ブレンド日記

世の中の出来事・木馬での出来事・映画の感想・本の感想・観るスポーツ等々ブレンドして書いてみました。

感謝の気持ち

2007年11月30日 | 木馬の事
                 

                            <星高山の夕陽 11/29>

 早いものでカレンダーが一枚になった。
それにしてもペンペンの11月だった。どれくらいペンペン(ぺんぺんの意味は昨日の日記を見てください。)だったかというと、メニューにない頂き物のお料理の レパートリーが非常に増えたくらいぺんぺんだった。
今が旬の大根をこれでもか、これでもか、といただき、店のメニューを考える事もなく大根と悪戦苦闘の連日。
朝から大根と鯨の表皮の煮込みを作ったら、それが我ながら美味しそうで、美味しそうで、身悶えする11時、奥の厨房からは火を止めたばかりの鍋。そしてガラリ戸から漂う豊かな香り、う~ん 早く食べたい。

突然みすぼらしい老人がふらふらと店に入ってきた。「社長さん、やさお富!いやお嬢さん、一口食べさせていただけませんか?」
コーヒーを飲みに来たのではなく、大根の煮込みの香りに連られて入ってきたのだ。今ここで拒否したら、このお年よりはそう長くない人生、心残りで、死んでも死に切れないだろう。今わの際に「あ~あの大根の煮込みが食べたかった。」ではあまりにも、私の天使のような清い心も痛む。それこそ不条理だ。
「私は社長さんでも、お富さんでも、お嬢さんでもありませんが、私たちがお昼に食べようと思って作ったものです。でも一口ならどうぞ、また作ればいいのですから。」
気持ちよく食べてもらった。
お礼にと、汚いマフラーをくれた。「お礼などいりません、どうせ頂いたもので作ったのですから。」それにこんな薄汚れたマフラーなんてゴミ箱行きだわ。
「そういうわけには行かない、このマフラーは魔法のマフラーで、首に巻いて願い事をしたら叶うのじゃ。決して洗わないように。」
押し付けられたので、仕方無しにそのマフラーを首に巻き 年末ジャンボを買ったら3億円当たってしまって ぺんぺんもすべて解消できました。終わり。
そんなことないだろうか?あほらし、バカみたい。
さぁ 食べよう!
しかし大根は 実に美味しいね。
 
 さて。
真面目になって、この木馬も11月25日を持ちまして、32周年目に入っています。
これもひとえに皆様の変わらぬご愛顧の賜と、心より感謝をしています。
これからどうなるか日本の未来のように不透明ではございますが、できる限り持ちこたえて頑張って行きたいと思いますので、これからもご支援ご鞭撻 よろしくお願い致します。

雨 曇り、薄晴れ 15℃

下府駅の思い出

2007年11月29日 | 私ごと


 閑古鳥は渡り鳥じゃないんだろうか?
どうも年越しをするみたいに、木馬に居座っている。
この鳥に名前をつけた。因みに名付け親はトンボで『ぺんぺん』ぺんぺん草からきているらしい。まったく、もぅ・・・
早くこのぺんぺんを嫁に出さなければいけない、誰か貰ってくれないだろうか?

    ーーーーーーーーーーーーー
 
 一枚の風景画を細かくちぎって、風に中に飛ばしたようなものが幼い頃の記憶なのじゃないだろうか、と何かの本で読んだけど、吹き飛ばされそこなった紙切れを、私はいつまでも心の中に持ち歩き、還暦過ぎた今頃になり、いよいよ色鮮やかに細密画のようになっていく。
その小さい断片は、自分だけの宇宙空間を完成させたがり、私の曖昧な自分史のなかで脈略なく漂っているのだ。

今日の写真は そんな断片の一つである、山陰本線下府駅の写真です。この前浜田に行く途中に撮影しました。(写真をクリックしてくださいね。)

 洋裁をしていた東京の従妹に、この日のために作ってもらった、一張羅のちょうちん袖の小花のワンピースを着て、赤い皮のランドセルを背負い、なぜか手にブリキのバケツをぶら下げていた私は、昭和28年の9月1日午後2時過ぎ 東京から24時間かけてこの駅のホームに降りたったのだ。
降り立ったとたん、新しい生活の不安と期待の入り混じった気持ちが、私たち家族の共通の気持ちだったと思う。

