このタイトルから想像されるような情熱的な恋の物語から遠く離れた小説である。でも、これはいつもながらの柴崎さんの世界だ。驚くことはない。だが、10年間に及ぶドラマとして、こういう話を提示されるとさすがに驚く。いつものような中編ならいざ知らず、長編小説として、このなんでもない日々のスケッチが提示されるからだ。その結果、大きな話が背後に出来てしまうのだ。
まぁ、それはあくまでも結果的に、だが、それが小説としては大きい。そこにはある種のイメージが形作られるからだ。ひとりの女性の10年間に及ぶ恋愛の軌跡、とかね。いなくなった恋人を思い、彼によく似た男を好きになる、とか、要するにどこかにあるような「お話」というやつが出来る。それはマクロの視点から全体を総括するから生じてくることである。ミクロの視点で見たなら、そんなこと、どうでもいいことなのだ。毎日は淡々と過ぎていく。大きなドラマなんてない。大体その大きなドラマ、ってものすら日常の中に埋もれていくのが、現実だ。いつまでも感傷に浸っているわけにはいかない。日曜日の後には月曜がやってきて、たとえ失恋したからといって、仕事を休めるわけではないからだ。大人なんだから、当然のことだ。
朝子と麦、そして亮平との恋愛小説というパッケージングからは想像も出来ないようなただの身辺雑記のような小説である。買い物に行ったり、食事したり、仕事でつまらない問題があったり、でも、つまらない問題だから、すぐに忘れてしまうし。どこを読んでもまるで、同じで、盛り上がりもドラマチックな展開もない。なのに、その平凡な日々がどこまでも続く生活に魅せられてしまう。生きていくって、こういうことなのだ、と思う。彼女は『きょうのできごと』の頃から一貫してこういう世界を描き続ける。でも、今回はその集大成的な作品だ。要するに、取り上げた時間が長い、ということだけのことが、その理由なのだが。まぁ、実にたわいない。だが、この10年という歳月、大阪と東京という2つの場所(でも、彼女が書くと大阪も東京もまるで同じだ。しかも、東京でもみんな大阪弁しゃべるし)を舞台にするが、それすらただに事実でしかない。どこでも同じなのだ。偶然そうなっただけ。そういうさりげなさがこの作者のスタンスである。
ただラストでなんだかドラマチックな展開があり、それまでのタッチとあまりに違うので、違和感が残る。麦との再会から、逃避行、さらには亮平との再会という2つの結末はそこまでの流れとはそぐわない。まるで、小説みたいだ。まぁ、これは小説ですが。
まぁ、それはあくまでも結果的に、だが、それが小説としては大きい。そこにはある種のイメージが形作られるからだ。ひとりの女性の10年間に及ぶ恋愛の軌跡、とかね。いなくなった恋人を思い、彼によく似た男を好きになる、とか、要するにどこかにあるような「お話」というやつが出来る。それはマクロの視点から全体を総括するから生じてくることである。ミクロの視点で見たなら、そんなこと、どうでもいいことなのだ。毎日は淡々と過ぎていく。大きなドラマなんてない。大体その大きなドラマ、ってものすら日常の中に埋もれていくのが、現実だ。いつまでも感傷に浸っているわけにはいかない。日曜日の後には月曜がやってきて、たとえ失恋したからといって、仕事を休めるわけではないからだ。大人なんだから、当然のことだ。
朝子と麦、そして亮平との恋愛小説というパッケージングからは想像も出来ないようなただの身辺雑記のような小説である。買い物に行ったり、食事したり、仕事でつまらない問題があったり、でも、つまらない問題だから、すぐに忘れてしまうし。どこを読んでもまるで、同じで、盛り上がりもドラマチックな展開もない。なのに、その平凡な日々がどこまでも続く生活に魅せられてしまう。生きていくって、こういうことなのだ、と思う。彼女は『きょうのできごと』の頃から一貫してこういう世界を描き続ける。でも、今回はその集大成的な作品だ。要するに、取り上げた時間が長い、ということだけのことが、その理由なのだが。まぁ、実にたわいない。だが、この10年という歳月、大阪と東京という2つの場所(でも、彼女が書くと大阪も東京もまるで同じだ。しかも、東京でもみんな大阪弁しゃべるし)を舞台にするが、それすらただに事実でしかない。どこでも同じなのだ。偶然そうなっただけ。そういうさりげなさがこの作者のスタンスである。
ただラストでなんだかドラマチックな展開があり、それまでのタッチとあまりに違うので、違和感が残る。麦との再会から、逃避行、さらには亮平との再会という2つの結末はそこまでの流れとはそぐわない。まるで、小説みたいだ。まぁ、これは小説ですが。