わたしは仏陀にことよせて書いておりますが、仏陀はしきりに化仏をなさいます。化身をなさいます。わたくしは男ですから、女を感じます。するとそこで、女に化身をされます。仏陀であれば恐れ多いことですが、女身であれば、そうはなりません。そこをするりと逃れられます。わたしは胸に抱くことだってできます。するといつしか妻になってもおられます。親鸞さまは観音菩薩を抱かれた感覚をお持ちになったことがあられたようです。わたしは親鸞さまとは違います。あからさまに女身を感じてあたたまることがあります。そのあからさまな匂い立つ感覚があると頗る現実味を帯びて来ます。そこを通してにんげんを生きているという事実を目の当たりに感じよ、との仰せに受け取ってしまいますが、これには多分に行き過ぎがあるのかもしれません。この独り合点は勇み足かもしれません。しかし、信仰が古くて暗くて閉じ込められた線香臭いものでなければならないはずはありません。もっと明るいあたたかいもののようにも思われて来ます。そこら辺にはまだ葛藤がございます。わたしの邪悪がそうさせているのかもしれません。
おまへ、寒いかと問う者がございます。そりゃあ寒うございます。冬でございますからね。それも夜明け前、冷え込んだ時間帯でございますからね。しかし、わたくしめには、こうして問う者がございます。姿はお見せにはなりませんが、感じれば、そこにいらっしゃるのでございます。声を発せられるということはございませんが、声だって感じることがかないます。現一切色身三昧に入っておられる仏陀がわたくしめを訪ねて来てございます。この深い深い山里の冬にまでも。
へえ、感じてなんぼでございますからね。手の肌は感じるためのもの。目を瞑っているとわたくしめの感覚器官が、今を生きているという事実を感じようとして、しきりにもぞもぞするのでございます。へえ、感じてなんぼでございますからね。
感覚は感じるためのものだ。寒い己の、寒がるコートの中に、手がある。やさしい平仮名書きのあの人の、手だ。手袋なしの手だから指が分かれている。冬の真夜中。そろそろ4時。寒がる者のコートに、あの人の手が忍んで来ている。生きているという事実は手によって感じられるもの。感じてみる。人には不思議な感覚がある。手は数日前にお会いしたばかりの、岬の千手観音の手かもしれない。霊鷲山の仏陀の手かもしれない。それでは余りにも恐れ多い。感じてみよ、感じてみよということなのか。生きているという事実を手の中で感じてみる。