2016.10.1 またまた浅間神社に参拝に行ってきました。
でも、まだ行きたかった浅間神社、全て回れませんでした。あともう一度行かないとなあ。。。
雨模様を覚悟の上で行きましたが、曇り~小雨で助かりましたよ。
白糸ノ滝のあと、前回大雨で行けなかった「人穴浅間神社(人穴富士講遺跡)」へ。
人穴浅間神社
正式名は「浅間神社」
富士講信者たちが多数埋葬された墓碑が300以上あるとされ、角行の墓碑の他、食行身禄や村上光清に関する墓碑も多数みられる。
人穴は角行が16世紀から17世紀にかけて修行を行い、浅間大菩薩による啓示を得、また入滅した場だと伝わる。
『吾妻鏡』によると、13世紀には人穴が「浅間大菩薩(浅間大神)の御在所」として神聖視され、富士山信仰に関係する場所であったと
される。
人穴の地は、角行が浄土としたために、富士講信者も聖地とするようになり、参詣や修行が行われた。by パンフ&wikipedia
この奥に「溶岩洞穴人穴」があります。
「溶岩洞穴人穴」 崩壊の恐れがあり、入洞禁止でした。
この溶岩洞穴は、総延長83.3メートル、高さ最高約6メートル。
この溶岩洞穴が「人穴」といわれるのは、そこに籠って修行した人がいたことに由来するとか、太穴が訛ったものだといわれている。
洞穴の中は、天井は扁平で床面は平たん、入口からすぐの所に溶岩柱があり、最奥部は水が溜まっている。また、江戸時代の
はじめ頃~大正年間の石造物が6基祀られている。パンフレットより。
人穴の碑塔群
人穴浅間神社境内には、富士講の人たちが建立した碑塔が約200基あります。
これらは、各講の先達の供養や大願成就記念として建てられたものです。
碑塔(233基)は東京都が圧倒的に多い(103基)。関東地方は65基。不明65基。
碑塔建立は、17世紀に4基、ほとんどは18世紀中ごろ。19世紀中ごろに最盛期。1964年(昭和39年)以降の建立はない。パンフより。
長谷川角行(藤原角行)
角行(かくぎょう、天文10年1月15日(1541年2月10日) - 正保3年6月3日(1646年7月15日))は、江戸時代に富士講を
結成した人びとが信仰上の開祖として崇拝した人物。大職冠藤原鎌足の子孫。長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれる。
当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、
その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。そして、この穴で4寸5分角の
角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年(1560年)「角行」という行名を与えられる。
その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」(おみぬき)
という独特の呪符や曼荼羅を授かった。なお、「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した
際にはこれを数万の人びとに配して救済したという。
角行を開祖とする富士講諸派の母体は、教派神道の實行教と扶桑教へとつながっていった。
角行から村上光清に連なる系統(御法家)から、角行直系を称する冨士教が生まれた。
冨士教は毎年、角行が亡くなった6月3日に供養祭を開催しており、2010年6月3日には角行の富士山での修行開始後450年を
記念して「450年記念大祭」を人穴及び人穴浅間神社(人穴富士講遺跡)で開催した。by wikipedia
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