奨められて、和田秀樹著「80歳の壁」を読んでいます。80歳を超えたなら、もうあんまり抗わない方がいいという提案をしてある。
生老病死は避け難いから、ある程度は仕方がないことして、その自然な成り行きを受け入れていいんんじゃないか、と僕も思う。あれこれあれこれの薬もほどほどでいいんじゃないか、とも思う。老いていこうとする力があるんだから、大丈夫なんじゃないかとも思う。尊重してあげていいんじゃないかと。
奨められて、和田秀樹著「80歳の壁」を読んでいます。80歳を超えたなら、もうあんまり抗わない方がいいという提案をしてある。
生老病死は避け難いから、ある程度は仕方がないことして、その自然な成り行きを受け入れていいんんじゃないか、と僕も思う。あれこれあれこれの薬もほどほどでいいんじゃないか、とも思う。老いていこうとする力があるんだから、大丈夫なんじゃないかとも思う。尊重してあげていいんじゃないかと。
蜘蛛が蜘蛛の巣を張っている。洗濯物干し竿と糸瓜の間の空間に。それを風がゆうらりゆらり揺らしている。巣の中心にいる蜘蛛もそれに抗わずにゆうらりゆらり揺れている。小さな花虻が来てネバネバする蜘蛛の糸に捕まってしまった。ネバネバで蜘蛛が花虻を絡め取っている。花虻が必死の抵抗を試みている。蜘蛛は無理をしない。花虻が自然と弱って来るのを待っている。それを一人の老人が観察している。観察をしながら夕暮れを過ごしている。
この老人は、他にするべきことがないのかなあ?
芋の畑に行って芋の茎と葉を摘んできた。葉っぱを切って、茎の筋剥きをした。根気よく根気よく。今夜は芋づるのきんぴら料理をしてもらおう。
で、僕は久しぶりに感動を覚えた。芋の葉っぱは赤ん坊の手の平ぐらいある。その歯の裏を見た。そこにはびっしり葉脈が走っていた。人間で言えば毛細血管だろう、これは。
ここには薩摩芋の全身を元気にさせる水が流れているだろうと思って、眺めた。眺めているうちにますます感動を覚えてきた。神さまがこんなところにも届いて来ていらっしゃって、盛んに活動をしておられるのだと、そう思った。
切り捨てる芋の葉の、一つ一つの葉裏の葉脈が、ヒマラヤの山脈のように峰を作っていた。そしてそこに小さな小さな蝸牛が這っていた。それを見つけた。
前日11勝目の勝利投手になった大谷翔平投手が、今日また特大の28号ホームランをかっ飛ばした。やったぜ。僕が打ったんじゃにのに、僕が打ったみたいに大はしゃぎした。大はしゃぎしたのは僕に限ったことじゃないだろう。世界中に何十万人もの大谷翔平選手が誕生したことだろうなあ。連日の連日の活躍だからなあ。その何十万人のおおもとのおおもとは、ある日疲れてしまって、ばったり倒れ込んでしまうかもしれない。ときには休養を取ってほしいなあ。しかしどうしてあれだけの人気を勝ち得ているんだろうなあ。威張らないその人柄なのかなあ。
僕の即興詩 「自転車を漕いで」
もう少しだけ日が落ちたら/おれは/外に出よう/ひとりで自転車を漕いで/日ノ隈公園のあたりまで/行って見よう/そこら辺りまでだったら漕いで行けるだろう/そのくらいの力は残っているだろう/「元気っ子元気いっぱいコーナー」という一角があるから/そこでしばらく元気っ子たちの元気いっぱいさを/見ていよう/見ているだけで/おれさまも元気になれるだろう/コロナなんかに押さえつけられずに/元気っ子が元気いっぱいでいる/それが確かめられたら/老人の目に涙があふれるだろう/
僕の今日のお昼からの即興詩 「白馬の雲」
八天山の上の/白馬のような形の雲が/さぶろうを呼んでいる/さぶろうさぶろうと呼ぶ/ここへ来いと呼ぶ/お前を背中に乗せてやろう/ここまで来いと言っている/そこへ辿り着く方法を教えてくれたら/その時はそこへ行こう/さぶろうはそう答える
雲は/なあに/簡単さ/死ねばいいんだ/と言う/軽々とそう言う/あっさりとそう言う/おまえが物質でなくなったら/こんなことくらい/簡単に実現するぞ/白馬の雲はそう言って嘶(いなな)いた/
死ぬっていったってどうやって死ぬんだ?/いやなあに/無理をするこたあないんだ/その日がきっと来るから/その日を待っていればいいことなんだ/そうするとさぶろうが死のうと思わなくとも/死が向こうから/さぶろうを迎えに来てくれるんだから/
で/その日が来たら/何処へ連れて行ってくれるんだ?/背中に僕を乗せて何処へ連れて行ってくれるんだ?/何処と決まってはいないさ/さぶろうが行きたいというところへ行こう/そうだな/じゃ/有明海を見たいな/そこを南下して南下して/鹿児島に出て/霧島神社を見たいな/
今日の即興詩 「障子の影で」
仏陀がわたしへ来て/わたしを赫かそうとしている/それを見ている/障子の影で/じっとして見ている/
仏陀がわたしを仏陀の大きさにしている/仏陀がわたしを仏陀の明るさにしている/
わたしは病を得て/ベッドにうずくまっている/悲しい目をしている/ふうふうふうと吐息をついている/
谷水が/山の中の大きな巌の下から/流れ出て/わたしのベッドの足を静かに潤している/
この世界は仏陀の世界である。苦悩の世界で終わるところではない。歓喜を手に入れるところである。苦悩で終わらない。いまだに手に入れていないが、苦悩の先には歓喜が手に入るはずである。そう思って救われてみる。
ブッダ。仏陀は完成者の謂である。人はそこへ向かっている。その目標地点へ向かって/ひたひたひたと歩いている。そのわたしを想像して/救われてみる。ほんの一瞬だが、そこに明日が見えて来る。朝日のような救いが見えて来る。
今日のわたし野即興詩 「おいのちさま」
わたしはおいのちさまである/尊いおいのちさまである/それをいただいて生きている/でも/おれさまが自分の力でもってこしらえたおれさまではない/自分の力に成ったものではない/それで/「さま」をつけて敬意を表現する/
まずは/「いただいた」というそこのところを/かみしめてみる/わたしが初めて成り立ったというその/成立の時点のことを/かみしめてみる/それから「いただいている」というその後の継続の部分を/その両者を/切り取って/生け花風に生けて飾ってみる/「美しいか?」と問い掛けてみる/
いただいたのだから/お返しをしなければならない/そういうときが来る/かならず来る/それまでに鑑賞を終えていなければならない/焦る/「美しいか?」今日もう一度問い掛けてみた。
お返しするまでに/おれは答えを出さねばならない/おれさまのおいのちさまは/美しいか?/
美しくて美しくてならなくなって/どうしようもなくて/おれさまは涙を覚えたいのだ/しきりにそうしたがっているおれさまがいる/いるはずなんだが/涙は/乾いていて/目蓋の土手の内側にある/
生きている。死ぬべきいのちを死なずに。死なずに、だが、わたしはもう77才。その肉体の、生と死の構成割合はしだいに死の要素が強まっているだろう。両者はいまのところ、なかよく共存しているようだ。
死なずにいる間にするべきことはあるか。つまり死んでからでは遅いという「事柄」はあるか。そりゃあ、あるだろう。いまを喜んでいると言うことだろう。
おまえ、いまをよろこんでいるか? 僕は僕に問う。
僕は傲岸不遜を得意としている。あんまりよろこんでいるふうには見えない。そんなことをよろこぶとへなちょこにおもわれてしまうという恐れがある。
ではそれはそんなにもよろこべないことなのか? よろこばないでも生きておられるのだから、とりたてて意識の表には出してこないでも済んでいるようだ。といって禁止事項でもない。
では、意識の表に、全面に出して来たらどうなるか。試す価値はあるかもしれない。