秋空が広がっていて、そこに百舌鳥が鳴いてらあ。おいらはそれを聞いてらあ。百舌鳥の声を聞けるほどのおいらだったのか。百舌鳥の声を聞けるほどのおいらだったのである。竹藪の辺りで、キキキキキキキキと鳴いている。
棒にも箸にも掛からぬ不甲斐ないヤツとして生きて来たのだが。どっこい。此処へ来て中々やる。人生の終盤へ来て、将棋の歩が金に変わっている。変わったということを、それを快としている。快が大空へ突き抜けている。
秋空が広がっていて、そこに百舌鳥が鳴いてらあ。おいらはそれを聞いてらあ。百舌鳥の声を聞けるほどのおいらだったのか。百舌鳥の声を聞けるほどのおいらだったのである。竹藪の辺りで、キキキキキキキキと鳴いている。
棒にも箸にも掛からぬ不甲斐ないヤツとして生きて来たのだが。どっこい。此処へ来て中々やる。人生の終盤へ来て、将棋の歩が金に変わっている。変わったということを、それを快としている。快が大空へ突き抜けている。
7
わたし薬王華蔵の2018年10月16日。火曜日。
菩提無上誓願証の願いが起こっているか。誓いが燃えているか。
願いと誓いが証に先立っているはずである。
それにしてもいい空だ。秋の空をしている。それを見せていてくれている。これを見ている。
それにしてもというのは、わたしに願いがあるか誓いがあるか、それを問わずということだ。証されたかどうかについて不問にしてということだ。
無条件でということだ。無条件で高い秋の澄みきった大空を見ている己がいる。
6
成仏を果たして、或いは成仏を目指して、仏道を歩む者のことを菩提薩侘、菩薩様と呼ぶこともある。
菩提に到達しているのに、していない側にいて、衆生を導いて行く役目を担う。
菩提無上誓願証。菩薩であれば、もはや証されていることになる。
菩提が証されていることになる。
此の身が生きている間に、仏の菩提が我が身の上に証されていれば、死は我が眼にどう映るのだろう。
5
仏道を歩く人は此処を到達地点として修行する。此処へ来ればすなわち成道(じょうどう)する。
成道成仏する。仏と等しくなる。
ここからは自利を終了してひたすらな利他に向かう。
皆共成仏道(一人残らず仏に成ってこの世を生きて行こう)の願いが起こって来る。
成仏は死後ではなく生前でありたい。
ひとときでもいいから、瞬きほどの時間でもいいから、生きて、仏眼をもってこの世を眺め渡してみたい。
4
仏智仏眼。
仏さまの目をして見るとこの世はどう見えているのだろう。
その目はどう具体化して行動をするだろう。
煩悩のわたしの目では見えていないものが見えて来るはず。
では、どう見えてくるのか。
爽やかな秋空のような風景だろうか。
だったら今でも見えているから、そこを超絶しているはず。いやそれに反して、地続きなのかもしれぬ。
地続きならば、或いは万が一に、我が身にも「証する」ことが可能になる。
3
菩提はサンスクリット語、ボデイーサットバアーから来ている。
仏さまの智慧がすなわち菩提。仏さまのお悟りのこと。仏智だ。
仏さまのお覚りは、あのくたらさんみゃくさんぼだい。無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)。
仏智はわたしを隔絶している。隔絶しているのであれば、わたしに菩提が証される見込みは立たない。まったく立たない。
「我が身に証す」というわけにはいかない。
2
あるいはこう読むべきか。「菩提もて無上の誓願は証されたり」、と。
そう読めば、わたしの誓願はすでに証されていることになる。
仏の覚りである菩提に肖(あやか)って、たちどころにそれが実現していることになる。
秋空は高くして澄み渡っている。此処に於いてすでに願いが成就していることになる。
1
「菩提無上誓願証」
ぼだいむじょうせいがんしょう
菩提は無上だが、(これを此の身に)証さんと誓願する。
これは仏道経典の「五大願」のその一つ。
証とは?
我が身のことか? 我が身が「どう生きるか」ということか。菩提を生きるということか。
2
気温は上がっていない。外の日射しは薄っぺらしている。だから、出て行く気分になっていない。足先が冷たい。左足は麻痺をしているから、血流が悪い。鉄に触っているみたい。運動をしない分、げっそりしていて、肉がついていないで、弛んで皮がひよひよしている。全面ですぐにチアノーゼして赤黒い。冬の間はずとこれに付き合う。冷たい足鉄板に付き合うことになる。それでも冬の次には春が来る。
1
おはようございます。二度寝をしちゃったみたい。何時からだったのかな、読みかけの本を読んでいたら、夜が明けていた。家族の者が起きて、台所で朝餉を作る音がしだした。そこからまた布団をひっかぶって寝てしまった。起きてきたときにはもう誰もいなかった。テーブルの上のパンを一個むしゃむしゃ、新聞を読んでいる間ずっとむしゃむしゃ食べた。注がれて冷えていたお茶を飲み飲み。