世界女子バレーボール、対ブラジル戦、第一第二セットを勝ち抜いて、第三第四セットをブラジルに取られてしまった。フルセットにもつれ込んだ。ひやひやひやしながら、観戦している。勝て、日本!
今日の西の空の夕焼けは奇麗だったなあ。大空一面が赤く焼けた。拝みたくなるほどに厳かだった。茫然自失して、見取れちゃった。自然界はこうして超特級の芸術作品を作って、我々に提示する。しかも観覧料無料、感動料無料で。見たければ、存分に見ていい。心のキャンバスにどれだけ美しくも絵を描いていい。そう言うのだ。惜しいことをした。絵心がないのだ、こっちには。
14
映画「あん」の中の一コマの台詞が、喉に魚の骨になって引っ掛かっていた。「おれはあの人を守ってやれなかった」という台詞である。
その後、主人公のお婆は施設で息を引き取る、銅鑼焼き屋の店長宛に声の録音を残して。店長はそこを訪ねていく。お婆は「銅鑼焼き屋の小豆の餡を練ったときが人生で一番楽しいときだった」を繰り返す。店長はそれでまた生きる元気を奮い立たせる。
店長はお婆を守ってあげたのである。守るという意志が貫かれたのである。
映画「あん」はドリアン助川さんの小説がもとになっているらしい。小説はまだ読んでいない。
13
障害者を生きる者は加益が不可能か。そんなことはない。不可能ではない。被益は不可能か。そんなことはない。不可能ではない。こちら側でそれを意図しているかいないかの別はあるが、障害を背負って生きているというだけでも、人に加益をしていると思う。病を引き受けている者も同様である。
感動のドラマを生きた者、いま現に生きている者も、この映画の主人公たちのように、登場する舞台がさまざまに回り回って、多くの人に感動を提供していると思う。
12
害を加えるのが加害。害を被るのは被害。ではその反対は? 相手に益を加えるのは加益か。相手から益を被るのは被益か。
仏教用語では利益(りやく)という。不利益(ふりやく)とは言わない。仏の側が人に加益してくること、ないしは加益されていることである。現世利益(げんぜりやく)は現世で受けた、あるいは受けている幸福のことである。現在で加益が完了しているという受け止めである。
11
人は人を守ろうとする姿勢を持つ。人を守るのは仏陀の仕事である。利他の菩薩行である。それが人にもある。それを仏性と呼ぶ。人はときおりこの菩薩行に目覚める。
被害を受けた者が加益をしようと企む。被害だけではなく、多くの被益を享受していたことに気がつく。不幸を一身に背負ってきた者が、目に見えてこなかったもろもろの幸福の在処に行き当たる。
映画のラストに、「人は自然の見せる風景を見ることができる、自然の放つ音を聞くことが出来る、それだけでも生きて来た意味があったのだ」というような台詞がお婆から放たれる。銅鑼焼き屋の店長がこれに肯く。新しい銅鑼焼き屋さんが始まっていく。
10
それは、彼が悲しみの目をして生きて来たためである。加害して被害されて、悲しみに翻弄されてきたためである。それが此処へ来て一回転をして、明るい方へ生きて来たのだ。僕はそういうふうな解釈をしてみた。
人は運命に翻弄される。風の中の木の葉のように翻弄される。そして風を恨む。我が身の木の葉をはかなむ。でもそれだけで終わるのではない。
9
彼はお婆を守ろうとしたのである。守れなかったが、守ろうとしたのである。
彼が被害者の側に回らなかったのは何故なのか? 映画を見た人にそこを問われているような気がする。
8
それを銅鑼焼き屋の店長は守ってやれなかったのである。「おれが守ってやれなかったのだ」この台詞が言える人が、しかし、はたしてどれだけいるだろうか?
運命が傾いたら、いっしょに被害者になってしまえばすむところである。不本意な出来事に遭遇したら、世間が冷たかったといって言い逃れをすればすむところである。
7
お婆が銅鑼焼き屋で働き出した。人には、人の役に立つ日、或いは立ちたいと懇望する日が、明るい日射しのようになって来るのだ。
銅鑼焼き屋で小豆の粒餡を練る、それはお婆にとっては千載一遇のチャンスで、確実な社会復帰だった。お婆は桜の花のような幸せにふくらんだ。満月のような明るさが彼女の見上げる大空にいっぱいっぱいふくらんだ。