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付け込まれる「正義」と陰謀論的ニヒリズム

2022-03-03 05:16:00 | 時事/金融危機
 

■ 「正義」など犬に喰われろ ■

私は「正義」という言葉が嫌いです。ニチアサの戦隊ものを見る時は、悪の組織を応援してしまう。子供の頃から、仮面ライダーならキャラ立ちの良いショッカーの幹部や怪人に憧れたし、ハチオンナ様などはドストライクだった。デビルマンはダークヒーローなので勿論好きだが、シレーヌの純情には身を捩る思いだった・・・。

そんな幼少期を過ごした私が、まともな価値観を持った大人になるハズが無く、結果的に一番嫌い言葉は「正義」だ。

何故「正義」が嫌いかと言えば簡単で、正義とは絶対的な価値観の上にしか成り立たない概念だからである。一神教のキリスト教やイスラム教は、「正義」と「悪」の対立で世界を単純化してしまう。その様な白黒で歪みの無い世界に、メガレンジャーのシボレナ様は不似合いなのだ。

そもそも、私達日本人はアジア的な多神教の世界で育って来た。子供を攫ってはバリバリ食らっていた鬼子母が仏に諭されて神になる世界に、絶対的な正義など存在しない。

■ 脳は省力化の為に「答え」を知りたがる ■

人間の脳はとかく「楽」をしたい構造になっているらしい。何かを考えるよりは、用意された答えを求めたがる。その様な脳の構造に対して一般的な勉強は「快楽」とも言える。答えが準備されていて、その解法が分かっていて、答えが正しければ「快楽」が得られる。勉強は苦しいと言うけれど、答えがある問題を解く限り、一部の人にはそれは「快楽」に成り得る。そして、それを積み上げる事で、受験における勝ち組となり、社会的成功が有る程度約束される。これは生き方としても「省エネ」であり、脳の労働としても「省力」である。

一方でエジソンの様に「1+1=2」という回答に疑問を持つ事は、脳にとってはストレスである。「おはじきを、ここに1個置きます、そして、こちらにも1個置きます、これを合わせると何個ですか」とういう問いに「2個」と疑問も持たずに答えられる人間は幸せである。「先生何で?こっちは黄色で、こっちは赤だよ」と質問すると友達には「バカ」のレッテルを貼られるが、実際には「1+1=2」と単純に納得するよりも、脳は活発に活動しているのかも知れない。

社会や事柄に対する認識も同様で、ニュースで伝えられる事や、新聞で書いてある事をそのまま鵜呑みにする事は、脳にとっては「楽」な事であり、そこに快感が伴う。「今朝の日経新聞を読まなかったの?」という会話は、意識高い系の人達の間では度々交わされるフレーズかと思うが(そんな付き合いは無いが)、「日経新聞の記事を情報共有する」事は、脳の省力化にとっては実に都合の良い方法である。


■ 「正義」という思考停止と、上位者意識 ■


新聞記者などは良く「正義」と口にする。「自分達の筆は社会の悪を裁く正義の剣」なのだと信じている記者も未だに少なくないだろう。だから、彼らの書く文章は「正義の側からの断罪」となる。「正義」とは「悪」の上位存在だと信じる彼らは、「上から目線」で悪を否定する。

読者も同様に自分達は「正義」だと信じている。だから「正義」を標榜するTVの解説や新聞の記事に同意する事で「快楽」を得る。「オレが思った通り、ヤツラは悪だ」と同意する事で、自分を悪の上位存在とみなして優越感に浸る。これは実にゲスな行為である事に彼らは一生気付く事は無い。

