<蝋梅>
この画面からこのいい匂いがお届けできないのがとても残念です。
この花の名前のいわれは、花色と花弁の質感が蝋のようであるためとも、陰暦12月に咲くからともいわれている。また、老木になると蝋が垂れたような幹肌になる。黄色の花が蜜蝋に似ていて、それが小枝いっぱいに咲く風情が梅を連想させるからとも言われているらしい。
花言葉も憐れみ深い慈愛心、優しい心らしい。
この仄かに漂う甘くそれでいて爽やかな匂いをかいでいるとなるほど、と思う。
--------------------------------------------------------------------------
さて。
今日は全く私にために書きます。ですから興味のない方はどうぞ飛ばしてください。
今日はなき主人の祥月命日です。もうあれから7年も過ぎてしまいました。しかし今だ自分の足でしっかりと歩いているという気がしないのです。我ながら意気地がない、わかっているのですが、こればかりはどうしようもないのです。
私が二十歳の時に彼が編集していた郷土誌「瓦」を通じて知り合いました。
当時は携帯もない、それどころか電話さえも各家庭にはなかった時代です。その当時は誰も同じで 連絡方法はもっぱら手紙でした。
私は「瓦」の4号から参加し、最後になった7号まで手伝いました。
この「瓦」の1号、2号が手元になく、私もまだ読んでいないのですが、この中に彼の「友への手紙」という短編が載っているのです。もしこのブログを読んでくださってる方で「瓦」1号、2号をお持ちの方は見せていただけませんでしょうか?
今日は その当時私にくれた手紙を「友への手紙」と題して、今日アップします。
それは昭和42年4月の事。
浜田の建設会社から、鹿足郡日原の某紡績工場の建設現場で住み込みで働くことになった彼は、私に江川特集の瓦7号の原稿集めとか、様々な仕事を押し付けて行ってしまったのです。通っていては仕事にならないとか何とか言いながら・・・
そんなある日の手紙です。
--------------------------------------------------------------------------
国道9号線から日原の町中へ入るメインストリートに架る橋の上から、丁度青野山が、山々の間に絵に描いたようにくっきりと見える。
青野山はまだ赤褐色の肌色をしているが、周囲の山々が薄く緑色を帯びてきているので晴れた日など、その山肌の色がまた美しく感じる。
今日は仕事が終わってとてつもない解放感があった。
現場の激務の上に見積もりと図面を専務から頼まれた。それを深夜にかけ二晩で約束の期日までにどうにか型をつけた。その間現場係員としての仕事ももこなし、晴れ晴れしい気分が重なり、仕事が「あぁ今日も終わった」という感じである。
それにしても盆地の夜は冷えるな、誰もいなくなった現場小屋の裸電球の下で、午前0時ごろまでいると、冷たい夜気を感じると共に、異郷に来ている寂しさもある。
と同時にこんな日々から逃げ腰になってしまってはまた、精神的にスキが出来てしまうという自戒もあった。負けてはならぬ、逃げてはならぬ、という気概。がよく考えてみるとその核にデンと腰をすえている君の存在に気がつき俺の精神を支えている君の愛を思った。
晴れやかな解放感が俺を支配すると、急に周囲の自然の美しさに眼が行く。
落葉樹に燃える新緑の小さな炎群を素晴らしく美しいものと感じられた。よし、今日はカブで岩日線を登ってやろうと思いついた。
高津川は日原の町で上流へ向かって二つの流れに別れる。
津和野の方へ津和野川、岩日線に沿って流れる吉賀川。後者のほうを登ってみた。沿岸の山々は迫り、新緑の光は満ち溢れ、水の上に散在する岩々の間を縫って流れる水は、どこまでも透明でまるで鏡のような美しさをたたえていた。
カブの燃料がなくなるのに気付き慌てて引き返したが、全く魅了されてしまった。
「建築」の編集室につめていたカメラマンはよく言っていた。
芸術とは光をいかに捉えるかにあると。これは色々な意味を含んだ言葉だろうが、ふとこの時それを思い出していた。春の光の中にとけ込んでみるとまるで自然の光の中にいる感じがした。そしてその光は全く当たり前のことだが、すばらしい透明感を持っているのだ。絵画にしても文学にしても、このような自然の燃えるような透明感を自分のものにしている作家なり作品なりを知っているが、果たして自分がこのように光を演出し しかもその造形物へ透明感を与える事が出来るだろうかと、しばらく河原の岩の上で考えていた。
この思考の姿勢は暗くはない。目の前の水がとてつもなく綺麗なのに ただ感嘆していれば、その中に慰めを見出していられたからもある。
ともあれ 今日はいい気分で手紙を書くことができた。人里はなれた村の中でとにかく頑張っている、多くの恥と失敗を重ねながらも頑張っている。
君も元気だろうな。早く日曜日が来ないかなと思いながらさよならしよう。
(※主人は東京の大学を卒業して少しの間「建築」という雑誌の青銅社の編集の仕事をしていた。)
--------------------------------------------------------------------------
主人が27歳 私が21歳の時です。
今も何十通の往復手紙大事にしています。今となっては私の宝物なってしまいました。
全く私事を、最後まで読んでいただき有難うございました。
←クリックお願い致します。励みになります。
晴れ 13℃ 暖か。