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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

いますぐ走って行ってその人に会いたい

2016年08月30日 10時26分30秒 | Weblog

人付き合いが超がつくほど苦手なのに、人恋しい。秋だからだろうか。誰かに会ってみたい。いますぐ。走って行って。

秋萩が咲き出した。その人とともに秋萩が目に入る。黒揚羽が飛び回る。ふたりは久闊を叙するけれども、でもたしかに初めて出遭う人だ。それとも三世をひもとけば、縁がつながっているのかもしれない。なつかしさが込み上げる。

帽子の奥に黒い大きな瞳がある。瞳の中の意思がこちらを見ている。ジョギングの途中なのだろうか。シューズが白くて軽やかだ。僕は自転車を降りてみる。少年でもないのに、僕は少年のように怖じている。風船にことばの棘が刺さって壊れてしまいはしないか。僕は慎重に言葉を選ぶ。それまでに沈黙がある。

「やっと秋になりましたね」「ええ」「彼岸花を見つけましたよ」「もうあちこちに」などと他愛もない。ことばなんてどうでもいい。僕は帽子の奥のおだやかな瞳を見ている。見てはいけないもののを見るように。さっとすばやく。細い指先に笑みがこぼれている。

これから何処へ。いやここでお終いにした方がいいだろう。ここで会ったというだけにしておいた方がいい。僕はしばらくして手を挙げて去って行く。「あなたにお会いできたので今日はいい日になりましたよ」とお礼を述べて。妄想を去って行く。

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地上を彷徨うものの寂しさ

2016年08月30日 09時39分00秒 | Weblog

狐花またしびとばな捨て子ばな幽霊ばなの秋のまひる野    釈 応帰

曼珠沙華が咲く頃となった。この花はもともとは天上に咲く花という意を持つ高貴な花なのだが、どうしてだか狐花、死人花、捨て子花、幽霊花などの名をも併せ持つ。そのどの名にも納得がいく。天上の花ならばそのどれをも拾い上げていていいはず。地上を彷徨うものの寂しさを己の内に収め取って慰めているのかもしれない。秋のまひる野にいずれの名の曼珠沙華もひときわ赤く咲いている。

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そこに応え合う人を求めて

2016年08月30日 08時45分53秒 | Weblog

綱引きは片方だけでは引き合いにならない。対極に人がいなければ、綱の緩みは緩みの儘で地に寝そべっているだけだ。引き合うそのぴんと張った張りを楽しめるのは、引き綱の向こうにも引く力が生まれているときだけだ。引き綱が地上を起きて宙に浮かぶ。するとそこに恋という電流が流れて相手に捉まりこちらに宿りして、行き来する。8月は遺すところあと2日にせまっているというのに、引き綱は大地にごろんと寝そべったままだ。人と人は引き合う。惹きつけあう。そこに応え合う人を求めて。綱がなくても瞳と瞳で惹き合うことができる。

抱かねば腕(かいな)も脛(はぎ)も削げ落ちる恐怖 死ぬ前の死者のまひる野    釈 応帰

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いつになったら分かるようになるのであろう

2016年08月29日 21時28分33秒 | Weblog

彼(=金剛菩薩)は一切安楽と悦意(えっち)と大楽(たいらく)金剛(きんこう)不空(ふこう)三昧(さんまい)との究竟(くきょう)の悉地(しっち)を獲(え)て、現世(けんせい)に一切法(いっせいほう)の自在(しいさい)の悦楽(えいらく)を獲得したり。如来(じょらい)の執金剛位(しゅうきんこうい)を得(う)。       (真言宗経典「般若理趣経」より)

この菩薩は、ありとあらゆる安楽とよろこびを獲得した。そして大楽が金剛であり、不空であってほしいという誓願の究極の境地にも達しえた。彼は、いま生きているこの世で、この世におけるすべての存在に及ぼす自由自在なる悦楽の境地を得て、ついに如来の最高の境地の座に登ることができたのである。  