どこかシーンとした静かな、おっとりとした高台の田舎駅のホームは、私たち家族のほかに降りる客もなく、家族6人が一塊になり、長旅で疲れた腰などをたたいたり延ばしたりしていた。そして両腕を上げて「あ~着いた、着いた。」と伸びをした父親の顔に初秋のやわらかい陽が当たっていた。

石の階段のしたから「よう帰ってきんさって!ここ、ここ。」と、今回お世話になり家などもお世話してくれた母方の叔母が、手を振って迎えてくれた。
叔母に連れられ、新しい家をめざして両手一杯の荷物を抱えた私たち家族は 歩き出したのだった。

その頃と全く変わっていない下府駅。ここから私の田舎生活が始まった。それから半世紀過ぎてしまった。

そうそう、何故私が手にブリキのバケツを持っていたのか、ここで少し説明をさせていただくと、ここに来るまで、東京の板橋に住んでいた。
小学校一年生の一学期の夏休みが終わる8月30日に、一身上の都合で母親の生まれ故郷の島根に引き上げる事になり、あらかたの荷物をチッキで送り、ガラーンとしたバラック屋で、手に持つ物だけ置いて、いざ鍵を返そうと立ち上がった時、アッ!みなで叫んだ、拭き掃除していたバケツが残っていたのだ。
そのとき 母はまだ生まれたばかりの妹を抱かなくてはいけないし、祖母もとりあえずの荷物を両手に抱えていたしで、「悦子、これお前持ちなさい。」と父親の一言で東京から汽車に乗り手に抱えてきたのです。
当時はブリキなんて、貴重でそう簡単には捨てられなかったのだと思う。

日記@BlogRanking←クリックお願いします。

晴れ 16℃ 



続続 広島行き

2007年11月28日 | 私ごと


明け方 しとしとと降る雨の音で目覚めた。
うとうとしながら「今日は雨かぁ。」

出勤すべく、黒塗りの高級愛車(10年物のマーチですけど・・)の車庫に向かう。見上げた空は雲が薄くなり、星高山がシルバーオレンジの明かりを放っている。
今日は晴れかな?そう思いながら車を走らせていたら、和木あたりの前方に虹が見える。突然めらめらとカメラマン気質が湧き上がり、産業道路に回り道をした。綺麗だぁ。ワーオ!一番よく見えるところに車を止める。

水溜りをひょいひょいと、まるで牛若丸のように飛び越えて(私がです。)シャッターポイントまで、その天体ショーの写真を撮影した。
いつも見なれた風景なれど、ある時はビルディングの高さくらいまで白波が立ち荒れ狂い、またある時は沖をゆったりと白い船が行く。しばらく眺めて色々な四季の風景を頭に思い浮かべ逡巡していたが、ふと我に返った。私は今なにするためにここに立っている?
そうだ、仕事に行かなくちゃだ、慌てて木馬に向かった。今日は遅刻だった。

「虹って水平線まで行ったらどう見えるんだろうね。」と話していたら、「3時の方向に見えるのよ。」とは元零戦乗り?のトンボの寒いダジャレです。(因みに昔の飛行機は10時の方向とか、正午の方向とか行ってたらしいから・・)

 さて、引っ張りに引っ張った広島行きです。
車は大朝から、千代田、可部の町に入った。急に車の台数が多くなり、都会の雰囲気になる。この道は 昔子供達が浪人していた時に、広島の行き返りに何度も通った道だから、建物にも見覚えがあるものが多い。

安佐南まで来たら、山陽道の広島インターの大看板が見えた。
入り口で車を止めた。「じゃね、有難う、おばあちゃんも元気でね、今度東京にも遊びにおいでね。そうそうここから乗るんだけど、岩国って書いてある方向に行くんだよ、福山って書いてある方向に行ったら、大阪に行ってしまうからね。」
荷物を下して歩いていく更に磨きのかかった後姿を見て、この偏屈ですっかり親父化している メタポ愛想無しの面倒を見てくれてる千葉の管理部長に「有難う」と心の中で手を合わせて、「返品はお断りですからね。」と東の方角に向かって口に出して言った。けどあれが東だったかは定かではない。まぁいいや。

