幸福学専門30年 筬島正夫が語る本当の幸せ


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因果の道理と悪人正機  浄土真宗親鸞会降誕会

2009-06-23 | その他

先日、親鸞会館で親鸞聖人の生誕をお祝いする“降誕会(ごうたんえ)”という行事があり、


「利他の信楽うるひとは   りたのしんぎょう うるひとは
 願に相応するゆえに    がんにそうおう  するゆえに
 教と仏語にしたがへば   きょうとぶつごに したがえば
 外の雑縁さらになし」   げのぞうえん   さらになし

の親鸞聖人の言葉を通しての法話を聞かせて頂きました。

とてもここで全て説明はできませんが、今日はその中の
“教”の一字について書いてみたいと思います。

“教”とは、釈迦の教え、つまり仏教のことですね。

仏教の根幹といわれるものは「因果の道理」です。


 善い種を蒔けば、善い結果が自分に返ってくる。
 だから善いことをしなさい。
 悪い種を蒔けば、悪い結果が自分に返ってくる。
 だから悪いことはやめなさい。


これが因果の道理です。

いたってシンプル。
「そんなこと子供でも知ってるよ」と思われるかも知れません。

実際、法話で次のような話が紹介されました。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

昔、中国に、何時も樹上で、坐禅瞑想していた鳥巣という僧がいた。
ある日、儒者で有名な白楽天が、その樹下を通って、一つ冷やかしてやろうと思った。
「坊さんよ、そんな高い木の上で、目をつむって坐っていては、危ないではないか」
鳥巣すかさず、
「そういう貴殿こそ、危ないぞ」 と切り返した。
この坊主、相当偉いのかも知れぬ、と見てとった白楽天は、
「私は名もなき白楽天という儒者だが、貴僧の名を承りたい」
と尋ねると、
「私は鳥巣という名もなき坊主だ」
これが有名な鳥巣禅師と知った白楽天は、かねてから仏教に関心を持っていたので
「いゝ処で貴僧に遇った。一体、仏教とは、どんなことを教えているのか、
 一言でおきゝしたい」
と頭を下げた。 鳥巣は即座に、
「もろもろの悪を為すことなかれ、謹んで善を修めよ、と教えるのが仏教である」
と答えた。 白楽天、いさゝか呆れて、
「そんなこと位なら、三才の子供でも知っている」 と冷笑すると、鳥巣すかさず、
「三才の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行なうは難し」 と大喝している。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


言うは易し、行うは難し
、ですね。
机上の空論では、大事なことが知らされることはほとんどないでしょう。

実際、この“善悪の問題”は深いのです。

比較するために、ちょっと仏教以外でどう“善悪”について問題に
しているか見てみましょう。


まずは、『実存主義の先駆者』といわれる哲学者

キェルケゴール
(Søren Aabye Kierkegaard 1813年 - 1855年)

キェルケゴールは実存(ここでは本当の幸福くらいに理解されたら
よいと思います)への3段階の2段階目に「倫理的実存」をあげて
いますが、これは善に励んで、幸福を得ようとする段階を論じたものです。

もちろん、善に励むのはよいことなのですが、よいことをしようと励むほど、
良心の働きが鋭くなって、自分の悪が見えてきます。
そして、罪悪感が深まり、絶望するほかなくなってしまうのです。

この段階を経ることによって、次の宗教的実存へと進むのです。
そういう意味では、倫理的段階は、より高みに登るために必要なプロセスと
いえるでしょう。


さて、次は科学者、

アインシュタイン
(Albert Einstein 1879年 - 1955年)

アインシュタインは宗教を3段階に分けましたが、
その2段階目に倫理的(社会的)宗教をあげています。

これは善悪の基準となるものは何か、というところから出てきた宗教です。
その代表的なものはキリスト教です。

では、キリスト教に基づいて善をやろうと努めればどうなるか、
次のマザーテレサ(Mother Teresa 1910年 -1997年)の言葉はかなり痛切です。


微笑はすべてを覆い隠す仮面かコートです。
私の心は神への愛の下にあるかのように言ってきました。
しかし、あなた(神)がそこにいらっしゃったら、
「なんていう偽善なんだ」と言ったでしょう。
              (Mother Teresa - Come be My Light)

「The smile is a mask or a cloak that covers everything.
 I spoke as if my very heart was in love with God — tender, personal love.
If you were [there], you would have said, 'What hypocrisy.'」
              (Mother Teresa - Come be My Light)


善の限界、しかしそれは必死に善に励もうとしたなればこその
心の叫びでありましょう。
やりもしないのに「善の出来がたい自分」との懊悩は出てきようが
ありません。

では、善の出来ない悪人に救いはあるのか?
残念ながらキリスト教に答えは見当たりません。


キェルケゴールはこういいました。

O Luther, you had 95 theses?terrible!
ルターよ、あなたは95の命題をかかげた。

There is only one thesis.
私の命題は一つしかない

The Christianity of the New Testament simply does not exist.
『(新約聖書の)キリスト教はどこにも存在しない』ということだ

