photo by paw(2013.6)
「祈り」の効果
果たして、祈りには効果があるのか?
「生きがいの本質」飯田史彦著の中に「祈り」についての科学的な実験による記述がありました。
(詳しく知りたい方はこの本を読んでいただき、更に実験手法等を確認されたい方はこの本に紹介されている学者の論文等をお読み
下さい。)
簡単に紹介しますと、
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・祈ってもらった患者たちの方が、祈ってもらわなかった患者たちに比べて、病気の進行が明らかに遅かった。
・祈る行為に距離は関係なかった。
・祈りは、対象の生体がストレスを受けている時の方がより効果的だった。
(祈ってもらう主体が厳しい状況に置かれている時ほど、祈りの効果は大きかった。)
・祈りの量に比例する効果が得られる。
・祈る人が祈りの対象を明確に意識しながら祈るほど、祈りの効果が高い。
・祈りの経験の長い人の方が大きな効果を生む。
・指示的な祈り(病気を治してください)と無指示的な祈り(最良の結果になってください)では二倍以上、後者の方が効果があった。
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祈りは、「どうすべきかを知っているチカラ」を増幅させる。
「意思を叶える」のではなく、「すべてをお任せする」、つまり宇宙の正しい法則に沿うことを受け入れる意思表示で祈ると効果的な
ようです。すなわち、
「どうぞ、私をお導きください。」「どうぞ、〇〇さんをお導きください。」という事になりますね。
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古代霊シルバーバーチの言葉より、「祈り」に関する一部の箇所を抜粋しておきます。
地上では必ずしも正義が勝つとはかぎりません。なぜなら因果律は必ずしも地上
生活中に成就されるとはかぎらないからです。ですが地上生活を超えた長い目で
見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤は必ず平衡を取り戻します。物事
は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するように努めることです。というのは、あ
なた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり
、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えること
もあるのです。祈りにはそれなりの回答が与えられます。しかしそれは必ずしも
あなたが望んでいるとおりの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとってい
ちばん望ましい形で与えられます。
(霊訓1 P58-9)
生活中に成就されるとはかぎらないからです。ですが地上生活を超えた長い目で
見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤は必ず平衡を取り戻します。物事
は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するように努めることです。というのは、あ
なた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり
、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えること
もあるのです。祈りにはそれなりの回答が与えられます。しかしそれは必ずしも
あなたが望んでいるとおりの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとってい
ちばん望ましい形で与えられます。
(霊訓1 P58-9)
・祈りに効果はあるか?
本当の祈りと御利益信心との違いを述べれば、祈りが本来いかにあるべきかがお
分かりになると思います。御利益信心は利己的な要求ですから、これを祈りとよ
ぶわけにはいきません。一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り
、暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り
、そうした祈りもあります。そうした祈りをあえて無視して、その状態のまま放
っておくことが実はその祈りに対する最高の回答である場合もよくあります。し
かし魂の奥底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める
魂の願望は、自動的に満たされるものです。つまり、その願望が霊的に一種のバ
イブレーションを引き起こし、当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に
引き寄せられます。危険の中にあっての祈りであれば保護のためのエネルギーが
引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。それは血縁関係によっ
てつながっている霊もおれば、愛の絆によって結ばれている類魂もおります。
(霊訓1 P169-170)
本当の祈りと御利益信心との違いを述べれば、祈りが本来いかにあるべきかがお
分かりになると思います。御利益信心は利己的な要求ですから、これを祈りとよ
ぶわけにはいきません。一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り
、暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り
、そうした祈りもあります。そうした祈りをあえて無視して、その状態のまま放
っておくことが実はその祈りに対する最高の回答である場合もよくあります。し
かし魂の奥底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める
魂の願望は、自動的に満たされるものです。つまり、その願望が霊的に一種のバ
イブレーションを引き起こし、当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に
引き寄せられます。危険の中にあっての祈りであれば保護のためのエネルギーが
引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。それは血縁関係によっ
てつながっている霊もおれば、愛の絆によって結ばれている類魂もおります。
(霊訓1 P169-170)
(祈りは叶えられるか)
祈りの中身と動機次第です。人間はとかく、そんな要求を叶えてあげたら本人の進
歩の妨げになる、あるいは人生観をぶち壊してしまいかねない祈りをします。祈る
ということは、叶えられるべき要求が自動的に授かるような条件を整えるために自
分自身の波長を高めて、少しでも高い界層との霊的な交わりを求める行為です。
(霊訓3 P141)
祈りの中身と動機次第です。人間はとかく、そんな要求を叶えてあげたら本人の進
歩の妨げになる、あるいは人生観をぶち壊してしまいかねない祈りをします。祈る
ということは、叶えられるべき要求が自動的に授かるような条件を整えるために自
分自身の波長を高めて、少しでも高い界層との霊的な交わりを求める行為です。
(霊訓3 P141)
真の祈りとは魂が生気を取り戻し、力を増幅するための手段、言い変えれ
ば、より多くのインスピレーションと霊的エネルギーを摂取するための手段である
と言えます。
ば、より多くのインスピレーションと霊的エネルギーを摂取するための手段である
と言えます。
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深いですね~(゜д゜)(。_。)
というくだりは、真宗とも通じるところがあるかもですね。
真宗では、利己的な現世利益を願うことは、
やはりよしとされません。
大いなる存在への感謝をこめて、お念仏を称えるのです。
でも、祈るとは言わず、願うとか念ずると言います。
私もしばらく離れていましたが、やっぱりググっと
入り込んでくる言葉が多いです^^
真宗だけでなく、言葉やニュアンスは違っても、
同じような表現はあちこちにあるのでしょうね。
真理は一つですから^^
ついつい神社に行っても、現世利益を願って
しまい人も多いと思いますが、それもまた「エゴ」
であり、やはり神仏には届かないでしょうね。
難しいのは、
「うまくいかない事」をも、それも「自分の今生に
とっては課題として自分で用意した」、という理解
かな?
祈る、願う、念ずる・・・すべて見えないものに対する
畏敬ですよね^^