 さぁ 一路江津へ・・
一般車、ETC車、とゲートがあるのを一番左の一般車に向かう。自慢じゃないけど私の愛車は ETCは愚か、カーナビも スピード違反レーダーも何もついてない超シンプル、正統派のオーソドックス車なのだ。
一番下からチケットが出たので取る。「オッ!下から出た。」高速の運転は二度目の私、随分前 愛想無しが大学院を卒業した年だから15年位前、引越し荷物を軽トラックで運んだ時に運転して以来なのだ。
そのときチケットが真ん中から出た。
「みんな下から出るのにどうして私だけ真ん中からチケットが出るの?」
「顔の大きさをセンサーが判断してチケットの出る位置が決まるんだよ。」
決して小顔の持ち主じゃない私は、そうなのかと、信じていた。

三車線の道路は恐い、ビンビン後続車が追い越してゆく。頭の中で岩国、岩国とつぶやいた。同乗している安光姫は、呑気なものだ。「いいわぁね、東に行けば尼崎まで行ってマゴマゴに逢えるし、西に行けば防府まで行って降りればこの前帰ったんだから大丈夫だし。」そんな問題じゃないでしょう?

山陽道には浜田まで何キロなんてどこにも書いてない。次第に不安になってくる。これってまだ中国道じゃないんだろうか?緊張で体ががちがちになる。
しばらく走ったら何か大きな看板が見えた。これだ岩国だ、ところが反対側に福山と書いてありその真ん中に小さい看板で、大阪 浜田と書いた標識が見えた、確か岩国方向に矢印が指しているけど大阪とはまたどうして?。逆光だからよく見えないけど大阪のほうに行くなよと言われたはずだ、しかし確かに浜田の看板もあった。絶対にあった、うれしくなった、これで帰れる と西武時代の松坂投手じゃないけど イチロー選手と初対戦で三振に取った時にいった言葉と同じで、不安が自信になった。



写真は断魚渓を見下ろしたところと、高速道路(浜田道)を走っている写真です。

見慣れた中国道に入ったら急にお腹がすいてきたので、安佐のパーキングに入り、安佐名物ラーメンを食べた。もの凄く厚いチャーシュが三枚も入っていて(ホント、冗談じゃなくて5ミリはあると思う。)とても美味しかった。コーヒーも飲んだ。
そこからすぐ浜田道路だ。対面交通の制限速度70キロ。
安全運転の私は80キロで走っていたら、すぐ後ろに車が溜まる。私はこれ以上スピード出せないよ、行ってよ、行ってよ、遠慮はいらないよ。何でみんなスピード出すのだろうね。行ってよ、行ってよ・・・・

何とか無事江津まで帰った。
広島まで送っていった話は勿論しました。みんな「凄いね、よう行ったね。偉いわ!広島市内はベテランでも難しいよ、ナビもついてない車で。もう方向音痴は解消だね。」と半信半疑の顔ではあったが 感心してくれたので、今更「いいえ 広島インターからです。」と言いそびれている私です。
そして、体のいたるところが痛いのです。

人様にとってはどうでもいいような話を、最後まで読んでいただき有難うございました。

日記@BlogRanking←クリックお願い致します。

早朝雨、のち晴れ 16℃ 

引き続き・・続 広島行きです。

2007年11月27日 | 私ごと


 朝から暖かで、しかしどんよりと鉛色の一日だった。
来客に備えてじゃないけれど、朝また大きな無農薬の大根を頂いたので、イリコさんと「さぁ どうしよう」と頭を悩まして、冷凍庫に眠っていた豚三枚肉のブロックと一緒に煮ることにした。
豚ブロックに塩胡椒を擦り付けて温めた中華なべに入れ、6面に焦げ目を付けた。それにニンニクと生姜を入れたたっぷりのお湯でコトコトとゆがいた。
いや それにしても暇。
豚の焼く匂いと煙が店に充満しないように窓を開けて逃がした。「ここは何屋かね?」と言われないように。
この三枚肉と面取りした大根の煮込みを作った。美味しそう・・
厨房から漂う豊かな香りが 鼻をくすぐり、ビールが飲みたくなる。
不埒な事を考えてはいけない。いかん、いかん、アル中じゃないんだから・・・
店が暇だとろくな事考えん!