(これはさぶろうのいい加減な解釈文だ。およそこんなんじゃないかという概略)

何度も何度も読んでみる。難解だ。当たり前だろう。さぶろうは行者ではない。修行をしていない。難しくてさぶろうには分からない。分からないが、とても惹かれている。いつになったら分かるようになるのだろう。溜息が出る。

如来が持つ執金剛位という最高の境地に到達し得たらこの世は果たしてどんな風に見えて来るだろうか。そしてそれが見えたらそこでどんな生き方をして行くのであろうか。もちろんこれは如来になってみなければ理解不能だ。さぶろうには見当も付かない。見当も付かないさぶろうのような衆生に、しかし、如来は誠実に法を説いている。説いて説いて説いて理解を獲得させてやろうとしている。でも、さぶろうには分からない。申し訳ないが、この分では分からないままでこの世を閉じていきそうだ。

 

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はい、魂がひもじがるのであります

2016年08月29日 20時52分39秒 | Weblog

はい。魂がひもじがるのであります。困ったものでございます。わたしはせっせせっせと魂の口に馳走を運んで来なければなりません。まるで親雀が小雀に虫を運んで食わせるように何度も何度も何度も。

そうしなければひもじい魂はストライキを決行してわたしを困らせます。彼が、天照大神のように岩戸に隠れてしまったならば、わたしのこの世はいきなり闇路になってしまいます。わたしは彼なしでは何処へも行けなくなってしまいます。行ってもつまらないのです。

それで魂のご機嫌を損ねないようにわたしはせっせせっせと馳走を運んでくることになりますが、どんなものでもいいという具合にはいきません。魂の口は肥えています。舌に其れを載せればそれがどんなものだかすぐに察知してしまいます。こんな粗末なものは喰えないといって怒り出す始末。上等のご馳走でなくてはなりません。

ところが彼は短歌が好物のよう。これを喰わせるとたちまち上機嫌になります。もちろん57577の合計31文字でであればどれでもいいかというとそうではありません。そこにじっくり煮込んだ醍醐の味が込められてないといけまません。

わたしはそういうわけでよくここのブログにも短歌を引き合いに出してきています。それはそういうわけなのです。手っ取り早いのです。彼を唸らせるレシピなのです、これが。魂のひもじさは、しかし、これで最後と言うことにはなりません。来る日も来る日もひもじがるのです。

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夕方早くサイクリングに出てみた

2016年08月29日 20時30分00秒 | Weblog

夕方早くにサイクリングに出た。気温が低い。ペダルを漕ぎ続けてもなかなか汗が出ない。風が冷たくて爽快だった。自転車の乗るのが継続しているので足の筋肉が随順してきているのが読み取れる。きつくない。苦しくない。スピードが乗ってくる。今日は城原川の川土手を上って行った。途中、車乗り入れ禁止区間があってここには葛が這い回ってほとんど道を覆い隠していた。探検でもするようにして走り抜けた。上り坂もきつくない。もちろんギアは一番軽いのにしている。これで難なく登っていける。たいしたもんだと自分で自分の力の回復を評価してやる。朝日に到着した。いつも、本通りからちょっと分け入ったところにある地蔵堂にお参りする。ここには弘法大師空海と薬師如来と地蔵菩薩が祀られている。堂の前には小川が流れている。ここの護岸工事があたらしくなされていた。新発見だった。ということはここにはもう長いこと来ていないということになるようだ。暑さが続いていたのでおのずからサイクリングに出るのが億劫になっていた。出ることがあっても南下していた。北上はずっとしていなかった、ということになる。そこから白角折(おしとり)神社に立ち寄って参拝した。日本武尊がここの尊格である。全国を平定せんとして薩摩まで軍を進められた折にこの地を通られてようだ。神社を更に北上して川を渡る。そして帰路につく。終始息が切れなかった。丈夫になったものだ。というよりも今日の気温が低かったのである。あまりにも爽快だったので疲労するまでには至らなかったのである。これに尽きるのである。

