ジョギングはシャンパンの味

ジョギング、写真、革クラフト、木工、パンつくり、日本の古代史などを趣味にして楽しんでいます。

伊勢神宮の始まり

2016年05月23日 05時59分07秒 | 日本古代史

・・・最近、新聞の記事は連日、伊勢で開催されるG7サミットの内容が多い。
  
  日本の古代史を考えるうえで伊勢神宮は重要な意味を持っているように思う。
  宗教は政治と密接に関係しているので、日本の国の成り立ちと関係深いようです。

  私なりに、古代史における伊勢神宮の成り立ちを整理すると、
  天皇家は奈良盆地南部に発生し、氏神である天照大神が、朝廷の発祥の地奈良盆地でなく、何故、伊勢地方に祭ってあるかが不思議である。

  そのことについて、日本書紀によれば、もともと、天照大神は宮中で祭っていたが、一緒にいるのは恐れ多いと11代崇神天皇の時に皇女を付けて大和の笠縫邑に移した。
  そして、12代垂仁天皇の時に倭姫命に命じて諸国に適地を探し、結果、伊勢の五十鈴川のほとりに宮を立てて、天照大神を大和より移したとあるらしい。
  これらの話はかなり怪しいが、天照大神が何故伊勢神宮に祭られているのかと云う疑問には一応答えている。

  古代史の研究家が色々と研究して、伊勢神宮の起源の疑問に、色々な話で、答えているうちで私が納得している理由は次のようなものです。

  ①伊勢神宮の斎王の歴史を見てみると、本当に始まったのは、斎宮に関する記・紀の歴史記録によると、天皇家の勢力範囲だった奈良盆地周辺の崇神天皇から景行天皇の初期の時代はありえない、
  五世紀の中ごろに、東国に勢力を伸ばした雄略天皇から継体天皇、欽明天皇のころから、伊勢神宮と天皇家が関係があったらしい。


  ②奈良から、東国に行くには、尾張を通るルートと、南伊勢から海を渡って直接東国に行くルートがあった。
  欽明天皇の即位の最初の頃、尾張の豪族の娘、目子姫の子供である安閑・宣化天皇と手白香皇女の息子、欽明天皇が皇位継承で争った時に伊勢南部の地域の重要性がクローズアップしたらしい。

   

   ③伊勢にはもともと、地神としての太陽神の神社があって、大和から見た東方の太陽神として天皇家の天照大神と合体したのではと云う説がある。
   外宮の豊受神宮が何故あるのかは、あまりハッキリとした説はない。
   どうも、地方神の祭祀を外宮で継続したのではと云う説が私には尤もらしく思える。
   そして、古くから禰宜は内宮は中央の豪族中臣氏と同族の荒木田氏、外宮は地元の豪族、渡会氏が代々継いでいると云う事実も、この説を裏付ける。

   ④決定的に、伊勢神宮が、天皇家の氏神になったのは、壬申の乱で、伊勢神宮は大海人皇子(天武天皇)を味方し、その功で、天皇家唯一の神とされたらしい。
   神宮の諸制度が始まったのは、この天武天皇の頃かららしい。

   ⑤しかし、天武天皇に続く持統天皇の頃でさえも、書紀には、まだ、伊勢神社は大倭神社、住吉神社、紀伊神社などと並んで書かれていた、平安時代の始まりのころになると伊勢および七道の大社などと書かれていて、皇祖を祭る神社として、他の大社と一線を画すようになった。


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