モーニングサービスに付けるゆで卵が計算間違いで残った。
明日の朝 もう一度使う?とんでもない、それこそ不埒な事考えてはいけない、吉兆じゃないのだから。

で、そのゆで卵も入れた。煮卵は好きだ。温泉卵の次に好きな味だ。危険な味だ。
と言うわけで コーヒー屋より気の利いた和食屋のほうがいいかなと思う今日この頃です。
 
 さて。
バカなこといわないで、昨日の続きです。

飲んだ勢いで安請け合いしたものの、広島などスイスイと運転できるわけがない。市内をぐるぐるハツカネズミのように回って人様の車にぶつけるか、交通違反をして捕まるか、それしかない。後悔した。もうすっかり車で行く気になっているメタポ愛想なし。バスの時間も気にせず呑気に新聞読んでいる。
「あの~ 広島まで送るのは構わないんだけど、高速道路のインターの入り口まで送ってくれない?」恐る恐るメタポ愛想無しに聞いた。
「そのつもりだよ、知ってるよ、天然記念物級の方向音痴だと言うことを。昔 有福温泉で、入り口と出口と間違えて、裸で表に出たろう?」
嫌なこといつまでも覚えているやつだ。タオルで前は隠してました!裸じゃ?いやスッポンポンじゃありません。

と言うわけで江の川の紅葉を見ながら、江の川の流れを見ながら、10時ごろ家をでた。
江の川はこの道が一番いい。と本町から金田、千金、の旧道を走った。(濃霧注意報が出ていたので、多少曇っていますが、写真をクリックしてくださいね。)

山々は連なり、川面はキラキラと輝き、すっかり秋色に染まった山肌は 全体が玉子鼠色を帯びながら、時折ハゼやモミジの赤が混じり、小皺波を抱きながらゆったりと、流れている川面に影を落とす。
車の窓を開けると菌類の湿っぽいにおいと、落葉のにおが混じっていた。「これがマイナスイオンの匂いだ。」と愛想無しが言う。車を少し幅の広いところに止めて、手で空気を身体にかけた。まるで巣鴨のお年寄りが煙を浴びせているように。
「よくお父さんと来た道、初夏のこの当りは田植え前の田んぼに、蓮華の赤紫と菜の花の黄色のコラボレーションが絨毯を引きつめたようで、これらの風景は頭に中にしっかりと残っているよ。」とメタポ愛想無しが言う。(千葉の愛想無しの枕をメタポに改名しました。)
そんな郷愁と思い出の道を車を走らせてた。いくつになっても故郷はいいものらしい。
たかが広島行きくらいで、引っ張りますが、余り長くなるとまた顰蹙を買いそうなので明日もう一日この続きを書かせてください。

日記@BlogRanking←クリックお願い致します。


曇り 17℃

何やかやと忙しい週末。

2007年11月26日 | 私ごと
 
 忙しい週末だった。
仕事が忙しかったと書きたい。
本業の木馬が忙しかったのなら こんなルンルンなはないのだけどそうじゃないのだ。暇は暇なりにのんべんだらりと、リズミカルに生活しているところに、突然愛想無しが帰ってきたから、いらぬ仕事が増えたのだ。しかし、先行投資の先行きや、貸付利息も頂かなくてはならないから、母は頑張った。
そんなこんなで、土曜日早仕舞いした。
お袋の味で歓迎しようと思ったけど、ふと思い出した。いつか、仕事をほっぽり出して、津宮小学校の写真を撮ったお礼がまだだったことを・・私は蛇年生まれじゃないけど、自分に寛大で子供に執念深い。
ということで 木馬のご近所の「うえの寿司」でお寿司を奢ってくれと強くせがんだ。(写真をクリックしてくださいね。)まぁ 快く奢ってくれたけどね。
そしてお刺身は 今まで時化で海に出られなかったけど、海が穏やかになったからと、まゆパパが釣ったばかりの鰆をくださり、お刺身にした。

これらでホームパーティをした。
結局 ニ宿五飯何も作らなかったんだけど、私にも言い分はある。自分で作ると、味見をしながら「美味しい、美味しい、なんて私はうまいんだろう、料理の天才だ。」と自画自賛して味見をしすぎ、過剰摂取、過剰摂取と本能が警告する。いざ本番の時にはお腹一杯になり 眠たくなる。すると膝詰め談判が出来なくなる恐れ。
これが理由である。

