幸福学専門30年 筬島正夫が語る本当の幸せ


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芥川龍之介「青年と死」 死を忘れるのは生を忘れるのだ

2009-11-26 | 
芥川龍之介「青年と死」という作品があります。

着ると姿の見えなくなるマントルというものをつかって快楽を求める
青年を題材にしたものです。

その中に、以下のような場面が出てきます。


B あすこへ行くようになってからもう一年になるぜ。

A 早いものさ。一年前までは唯一実在だの最高善だのと云う語に食傷(しょくしょう)していたのだから。

B 今じゃあアートマンと云う語さえ忘れかけているぜ。

A 僕もとうに「ウパニシャッドの哲学よ、さようなら」さ。

B あの時分はよく生だの死だのと云う事を真面目になって考えたものだっけな。

A なあにあの時分は唯考えるような事を云っていただけさ。
  考える事ならこの頃の方がどのくらい考えているかわからない。

B そうかな。僕はあれ以来一度も死なんぞと云う事を考えた事はないぜ。

A そうしていられるならそれでもいいさ。

B だがいくら考えても分らない事を考えるのは愚じゃあないか。

A しかし御互に死ぬ時があるのだからな。

B まだ一年や二年じゃあ死なないね。

A どうだか。

B それは明日にも死ぬかもわからないさ。
  けれどもそんな事を心配していたら、何一つ面白い事は出来なくなってしまうぜ。

A それは間違っているだろう。
  死を予想しない快楽ぐらい、無意味なものはないじゃあないか。

B 僕は無意味でも何でも死なんぞを予想する必要はないと思うが。

A しかしそれでは好んで欺罔(ぎもう)に生きているようなものじゃないか。

B それはそうかもしれない。

A それなら何も今のような生活をしなくたってすむぜ。
  君だって欺罔を破るためにこう云う生活をしているのだろう。

B とにかく今の僕にはまるで思索する気がなくなってしまったのだからね、
  君が何と云ってもこうしているより外に仕方がないよ。

A (気の毒そうに)それならそれでいいさ。

B くだらない議論をしている中に夜がふけたようだ。そろそろ出かけようか。

A うん。

B じゃあその着ると姿の見えなくなるマントルを取ってくれ給え。
 (Aとって渡す。Bマントルを着ると姿が消えてしまう。声ばかりがのこる。)
  さあ、行こう。

A (マントルを着る。同じく消える。声ばかり。)


        ×
(中略)


AとBとマントルを着て出てくる。
反対の方向から黒い覆面をした男が来る。うす暗がり。

AとB そこにいるのは誰だ。

男   お前たちだって己(おれ)の声をきき忘れはしないだろう。

AとB 誰だ。

男   己は死だ。

AとB 死?

男   そんなに驚くことはない。
    己は昔もいた。
    今もいる。
    これからもいるだろう。
    事によると「いる」と云えるのは己ばかりかも知れない。

A   お前は何の用があって来たのだ。

男   己の用はいつも一つしかない筈だが。

B   その用で来たのか。ああその用で来たのか。
    己はお前なぞ待ってはいない。己は生きたいのだ。
    どうか己にもう少し生を味わせてくれ。
    己はまだ若い。
    己の脈管にはまだ暖い血が流れている。
    どうか己にもう少し己の生活を楽ませてくれ。

男   お前も己が一度も歎願に動かされた事のないのを知っているだろう。

B  (絶望して)どうしても己は死ななければならないのか。
    ああどうしても己は死ななければならないのか。

男   お前は物心がつくと死んでいたのも同じ事だ。
    今まで太陽を仰ぐことが出来たのは己の慈悲だと思うがいい。

B   それは己ばかりではない。
    生まれる時に死を負って来るのはすべての人間の運命だ。

男   己はそんな意味でそう云ったのではない。
    お前は今日まで己を忘れていたろう。
    己の呼吸を聞かずにいたろう。
    お前はすべての欺罔(ぎもう)を破ろうとして快楽を求めながら、
    お前の求めた快楽その物がやはり欺罔にすぎないのを知らなかった。
    お前が己を忘れた時、お前の霊魂は飢えていた。
    飢えた霊魂は常に己を求める。
    お前は己を避けようとしてかえって己を招いたのだ。

B ああ。

男 己を忘れるのは生を忘れるのだ。生を忘れた者は亡びなければならないぞ。

B ああ。(仆れて死ぬ。)

(後略)


    ――竜樹菩薩に関する俗伝より――
               (大正三年八月十四日)



        

この中で、芥川は登場人物にこういわせています。

A しかし御互に死ぬ時があるのだからな。

B まだ一年や二年じゃあ死なないね。

A どうだか。

B それは明日にも死ぬかもわからないさ。
  けれどもそんな事を心配していたら、何一つ面白い事は出来なくなってしまうぜ。

A それは間違っているだろう。
  死を予想しない快楽ぐらい、無意味なものはないじゃあないか。

B 僕は無意味でも何でも死なんぞを予想する必要はないと思うが。

A しかしそれでは好んで欺罔(ぎもう)に生きているようなものじゃないか。

B それはそうかもしれない。



多くの人が「死」を忘れ、快楽を求めて生きています。

たまたま「確実な未来=死」を問題にしていたら、

「そんな事を心配していたら、何一つ面白い事は出来なくなってしまうぜ」

という言葉が返ってくる。


私も、中学生のとき

「でも、結局最後、死んでしまう」

といったら友人から

「それをいっちゃあおしめえよ」

と冗談のように返されたのをよく覚えています。


死んだら、それまでの快楽は消えうせる、それを予感しながらも、
そのことにフタをして生きている。

それは「好んで欺罔(ぎもう)に生きている」姿でしょう。



しかし、いつまでもフタはしておれません。

現実に「死」がやってきます。

いえ、この小説にあるように

「死」は

    昔もいたし
    今もいるのだし
    これからもいる

つまり、死と関係のないひとときなど存在しないのです。

まさに

   「『いる』と云えるのは己(死)ばかり」

なのです。

一番間違いないものが「死」なのです。

そして


「己(死)を忘れるのは生を忘れるのだ。
 生を忘れた者は亡びなければならないぞ」



とあるように、死を忘れた営みは、本当の「生」を見失っているのでしょう。

《余命一ヶ月の花嫁》が言った

「みなさんに明日が来ることは奇跡です」

という言葉はズシリときます。

(余命1ヶ月の花嫁 movie -)
 http://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/e/5bcb632808e06f36527451cefc868f46"target="_blank"



「死」を見据えたとき、一日一日の大切さが知らされ、
まことの「生」の意味を問わずにおれなくなります。


「無常を観ずるは 

菩提心(本当の幸福を求める心)のはじめ(出発点)なり」

「今日死ぬと 思うにすぎし宝なし 心にしめて常に忘るな」


 

※写真はいずれもwikipediaより

全文を読まれたい方はコチラ

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/142_15207.html"target="_blank"


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