「Attack upon 'Christendom', 1854-1855」 p32



キリスト教を宗教の第二段階においたアインシュタインは、第三段階の
宗教についてこう書いています。


宇宙的宗教の要素がはるかに強くなっているのは仏教においてである。
私たちが、このことを特に学んだのはショーペンハウエルの素晴らしい著作に
おいてであった。

「私の世界観」(1934)


※英語版タイトル「World as I see it」
原書のタイトル「Mein weltbild」(My philosophyにあたるドイツ語)

Buddhism , as we have learnt from the wonderful writings of
Schopenhauer especially , contains a much storonger element of it.
(ショーペンハウエル) (置く・保つ)     (宇宙的宗教の要素)


先の白楽天は、孔子の教えた儒教を学んでいました。
キュルケゴールも、マザーテレサも、真剣にキリスト教に救いを
求めましたが、答えは得られませんでした。

仏教で勧められる「善の奥深さ」は、さらに深遠です。
とおりいっぺんの、よいことしよう、で留まるものでもなければ、
机上の空論として、説かれたものでもありません。


「仏教に善の勧めなどない」
「どうせ善などできないのだからする必要はない」
「善をするのは自力だからよくない」
「善をしてもいいけど、一生懸命するものでない」
「善をしてもいいけど、心からの善でなければ悪になる」

という人もあるようですが、真剣に自分の生と死に向き合っているのか
疑問になります。

倫理のレベルでさえそうでしょう。

不孝者は、自分が不孝であることを考えることもありません。

少し孝行しようとした人は、俺って結構、孝行息子だな、と感じるか、
なかなか孝行できてなくてゴメンネーといった調子でしょう。

真剣に孝行しようと努めたならば、不孝者の自分を感じ、涙せずに
おれないものです。

孝行一つとっても、その人その人で境界が様々です。
上の言葉にあてはめますと

「仏教に孝行の勧めなどない」
「どうせ孝行などできないのだからする必要はない」
「孝行をするのは自力だからよくない」
「孝行をしてもいいけど、一生懸命するものでない」
「孝行をしてもいいけど、心からの孝行でなければ悪になる」

「善」という漠然とした概念を、具体的な事例で見てみると、
この主張のおかしさがより鮮明になるのではないでしょうか?

言葉だけの世界に生きている人には、
具体的でない概念だけで踊っていることがしばしばだからでしょう。


「善悪」の問題も、言葉にすれば同じ「善悪」です。
しかし実際に感じられ、問題になる「善悪」のレベルはピンからキリまで
あるでしょう。


事実、


「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定住み家ぞかし」
(歎異抄)

の親鸞聖人の悲痛な言葉は、いずれの行(善)をも真剣になされようと
努められた末の魂の叫びではなかったでしょうか?


そしてこの“地獄行き”と告白された親鸞聖人が、同じ歎異抄で



『無碍の一道(a path of no hidrance)』

という一切のさわりがさわりとならない絶対の幸福、
“外の雑縁さらにない”に救われたと明言されているのですから、
不思議としかいいようがありません。


また、ここで“善が間に合って助かったのではない”ということも知っておかねば
ならないでしょう。

そのことは、キュルケゴールや、マザーテレサも感じたことです。
仏教はさらに深いレベルで善悪が論じられているのですから当然といえば
当然です。


哲学者ニーチェ(Friedrich Nietzsche 1844-1900)
は、その著『アンチクリスト(反キリスト者)』にこう書いています。

仏教はキリスト教の100倍現実的です。
仏教は、歴史的に見て、ただ一つの実証的な宗教と言っていいでしょう。

Buddhism is a hundred times as realistic as Christianity.
Buddhism is the only really positivistic religion history has to show us.



仏教は、私の言い方でいう「善悪の彼岸」に立っているのです。

it stands, in my language, beyond good and evil.
(er steht, in meiner Sprache geredet, jenseits zon Gut und Böse.)

ここでいわれる「彼岸」とは英語で「beyond」であり、「超越している」
という意味合いのものです。


善悪が徹底的に問題になってはじめて、善悪を超越したレベルの問題が
出てくるのです。

プロセスを無視して、机上の結果ばかりをもとめるととんでもないことに
なるので、注意せねばならないでしょう。

同じ善悪について論じても、どのレベルで論ずるかによって見解は
大きく異なってくるのです。


「利他の信楽うるひとは 
 願に相応するゆえに
 教と仏語にしたがへば
 外の雑縁さらになし」

“教”である、因果の道理にしたがって、廃悪修善に努める。
さすれば、善のできがたい悪人のすがたが見えてくる。

“願”に相応した、つまり本願どおり外の雑縁さらにない無碍の一道に
救われたのは、善がまにあってのことではない。
善悪を越えた本願他力(利他)によって救われたのだ。

それも「地獄一定住み家」の親鸞が救われた。
その境地が有名な


「悪人正機」

(the evil person is the true object of salvation)


この「悪人」が、倫理道徳レベルの「悪人」ではないことを感じ取って
いただけたでしょうか?


とてつもなく深い内容になってしまいましたが、
まず、ここで何かを感じていただければ幸いです。



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歎異抄をひらく:高森顕徹(1万年堂出版)
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