goo blog サービス終了のお知らせ 

<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

栂尾の明恵上人に引かれる:後世と現世

2016年12月06日 13時02分06秒 | Weblog

さぶろうはよろよろしている。よろけ者である。あっちによろよろ、こっちによろよろしている。だから、仏書を読んでも正しく読めるはずはない。惑いを深めるだけである。今日のもそうである。

「我は後世に助からんと云う者に非ず。ただ現世にまずあるべきようにてあらんと云う者なり」      栂尾高山寺明恵上人「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」より

さぶろうは後世を助からんと思う者であるから、この論調を聞くと身体に鉄槌を打たれたように感じる。ひたすら後世に思いを寄せて、生きている今の今に向き合って厳しく正しく生きていないからである。

明恵上人は後世よりは現世をどう生きるかを問題にされている方である。後世に助かる以前のことを追求されている。浄土に往ってから仏に成るのではなく、あくまで現世において仏に成る道を歩こうとされた。現世をどう生きるか。仏の教えを守り継いでどう正しく生きるか。乱れに乱れる世上に在って、いかにして仏陀に近づく努力をするか。みずからが正しい解答を出そうと努めておられた。もちろんだから人の何倍も戒と律とを尊重されて修行に励まれたのである。

平安時代後期から鎌倉時代にかけて末法思想が流行した。戦乱と殺戮と飢餓と疫病と災厄が耐えなかった。現世を正しく生きようとしても正しく生きられない人々が溢れた。この時機に後世に助かる道があると説く浄土の教えが擡頭した。無力の大衆がこれに靡いた。浄土の教えでは、現世の戒律は重大事とはならなかったのである。

明恵上人、明恵坊高弁は華厳宗中興の祖。法然上人の興された浄土の教えと真っ向から対立された。「摧邪輪」を著して論陣を張られた。「後世を助からんと云う者」とは法然上人とその流れを酌む面々をも指している。それまでの仏教界、奈良仏教の諸宗派は、新しく興ったこの浄土の流れを世の悪害としたのである。

「仏教とはこの世で他者によるのではなくみずからの正しい努力によって自らを救うことを説く道である」。明恵上人のお考えはこうであった。これは釈迦牟尼仏の時代の原始仏教のあり方と同じである。「みずからを拠り所とせよ、正しい法を拠り所とせよ」と仏陀は諭された。釈迦牟尼仏その人にもその人の像にも依存してもならなかったのである。

同じ仏教と云ってもさまざまに主張が異なる。仏教はさまざまな変遷を辿った。小乗仏教は大乗仏教によって小乗とされた。世の変遷と共に次々に新しく塗り替えられて来たのである。

それでもこの栂尾の明恵上人の説にも強く引かれるのである。「今を正しく生きよ」「後世に助かるとも助からんとも先ずは現世を努力精進せよ」「戒律を守って現世で仏陀に近づく修行に勤しめ」そういう主張を無視し否定する気にもなれないのである。ではそうできるのか。それだけの力がさぶろうにあるか。この答えにも窮するのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お昼は薩摩芋の焼き芋