しかしお寿司のネタも、東京に負けない位新鮮でとても美味しいと言ってたし、鰆もこんな美味しいお魚とは知らなかった、甘いし口の中でとける、東京でこんな新鮮なお魚食べたら4.5千円は取られるよと、キャラが少々立ちすぎる、強面のメタポ愛想無しが、満足そうに目を細めて食べていた。うん、うん、そうかそうか。
子供が帰るたびに美味しい新鮮なお魚くださるまゆパパに本当に感謝です。

 さて。
翌日は臨時休業にしたので、炬燵に根が生えたように座り続け、夜も更けるまで500CCのビール缶を横に倒していたら、「江の川走ってみたいなぁ、いつだか写真がアップしてあったけど懐かしいなぁ。あの流れはどこにいても郷愁を誘う。」
飲んだ勢いで「じゃ 広島まで送ろうか?」
話はとんとん拍子に運んだのだけど、自分が天才的な方向音痴だということを、すっかり忘れた夜だった。お酒は本当に人格を変える。

  続きはまた明日

日記@BlogRanking←クリックお願い致します。
    
晴れ 時々曇り 18℃ 暖かな一日。

三島由紀夫と木馬の開店記念日に寄せて。

2007年11月25日 | 本の事
  ここのところ三島由紀夫ばかり読んでいる。
あれから37年もたってしまったのかと、あらためて驚く。(少し長くなりそうな予感、ごめんなさい。)

 1970年11月25日 三島由紀夫が自ら作った「盾の会」の仲間と共に、市ヶ谷の自衛隊に乱入し割腹自殺した日のことは忘れられない。
あの衝撃の日『本気だったんだぁ、嘘じゃなかったんだぁ、』ただもうその言葉ばかりが頭の中をぐるぐる回っていた。
当時テレビやマスコミに頻繁に出ていて、「死の美学」なるものを熱く語っていた三島だったからだ。
最近になり、たびたび三島由紀夫のことを考えるようになった。
このたびの防衛庁の不祥事とか、テロ特措法とか、そんな時三島ならどうみただろうか?どうコメントしただろうか?と考えてそして、それに対して私はこう思うなどと、偉そうに反論したりして・・・

私は三島由紀夫や太宰治は、本当のところ余り好きではなかった。
が亡き主人が三島文学の大のファンで、三島の文学には無駄がない。始めから終わりまですべてに計算されつくされていて、読み終わったときに感嘆の声しか出ないといつも言っていた。で少し読んでみる気になって、彼の蔵書の全集から拾い読みしていたのだけど、余り本気ではなかった。

 何年ぶりだろう、「不道徳教育講座」を読んでみた。
難しい三島文学より、わかりやすいエッセイの方が読みやすいし私は好きだ。
今でも私は時々引っ張り出して読むけど、流石に時代ずれしていない。
これが書かれた時代は、三島が順風満帆の時で、評論家にも絶賛され、肉体コンプレックスもあらゆる努力で克服し、あえて川端康成の紹介で結婚もし、我々から見ても、頭さえ人並み以上によければ、自分の人生の舵は取れるとの自信に満ち溢れていた時代で、私も羨ましく思っていた時期である。
これは30章からなるエッセイ集で、「知らない男とでも酒場に行くべし」「教師を内心バカにすべし」「大いにうそをつくべし」・・・・
とても挑発的なタイトルがついているエッセイだ。
そこまで小難しくなく、大衆向きに平易なこなれた書き方で、本人もそのような人たちのためにと思い楽しみながら書いたように感じる。

 面白いなぁと思った章からの切り抜きなのですが・・。
「馬鹿は死ななきゃ・・・」タイトルからしてドキリの私です。
バカは死ななきゃ治らないといいますが、馬鹿にも重症から軽症まであり、と続き、バカという病気の厄介なところは人間の知能と関係があるようでありながら、一概にそうとも言いきれぬところであります。と続き・・
(一)秀才バカ
概して進歩的言辞を奔し、自分の出た大学をセンチメンタルに愛しており、語学が達者で、使わないでいいところに横文字を使い、たいてい眼鏡をかけており、暴力恐怖症を併発し、時々ヒステリックに高飛車なことをいったりするいっぽうで、運動神経がゼロで、紅茶のスプーンは何度も落っことし、長上にへつらい、同僚に嫉妬し、ユーモアセンスがなく、人の冗談を本気にとって怒るかと思えば、冗談のつもりで失礼なことを平気でいい、歯をよく磨かず、爪を切らず、何故人に嫌われるのかどうしてもわからない。

