某スーパーで島根和牛が半額になっていた。(賞味期限は大丈夫。)
島根和牛は日本一だと聞いていたので、レインボー一家がこの連休に帰省するから、すき焼きか、しゃぶしゃぶでもと思って買ったのだけど・・
お魚はまゆパパに『まごまご』のお祝いにと、大きな鯛と大きな鯵を頂いたので、これもお刺身にしてと、すっかり、孫ばかしている私です。
明日から月曜日まで、『まごまご』に会える。
私の無償の愛は『まごまご』の為にあるようなもの。
明日は、夕方5時まで営業、日曜日はお休み、ブログの更新が滞っても生きていますから、よろしくです。
すき焼きをする時には、我が家は写真の鉄のすき焼き鍋を使っている。
それは、昭和26年の事。
引揚者の両親は、東京で父の姉夫婦のうちに間借りをしていたが、板橋のビニール工場に仕事が決まり、我々家族5人は、初めて一軒家に住むことになった。
その頃の板橋は、
陸軍の東京第二陸軍造兵廠・板橋工場の面影が残っていて、軍の解体後は、民間が工場として払い下げてもらっていたのか、大手の工場がたくさんあった。
資生堂とか、明治製菓とかもあった。
その兵器工場の倉庫か何かの建物だったんだろう、鉄の骨組みだけ残っていた建物にトタンの壁や畳を入れてくれて、住めるようにしてくれた たった二間の新居だった。
家族で6畳の間に布団を敷きつめて寝た。
時々何かの拍子に夜中に目がさめた時、天井に張ってある杉板の節目がお化けの目の様に見えたり、何かとてつもない大きな動物に見えたりして、慌てて目をつぶり、布団にもぐったりしたけど、
しかし ♪狭いながらも 楽しい我が家~だった。
話は少しそれたけど 父は、賑やかなことが好きな人だった。食べるものも満足にないのに、同僚や友達を呼んで一緒に食事をするのが好きな人だった。
或る日
「おい、池田が牛肉を持ってくるから、すき焼き鍋を買ってきた。」とこのすき焼き鉄鍋を父は買ってきたのだ。
池田さんとは、まるで下駄のような、将棋の王将の駒のようなえらの張った顔をした同じ会社のお兄さんだった。
私も妹(サンコー夫人)も みんなでわいわい食事をするのが好きだった。特にこの池田のおにいさんは、「えつこはいい子だ、いい子だ」、と可愛がっていつも胡坐の膝に抱えてくれたので、とても好きだった。
その日 池田さんは、経木に包まれた、牛肉200匁、抱えてきた。
この数字はよく覚えている、「これだけがやっとだったんですよ。」と池田さんが言ったのを聞いていたのだ。
食糧事情の悪い時代、牛肉のすき焼きなど食べた事がなかったのに、贅沢にも牛肉のすき焼き。
牛肉以外に何が入っていたのか覚えてないけど、七輪にこのすき焼き鍋を乗せて、父が、肉の脂の塊が解けるまですき焼き鍋の底をなぜまわして、牛肉を入れて、お醤油とお砂糖(赤砂糖)の割りしたでお肉を炒め煮にする、
「おい、火が弱い、団扇はないのか。」「強い強い火が・・下のふたを閉めろ。」
父は 牛肉のすき焼きにか、鉄鍋のデビューにかわからないけど、興奮して、騒ぐ。その度に母(安光姫)は団扇や、ジュウノで七輪を仰いだり、ふたを閉めたり、
妹とお皿に入れてもらうのを 今か今かと見つめて待った。やがて、お醤油の泡とともに、お肉が煮える。
「さぁ お前達も食べなさい。」
やっと口に入ったお肉が硬くて硬くて、熱いし硬いし噛める肉じゃない。引っ張ったり、また口に入れたり、飲み込むのに大騒ぎをしたのが思い出される。
多分 東京ではその後このすき焼き鍋は、出番がなかった。
その後 都合で島根に引き上げた時にも、この鉄の鍋は、台所用品と一緒に柳ごうりに入れられて、鉄道のチッキで島根に・・。
そして今もまだ現役で 我が家の台所に鎮座しているのである。
温泉津町が全国公募している、難波利三直木賞受賞記念「心の故郷」のエッセイに応募しませんか?と勧められて、少し子供の頃を思い出して書いてみた還暦間じかの私です。
晴れ 19℃ 黄砂もあり・・