になり、雑貨担当ということになった。
あれは悲しかったですね。
それは、女子大から離れるということではありません、
書籍ではなく雑貨担当ということが悲しかったのです。

私は、日本女子大を横目に見て目白駅に向かって歩き始めた。
都電の線路の上を歩いているときに都電が来た。
 
そして学習院大学があり、そこを過ぎて行くと目白駅に着いた。

私はその先に行った。
前から行きたいと考えていたところがあったのです。
そこは和楽器屋です。
尺八を見たかった。
7・8分歩くとありました。
ホームページは大きかったが、店は小さかった。
入り口に尺八用の乾燥させた竹がいっぱいあった。
しかし、あれで尺八を作るのは大変だ。
いつか作ってみたいとは思うのだが、今はできない。
道具がない。
売っている尺八は、安くて10万以上だった。
とてもじゃないが、私には買えない。
今吹いているプラスティックの尺八を大切に吹こうと思いました。

久しぶりの東京散歩は疲れました。
その夜、眠たくて九想話を書けませんでした。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする