イタリアが「チャットGPT」の使用を一時的に禁止しました。
「チャットGPT」というのは、OpenAIが開発し昨年公開された人工知能チャットボットで、自然な文章を生成するチャットサービスで、対話型AIサービスといった風に訳されているようです。まるで人間が答えているような自然な会話が可能だということで人気を集め、急成長しているようです。
今回、イタリアは個人情報を違法に収集した疑いがあるとの理由を説明しています。情報収集の方法などが、個人情報保護に関する法律に違反している疑いがあるため、OpenAIに20日以内の対策と報告を求めています。確かに、ネット上のありとあらゆる情報を収集・整理していく過程で、どの情報がどのように使われたかが示されるわけではありませんから、参考文献を明示していない論文のような部分があるのは否めません。OpenAIはイタリアでのサービス提供を停止していますが、法律は順守していると考えているとしており、今後の経緯は未知数です。
チャットGPTの規制は欧米諸国では初めてということですが、米国などでも「人類に深刻なリスクをもたらす」と開発停止を求める署名活動も起こっています。技術開発は、一定の形として完成させるまでが至難の業ではあることは自明の理ですが、以降どう育てるかによって有益であるか有害であるかが分かれても行きます。遠い将来にならないと、その結論は出ないのですが、結論が出た時点では後戻りができない状況も十分予想されます。
利用に当たっては、無料でアカウントを作るだけ…との事で、実際に試してみようかとトライしましたが、電話番号を求められたので躊躇しとりあえず撤退しました。が、アカウント作成のハードルは殆どありませんでしたから、子どもであっても簡単にアカウントが作れると思います。検証によれば、大学生が提出するレベルのレポートを作成する能力がある…ということです。子ども達にとって魅力のツールであることは間違いありません。つまり、自ら考えなくても、考えたかのような文章がいくらでも手に入る時代が始まったということです。
言葉には「力」があると私は思っています。ただその「力」は借り物であってはなりません。一見、理路整然としたような文章であっても、きちんと読んでみると、同じことをくどくどと繰り返しているだけ…だったり、単に言葉に酔っているだけ…だったりすることは多々あります(自戒を籠めて)。真に言葉を紡ぐ力…というのは、物事を整理してきちんと捉えるところから始まります。物事を捉えることをせずに、ネット上に散見するある意味真実かどうか定かではない多くの情報から紡ぎだすものが、世の中を変えていく力を持ち始めることに、大きな抵抗を感じます。
いずれネットと人類が戦わなくてはならなくなる未来が来ないという保証は今のところありません。
「チャットGPT」というのは、OpenAIが開発し昨年公開された人工知能チャットボットで、自然な文章を生成するチャットサービスで、対話型AIサービスといった風に訳されているようです。まるで人間が答えているような自然な会話が可能だということで人気を集め、急成長しているようです。
今回、イタリアは個人情報を違法に収集した疑いがあるとの理由を説明しています。情報収集の方法などが、個人情報保護に関する法律に違反している疑いがあるため、OpenAIに20日以内の対策と報告を求めています。確かに、ネット上のありとあらゆる情報を収集・整理していく過程で、どの情報がどのように使われたかが示されるわけではありませんから、参考文献を明示していない論文のような部分があるのは否めません。OpenAIはイタリアでのサービス提供を停止していますが、法律は順守していると考えているとしており、今後の経緯は未知数です。
チャットGPTの規制は欧米諸国では初めてということですが、米国などでも「人類に深刻なリスクをもたらす」と開発停止を求める署名活動も起こっています。技術開発は、一定の形として完成させるまでが至難の業ではあることは自明の理ですが、以降どう育てるかによって有益であるか有害であるかが分かれても行きます。遠い将来にならないと、その結論は出ないのですが、結論が出た時点では後戻りができない状況も十分予想されます。
利用に当たっては、無料でアカウントを作るだけ…との事で、実際に試してみようかとトライしましたが、電話番号を求められたので躊躇しとりあえず撤退しました。が、アカウント作成のハードルは殆どありませんでしたから、子どもであっても簡単にアカウントが作れると思います。検証によれば、大学生が提出するレベルのレポートを作成する能力がある…ということです。子ども達にとって魅力のツールであることは間違いありません。つまり、自ら考えなくても、考えたかのような文章がいくらでも手に入る時代が始まったということです。
言葉には「力」があると私は思っています。ただその「力」は借り物であってはなりません。一見、理路整然としたような文章であっても、きちんと読んでみると、同じことをくどくどと繰り返しているだけ…だったり、単に言葉に酔っているだけ…だったりすることは多々あります(自戒を籠めて)。真に言葉を紡ぐ力…というのは、物事を整理してきちんと捉えるところから始まります。物事を捉えることをせずに、ネット上に散見するある意味真実かどうか定かではない多くの情報から紡ぎだすものが、世の中を変えていく力を持ち始めることに、大きな抵抗を感じます。
いずれネットと人類が戦わなくてはならなくなる未来が来ないという保証は今のところありません。