 まだまだ続くのですが、いかんせん約50年前に書かれたものであるにもかかわらず、基本的には世の中も人間も変わってないのである。三島由紀夫のその目はその変わらないところまで届いているので、読んでいて必ず一箇所はドキッとするところがあるのだ。
話が長くなったからいつかまた三島由紀夫について私なりに書きたいと思う。

 三島好きだったと言う訳ではないけど、1976年11月25日木馬をオープンしたのです。
たまたま今年の31周年記念日は「千葉S型ウイルス」が帰省したので、お休みにしましたが、この開店記念日になると、何の因果か何時ものことのように三島由紀夫を思い出してしまうのです。

日記@BlogRanking←クリックお願いできますか?

晴れ 18℃

今週の頂き物のお料理(写真をクリックしてくださいね。)

2007年11月24日 | 料理

  

  

  

 今週の頂き物のお料理です。

① サトイモの炊き込みご飯

② エビフライ丼

③ 豚汁

④ お茄子と鶏もも肉の炒め煮

⑤ 親子丼

⑥ 白菜と鯖缶の煮物

⑦ 大根と豚ばら肉の煮物

⑧ 大根の皮のキンピラ

⑨ ほうれん草の卵いため カリカリベーコン和え

以上です。

 晴れ のち曇りのち雨 17℃


策士 策に溺れる?

2007年11月23日 | 私ごと
                

 わけあって、小春日和の午後、浜田駅まで行った。
行く前にサイドビジネスでお掃除して、セルフでガソリン入れてと アナログ頭で目を白黒させながら到着時間を逆算して出たはずだったのに、30分前に着いてしまった。駅前で駐車場を確保すべくキョロキョロ、僅か10台くらいの無料駐車場だ。軽自動車が出たので入ろうとしたら、黒の大きなワンボックスカーが先に入り込んでしまった。もぅ・・
運転の下手な自分の腕をうらむことしきり。仕方無しに駅の入り口に斜めに横付けしたら、突然笛や太鼓がピーヒャララ。え?ここは駐車違反?わかりましたと動かそうとしたらどうも天からその音は流れているみたい。
額に汗をかきつつ仰ぎ見る空に 石見神楽のからくり時計が、で思わずカメラでパシャリ。(写真をクリックしてください。)

 さて。
でそのわけなんですが、急に秋が来たある日、「千葉S型ウイルス 11月の後半の連休に都野津界隈に流行の恐れ!」とのメールを送りつけられた。うん?なになに、すぐさま「S型?W型じゃないの?」と返信した。すぐさま「S型」
どうも今回は愛想なしひとりで帰省するらしい。
因みに業界用語?で我が家のS型とはシングルで一人で、W型とはダブルで二人でということなり。

まだ先のことでこの季節の事 時化で飛行機が飛ばないかもしれないと、あんけつこいて(方言、油断すること)いたら今日になり、期待に反して本日は晴天なり。というわけで浜田まで迎えに行ったのです。

今回S型と聞き 色々と策を練った私です。
まず、只今 居間のリングライトが一つ切れている、これをこのままにして、薄暗くする。
次に 余り掃除もせず歓迎の意思を表さない。
すべてに 景気が悪くて働いても働いても楽になれず、じっと手を見る。田舎ではこれが精一杯、ますます底なし沼に足を引きずりこまれると、目で訴える。
よし、これで行こう!なずけて「同情を買う作戦」

さてさて 浜田駅で待つこと30分。
神楽を舞っているからくり時計を 天を仰ぎて写していたら見覚えのある顔が見えた、更にすべてに磨きが掛かっていた。まるで強面のやくざの親分。
あれは本当に私のDNAか?もしや第二次ベビーブームで益田の病院も満員だったので取り間違えられたんじゃ?この知性?と美貌?の持ち主の私から突然変異か?
ないない足の短かいところなんてそっくり、慌ててこの無謀な自分勝手説を頭の中で打ち消した。

「お帰り、お疲れさーん!」一応挨拶。「只今!」一応お返し。
負けるでないぞ!何と言っても製造責任者なんだし、紙切れ同然になりつつある先行投資の先付け約束手形も期日が来ている。切り替えを拒んだら民主党の長妻さんか、みのもんたに言いつけてやる。