そして、自分を「正義」と定義した瞬間に、彼らの思考は停止する。脳はそこで満足するからだ。

■ 「正義の暴力」と「悪の暴力」の差は存在しない ■


「正義」を名乗る者が「悪」を倒す為に街を爆撃して、多くの命が失われる。
「悪」とされた者が、抵抗する為に「正義」に反攻して、多くの命が失われる。

「命が失われる」とうい結果に大差は無い。しかし、一般的に前者は「良い行為」とされ、後者は「悪い行為」とされる。しかし、「正義」と「悪」は相反する概念なので、立場が違えば両者は反転する。結果手に「正義の暴力=悪の暴力」となり両者に差は存在しない。

「命を奪う戦争は悪だ」というさらに高次元からの「正義」も存在する。「争いは何も生まない」と彼らは主張する。しかし、彼らの主張は「善悪を掛けて闘う者」達にとっては意味を持たない。何故ならば、「善悪は立場によって反転」するものだからだ。そして、歴史は往々にして「勝者=正義」と判断する。だから、彼らは「戦って勝つこと」で正義を実証しようとする。その様な者にとって「戦い」は不可避と言える。


■ 「陰謀論=正義の告発」という上位意識 ■


一般的な陰謀論は「上位存在である世界の支配者」を「悪」と見なし、自分達を「正義」と定義する。「悪の所業を世間に知らしめる」のが陰謀論者の正義なのだ。だから、陰謀論者が世界を語る時は、往々にして上から目線である。

陰謀論を信じている様な「頭の悪い」人間は、一般的には社会では下層の人達が多い。「Qアノン」を盲目的に信じたトランプ支持者が良い例である。(私も含め)

彼らは社会的弱者であるが「陰謀論というトリックによって、圧倒激強者の上位に立つ」事が出来る。(少なくともそう思い込める)


■ 「陰謀論者」はニヒリストであるが故に社会のクズである ■

私の様な「重度の陰謀論者」などは善悪などには頓着が無い。世界が裏ではズブズブの関係であるならば、そこに「正義」と「悪」という二項対立など存在しないからだ。

「重度の陰謀論者」は「絶対的力=世界の支配者」の信者であり、神学のごとく支配者の思惑や計画を妄想して時間を過ごしている。

「重度の陰謀論」の行きつく先は「ニヒリズム」である。ある国で何万人、何十万人の人命が失われようとも、それは唯一絶対の神の御業なのだから、仕方が無いと考える。

コロナウイルスで人口削減計画が進行していると妄想しても、「人殺しはケシカラン」とは思わない。そこには、陰謀論者の下僕などには思いもよらぬ「目的」が有ると信じているから。

我々信者は、ひたすら「神の目的」を妄想して、死にゆく人に注意を払う事は無い。


■ 身近の命と、人口という統計的数値 ■

誓って言うが私が冷血な人間という訳では無い。ゲスな陰謀路運者の私てとて、身近な人の命は大切だ思う。家族や親せきには、健康で長生きして欲しい。

一方で、人口動態グラフを見た時には、「高齢者は減るべきだ」と真剣に考えてしまう。(そこに自分が含まれていたとしても)そう考える事で、自分が支配者の理解者であろうと無意識に考えているのかも知れない。


■ ウクライナ問題を「正義」の視点で見てはいけない ■


陰謀論者の私から見ると、「ロシアは酷い」「ウクライナは可哀そう」という世論は空虚に感じる。

暖房の利いたリビングの大型液晶TVを見ながら、ロシアやプーチンを批判する事で自分達の正義を満足させ得る彼らは、私の目には異様に映る。映画のスクリーンでスペクタクル映画を観る様な高揚感を持って、ニュース映像に釘付けになり、そして、意外に地味なウクライナの映像に、無意識に落胆する人々・・・。

TVの前の人々が無意識に期待するのは、ロシアの大規模な攻撃であり、をれを「正義の視点」から非難する優越感である。被害者への同情が、上位者意識に起因するものである事を意識する事は無い。

別に視聴者や大衆が悪い訳では無い。私達の脳が「楽」をする為に、メディアが用意した「正義」という餌に釣られやすいだけ、それだけの話である。


だから私は「正義など犬に喰われろ」と空に唾を吐く。