われ汝らを尊敬(そんぎょう)す/敢えて軽賤なさざるは/汝ら作仏せん故と/菩薩は礼をなし給う/
(ここにわれなくかれもなし/ただ一乗の法界ぞ/法界をこそ拝すれと/菩薩は礼をなし給う)
宮沢賢治の詩「不軽(ふぎょう)菩薩」より
*
さぶろうは、この詩に啓発される。そしていつもの如く自分流の解釈を施してみるのである。
*
法華経には「人はみな仏になっていく」と書かれている。だから、人は前段階の仏さまなのである。前段階ではあるが、仏に成る人だから、仏として礼拝をしてもいいのである。法華経の「常不軽菩薩品」に登場してくる常不軽(じょうふぎょう)菩薩さまは、人を仏として礼拝するという行をなさった。会う人ごとに「あなたはやがて仏に成られる人だから、わたしはあなたを軽んじることができません」と言って手を合わせて礼拝をされた。人々は気持ち悪がってこの人を棒で打ったり石を投げたりして遠ざけたが、後退しながらもこの言葉を繰り返された。彼は仏道修行としてこの一つの行だけをなさった。
悪も善もすべては仏さまになっていく前段階の修行実践である。彼もそれを行じているし、わたしもそれを行じているのである。ここはその行をなす一乗法界である。さまざまに異なった生活をしてはいるけれども、発達の段階に違いはあっても、まぎれもなく法界の人である。どの人もどの人も仏を到達点としている人である。
だから人を選ばず礼拝して行く。仏として礼拝して行く。これが常不軽菩薩の受け取りであり、実践であった。
*
人の歩みには方向性があったのである。至り着く先があったのである。人生の目的地があったのである。「われわれは何処から来て、何処へ向かうのか」のゴーギャンの問いの答があったのだ。われわれは仏の真如界=法界から来て、またそこへ帰って行くのである。遠い遠い旅ではあるが、着実に目的地に近づいているのである。
*
これから宅急便屋さんへ行くのでここでブログを書くのは中止する。畑で獲れた野菜や干し柿などを遠くで暮らしているこどもたちに送る。