マドリードの南、古都トレドの旅の途中だが、ここで、ちょっと寄り道。
エル・グレコ(1541-1614 /マニエリスム)がここトレドで多くの傑作を遺した、そのエネルギー、源泉となったものに触れておきたい。
1975年、ローマの多くの著名な芸術家を前に 「ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の『最後の晩餐』、あの壁画をすべて葬り去り、この私に新たな注文してくれたなら、貞潔かつ上品な、絵画的にもミケランジェロを超えるものを描いてみせよう」と言い放ったというグレコ。
ギリシャのクレタ島で生まれたグレコは、26歳のときベネチアへと渡り、そして、ローマで宗教画家としての腕を磨いたが、野心、そして、強烈な自尊心が災い、教会や大聖堂などの名声を得る仕事に恵まれず、当時、ヨーロッパの最強国であったスペイン、そのなかでもカトリックの中心地だったトレドに、迷うことなく栄光を求めやって来たと言われている。
スペイン国王フェリペ2世から、マドリード郊外エル・エスコリアルの宮殿の聖堂を飾る祭壇画を依頼されたグレコ。
ちなみにこの宮殿、サン・ロレンソ・デル・エスコリアル王室修道院が正式の呼び名。
1557年、8月10日のサン・ロレンソの日に、サン・キンティンの戦いでフランス軍を破ったのがよほど嬉しかったのか、それを記念して建てたとされている。
宮廷画家を目指してスペインへと来た彼は当然奮い立ったとされ、そして、荘厳なる作品を完成させた。
その一枚とは 「聖マウリティウスの殉教」(上/エル・エスコリアル修道院蔵)。
ガリア地方で起きた反乱を鎮圧するために、テーベ地方に駐在していたマウリティウスを隊長とするキリスト教徒で編成された兵士が、感謝際の生贄を捧げることを拒否したため、上司ヘラクレスの命によって虐殺された歴史を切り取った。
主題は、異教への改宗を拒否した兵士たちが死を選ぶ場面、神への信仰を貫く強さと潔さ。
しかし、国王の反応は 「この絵は祈る気が削がれる」という予期せぬものだった。
宮廷画家への野望を断たれ、失意の果てに戻ったのはトレドの小さなアトリエ。(下/エル・グレコの家)
ともすれば絶望に折れそうな失意の中で描き上げた珠玉の一枚、その絵がここトレドの小さな教会に遺る。
Peter & Catherine’s Travel. Tour No.545