2016年12月06日 12時11分13秒 | Weblog

お昼だ。

薩摩芋の焼き芋を作ってもらっているからこれを食べるとするか。

この薩摩芋は我が家の畑で獲れたもの。小さいけれどね。朝摘まんだら、甘くておいしかったよ。

でも、何個もは食べられないだろう。

ぽつんと一人で食べるのはさみしいね。

電子レンジであっためたら湯気が出てさみしくなくなるかもしれないよ。

日の射しているお縁側に座布団を敷いてピクニック気分を出したらどうだい。

うん、そうしてみるよ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

またぞろ「人の中拒否症」

2016年12月06日 11時57分07秒 | Weblog

笑いヨガはもう3回もさぼっちゃった。またぞろ「人の中拒否症」が頭を擡げてきているようだ。蛇が蜷局を巻いて動かない。

誰にも会いたくない。ひとりでいる。ひとりがいい。ひとり畑に出ているのがいい。沈黙がいい。

といっておきながら、さみしがる。恋しがる。人を感じていたくなる。

右往左往。不安定だなあ、さぶろうは。

やさしいおんなの人がいつも傍にいて抱擁していてくれたらこうはならないだろうになあ。

そんなことはないよ。きっとあれこれ注文を出されてすぐも降参の白旗を揚げていると思うよ。

さぶろうその人に魅力がないからなあ。誰が傍にいても駄目だよ。うるさがられるだけだよ。

抱擁されないならさぶろうが抱擁をすればいいじゃないか。そんな力も自信も残っていないよ。じゃ、やっぱりさみしい一人でいることだなあ。

どっちみち、笑っちゃうね。小心のさぶろう。傷心のさぶろう。

光が外に来て溢れているよ。光に相手をしてもらうといいよ。そうだね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

回向は梵語ではパリナーマナー

2016年12月06日 11時40分02秒 | Weblog

1)回向は梵語では「パリナーマナー」である。「転回すること」「進むこと」「変化すること」であるらしい。

2)だったら、すべてに通じることではないか。エネルギーがじっとしていないで動き出す。これだって回向ではないか。

3)個々のエネルギーが内に貯えられてそれが外へ向かって動き出す。進み出る。相手にも変化を促してくる。

4)内に潜んでいたものが溢れて来る。そういう外向きの力なのだろうか。パリナーマナーというのは。

5)だったらそのもっとも卑近なものは恋心だろう。相手へ相手へ向かう。そして相手をこちらへ向けさせよう向けさせようとする。

6)仏陀を恋するなんてのはおかしいよなあ。仏陀の場合はすでにこっちを向いているから向けさせようとする必要はないからね。

7)死者回向も分からないではないが、その力はさぶろうにはない。その力の領分は仏界にしかないとさぶろうは思っている。

8)念仏を唱えて死者の回向をしたい気持ちになるが、領分を超えているような気がして仕方がない。

8)死者を幸福にするのは仏陀のお仕事である。なんていってほっとくなんて、冷たいなあ。ひとり仏法聴聞をするのも気が引けるからなあ。

9)弟にも聴かせてあげたくなるが、死んだとは言え弟だって聴いているよなあ。

10)仏陀の国で仏陀のお膝元にいるのだからなあ。「兄貴心配はいらないぜ」なんてほざいているかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘘読み者さぶろうとベゴニアのほんのり

2016年12月06日 11時20分15秒 | Weblog

1)ベゴニアがきれいだ。鉢植えにして濡れ縁に置いている。ピンク。大振りだ。もう数ヶ月も咲き続けている。光が射してほんのりしている。

2)ほんとにほんとに、ほんのりなのか。意地悪に猜疑する。植物というのはいつもこうしてほんのり穏やかでいられるのか。そうだとすると凄いなあ。さぶろうなんか足元にも及ばない。

3)こころがないからだ、なんて言うまい。こころはあるのだが、高品質なのだ。無用なものはきっと捨て去って捨て去ってあるのだ。

4)やさしい光を受けてやさしく輝いているぞ。さぶろうには真似が出来ないなあ。

5)煩悩もないのだろうか。苦しみ悲しみがないのだろうか。あってもそれを苦しみ悲しみとしていないのだろうか。

6)ベゴニアは覚っているのだ、きっと。じたばたしないのはそうのためなのだ。已にこの世を安楽国としているのだ。

7)ベゴニアと違ってしょうっちゅうじたばたしているさぶろうは、見苦しいなあ。

8)法華経を読んでもいないベゴニアが読んでいるさぶろうよりも法華経世界に住んでいるぞ。こりゃどうしてなんだ?