 

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秋植えの九条葱を土溝に植え込む

2016年08月29日 20時17分29秒 | Weblog

JRの種苗店でフカネギの一種、九条葱を買ってきた。これは正確ではない。秋植えの九条葱の種苗を1束50球。(球という単位がどうも正確ではないかもしれない)250円。茎はもう枯れている。これでいいらしい。で、さっそく畑に出た植え込むことにした。牛糞、有機石灰、油粕、それに化学肥料を施肥して、まずは土作りから。これをシャベルで掻き回した。スコップで溝を掘る。深々と。フカネギは土に隠れたところが白葱になる。これが長いほどおいしい。(これはさぶろうの自己判断。客観性に欠けるが)そこに九条葱の苗を10cm間隔で植え込んで行った。枯れ草を燃やした後の灰をかけ、そこにわずかな土をかける。これでおしまい。発芽して成長を加えて幾度にそこに土を被せ施肥を続けて行くといいらしい。素人判断である。ここまでやり遂げるまでで日が暮れてしまった。でもなんだかひっそりした充実感が残った。

 

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透明硝子にぶつかる大きな音

2016年08月29日 17時15分20秒 | Weblog

可哀想だなあ。透明硝子なので蝶々も蜂も蛾も虫も蜻蛉もがちんとぶつかってしまう。ときには雀もぶつかってくる。どれも思い切り飛んで来るので大きな音がする。痛いだろうなあ。脳震盪を起こすのじゃないかと心配だ。今日は気温が24度なので、部屋の窓硝子戸を閉め切っている。村里は全戸とも硝子戸禁止でなくちゃいけないのかなあ。

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あやうく欲望に負けるところだった

2016年08月29日 17時07分13秒 | Weblog

お昼はうどん屋さんに行ってうどんを食べた。小葱がのっただけのかけうどんだったが、これがおいしかった。麺もスープもおいしかった。そこで食い足りたが、嬰児のように舌なめずりをしてしまった。もっと喰いたくなってしまった。でも我慢をして店を出た。あやうく欲望に負けるところだった。危ないところだった。

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蛇は水を飲んでこれを毒とし、牛はこれを乳とす

2016年08月29日 16時33分58秒 | Weblog

如蓮体本染 不為垢所染 諸欲性亦然 不染利群生     真言宗経典「百字の偈」より

じょれんていほんぜん ふいこうそうぜん しょよくせいえきぜん ふせんりきんせい

蓮体(れんたい)は本染(ほんぜん)にして、垢(く)の為に染めざれざるが如く、諸欲の性(しょう)も亦(また)然(しか)なり。不染にして群生を利す。

赤い蓮はそのものの性質によって赤いのであって、泥の垢(あか)によって染められたというわけではない。もともとが清浄である。人間の持つ諸々の欲望の根底にある本質本体もそのようであって、不浄や清浄というところに位置しているわけではない。淤泥の垢に染められない、根底の清浄さでもって世間の人々を利益(りやく)することができるのである。群生を利益しようという大きな欲望(=大欲)は清浄そのものである。    (さぶろうの自己流解釈)

蓮は泥の池にあるが泥の色に染まっているのではない。人もそういう生き方が出来る。煩悩欲望の泥の中を生きているがそこを越える道があるのである。それは群生(衆生)を利益しよう、救済しようとする道である。これこそは三界自在の大欲である。

蓮は泥を栄養にして生長することができる。人の煩悩欲望もその役割を果たしているのであって、否定されるものではない。密教はこのように全面肯定という人間肯定に打って出ているようだ。

蛇は水を飲んでこれを毒とするが、牛は同じく水を飲んでもこれを乳にすることができる。この乳を飲んで人々はこれを健康という薬にすることができる。

 

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