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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

人を仏として礼拝するという実践

2016年12月12日 15時06分33秒 | Weblog

われ汝らを尊敬(そんぎょう)す/敢えて軽賤なさざるは/汝ら作仏せん故と/菩薩は礼をなし給う/

(ここにわれなくかれもなし/ただ一乗の法界ぞ/法界をこそ拝すれと/菩薩は礼をなし給う)      

宮沢賢治の詩「不軽(ふぎょう)菩薩」より

さぶろうは、この詩に啓発される。そしていつもの如く自分流の解釈を施してみるのである。

法華経には「人はみな仏になっていく」と書かれている。だから、人は前段階の仏さまなのである。前段階ではあるが、仏に成る人だから、仏として礼拝をしてもいいのである。法華経の「常不軽菩薩品」に登場してくる常不軽(じょうふぎょう)菩薩さまは、人を仏として礼拝するという行をなさった。会う人ごとに「あなたはやがて仏に成られる人だから、わたしはあなたを軽んじることができません」と言って手を合わせて礼拝をされた。人々は気持ち悪がってこの人を棒で打ったり石を投げたりして遠ざけたが、後退しながらもこの言葉を繰り返された。彼は仏道修行としてこの一つの行だけをなさった。

悪も善もすべては仏さまになっていく前段階の修行実践である。彼もそれを行じているし、わたしもそれを行じているのである。ここはその行をなす一乗法界である。さまざまに異なった生活をしてはいるけれども、発達の段階に違いはあっても、まぎれもなく法界の人である。どの人もどの人も仏を到達点としている人である。

だから人を選ばず礼拝して行く。仏として礼拝して行く。これが常不軽菩薩の受け取りであり、実践であった。

人の歩みには方向性があったのである。至り着く先があったのである。人生の目的地があったのである。「われわれは何処から来て、何処へ向かうのか」のゴーギャンの問いの答があったのだ。われわれは仏の真如界=法界から来て、またそこへ帰って行くのである。遠い遠い旅ではあるが、着実に目的地に近づいているのである。

これから宅急便屋さんへ行くのでここでブログを書くのは中止する。畑で獲れた野菜や干し柿などを遠くで暮らしているこどもたちに送る。

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個を死んで全体を生きる

2016年12月12日 13時43分45秒 | Weblog

個を死んで全体を生きる。身体の中の細胞はそれを繰り返している。一定期間のお勤めを果たし終えたら、細胞たちは自己消滅をする。そして姿を変えて全体に統合される。

60兆個の細胞がミクロの生死を繰り返して全体マクロの生命体(おいのち)を活性化させる。

(マクロファージってそういう生命現象だったっけ? さぶろうは科学音痴であるから、なんでもうろ覚えで、正確性がない)

個と全体はワンセットである。分裂と統合をサイクルしている。個が合わさると全体になる。全体を組み立てているのは個のハタラキである。

さぶろうを死んだら、さぶろうが貢献していた全体に還流される。個がここでは全体として生きる段階になる。幾つものステップを踏みながら、変化をし続けて行くのであるから、個に執着することは出来ない。個の生死に踏み止まることは出来ない。

次のプロセスに移行するのである。それを阻むことは出来ない。個が個に固執すると、進化のプロセスは阻止されてしまうからだ。

ここまで考えて来て、友人がやって来た。「おおい、おるかあ」と手を挙げて。ブログは中止だ。

個は死ぬ。死ぬことが出来るので全体を生きるのだ。

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昨日の日曜日の訪問者数247人

2016年12月12日 10時37分29秒 | Weblog

クションクション。ハクショ~ン。クシャミを繰り返している。朝からずっと。そのたんびに鼻水が垂れる。だらしがない。だらしない老爺だ。午前10時を回った。やっと薄日が射してきた。部屋の中へ日脚が延びて来る。干し柿の丸みを帯びた小さな影といっしょに、冬の日の日脚が延びる。洗濯物の靴下も影絵になって遊んでいる。彼らがここを一瞬だが、素朴でやさしいお伽の国にしている。

昨日一日のさぶろうのブログへのアクセス数が最高になった。たぶん最高だろう。206年から書き始めているからもう10年が過ぎている。でもこんなに多くの人が見に来てくださったことはなかったのではないだろうか。閲覧数1015,訪問者数247人と記録されている。訪ねて来て下さった方に感謝します。仏教の話は線香の匂いがするだけだろうに。それを思うと詫びが出て来る。

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わたしは偏屈 真夜中の4時半の針

2016年12月12日 04時21分08秒 | Weblog

わたしは偏屈。直立しないで一方へ傾いている。一人の殻の中に小さく縮んでいる。

わたしは偏屈。屈している。砕かれている。その分わたしは獣のように獰猛になっている。

わたしは偏屈。夜になってしか飛べないコウモリ。暗い壁にぶら下がっている。そこできいきいきいと分からない音を立てている。

わたしは偏屈。すべてを愛したくてならないのに愛さないようにしている。頑固にこれを押し通している。

わたしは偏屈。誰の前にも出ようとしない。そしてさびしがることに長ける。真夜中の4時半が針になって止まる。

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真夜中の詩「ことばはおいしい」

2016年12月12日 03時10分40秒 | Weblog

1)

ことばはおいしい/蚕が/緑色をした桑の葉を/サクサク音を立てて食べるように/わたしも緑色をした言葉の葉を/サクサク音を立てて食べる/

2)

ことばは紡ぎ出される/蚕が/吐き出した糸で白い綿毛の家を紡ぐように/わたしも言葉の糸を紡いで/やわらかいわたしのための宇宙を作る/

3)

やわらかな宇宙は広々としているから/これをくるくる巻いて/くるまっている/すると/勝手に/雲が湧き上がってきて/海の方へ向かって流れ出す/

ことばは甘い/甘露のように/醍醐のように/甘い/瞑想の舌の上に載せて/唾液を絡めていると/いっそう甘味が増してくる/わたしは蜜になって朦朧となる/

5)

ことばが踊り出す/と/わたしは目を覚まして/夢中で/踊り子たちを絵に描こうと努める/踊り子たちのことばの踊りは美しい/

6)

絵には描けない/わたしは握っていた絵筆を下ろして/彼女たちの踊りを眺めているだけになる/踊りが止む/ふっと止む/急に静かになる/

7)

踊り子たちがわたしを取り囲んで/耳元で/神々から聞いて来た秘密を囁き始める/秘密はおいしい/わたしは神々の秘密を/暴くことをためらう/

8)

梵天が/天空からするすると舞い降りてきて/神々の秘密の開示を勧請する/熱心に/わたしは躊躇っている/ことばのおいしさを/いつまでもわたし一人で独り占めしていたくなる/

9)

多くの人は/勧請に耐えきれなくなって開示する/開示されたことばは/詩になる/韻律になる/

10)

風が来て/空で高らかに歌い出そうとする/花が来て/野原で高らかに歌い出そうとする/そこに暮らしているわたしが/暮らしているだけで/たっぷりの祝福を受ける/

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