9)さぶろうが法華経を嘘読みしているということになるよ。

10)さぶろうの薄っぺらな知識では駄目だということか。ベゴニアは法華経の実践者である。ほんのりしていられるのがその証拠だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

回向について考える:わたしの受け取り

2016年12月06日 10時33分37秒 | Weblog

今日はここへ来てみました。これはわたしの受領です。わたしは仏教学者ではありませんから正解は出せません。あくまでも独り善がりです。わたしが立っている立ち位置からの風景です。

願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国    

がんにしくどく びょうどうせいっさい どうほつぼだいしん おうじょうあんらくこく

願わくは此の功徳を以て、平等に一切に施し、同じく菩提心を発(おこ)して、安楽国に往生せむ

浄土真宗回向文:善導大師「観無量寿経疏」より

どうか、仏法を聴いたという此の功徳が、(聴かない者にも)みな平等に一切衆生に行き渡りますように。此によってみな等しく菩提心(仏に成ろうとする発願心)を起こすことができますように。最後には誰もがみないっしょに仏の国安楽国に往ってそこに生まれることができますように。この願いを仏陀へ廻し向けます。(さぶろうの解釈)

回向:えこう。回し向けること。回転させること。転回。

1)普通は、読経の後にこの文言を読む。読経の功徳を回向するの威儀とす。

2)自未得度先度他(じみとくどせんどた=自らは未だ渡らざるに先ず他者をして渡らしむ)の思い。

3)こちらへ届く光のベクトルを反射させて他者へ振り向けること。他者を輝かすこと。それによって自らもまた輝きの中に入ること。

4)自我への執着を断って自ら以外へ向かわせるエネルギーのハタラキ。

5)仏陀の大慈大悲心の循環運動。

6)死者を弔うときにも回向のこころが起きる。生者が死者に功徳を回向することができるか。さぶろうは大いに疑問に思っている。

7)この功徳も、わたしの得た功徳ではなく、仏の回し向ける功徳であって、回向の行く着くところもまた仏の国であるに違いない。

8)仏の法はみな平等である。差別がない。それは功徳がわたしの所有物なのではなく、仏の回し向ける他力功徳だからである。

9)平等でよかったとさぶろうは胸を撫で下ろす。自力でならこの平等にも加われなかったはずである。

10)往生安楽国が願いの眼目である。安楽国とは仏国土ということである。そこへ瞬間移動(=往生)してそこで目を覚ます(=生まれる)のである。さぶろうはテレポーテーションをイメージしてみた。

11)仏国土ではぐうぐう寝て休息してなんかいない。寝ることが安楽の中身ではない。仏陀になった者は大活動をするのである。

12)平等だといっておきながら、しかし、注文が入っている。それは菩提心を起こすという条項である。一足飛びに往生安楽国とはなっていない。そこはどうも気になる。

13)菩提:梵語のbodhiの音訳。道・覚と訳されている。仏の覚った覚り。アノクタラサンミャクサンボダイ。無上正等正覚。往生成仏する手前でこの菩提心(仏の智慧の内容)を起こしていなければならないとすると、手強いぞ。

14)みな他力であるから、心配はないのだろうが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光が空にある 空へグーの拳を突き出そう

2016年12月06日 09時37分37秒 | Weblog

体は年を取るとともに小さくなるらしい。178cmの身長が3cmばかり縮んでいる。

足のサイズは27だったのが、この頃では26・5でもよくなった。

体重はほぼ平均して63kgくらいだったのが、いまや60kgを割り込んでいる。軽くなるのはいいことだ。身軽になると負担も軽くなるだろう。

頭髪がすっかりなくなったくらいでそんなに体重減になるものでもないだろうが、これもみな抜け落ちて跡形もない。つるんつるんだ。

皮膚には皺が寄っている。指は強張ってなかなか曲がらなくなっている。加えて頻尿と来ている。確実に老いているのだ。堂々の71歳だ。

ま、それはそれでいいではないか。青空が青空の儘に見えているから。これが年を取るにつれて常に曇り空しか見えないとしたら鬱屈だったが、そうはならないでいる。

今朝は雨も降っていない。光が空にある。実に爽快である。グーの拳を空へ突き出そうか。さて、北の畑へ行って草取り作業でもするか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする