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映画・演劇のレビュー

大阪新撰組『来たのは、誰か』

2023-05-15 11:45:03 | 演劇

3話からなる短編連作スタイルの長編作品。これはとてもよく出来たスリラーなのだ。だけど、それを殊更強調して見せるのではなく、なんでもない日常のスケッチにして見せてくれる。そのさりげなさが凄い。最初のエピソードではまだ、何が描かれるのかは明確にはならない。そこはある高校の職員室。春休み中の日曜日。ふたりの教師が新学期の準備をしているようだ。生徒の話をしている。その中に「シックス」とか、「サード」とかいう評価が出てくるが、よくわからない。芥川の『鼻』について言及されるが、それは伏線になっている。(ただ、高校の国語では最初の教材は『鼻』ではなく、『羅生門』である。まぁ、お話の展開上わざと『鼻』にしたのだろうが。これも余談だが僕はたぶん30回くらいは高1の授業で『羅生門』をしている。昨年もしたし)

2話は学年主任と保護者の面談。娘のことで母親が相談に来ている。普通なら担任が対応するべきところだが、担任がその日は休んでいるから学年主任が応対している。春休み中のことだから、平日に年休を取っている。よくある話だ。保護者はアポなし訪問なのだろう。娘の様子がおかしいという、よくある相談だったはずが、意外な方向に話は進む。プチ整形は学校では許されるのか、というところから「サード」の意味が明確になっていく。そこからの急展開が鮮やかだ。荒唐無稽な設定には笑えるがこれはコメディではない。世界では「第3の眼」を持つ人たちが増えているという現象を前提にして話は進展していく。後頭部にもうひとつ眼を持つ人。それを当たり前のこととする社会。そんなSFまがいのお話だが、それをホラーにはしない。ただの日常のスケッチとして描く。この世界においてはそれはただの普通の出来事なのだ。
 
第3話でようやく「第三の眼」を持つ少女が登場する。彼女は放課後学年主任と担任から呼び出しを食らって、仕方なく行く。(塾の時間があるから忙しいのに)少し不貞腐れた彼女の告白が、お話のオチになるが、この結末のお話が見事だった。そんなことか、と思ったけど、そんなところまで含めてがお見事なのだ。些細なことと大事が等価になる。新しい人類の台頭に対して、世の中がどう対応するか、ではなく、小さな学校内の出来事として「それ」を描く。差別と偏見に対しての取り組みより、一重まぶたを二重にするか、という選択を落とし所にした鮮やかな幕切れには拍手喝采。人類存亡の壮大なドラマをこんなにもミニマムな視点で描く。今回の作、演出は座長でもある南田信吉。さすが座長。

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1 コメント

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Unknown (南田)
2023-05-21 19:08:22
ありがとうございます。
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