ブレンド日記

世の中の出来事・木馬での出来事・映画の感想・本の感想・観るスポーツ等々ブレンドして書いてみました。

未完

2006年12月25日 | 私ごと

 この場をお借りしてお礼申し上げます。

 今日は夫の祥月命日です。
あの日以来 もうどうなってもいい、と自暴自棄になった日々。
私に繋がる多くの人たちの暖かい励ましが、どれだけ私に生きる望みを与えて下さったか・・・ 
本当にいつも支えてくださりありがとうございます。

トンボが言った。「いつまでも、いつまでも、悲しい、悲しいといって。お父さんは天国できっと楽しんでいるわな、天国はいいとこなんよ、それが証拠に帰ってきたものが誰一人おらんだろう。」と丹波哲郎のような事を言う。

 そんな私達がライフワークと決めていたのは、夫が6号で休刊していた同人誌の「瓦」をまた自費出版することでした。でもその思いを遂げることなく逝ってしまいました。私一人ではとても遺志を継ぐことなど出来ません。残念ながら私にはセンスがないのです。
そんな私がこの同人誌に参加したのは5号からでした。
私事ですが、その当時の思い出話を書かせてください。

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 ある夏の日。・・・昭和40年

 「随分 遠いね。」
圧し付けられるようなジリジリした陽射しと、せみ時雨の昼下がり、私は砂利道を歩きながら言った。
 私は白いつば広の帽子にノースリーブの花柄のワンピース、白いサンダルを履いて、スケッチブックを抱えてお昼前の汽車に乗った。
 
 浜田駅には 彼が迎えに来ていた。お百姓さんがかぶっているようなひさしの付け根に黒いビニールのリボンを巻いた麦藁帽をかぶり、風に飛ばされないように白い紐が首に絡みついている。足元は下駄を履き、白の綿パンに紺のポロシャツ姿だった。麦藁帽子には180円の値札が付いていて笑った。途中で買って来たらしい。

 彼はいつもというより仕事以外はすべて下駄履きだった。いつだか聞いた事がある。
「下駄が好きなの?」
「下駄は日本人が考え出した最高の履物だよ、指に力を加えることで、つぼに刺激を与えるし、踏ん張る事でしっかり歩ける。だいいち駅のホームのベンチで寝るときなど二つあわせたら枕の代わりになる。」そういった。

  汽車から降りて来た私を、上から下までいくぶん眩しそうな目つきで まじまじと見つめて、「いいね、ワンピースは好きだよ。」と言った。
  
 初めてのデートは、生湯にある亀谷窯業所だった。汗かきの私は、砂利道のゴロゴロとした石ころに脚をとられてサンダルがすべり、くねくねしてとても歩きにくかった。歩きながら路の途中で、暑さで伸びきったような蛇を何匹も見た。
青い2トントラックが砂塵を上げて通って行く。そんな砂利道の道端にはススキが茂り、その茂みの中に小さな対のお地蔵さんが赤いエプロンをかけて立っていた。
入道雲に遮られた坂の砂利道を見上げて、私は少々うんざりしながら歩いた。
 
 亀谷窯業所では日曜日だというのに機械の動く音がしていた。よく聞くとそれは一定のリズムでガチャガチャガチャガチャと聞こえていた。工場の中は風が通り汗ばんだ身体や顔にひんやりとした風は心地よかったが、粘土の乾燥したような匂いが充満していた。私は汗で髪の毛がへばりついた首筋を何度もハンカチで拭った。
彼は入り口にある事務所に入り 工場の人と雑談していたが しばらくして出てきた。機械の動く音で聞き取りにくかったが、「スケッチを許してくれたから、危なくないところで描かしてもらって」と言った。 

 うまく描けるかどうか不安だったが、粘土で出来た瓦がいたるところにまるでドミノみたいにお互いに重ならないように規則正しく干してあり、違う種類の瓦を何枚かスケッチした。
「もういい」と言うと彼はスケッチブックに目を通して、「じゃ帰ろうか?」事務所の人にお礼を言ってまた同じ道を二人で歩いた。
来る時見つけた食料品店の前まできたら、「ちょっと待って。」と言いながら店に入ってラムネを2つかかえて出て来た。
汗をかいた後でもあり水滴のいっぱいついた瓶を一気に飲んだら 冷たく冷えていてとても美味しかったが、のどがチリチリして涙目になった。
帰りの駅までの道のり、「次回の“瓦”のカット(挿絵)に使うよ。」と彼は言った。  

 

 そうして 出来上がったのが「瓦」の5号でした。

彼の記事が(未完)となっているのが、悲しい。

 晴れ 18℃ 今日も午後から暖房なし。