今夜自宅に帰ったら、阿弥陀くじをします、老後は国民年金で足らずは生活保護コースか、姨捨山コースか、酔生夢死コースか、六本木ヒルズで億ション生活コースか、(これはないか?)
今年はおみくじを引いたら二回とも大吉と吉だったから、はずれはないと確信する。
というわけで 今夜は私のこれからの人生が吉か、凶か かかっています。
神様 どうかこの貧しいワタクシに清き一票を!じゃなかったあたたかい御心を・・

日記@BlogRanking←クリックお願い致します。

晴れ 16℃            

お鍋はお好き?

2007年11月22日 | 四方山話
              
 秋の深まりとともに、重たい雲が空を被い、鉛色の風景に変わる山陰地方。
まさしくそんな今日、日本海からの西風に流れが押し戻されて、鈍色のうろこ波が逆流していた江の川。
過っては何度も暴れて、あふれた水で川幅を倍にした事も数え切れないが、今は土手も綺麗に整備され、滔滔と満面に水をたたえ横たわっていた。(写真をクリックしてくださいね。)

          #########

 さて、毎度毎度食べ物話で恐縮だが、寒くなるとやはりお鍋が恋しくなる。
トンボは「鍋は嫌いだ!」という。理由は?と聞いたら「手抜きだから、野菜切って鍋に放り込めばいいだけだろ?あれは料理とは言わん、元はといえば漁師が何でもかんでもぶつ切りにして放り込んだのが始まりだよ、海の漁師は魚、山の猟師は山菜とか、獣をぶつ切りにして味噌なんか入れて食べたのが始まりなんだから。いつ頃からあれを料理と呼び出したんだろう、それが証拠に鍋料理と焼肉はミシュランも調査の対象外だったろ?さすがの吉兆も鍋料理だけだは、メニューにないだろう?あれは日本人の究極の手抜き料理よ。だけ俺は“なべおさむ”も嫌いよ。」
トンボの演説はとまりそうもない。
トンボの奥方の景子さんの鍋料理で舌でも火傷したんだろうか?

 しかし 究極の鍋といえば落語の二番煎じでしょう。
寒い冬の夜、町人達がグループを組んで「火の用心」の見回りをした後、隠し持っていた酒や、猪の肉を出し、番小屋で密かに酒盛りをしてしまうという話。
オチは、風邪薬と称してお酒を飲んでいたところを見回りの武士に見つかって、泡を食っていると、「拙者も一廻りしてくるから、二番を煎じておけ」

ししなべの中に入っている葱のところが可笑しいよね。まだ硬そうな葱を食べたら芯の熱いところが「ピュー」と飛び出してきた、このところは演じている人の顔も見もの。この描写が私は大好き。

そうそう こまっちさーん!落語ネタで、長屋で寄せ鍋をする事になり、熊さん、八っあんや その他みなが持ち寄りおなべをして食べた話、たわしや雑巾が入っていた、めくら鍋の話しありましたよね、あれなんていう演目でしたっけ?
 
話が落語に飛んでしまったが、子供の頃はお鍋は余り好きではなかった。
中身に味がしみてないのがどうも許せなかったのだ。お鍋に欠かせないこんにゃくも、クネクネして噛んでも味がついてなくて、タレの味で食感を楽しむようなもの、これは嫌いだった。そういえばうどんもお蕎麦もそい言う意味で好物ではなかった。がいつ頃からか、これらが大好物になり今では毎日食べても飽きない食べ物になった。

 私はいつだか大阪で食べて うん?これは美味しいと嵌ってしまった「うどんすき」
これが好きなおなべのベスト3に入る。
お肉や魚介類、(エビ、かに、ハマグリ、牡蠣、シャケ、バトウ、鱈・・諸々なんでもOKです。)野菜やお豆腐、全部うどんだしの中に入れて、うどんも入れて熱々を「ふぅふぅ」言いながら食べる。汗かきながら冷たいビールと一緒に・・
そりゃ煮込みラーメンより美味しいと思う。
尤も煮込みラーメンは食べた事ないけど。

というわけで今度うどんすきつくろーっと!書いてるだけでよだれがでそう。

日記@BlogRanking←クリックお願い致します。

曇り時々小雨 時々薄晴れ 13℃