真夜中。雨が降っているようだ。雨音がしている。それに聞き耳を立てる。聞き耳を立てると雨音が聞こえて来る。聞こえて来た雨音の、音の世界に入ると、さぶろうが静かになった。
幸福だけで、さぶろうは幸福になれるか。そこまで高いところまで進んで来ているか。あやしい。不幸がそこに混じり込まないと、一片の幸福すら、幸福と受け取れないのではないか。悲しみに出逢ってはじめて泣けるのではないか。己の幸福に泣いているか。さぶろうは己の幸福に泣けているか。あやしいのである。いい加減なのである。誤魔化ししかできていないのである。嘘泣きである。地獄の底に辿り着かないと極楽浄土が視界に収まらないのではないのか。さぶろうの苦悩辛酸はさぶろうを涙に溢れさせる。だからこれはさぶろうにとってはなくてはならない地の塩である。よろこびだけでよろこべる人間からは程遠いさぶろう。苦しみというお慈悲をおいただきする。嘘泣きだけの人生を過ごしてはならない。嫌々ながらだが、さぶろうが不幸を頂く。病を頂く。老いを頂く。死を頂く。本物の涙に行き着くために。
さぶろうを佛にするまでは法蔵菩薩は阿弥陀如来にはなれない。さぶろうを佛にするという誓願を建てられたからである。それが成就しなければわたしは佛にはならないという誓願である。しかし、佛にしかさぶろうを佛にする力はない。佛でなければこの横着者のさぶろうを佛にする力量は生まれ得ない。だから、法蔵菩薩は阿弥陀如来になっていなければならないのである。阿弥陀如来が阿弥陀如来であることを信じる力はさぶろうにはない。疑ってばかりだ。否定してしまうばかりだ。信じる力は阿弥陀如来から頂かねばならない。そのためにはどうしても法蔵菩薩を阿弥陀如来にしておかねばならないのである。念仏することでやっとそれがかなうのである。否定が肯定に変わるのである。二者の駆け引き、綱引き、引き合い押し合いが真剣味を帯びている。ひたひたひたひたお慈悲の波が横着者のさぶろうの岸辺に押し寄せている。さぶろうは波に濡れる。
どうも履き違えているような気がして仕方がない。履き違えというのは靴や下駄や草履などを間違って履くことである。人のものを間違って履いてしまったり、自分のものではあるがペアじゃないものを履いてしまうことがある。そっくりじゃないが、まあよく似ているので、気づくのが遅くなる。あるいはずっと気づかないままになっている場合もある。そうでないものをそうだと鵜呑みにして合点をしている。そしてそれを疑うことすらしなくなっている。そういうことがある。人のことではなく、さぶろうのことである。
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ある会社がアンケートをとったらしい。「あなたの人生にとって大事なものはなんですか」というアンケートである。質問が正確な表現かどうか、ちょっとあやしいが、答はこうなったらしい。1,健康が大事である。(69%)1,家族が大事である。(26%)3,お金が大事である。(11%) さぶろうも似たり寄ったりの答を出すに違いない。3つとも大事であって、大事にしているつもりである。
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そう、その通りなのである。
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健康が大事である。家族が大事である。お金が大事である。その通りなのである。さぶろうもこれが大事だと思っている。そういう靴を履いている。大事の靴を履いている。
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でも、健康であれば万事よしということではない。家族を愛していればそれでよいということでもない。お金に困らないでいればそれで安心していられるということでもない。これらは「人生を大事に生きる」ための条件の一つであって、それが即ち目的ではない。健康でなくっても人生を大事に、大切に生きている人はいるのである。家族を拠り所とすることが出来なくなっても人生を大事にして生きることは可能である。お金に恵まれないでいても、その中で質素に明るく温かく生きている事実がある。その靴(健康の靴、家族の靴、お金の靴などの大事の靴)を履いて、われわれはあるところを目指して歩いているのである。靴を履いているのは人生の両足である。
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健康でないとわれわれは大事な物を失ってしまうだろうか。家族を支え支えられていないとわれわれは大事な物を手にすることができないだろうか。お金がなければわれわれは大事な人生を見失ってしまうだろうか。見失ってしまうと考えてしまうことが多いかも知れない。でもそれは靴の履き違えなのではないか。
(なんだか会社のアンケートにいちゃもんをつけているみたいで、申し訳がないのだが)
健康な一生を送ったらパーフェクトなのか? 家族に守られ家族を守っていたら己という一人の人生は表も裏もパーフェクトなのか? お金に困らずに一生が終えられたら申し分ない一生になるのか?
そうなって一生を閉じるときにふっとおやっと思うのではないか?
「俺は何処かで何かを見失っていたのではないか」という疑問が起きるのではないか?
さまざまな条件があってもいいはずである。悪条件だってあっていいはずである。そこを乗り越えて行くことに重要な意味が籠もることだってある。善条件第一主義にもの申したいのである。(やっぱりいちゃもんつけだね、これは)
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駄弁を弄した。もうここでケリをつける。
健康で長生きをしたい。しかし、これは欲望であって、この種の欲望を充足することが大事なことではない。大事なことが何処かに、欲望充足の裏側に、隠れて見えなくなっているので、見えているもので代替をしているに過ぎないのだ。見間違うな、さぶろう。履き違えるな、さぶろう。
年の暮れ。お墓の掃除に行かねばなりませんが、この雨では行けません。炬燵のお守りをしています。鵯が大群でやって来て畑のブロッコリーの葉っぱを突いています。昨年もそうでした。ぼろぼろになるまで食べ尽くしました。畑の青い葉っぱがやわらかでおいしいのでしょうね。家内は仏壇の前に座ってせっせと蝋燭立てや線香立てなどのお磨きをしています。寒そうです。我が家の仏壇は浄土真宗の仏壇ですのでどでかい豪華な仏壇です。金ぴかです。母が在世の時に新調しましたのでぴっかぴかです。埃させないように掃除管理するのに一苦労です。でも禅宗のように日ごとの食事を供えることはありません。お仏飯さんとお水を新しく取り替えるだけですみます。もちろんお花を飾ります。家内はご飯を新しく炊いて毎朝、チンと鉦を叩いて供えています。念仏は称えていないようです。お掃除が終了したようです。これからランチします。昨夜の残りの肉団子スープと鶏肉と玉葱入りケチャップご飯のようです。お昼はいつも庭が見渡せる南側のお縁に来て食べます。
冬は寒い
寒いのは嫌だ
嫌だ嫌だ嫌だ
じゃどうするんだ?
嫌なものは嫌だ
嫌がなくなればいい
寒くないのがいい
寒くない冬がいい
現代人はエアコンをつけているのでこの嫌が解消されている
嫌がなくなればいいが満たされている
願望がかなっているのである
では嫌がなくなったということを実感しているだろうか
嫌がない世界に移り住んでいるということを実感しているだろうか?
また新たな嫌を仕入れてきて
相変わらず嫌だ嫌だ嫌だを呟いているのではないか
つまり
嫌がなくては生きられないのではないか?
嫌ではないところには長く住めないのではないのか?
退屈でたまらなくなるのではないか
寒くない冬は冬らしくないなどと言い出すのだ、今度は
条件がすべて満たされたところには住めないのではないのか、われわれは?
この分では
究極の願望が満たされたところ、つまり極楽浄土にも
長くは住めないのではないのか?
満たされたいことが満たされるまでの努力にこそ意義があるのであって
それが満たされた途端にまたゼロにもどってしまうのではないか?
双六のゼロに
寒くないエアコンを出て冬の寒さを恋しがる
ああここが冬だったということになるのではないか?
ぐるぐるぐるぐる回る
回転木馬に乗っているにんげん
どうしてこのままではいかぬのか
そのどうしてのところは分からぬが
このままではいかぬ
このままでは足りていない
なにかしら足りていない
そんな気ばかりがした
己が空っぽの堀のようだった
水のない堀のようだった
水のない空っぽの堀を責めた
欲望という水で埋め合わせたら
責めは
なくなるのかもしれぬ
だがはたしてそれで
己の空っぽの堀が
満ちるのかどうか
それはわからなかった
文句たらたらの男なのだ
さぶろうという男は
まるで文句という素材でできているかのようだった
それを恥じた
この夜
どうしたことかさぶろうは
それが
恥じられてならなかった
不満と不平を言うだけの文句しか持ち合わせていない
そういう己が
この夜
透かしになって見えて来ていた
さぶろうに手がある
さぶろうに足がある
さぶろうに口がある
さぶろうに目がある
おい さぶろう
さぶろうはさぶろうに問いかけた
さぶろう文句があるか
さぶろうは
ありませぬと答えた
文句を言いさえすればどうにかなるという算段が
ぽとりと雫して落ちていた
文句と
手足との交換は
できないことであった
さぶろうの文句と
さぶろうの口や目との交換は
できないことであった
さぶろうに手があった
さぶろうに足があった
さぶろうに口があった
さぶろうに目があった
さぶろうはそのとき
人間を生きていた
だが
その人間たるや
文句たらたらの
人間であった
人間を生きていることそれさえが
文句の対象になった
いまはもう
さぶろうは人間を生きてはいない
死んだのだ
死んだら文句も消えた
さぶろう文句があるか
ありませぬ
今度はすらりと答えが出た
遅きに失したかもしれなかった